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17・ジルの告白

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 耳に流れ込んできた言葉の意味を、私はすぐには理解することが出来なかった。

 ……愛している……?

「え……?」

 何も言えない私を両腕で包み込み、背中から覆い被さるようにして、ジルは続ける。

「私がこの年まで妻を娶らなかったのは、何故だと思っていたのですか?」

 ここまで聞いて、私はやっと、ジルが何を言ったのか理解した。けれど、それでも、何だかまるで……知らない国の言葉を聞いているみたいだ。


「小さくて可愛らしかった『リゼお嬢様』が、みるみる美しく成長なさって……、いつか大人の女性になられた時、手放せなくなるのが怖かった」

 懐かしい「リゼお嬢様」という言葉を聞いて、ピンと張りつめていた私の心がほんの少しほどけた。
 思い切って口を開く。すると最初に滑り出たのは、十年以上もずっと、心の底に抱えていた問いだった。

「……なら、どうして出て行ってしまったの」
「それは……」

 ジルは言い淀んだ。

「お願い、ジル。ずっと知りたかったんです」

 私には何も言わないまま、突然消えてしまったジル。誰より信頼していた兄のような存在がいなくなって、どんなに淋しかったか。

 ジルは諦めたようにひとつ息を吐いて、ほんの少し、腕の力を緩めた。

「……仕方ないでしょう。伯爵家の一人娘を、教育係にすぎない男が望んだところで、手に入るわけがない。まして、貴女はあの時まだ十三歳。口に出そうものなら、それこそ石でも投げられかねなかった」

 ジルはいったん腕を解くと、昔よくしてくれたように私を膝に座らせた。懐かしい仕草に胸がいっぱいになって見上げると、ジルも私を見つめている。

「……子供だった私を、本当にそんなふうに?」

 いくら一番身近にいたからと言っても、当時のジルからみれば、私はほんの小娘だったのに。
 不思議に思って聞くと、ジルは苦笑した。

「もちろん、幼い貴女をどうこうしたいなどと、そんな不埒なことを考えていたわけではありませんよ。ただ、とにかく大切で、愛おしくて。手放したくなかった……」

 ジルが私の頬を撫でた。優しい目に、私はどうしていいか分からなくなって目を臥せる。触れられている頬が熱くなっているのが、ジルにも分かってしまうかしら?

「だからこそ、お暇をいただいたのです。愛しい貴女がいつか咲き匂う娘になったとき、本当に愛してしまわないように……」
「ジル……」

 ジルは照れ隠しのように顔を背けた。


「それでも……いつか貴女が相応しい縁談を迎えられた暁には、陰ながらお祝いさせていただこうと……、ずっと見守っていました。それなのに、トウシャール家はすっかり没落してしまわれた。貴女は縁談どころか、社交界にさえ出て来られなかった」
「……それも、知っていたの?」
「ええ。―――その時ですよ、悪魔が私に囁いたのは」
「悪魔?」

 私が首をかしげると、ジルは笑って私を抱え直した。頬を寄せると、ジルの胸の音が聞こえる。幼い頃も、よくこうしてジルの胸の音を聞いては安心したものだった。

「すみません、例えですよ。このまま貴女が結婚しないなら、私が望んでもいいのでは、と思ったのです。当時の私には、まだまだ大それた願いでした。それから、どうにか軌道に乗り始めていたこの会社を、死に物狂いで大きくしました。貴女のお父上に許していただけるだけの、財力が欲しかったから。……でも」

 ジルの声が曇ったのでそっとのぞき込むと、今度は辛そうな顔をしている。

「ジル?」
「貴女も知っているとおり、伯爵様は絶対に私などに許すつもりはなかった。結局、あんなふうに……金の力でむりやり貴女を妻にするしか出来なかった」

 たしかにあの時は私も、そうするしかないと思った。昔大好きだった人だし、知らない人よりはいいだろう……と、それくらいの気持ちしかなかった。
 だから私だって同じなのだ。ジルがお金の力でだというなら、私はそのお金のためにジルを選んだと思われても仕方ない。タルボット卿に財産目当てと言われたけれど、傍から見れば、きっとその通りなのだ。

 そう思って私が視線を落とすと、ジルは私が同意したと思ったらしい。

「そうでしょう、そんな貴女の心情を思うと……自分が招いたこととはいえ、やりきれない……」
「……え?」

 ジルは身体をずらし、私と正面から向かい合った。

「方法はともかく、私は貴女を手に入れた。毎晩貴女に触れて、この腕に抱いて眠れる。それはこの上なく幸せで、夢のようだった。―――でも同時に、貴女が私を愛してはいないことも分かっているのです。それを思うと、胸が苦しくなる。こんないい年をした男でも」
「ジル、私は……」
「―――それでもいいと思っていたんだ」

 いつもの彼らしくもなく、乱暴に言葉を遮って話し続けるジルに、私は口を挟むことができなかった。


「私の腕の中で、望むままに愛らしく乱れてくれる貴女だけでいいんだ、と。愛のない夫婦なんていくらでもいる。昼間は最低限の会話でいれば、貴女も自分の好きなことが出来るだろうと……」

 ―――待って、それは違う。私は……。

「でも、抑えきれなかった。タルボット卿に抱きすくめられている貴女を見た時、どうしようもないほどどす黒い気持ちが沸き起こって……奴を殺してやりたいくらい嫉妬した」
「待って、ジル」

 ―――お願い、私の話も聞いて。

 私も、聞いてほしいことが溢れそうになっていた。それなのにジルは次から次へ言葉を紡ぎ、私を置き去りにしてしまう。

「駄目だ、リゼット。たとえ私を愛してくれなくても仕方ない。だが、もう離すことはできない」
「ジル」
「愛しているんだ」

 ようやくジルは口を閉ざして俯いた。


 ―――どうしよう、どこから伝えたらいい? 

 ジルに遮られ、抑えられていた気持ちが、我先に私の中から外へ出ようとしてせめぎあっていた。制御できない言葉より先に涙があふれ、私はジルを見上げる。

「ジルの馬鹿」


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