春を待つ鶯

砂月美乃

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「行ってくらぁ」

 どんぶり飯をかっ込んだ卯吉が立ち上がって、法被をひっかけた。

「行ってらっしゃい」

 答えるお菊に振り返って頷くと、そのまま障子を開けて出て行く。

 お菊は食器をまとめ、自分も外へ出た。井戸端では同じように亭主を送り出した女たちが、賑やかにお喋りをしている。

「おはようございます」
「おはよう、お菊ちゃん。今日はいい日和だねえ」

 女の一人が場所を空けてくれたので、お菊は軽く頭を下げて器を洗い始める。

 卯吉と暮らすようになって、もうすぐひと月。長屋のかみさんたちの好奇の目も、ようやく落ち着いてきたところだ。初めはお菊の身の上や卯吉との馴れ初め、はては閨のことまでと、それは喧しかったものだ。恥ずかしがってろくに答えられないお菊を、今は皆暖かい目で見守っている。もっともお菊のいないところでは、「あの朴念仁がどうやってあの子を口説いたか」ともっぱら噂話のタネだったが。

 洗い物を終えると、お菊は井戸端のおかみさんたちに留守を頼んで長屋を出た。もうそろそろ梅が咲く。お菊はその間、うめやを手伝うことになっていた。

「ようお菊ちゃん、久しぶりだな」
「嫁入りしたんだって? 良かったじゃねえか」

 馴染みの客がお菊を見ると、みな笑って声をかけている。しかしお菊は恥ずかしそうに微笑むだけだ。

「……嫁に行ったら、少しは吹っ切れるかと思ったんだけど。てんで変わらないもんだねえ」

 しみじみと呟いたおかよに、平助が思わず吹き出した。

「ひと月ばかりで、そう変わられてたまるもんか」
「そうかねえ」
「無理無理、あれがお菊の地金ってもんだ。そら、お客さんだぜ」
「あいよ」

 突然どっと笑い声が湧いた。見ると職人衆にからかわれでもしたのか、お菊が真っ赤になっている。

――あの子はあれでいいのさ。

 平助は店の奥で微笑んだ。

 次の日も、そぞろ歩きにふさわしい良い天気だった。ひと足先に春が来たような陽射しだったが、古木の多い仁光寺は静かな梅の香気を漂わせている。

「ふう、歩き回って疲れたよ。熱いお茶をおくれ」
「はーい、ただいま」

 うめやの店先も、梅見の客でいっぱいだった。

 井戸へ水を替えに行っていたお菊が裏から入ると、おかよが何か言いたげに顎をしゃくった。

「なあに? ――あ」

 視線の先に、仙太郎がいた。一人ではない。艶やかな友禅に身を包んだ、美しい娘を連れている。

「つい先日、祝言を挙げなさったそうだよ。お似合いじゃないかね」
「美男美女が並んで、まるで雛人形みてえだな。これで吉野屋さんも安泰だ」

 子どもの頃からにこにこと笑みを絶やさぬ仙太郎だったが、色恋に疎いお菊にも分かった。新妻を労わっている笑顔は、これまでお菊が見ていたそれとはまるで違う。

 その時お菊の心の中で、ふいに何かが腑に落ちた気がした。

――ああ、そうか。あたしは仙太郎さんが好きだったんだな。

 どうして今頃気付いたのかは分からない。ただああして笑う仙太郎を見るのが好きだった。もちろん今さら胸が痛むこともないし、ましてや嫉妬など浮かびもしない。

 ずっと昔の、淡い、幼い恋。あまりにも淡すぎて、自分でも気づくことなく終わっていたのだ。

「ふふ」

 そんな自分がちょっとおかしくて、お菊は小さく笑ってしまう。おかよがちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。

 やがて仙太郎が立ち上がる。

「ありがとうございます。またお越しくださいませ」

 お菊は笑みをうかべて送り出した。

 

 卯吉の箸の音が、長屋の部屋に響いていた。今朝も炊き立ての飯に味噌汁をかけ、勢いよく啜り込んでいる。

 今日もうめやに手伝いに行く予定のお菊は、黙ってその様子を見ていたが、ふいに思い切って声をかける。

「お前さん」

 途端に卯吉が飯を吹き出した。慌てて手拭いで口元を拭い、軽く咳込みながら湯呑みをとってぐっと呷る。その目は驚きに見開かれていた。

「お前さん」と、そう呼んだのは初めてだった。無口な卯吉と、内気なお菊。これまで二人は「あの……」から始まる、ごく短い会話しかしてこなかったから。

「今日は、向島のお寺さんなんでしょう」
「……ああ」
「だったら」

 向島からならほんの少し回り道をすれば、うめやに寄れる。すると卯吉がぱあっと破顔した。

「ああ、うん。迎えに行くよ」

 その笑みを嬉しいと思う自分が嬉しくて、お菊も顔をほころばせる。

「じゃあ、行ってくらあ」
「行ってらっしゃい」

 障子を閉める卯吉の耳が、ほのかに赤い。お菊も目元を緩めたまま、膳を片付け始める。

 どこかで鶯が鳴いた。まだ若い鶯のようで、お世辞にも上手とは言えない。だが春はこれからだ。いずれ美しい声を聞かせてくれるだろう。
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