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ex4. 彼の初恋(春都視点)

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『こうして男の人と2人で飲むのは初めてです』

 清廉な色香を溢れさせた彼女が微笑んでいる。遠い記憶の中の彼女のことが忘れられなくて、金曜の夜は今でも時折こうして1人で飲んでいる。どこか異国情緒を感じさせるこの店の、この席で。君は俺に笑いかけてくれたのに————。

「おい、加賀谷。しっかりしろ」

「はぁ…また、ここでコレを飲んでたのか。ほら、帰るよ」

 佐倉が俺の持っていたグラスを取り上げた。爽やかなレモンが縁に飾られた甘ったるい紅茶のようなロングカクテル。その正体はテキーラやウォッカなんかの度数の高い蒸留酒が混ぜ合わされた凶悪な代物だ。

「…ん………うるさい」

「よりによって何でこんなカクテルを飲んでたんだろうね、あの子は」

「見掛けとは裏腹にかなり酒強かったからな……まぁ、まさかこうして未練がましくコレばっか飲み続ける羽目になる男がいるとは思ってなかっただろうな」

 彼女に会いたい。その一心でこんな愚かな真似を繰り返す俺の存在を知ったら彼女はどんな表情をするだろうか。テーブルに頬を着けて、窓越しに夜の街を見つめる。この世界のどこかにいるはずなのに、全く見つからない。そんな存在に恋焦がれたまま、随分と時が過ぎてしまったような気がする。

「そんな切なげな顔をされても…っていうか、お前。またやったね。廊下で泣いてる女の子がいたんだけど」

「あーそうそう。俺も文句言いたかったんだ。頼むから俺の部下弄ぶのはやめてくれって。面談中に号泣された時はどうしてやろうかと思ったぞ」

「………知らないよ。勝手に寄ってきて、気がついたら泣いてるんだよ。俺にどうしろって言うのさ」

「いやいや…今までは上手いことあしらってただろ………女嫌いなくせにどうしちゃったのさ」

「……誰でもいいから、彼女を忘れさせて欲しいんだよ………でも、誰にも興味を持てないんだ…」

「おいおいおい、頼むから目を潤ませるなって。そんな物憂げな顔してたらまた女が寄ってきちゃうだろ」

 仕方ねぇなぁ…と呟いた橘に強引にテーブルから引き剥がされて、肩を組まれる。まだここにいたいのに足元が覚束無い。強い酩酊感を覚えながら、彼女のことを思い出す。

————あの朝、俺が目を覚ました時には既に彼女はいなかった。

 違う部屋にいるのかと思って探してみたがどこにもいない。ただ、洗面台に水が流れた後があったので彼女がここにいたことは間違いなかった。リビングに置いてあった荷物も無くなっているし、玄関の鍵も開いている。

「何も言わずに帰っちゃったの…?」

 一人の部屋で、思わず呆然と呟いた。最後に愛し合った後、そのまま意識を失ってしまった彼女を介抱した記憶がある。慌てて抱きとめた彼女は汗に濡れてぐったりとはしていたが、幸せそうに眠っていた。だから、俺も彼女の隣で眠ることにして……なのに、どうして。この状況が理解できず頭が混乱してきた。

 もしかして、何か急ぎの用事があったのかもしれない。目を覚ますため、コーヒーを淹れながらそんなことを考える。普段朝から飲む習慣はないが、今日ばかりはこのほろ苦い香りに慰められたかった。どうにか連絡を取りたいが連絡先も知らないし、どうしようもない。

 でも、あんなに愛し合ったのだ。彼女も何度も俺のことが好きだと愛を囁いてくれた。だから、きっと大丈夫。訳もなく心臓が締めつけられるような感覚があるが、気のせいだ。月曜にまたあの店に行ってみよう。そうしたら会えるはず。

 そう思っていたのに、俺は衝撃の事実を聞かされた。いつもの黒服の彼に「ご指名頂いたにも関わらず、大変申し上げにくいのですが……そちらのキャストは先週末で退店いたしました」と言われたのだ。しばらく、何を言われたのか分からなかった。黒服の彼は固い表情をして「ただ、キャストから加賀谷様宛てに伝言を預かっております。今までありがとうございました、と宜しく伝えて欲しいと言っていました」と言葉を続けた。思わず、それだけ?と尋ねてしまったが彼は複雑そうな顔をして首を縦に振った。

 事態を受け入れられずにいたが、このまま店の入口で立ち尽くしていては迷惑になると思い、席に案内してもらった。隣に見覚えのあるキャストが着いたが、名前はもう忘れてしまった。ただ、彼女が仲良くしていたキャストだと記憶していたので思い切って彼女について聞いてみた。

「加賀谷さん……他のキャストのプライベートな事柄については立場上答えることができないんです。特にリリちゃんは既に退店しているので…お力に慣れなくて私としても心苦しいのですが」

「そう…ですよね。こちらこそすみません、こんなこと聞いてしまって」

 隣に着いてくれたそのキャストは俺に最大限配慮してくれたが、彼女については何1つ話すことはなかった。さすが高級店だと皮肉なことを思ってしまった。キャストに謝罪し、俺は早々と店を立ち去った。

 それからは淡々と仕事をした、していたつもりだった。とにかく彼女のことが頭から離れなくて、どうしていいかわからなくて。次第に今までの自分ではありえないような些細なミスを何度もするようになった。そんな俺の噂を聞きつけたのか、榊原さんが俺を飲みに誘ってくれた。奇しくも、榊原さんと一緒にやっていた案件は彼女と一夜を過ごしたあの日にクローズしたので彼は俺が弱っている理由を知らなかったらしい。単にスランプだと思っていたらしく、よりによってあの店に連れていかれてしまった。俺としても、彼女と過ごしたあの空間に思い入れがあったので何も言わずついて行ってしまった。

「えぇ!?加賀谷くんが気に入ってたあの綺麗な子、退店しちゃったの。うわー、残念だね。でも2人とも良い雰囲気だったし連絡先とか本名聞いてないの?……え、教えてもらってない?うわー、まじか。手強そうだとは思ってたけど加賀谷くんですら袖にしたのか。若いのに女ってやつは怖いねぇ」

 連絡先はともかく、本名というワードに反応して肩を揺らすと榊原さんが驚いたような顔で教えてくれた。

「源氏名のことだよ。こういうお店で働いてる子は色々あるからね。自衛のために名前とか経歴は大抵ぼかしてるんだよ。ねぇ?君だって夜1本だって前に言ってたけど、どう考えても何かしら理系の専門知識あるよね。少なくとも大学院、下手したら博士課程にでもいるんじゃないの?食いついてくる話題が時々おかしいもん」

 良かったらうちの会社とかどう?と榊原さんが隣に座っているキャストに茶化しながら問いかけると、彼女は曖昧に笑うばかりで肯定も否定もしなかった。つまり、そういうことなんだろう。途端に気分が悪くなってきて、目の前が真っ暗になっていくような感覚に襲われた。むしろ、どうして今まで気がつかなかったのか。初めての恋に浮かれ過ぎていたとしか思えなかった。

 耐えられなくなって、先に帰る旨を榊原さんに伝える。さすがに彼も俺の尋常ではない様子を見て、何かを察したのだろう。気まずげな顔で見送ってくれた。

「加賀谷様」

 店の外に出た瞬間、後ろから声を掛けられた。黒服の彼だ。何やら難しげな顔をしてこちらを見ている。何の用だろうかと思って立ち止まると、彼は苛立ったように髪を掻き混ぜてラフな口調で話しかけてきた。

「こんなことしたのバレたら七瀬ママに凄まじく怒られるんで、くれぐれも内緒にしてくださいよ……静かにしててください」

 スマホを取り出した彼はどこかに電話を掛ける。何故か俺にも通話相手の声が聞こえるようスピーカーにしてくれた。

「もしもし」

 その僅かな声だけで相手が誰か分かってしまった。心臓がドクンと鼓動を打つ。

「おー、久しぶり。黒服の柳だよ。夜遅くに悪いんだけど、今時間大丈夫?」

「柳さん、お久しぶりです。大丈夫ですよ。どうされたんですか?」

 電話越しだからだろうか。彼女の声が弱々しく感じられた。

「あー…加賀谷様がリリちゃんの連絡先を知りたいって聞いてきたんだけど、断っておいたよ。伝言も伝えといた。でも、加賀谷様すごいリリちゃんのこと心配してるよ。本当にこれで良かったの?」

 束の間、電話越しに無言が落ちた。

「……用件はそれだけですか?」

 小さな、震えるような声での返事だった。その声に黒服の彼も動揺している。

「え、ああ。うん」

「分かりました。伝えてくださってありがとうございます」

 元の声音に戻った彼女はそう告げると電話を切ってしまったらしい。黒服の彼が何か話しかけてくれたような気がするが、その後の記憶はない。

 そんなことを思い出していると、ドンッと背中を叩かれて一気に現実に引き戻された。

「おい、加賀谷……お前、少しは自分で歩く努力しろよ」

「…う………やめろ、気持ち悪い」

「おい、頼むから吐くなよ!?ただでさえお前はムカつくぐらい背が高くて運びづらいってのに余計な仕事増やすな」

「まぁ、それは大丈夫でしょう。加賀谷のその状態はお酒云々というより精神的なストレスが原因だろうし。最悪、橘のスーツがダメになるだけだね」

「ぎゃー、このスーツ高かったんだぞ!それだけは絶対やめてくれ!」

「ほら、呼んでたタクシー来たよ。2人とも乗って」

「いやだ……帰りたくない………」

「じゃあね加賀谷、しっかり眠るんだよ。悪いけど俺は妻が家で待ってるから帰るよ。橘、後は頼んだ」

「おう、お疲れぃ」

 佐倉が呼んでくれたのであろうタクシーに揺られてどこかへ向かう。まぁ、橘の部屋だろう。これまでも何度か世話になっている。いつからか、あの店で酔い潰れると彼らが迎えに来てくれるようになった。いい加減こんなことは辞めなければいけないと分かっているし、あの店に通う頻度も随分落ちてきた。それでも、今でもたまにあの席で彼女との思い出に浸りたくなるのだ。

 なにせ、初恋だったのだ。姉たちの影響で物心つく前から恋愛モノのフィクションを延々と見ていた。あるいは未だに仲睦まじい両親たちの影響なのか、俺の生まれ持っての嗜好なのか、とにかく画面の中で微笑み合う幸せそうな2人に憧れていたのだ。何の因果か容姿に恵まれた俺は、言い方は悪いがいくらでも相手を選ぶことができたし、きっといつかは素敵な人に出会えるだろうと。そう思っていたのだ。

 だから、ティーンエイジャーの頃は色んな子と付き合ってみた。だけど、皮肉なことにみんな俺の顔しか見ていなかった、俺と付き合うことがある種のステータスのようになり、いつしかそこに肉欲が追加され…とうとう俺はうんざりした。本当に好きになった相手以外とそんなことをしたいとは到底思えなかった。刹那的な快楽を満たす存在ではなく、生涯を一緒に過ごす相手。そんな人を探し求めていた。

 それから何年も経って、俺は彼女を見つけたのだ。今まで自分が散々言われてきて、信憑性に欠けると判断していた一目惚れという現象。彼女を一目見て、自分の考えが間違っていたことを瞬時に理解した。身体が甘く痺れて、疼く。そんな不思議な感覚だった。それでも、そんな事実を受け入れがたくて己の感覚に内心抵抗していたのだが彼女に会うたびに好きという気持ちが際限なく溢れてきて、いつしか自分の想いは揺るぎないものになっていった。

 自分が思っていたより彼女が年下で驚いたこともあったが、そんなことは些細なことだった。それよりも彼女の気持ちが分からない事の方が深刻な問題だった。熱い目でこちらを見つめてくれることもあるのに、どこか冷めているというか。一線を引いた態度を取る彼女の思惑が読めなくてじれったかった。それでも、少しずつ彼女の心の壁が溶けていく実感はあった。だから、時間を掛けてどんどん俺に溺れさせて、丁寧に愛を注いでいきたかった。

 なのに、あの夜。小さく頷いた彼女の誘惑に耐えられず、彼女を抱いてしまった。自分も経験のないことだったのではっきりとはわからなかったが、恐らく彼女も初めてで。手探りで互いの身体を確かめて、本能のままに愛し合った。彼女の熱く柔らかな唇と絡み合う指先の感触。それだけで心が満たされて本当に幸せだった。

「しかし、お前も難儀だな………ルックスも中身も超一級品なのに心がぶっ壊れちまってる。あれ以来、誰も抱けないなんて……俺がそんな状態になったら気ぃ狂う自信あるわ」

「………それは別にどうでもいいよ」

「ああ?男にとっては死活問題だろ…ってかさ、何回も言ってるけど興信所とか使って調べりゃいいんじゃねぇの?いくらでも手段はあるだろ」

「……それは、考えたけど……俺と会う気のない彼女に無理強いするのは………迷惑だろ」

「はぁ、なんでこんなに健気な男がこんな目に遭ってんだろうな……」

 だから見捨てらんねぇんだよ、と呟いた橘が背中を撫でる。男に触れられて喜ぶような趣味はないのでシンプルに気持ち悪い。でも、そんな橘と佐倉の気遣いにはいつも感謝していた。

「仕事で…何か困ったことがあれば言えよ………」

「はいはい、いつもありがとうな………ほんっとに、歴代最年少でマネージャーに昇進するくらい仕事はできるのになぁ」

「…仕事しか、することないからな…でも、仕事も…そろそろ辞めるつもりだ……アメリカに帰る…」

「は、正気か!?」

 今日一番の驚きを見せた橘に肩を揺さぶられる。さすがにそれは本気で胃が気持ち悪い。そして、退職してアメリカに帰国するという話は本気だった。どの案件を最後にするかはまだ迷っているが、少なくとも1年以内にはUNIを辞める。いい加減、この地を離れて彼女への未練を断ち切らなくてはいけない。家業を継いでもいいし、向こうでコンサルをやってもいい。彼女を忘れるために仕事に熱中していたおかげで、1人で気ままに生きて行けるくらいにはスキルも経験も溜まった。

————それからしばらくして、俺は自分の最後の案件を決めた。

 社内でPMの募集がかけられていた大手化粧品メーカー、瑠璃香の案件。自ら提案中の案件でもなく、これまで長年に渡ってリレーションを築いてきたクライアントの案件でもない。なんなら、自分がこれまでコンサルタントとして培ってきたケイパビリティと若干ズレてすらいる案件。それでも、俺がこの案件を担当しようと思ったのは、かつて彼女が一番興味を示していた企業だったからだ。己の女々しさには本当にうんざりするがどうしようもない。心がそう叫んでいるのだから。

 そして、クライアント先でプロジェクト概要を説明している時に————彼女を見つけたのだ。関連部署の人間が全員集められた大規模な会議にも関わらず、自然と彼女に視線を引き寄せられた。当然、5年前とは雰囲気が違う。それでも彼女だとはっきりと理解した。

 その存在に気がついた瞬間から今すぐ会議など終えて、彼女の元に駆け寄りたかった。だが、さすがにそれは彼女にも迷惑がかかるだろうしやめておくことにした。代わりに、これからどうやって彼女に接触するか考える。極力迷惑をかけないように、それでいて確実に彼女を捕まえたい。こうして再会したからには絶対に逃したくないと本能が訴えてくる。物凄い速さで頭を回転させて策を考えたが、そもそも未だに彼女の名前すら知らないことに気がついた。まずは情報収集をしなくては。

 こんな仕事を何年も続けてきたおかげで、何も考えなくても淡々とプレゼンができるようになっている。そのことにこれほど感謝する日が来るとは思わなかった。口を動かしながら、彼女の姿を改めて確認すると隣に座った女子社員たちと何か話し込んでいる。この様子では、彼女は俺に気がついていないかもしれない。もしかしたら、そもそも忘れられているかもしれない。

 それでも構わなかった。今度こそ絶対に彼女を手に入れる。心の中でそんな想いを滾らせながら、俺はプレゼンテーションを締めくくったのだった。

 それから1週間が経って、彼女————逢坂玲奈の直属の上司である三木課長と会話していると、近くの席に彼女がいることに気がついた。さすがに課長と1対1で話をしながら様子を窺うのは難しく、彼女がこちらを向いた瞬間があったような気はするものの、すぐに視線を逸らされてしまって残念だった。仕事の話をしながら内心落胆していると、今度は彼女の話し声が聞こえてきて胸が高鳴った。しかし、その会話に眉を顰めた。課長が訝しげな顔でこちらを見ているがそれどころではない。

 少し距離があるので完璧に聞き取れた訳ではないが、何にせよ彼女と同僚の会話の内容は看過し難かった。婚活アプリで出会った相手と今夜デートする。おまけに、結婚まで辿り着けると良いね、だと?さらに、彼女は押しに弱いから何かあるかもしれないと言われている。思わず、彼女の方を振り向くと今日に限っていつもよりセクシーな服装をしていた。豊かな胸から腰にかけてのシルエットがやけに官能的で男の劣情を擽る。これは、絶対にダメだ。

 そう思った俺は適当な理由をつけて、課長との会話を終えると衝動的に彼女の後を追った。廊下で彼女の腕を掴んで、近くの空いていた会議室に入って、彼女の両腕をそっと壁に押し付ける。何を言うかなんて何も考えていなかった。ただ。彼女をこのまま見知らぬ男の元に送り出すのが嫌で。その一心で壁に縫い留めたのだが————彼女が縋るような声で俺の名を呼んでくれたのを聞いて、俺の心は決まった。

「————俺と結婚して欲しい。結婚を前提に付き合って欲しい」

 ひどく驚いた顔をしているものの、頬を薄っすらと染めた彼女が————玲奈が俺を見つめていたのだった。
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