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02 そっちの隠し事

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 それはとても小さくて、呼ばれたのが気のせいかと思うほどだった。
「……見澤先輩……」
 気のせいなんかじゃない。シャワーの水音に紛れて、小さな掠れ声が確かに俺を呼ぶ。
 何度改めろと言っても聞き入れられなかったその呼名に、ドキリと鼓動が跳ねた。ほかの後輩から呼ばれ慣れてるはずなのに、岸辺が口にすると同じ名前に聞こえないのはなんでだろう。

 降り注ぐシャワーの向こうに見えていた岸辺の顔が、急にクリアになった。腕をのばして、シャワーヘッドをホルダーに戻したらしい。ブースの横の壁が無理やり向きを変えられたシャワーの雨を受け、その表面に薄い滝をつくっている。

 何が起こっているのか把握できずに、言葉もなく岸辺の視線を受けとめた。いつものほわんとしたニヤけ顔はない。目の前にあるのは、何かを狙い澄ましているような鋭く真剣な表情だった。

「……七海ななみさん……」
 今度はファーストネームだ。海好きの両親がつけてくれたお気に入りの名前だったが、ちゃんづけで呼ばれることの多いその名前は誰にも呼ぶことを許していない。それを、宝物に触れるみたいにそっと囁かれた。


 なんだろう、この雰囲気は。いつもと全然違うじゃないか。何がどうしてこうなった?
 最初は確か、岸辺がいつもの悪ふざけでシャワーに乱入してきて、なぜかリンスをしてもらうことになったんだ。そのリンスが目に沁みたから洗い流してもらってただけなのに。

 岸辺がファーストネームを呼んだときの声を思い出したら、急にみぞおちがカッカッと熱くなった。
 岸辺の声音も、それに対する俺の反応も、意識し過ぎたらダメだと思うのに、意識を逸らせるものが何もない。逆に、痛いほど胸を叩きだした鼓動の激しさや、酸素の供給が追いつかず痺れてきた指先にまで気がついて、ますますダメになっていく。

 そうして俺が動けずにいると、頭上のホルダーにかかったままだった長い腕が、トンと壁に肘を着いた。ずいと身を寄せられ、つられて一歩うしろへさがる。
 もともと狭いシャワーブースだ。肩甲骨が背後の壁にひたりと触れて、軽く鳥肌がたった。腰にあたる蛇口が邪魔で、これ以上はさがれないのがもどかしい。

 目を洗うのに俺の前髪を掻きあげていた大きな手が、するりと髪を撫でながら滑りおりた。その指先が耳の後ろで髪を掻きまぜ、うなじにのびる。イタズラな親指だけがそろりとさまよって、熱い頬を撫でていった。

 ダメだ。肺活量には自信があったのに、息まで乱れてきた。水中でもないのに溺れそうな気さえする。焦って口を開くと、濃い湯気に混ざってかすかに何かの香りがした。これは、プールの塩素と、シャンプーと……岸辺の匂いか?


「ねえ、七海さん。俺、知ってるんすよ」
 まるで内緒話でもするようにひそめた声でそう告げられた。瞬間、ギクリと強張る身体をとめられない。
 いや、落ち着け、俺。知られてるわけがない。絶対バレないよう、ちゃんと隠せていたはずだろ。コイツにだけは知られたくないって、あんなにも用心したんだから。

「ね、七海さん」
 俺が黙りこくっていると、壁についていたもう一方の大きな手が俺の頬に添えられた。まっすぐ見つめてくる瞳から目を逸らしたくても、もう顔の向きを変えることすらできない。

「……やめろよ。ちかすぎだ」
「近いとダメっすか?」
「ダメだろ」
「なんでダメ?」
 そんなの……答えられるわけがない。言ってしまったら、これまで必死に隠してきた意味がなくなってしまう。

「ね、なんでダメなんすか?」
 答えられずにいると、さらに顔を覗き込まれた。岸辺のなんでも見透かしているような眼差しに堪えきれず、苦し紛れに目を閉じる。
「まあ、答えなくてもいいっすよ。言ったでしょ? 俺は知ってるって」
 勘弁してくれ。そこは、知ってても知らないフリをするもんだろ。マジで心臓が壊れそうだ。

「ここがドキドキしちゃうからっすよね……俺のことが好きだから」
 そう言うのと同時に頬にあった岸辺の手が俺の胸へと落ちる。ちょうど心臓のある位置だった。


「え? なんだ、そっちのことか……」
 よかった。やっぱりバレてないじゃないか。
 安堵のあまり知らず吸い込み過ぎていた息を大きく吐き出した。岸辺の手の下で緊張を強いられ強張っていた肌も、ゆるゆると緩んでいく。
 けど……。

「え? 『そっち』?」
 俺の言葉を繰り返えす岸辺の声に、閉じていた目を瞠る。
 しまった! 『そっち』もバレちゃダメじゃないかッ!

「いったい、どっちだと思ったんすか?」
 ヤバいマズいと焦る俺をよそに、当てがはずれて不服そうな岸辺が拗ねたような口調で詮索してきた。
「い、言うわけないだろ」
「えー、教えてくださいよー」
「やだ、教えない」

 隠し事の内容が内容なだけについ泳いでしまう目を、今度は追及の眼差しでずいっと覗き込まれた。それを避けて、俺がそっぽを向くと、
「もーしょうがないなー。いつか教えてくださいね」
 きっとですよ、と言い置いて岸辺が引きさがった。

 強引なところのある岸辺だが、相手へ譲れる柔軟さをも無理なく同居させている。俺は、そんな岸辺に毎回助けられてるし、素直に尊敬もする。
 でも見てると、どうやら誰に対してもというわけじゃないらしい。意地っ張りで、扱いにてこずる俺だけが、岸辺に甘やかされてるようだった。
 そのことに気づいたときは、恥ずかしいやらこそばゆいやらで、部活中だというのに平静を保っていられずかなり難儀した。


「でも、『そっち』を否定しないってことは、俺を好きだってことは認めるんすよね?」
 あわよくば、このまま誤魔化せないものかと思ってたが、どうやらそう上手くはいかないみたいだ。

「ほら、ここだって、やっぱりこんなにドキドキしてるし」
 胸の上に置かれたままだった大きな手のひらが、その奥にある心臓を確かめるようにするりと肌を撫でる。その指先に不穏なものを感じ慌ててその手首を掴んだら、そこへ至った思考を読まれたようで、クスクスと笑われた。
 さっきまでの真剣な雰囲気は霧散して、すっかりいつもの岸辺だった。

「じゃあ、今度は俺の秘密の番っすねー」
 もういい。いらない。頼むから秘密の話題から離れてくれ。ついでに俺からも、いますぐ離れてほしい。いますぐだ。

 そんな俺の願いも空しく、岸辺が勝手に秘密を吐露しはじめた。
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