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仙太郎
しおりを挟む仁光寺の境内を爽やかな風が吹き抜け、日差しに映える新緑を揺らした。
「ありがとうございました。またお越しくださいまし」
客を送り出して頭を下げるお菊の、髷に結った赤い鹿の子が目をひいた。痩せっぽちのお菊も十六歳。少しずつ娘らしい身体つきになってきている。
「お菊、済まねえが橋場の親方んとこまで使いに行ってきてくんな」
「はい」
お菊はすぐに襷を外し、父の差し出す包みを受け取った。
「寄り道なんぞしないで、さっさとお届けするんだよ」
横からおかよが口を挟むと、平助が苦笑する。
「おかよ。もうお菊だって、そんな子どもじゃあるめぇよ」
「そうかねえ。どうもこの子はぼんやりしててさ、心配なんだよ。昔っから気が弱くて、客あしらいもぱっとしないし。器量はそう悪かないはずなのに、言い寄る男の一人もいないってのはどうしてかねえ。川向こうの鶴やのお里ちゃんみたいに、浮世絵にとまでは言わないけどさ……」
「お菊、いいからさっさと行ってきな」
平助が苦笑気味におかよの愚痴を遮った。
橋場の親方とはその名の通り、浅草の橋場町に住む左官の親方だ。平助の団子が好物で、近くへ来るたびに寄っていく。こうしてお菊が届けに行くのも、これが初めてではない。
うめやのある押上村のあたりは、寺や大名家の下屋敷、それ以外は百姓家が多い長閑な土地柄だ。だが大川橋を渡ると、急に人が多くなる。観音様や芝居町が近いからだ。町家もぐっと増え、お店や家が所せましと立ち並ぶ。
お菊は誰かにぶつかったりしないようできるだけ端を選び、包みをしっかり抱えて歩いて行った。吉原に通じる山谷堀を越え、さらにまっすぐ進めば親方の家はもうすぐだ。
親方の家の庭先では、職人たちが褌姿で土を捏ねている。みな体の大きな男たちで、お菊は十六になった今でもちょっと恐い。
「ごめんください……」
小さな身体をさらに縮めるようにして声をかけると、中でもひときわ大きな体の男が顔をあげた。もう何度か来ているお菊だ。風呂敷包みを見て察したのだろう、奥に向かって何やら声をかける。お菊は一斉にこちらを振り向いた職人たちから、そっと目を逸らした。
やがて親方が自ら立ってきた。
「お菊坊、ご苦労だったな。お父つぁんによろしく言ってくんな」
親方は仕事は厳しいが、子どものころから知っているお菊には優しい。ほっとする思いで頭を下げると、畳んだ風呂敷をしまいながら外へ出た。
使いを済ませたお菊の表情が、ほんの少し緩んだ。お菊だって年頃の娘だ。芝居町近くの美しい小間物、屋台や物売り、役者の錦絵などに興味がないわけではない。母の言うように寄り道こそしないが、それでもつい物珍しくて視線をさまよわせてしまう。
ふいにお菊の足が止まった。
向こうから歩いてくる男に、見覚えがあった。月に一度、母親とうめやを訪れる仙太郎だ。
いつか母のおかよが「あれはいいお店の坊ちゃんに違いないよ」と言っていたが、こうして見ると確かにそのとおりだ。落ち着いた色味の唐桟縞がよく似合っている。
ついまじまじと見ているうちに、仙太郎もお菊に気付いたらしい。
「おや、お前さんは」
かるく目を瞠る仙太郎に、お菊は慌てて頭を下げた。店以外のところで会ったのは、これが初めてだ。
「坊ちゃん、どちらの娘さんで」
供に連れていた、手代らしい男が訊ねる。仙太郎に比べ、あきらかに粗末な着物のお菊を訝しんでいる様子だ。お菊は思わず、擦り切れた袖口を引いて隠した。
「仁光寺の茶店の娘さんだよ」
「ああ、お土産に団子を頂戴したことがありましたっけね」
手代が納得がいったように頷いた。
「そうそう。あすこの団子はおっ母さんの好物でね。――ええと、お菊さんだったか。また来月も寄るから、よろしく頼みますよ」
急に話しかけられ、お菊は慌てた。
「は、はい。またお越しくださいまし」
客を送り出すときと同じ口調で頭を下げる。歩き出す二人を見送って、お菊はふうっと息をついた。
優しい少年だと思っていた仙太郎が、今日はすっかり大人の男に見えた。
ああして手代を連れて歩いているということは、もうお店で働いているのだろう。お菊は仙太郎の歳を知らない。でも自分だって十六になるのだから、おそらく十七か八か。そういえば、仙太郎が前髪を落としたのはいつだったろう。
うめやで見かける仙太郎はいつも笑顔で母親に話しかけていて、おかよやお菊にも愛想が良い。そのせいかお菊は仙太郎に接するときは、幼い頃の人懐こい面影をずっと重ねていた。
しかし手代に話す顔も口調も、母親に対するそれとはまるで違った。これまで気づかなかったが、お菊への態度もきっとそうなのだろう。それなりのお店の息子であろう仙太郎から見れば、お菊は町の女衆のひとりに過ぎない。
干菓子をくれた優しい少年の面影が、お菊の中でほろほろと崩れていった。
振り向いても、もう仙太郎の姿は見えない。再び賑やかな道を歩き出したお菊は、もう芝居小屋にも小間物屋にも目をやろうとはしなかった。
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