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やさしい拷問
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キレイだとか、スタイルがどうとか、ヒトとは思えない、とか。この業界でこんな仕事してたら、そんな風に褒められることは少なくないし、実際、まあ人より容姿にアドバンテージがあるお陰でここにいるんだろうという自覚はある。容姿なんて自分の努力の及ばないガチャみたいなもんで、モデルっていう何年やっても飽きることのない、どころかどんどん追求したいものが増えていく仕事に就けて、社会性のないおれでもどうにかやってこれてるワケだから、パパとママには感謝しないとだ。プライベートでも、性格悪いとか生意気とか影口叩かれまくってる割には男女問わず人が寄ってくる方だと思う。完全にビジュアルのおかげ(せい、って言いたくなることも多いけど)だ。まあ、だからって、ほんとうに欲しいモノが手に入るワケでもないけど。
「イオ、コレ食べた?イオ絶対好きだよ」
ギョーカイのパーティに似つかわしくない飾らない声に、おれは緩む頬を隠して呆れた顔を作り振り向く。撮影で遅れて入ったせいで、今日初めての会話だ。もちろん、その存在は会場に入って一番に見つけてたけど。
「持って来すぎじゃない?両手塞がってんじゃん」
「これさぁ、プレーン食べておいしさに感動してたらいろんな味があって!全部試したくて欲張っちゃった」
スーツ姿で笑うごうは、おれの自慢の年子の兄だ。高身長にバシッと決まったスーツ。普段はユニフォームとか練習着を着ていることが多く、オフの日でも割とカジュアルな恰好が好みなごうだけど、バスケ界のプリンスって言われてる精巧な顔立ちと長い手足の持ち主がフォーマルなスーツを着ると、弟のおれですら気圧されるような圧倒的な華があった。
男らしい骨格の割に小さな顔、彫刻みたいな鼻筋といい黄金比で配置された二重瞼といい、黙ってたらたぶん近寄りがたさすら感じるビジュアルの完成度だけど、ごうはそんなことには頓着せずに弟相手に相好を崩してあれもこれもと食わせようとしてくる。周囲の高揚した、あるいは微笑ましさそうな視線を感じながら、仕方なくごうが差し出すミニタルトに口をつける。
「……んま」
「でしょ?!このマロンのやつもイオ好きだと思う」
ごうの大きな、いろんな表情にくるくると形を変える目がパッと輝いて、優しい微笑みのカタチを作る。その中に当然のように自分がいることに一々安堵してしまうことにも、ごうが完璧な、慈しみと信頼を全面に湛えた笑みを自分に向けるたびに軋む胸にも、決してごうに気付かせてはいけない。どれどれー、って軽い口調で言いながら、さっきより近付いたせいで一瞬ふわりと鼻をくすぐったごうの香りに高鳴る鼓動を、少し距離を置いてやりすごした。
「さっきさぁ」
開けた距離をまた詰めて、ごうがおれだけに聞こえる声で、言う。
「前に番組一緒になったタレントさんに弟さん紹介してください~って言われた。イオモテてる」
ちょっと拗ねたような声。ふざけるように軽く肘打ちされて苦笑する。
「あほか。んなのおれだってしょっちゅう言われてるよ。耳タコ」
「他の人もね、キレイだなぁ……ってイオ見ると思わず、って感じで言うんだよね。星見てるみたいにうっとり。まあ仕方ないよね、ホントにイオはキレイだもん」
「……あのさぁ」
「でしょ?って返したらびっくりした顔して笑われる」
「恥ずかしいんでやめてもらっていいですか。またブラコン言われんじゃん」
「コンプレックスなワケないよね、むしろ誇り。イオプラ?」
「ブラザーどこ言った。限定的すぎるわ」
恥ずかしげもなく言うごうに、また軋み始める場所から気を逸らすようにつっこみを入れると、黒いスーツを着た主催側の広報っぽい集団に声を掛けられた。
「青田選手、SNS用に写真いいですか?」
「あ、はい。イオは?」
「おれはさっき撮ったー。もうお酒飲んじゃったし」
「そうなの?じゃあごめんイオお皿持ってて!」
いつからだろう。ごうといることで胸のうらっかわがこんな風に痛むようになったのは。自分の中の仄暗い欲望に気付いたときから?ごうの、きっとおれには秘密にしておきたかっただろう秘密を知ったときから?答えの出ない問いを振り切るように、ごうから受け取ったお皿にのった一口サイズのタルトを口に入れる。ごうがイオは好きだと思うと言ったマロンタルト。こんなのあるの気付かなかったな、と思いながら、いつだって自分のより先におれの好きなものを見つけてきてくれた、子どもの頃のごうの姿を長身の背中に重ねる。
「青田、荻野さんいらしたわ。挨拶行くぞ」
写真をきっかけにいろんな人に囲まれて話しかけられているごうをぼんやりと見ながら、ごうが離れて幾分味気なくなった気がする口の中のタルトを咀嚼していると、チームの先輩らしき人に呼ばれたごうがおれを振り返った。
「あ、ハイ行きます!じゃあね、イオ。今日おれ車だし、送るから一緒に帰ろうね」
「ありがと、マネージャー」
「イオさん、お酒、あんま飲んじゃダメですよ」
「ごうこそジュースと間違えて飲まないでね」
「それちょっとやりそう。気を付ける!」
スポンサーだろうか。どっかの社長さんっぽい、いかにも偉い感じのおじさん一堂に向かって大股で歩きながら、ごうがおれに手を振った。おれも降り返して、ふぅ、と息を吐く。
今日は出版社の周年パーティーで、専属モデルをやってるファッション誌があるおれはもちろん、バスケ雑誌でたびたび特集されてるごうも、ゲストとして呼ばれた。若手の中でも群を抜いて人気のあるごうはチームの、バスケ界全体の広告塔でもあるし、こういう場で鉢合わせることはたまにある。おれはIOって芸名で仕事してるけどごうと兄弟ってことは公表してるし、取材とかで互いの話もよくするから二人でいると周りの注目を感じることも多い。
ごうが離れたことで注がれる視線の数が減ったのを感じてふ、と肩の力を抜く。おれは一通り挨拶も済ませたし、偉い人のスピーチも終わってご歓談タイムという名の誰が抜けようかわからない時間だし。ぶっちゃけもう帰りたいけどごうはまだかかりそうだなぁってちょっとぼんやりしていると、さっきまでうちの社長のマリさんに命じられて名刺配りに奔走していた若手のマネージャーがおれのそばに戻ってきた。
大学までずっと野球少年だった、という彼が快活な声でイオさん何か飲みますか?と訊いてくれたので、「なんかフルーツ系のカクテルあったら飲みたい。あんま強くないやつね」とお願いして壁に軽く背を預ける。ハイ!と走って行った彼は、誰かにぶつかりそうになって頭下げてる。大丈夫かなぁ……あ、名刺交換始めた。これは結構時間かかる感じかな。
そうやって戻ってこないマネを待ちつつ、どれくらいぼんやりしていただろう。もちろん誰かに声掛けられたら必要に応じて挨拶したり適当に話したりしつつ、自分からはそこまで積極的に交流はしなかった。まぁマリさんもおれにそこまで求めてないでしょ。途中ごうが通りかかってダメ元で「もう帰りたいー」口パクで言ってみたらお兄ちゃんの顔で笑って「待ってて」ってされた。待つけどさ。ごうのこと待つなんて慣れてるし。子どもの頃、公園のリングの前からなかなか帰ろうとしなかった背中を思い出す。
そうしていい加減喉乾いたから何か取りに行こうかなと思ったときだった。
「良かったらこれ、飲みますか?」
差し出されたグラスに、顔を上げる。ピンクと赤の中間みたいな透き通った色をしたカクテルの向こうに、知らない顔がある。少し焼けた肌、黒髪短髪によく整えられた髭を生やした、身長はおれと同じかちょい高いくらいの、三十代半ばくらいの男だ。グラスを受け取るべきか迷っていると、名刺を出された。ごうが時々特集されてるバスケ雑誌の名前があった。
「編集、さん」
「山本です。青田選手にはいつもお世話になってます」
「あ、こちらこそ」
軽く頭を下げて、グラスを受け取る。愛想の良い目でじ、っと見られて、軽くグラスを合わせて乾杯をして一口飲んだ。
「……おいしい」
「コスモポリタン、ベリーのカクテルです」
「へぇ」
「初めて?」
「あ、はいおれそんな酒飲まないんで」
「知ってます」
「え?」
「青田選手も、ですよね」
山本さんが視線をやった方につられて目をやると、ごうは何人かと談笑していた。年いってるのも若いのも、男も女も。ごうの周りには自然と人が集まる。これもまた見慣れた光景、と苦い何かを飲み下すように何となくガラスの残りを飲み干すと、山本さんが音を立てずに拍手をした。
「ごうよりは、おれのが強いです」
「みたいですね。実は青田選手からよくイオさんのお話を聞いていて、お会いしてみたかったんです」
「そうですか」
慣れてる感じの人だな、と思う。喋り方も笑顔もマイルドでギョーカイっぽいわざとらしさがなくて、着てるもんもセンス悪くなくて女にモテそう。
「今日は青田選手と?」
「帰りは一緒に、って言ってるんですけど……いつになるかな」
また新しい人に声をかけられてるごうを見ながら苦笑すると、山本さんがああ、という顔で頷いて落ち着いた声で言った。
「一応主催側の端くれでこんなこと言うのも何なんですが、もう堅苦しいのは終わりましたし。良かったら上のバーでゆっくりお話ししませんか?またウチで青田選手の特集を組むんで、一番近い人から見るパーソナルなところの話も聞きたくて」
知らない人と酒飲むなんていつもなら丁重にお断りする。でもごうを待ちたいし、パーティーには飽きたし、足疲れたし。知らない、つってもまるっきり仕事関係ない人じゃないし。どうしようかな、と迷って、ごうの方を見ると、状況は変わらない、というかむしろ輪が広がってる感もある。やっとこ戻ってきたマネくんから「遅くなってすみません!」ってカシオレを受け取り「おつかれ。後はおれ適当にハケるから、今日はもう帰ってもいいよ」と声を掛けて、「おれあんまり飲めないけどいいですか」と山本さんにことわると、「もちろん。飲みやすいお酒お勧めしますよ」とにこやかに言われた。
「キレイですよね」
エレベーターで上がった最上階にあるバーの夜景は、確かにキレイだった。二人がけのソファに座り、メニューを見てもちんぷんかんぷんだったから「これ飲みやすいですよ」「これは青田くんも好きなやつ」と山本さんに勧められるがままに何杯か飲んで、(ごう、青田くん、って呼ばれてんだ。まぁ結構年上っぽいもんな)とか思いながら、確かに飲みやすい酒をどんどん入れていった。いつも通りのつもりだったけど、こういう公の場でもおれと違って自然体で、普段と変わらないごうが近いのに遠く感じて、ちょっと疲れたのかも。なんて言い訳しながら、口当たりが軽くて高そうなグラスにちょびっとしか入ってない酒の効果で、頭はふわふわしていく。門外漢ですが、なんて言いながらファッションに詳しいだけじゃなく自分も実業団でバスケをしていたという山本さんの話は面白くて、というかごうのプレイをいろんな表現で褒めてくれるのがうれしくて、人見知りのわりにはおれもリラックスして喋った方だと思う。
山本さんは、「まだ対外的にはオフレコですけど」もうすぐ会社を辞めて独立すると言う。あれ?じゃあごうの特集は?って思ったとき、「だからって訳じゃないですけど思い切って。ずっと話してみたかったんで声掛けて」と少し熱っぽく言ったあと、窓の外に目を逸らし「本当に、キレイだ」と呟いた。
夜景なんていくらでも見てそうな山本さんがしみじみ言ったので、えらくロマンチストだなぁと笑って「山本さん東京タワー似合いますね、オンナノヒトめちゃ口説いてそう」と軽口を叩くと、山本さんは軽く目を細めて、ゆっくりとおれの顔を見た。その目の色に、何か落ち着かないものを感じて口の中が乾く。「確かに夜景もキレイなんですけど、俺が今言ってるのは……」グラスを置いてこっちに向き直った山本さんの手が、頬に触れる。
(あ、これヤバい)
よけようと軽く腰を上げた瞬間、頭がぐわんと揺れた。ソファに沈むように背を預けて、夜景を背負った山本さんの暗くてイマイチよくわからない表情を伺う。
「庵さんのこと」
「え、何……」
「誌面や動画で見るより本物の方が良いですね、肌も透明感が凄くて、瞳も、海の底でできた宝石みたいで」
「山本さん、おれ相手に口説いても何も出ない……ちょ、さわんな」
身を捩りながら手首を掴むと、「……ッ!!」手の甲をぬるりと冷たい何かが這った。舐められた……?信じられなくて、手首から離れた手が震える。
「気強そうなのに時々儚げで、エロいなって思ってた。ベッドの上だとどんな顔するんだろう。これは俺の予想だけど、まるっきりのノーマルじゃないよね?当ててみよっか。抱かれる方、でしょ。まぁこれは俺の希望だけど」
突如トーンの変わった、愉悦を含んだ声に鳥肌が立つ。両手で挟むようにして頬を撫でられながら誰かに異変を知らせようと視線を動かしても、ソファの両端が衝立みたいになってて座った状態だと他の人が見えない。これ、ほぼカップルシートじゃん、今更ながらに気付いて両手で胸を押すけど、距離感がつかめなくて、それはシャツの上を滑っただけだった。
「結構回った?」
眉を上げて笑われて、テーブルの上のグラスを見る。そんなにたくさん飲んだ記憶はない。全部おれでも飲みやすかった。でも、思ってるより度数が高かったのかもしれない。勧められるがままに飲んだことを今更ながら悔やんで、自分のバカさを実感したらより頭の中が掻き回されるような感じがした。
「かえ、る……」
「一人で?無理でしょ。部屋で休もう」
声を掛けてきたときとは全然違う顔をした男が、おれの腰を支えて立たせる。ヤバい、逃げなきゃ。って思うのに足がふらついて支えがないと立てない。密着することで他人の、それも名前や所属や立場以外はよく知らない男の吐息や香水の香りを感じて、ぞわ、となったところに腰骨を確かめるみたいに撫でられて、声にならない悲鳴が喉奥に沈む。
膝が折れそうになって、視界がぐにゃりと沈んだ。赤茶のじゅうたんが波打って、その向こうの壁際に置かれた花瓶や、自分の足元までがゆっくり歪む。どうしよう。男の力は思ったより強くて、振り切ることができない。部屋に連れ込まれる前に逃げないとなのに身体が言うことを聞かない。いくら酒飲んだからって、こんな奴に支えられないと歩けないなんて――。悔しくて、涙が滲んで、余計に視界が歪んで思考が鈍る。泣いてる場合かよ、そうだ電話――、ごう。スーツのポケットに伸ばした指先を、男の節ばった手が捕らえる。
「やめ……ッ、やめろ、やだ、ごぉ……っ」
男はしゃがみ込んで、身を固くするおれを立たせようと腕を引く。エレベーターが上がってきたことを知らせる上品な音が鳴る。誰か――。期待半分、絶望半分で開いていく扉を見上げたとき、頭上で息を呑む音が聞こえた
「ここにいたの、イオ」
箱の中には、ごうがいた。一瞬何かを確かめるように細めた目はさっきまでとは全然違う鋭さを孕んでいて、男の手が離れていく。ごうは引き剥がすようにおれの腕を引いて立たせ、バランスを崩した身体を受け止める。相変わらず視界は揺れるし息苦しいけどごうの匂いと体温に、身体が弛緩するのがわかった。
「歩ける?帰るよ」
「あ、の……青田くん」
わかりやすく狼狽えた声に、ごうはおれを抱き止める力を込めて静かに言った。
「ご退職されるって聞きました。……今までありがとうございました」
「ああ、また会場に挨拶に」
「いや、大丈夫です」
ごうがおれを見下ろす。どこか異常はないか、欠けてる部分は、乱れは、点検するみたいに。それはただの視線で、物理的な力はないはずなのに、肌がゾワゾワチリチリして。おれは肩をすくめるようにしてごうを見上げる。
「こんなに飲ませて、どこに連れてく気だったんですか?」
「や、俺は別に」
「二度と近づかないで下さい、イオにも、俺にも」
それはおれを守るための、不埒な他人に向けた言葉なのに。おれは頭から氷水をかけられたような衝撃を感じ、まるで世界に置いて行かれたように、息の仕方を忘れる。ほんの数秒、全身を硬直させてごうの無機質な声の余韻に耐え、縋るようにその袖を掴んだ。
帰りの車の中、おれのネクタイを解き、ペットボトルの水を渡して「気持ち悪くなったら言いな」と言ったっきり、ごうは黙ってしまった。ハンドルを握り前をじっと見て運転するごうの横顔に射すテールランプをぼんやり見ながら、「ごめん」を言うタイミングを探してるうちに、おれはいつの間にか眠っていた。
ごう、ごめんなさい。
夢の中のおれは、ごうの裾を引き、“弟”の声で言う。
ごうは優しく微笑む。
それは何の、“ごめん”?
問いかける声は、ごうのものとは微妙に違うものだった。
着いたよ、とごうの声で意識が浮上する。車を降りたごうは助手席に回って、肩を貸してくれた。もう大丈夫、ごうは帰りなって何回も言ったけどごうは玄関までついて来て、勝手知ったるキッチンで浄水器から水を注ぎ、おれに渡した。
「……ペットボトルまだあるよ」
リビングのソファに座らされたおれは、立ったままのごうに無言で見つめられて、仕方ないからそれを一口飲んだ。
「ありがと、もうだい」
「あのさぁ……」
やけに静かな部屋。ごうの押し殺した怒りが、声の隙間から滲む。
「何考えてんの?」
さっきホテルで聞いたものとはまた違う冷たい言葉に、心臓が軋む。
「なに、って……ごめん心配かけて」
「よく知らない人についてって。こんなになって」
「知らないっつっても名刺貰ったし」
静かな剣幕に圧されて、どうでもいいことを言ってしまう。そういうことじゃない。わかってる。空気を変えたくて何か話題はないかと視線を泳がすけれど、上手く頭が回らない。滅多に怒らないごうが怒っている。確かにおれは、ごうに心配かけたし、探してくれたんだろうけど。
「……名刺貰ったら誰にでもついてくの」
まるでごうらしくない言葉に、毛が逆立つような不快感が走る。同時に腹から熱いモノがこみ上げて、内側から鼻をツンと痛くした。イヤだ、泣きたくない。ごうを見上げて睨みつけ、「だとしても、ごうには関係ない」声が震えないように喉に力を入れて、言葉を押し出す。
「関係ない……?」
「セクシャルなことは、いくら兄弟でも踏み入っていい場所じゃないでしょ」
「襲われたかもしれないんだよ?よく知らない男の人に、あのまま部屋に連れ込まれて」
ごうの言葉に、男の視線や、声や、匂いを思い出す。あの身体が乗っかってくることを一瞬想像して、胃が痙攣するような感覚を堪えたあと、吐き出すように、言った。
「……それでも、べつにいい」
「良いワケない、イオは」
きっとおれをノーマルだと思ってるごうが、顔を顰める。おれは不意にさっき見た夢の中で、自分が何に謝っていたのかを知る。知って、思わず笑ってしまう。おれがごうに謝りたいのは、心配をかけたことじゃない、大事な役割を放り出させて、探させたことでもない。ごうを騙して、自分の気持ちを隠し続けているおれの、至極身勝手で、一方的な想い。
ごうの思う、キレイなおれでいられなくてごめん。
おれの視線を捕らえるようにしゃがみ込んだごうの、少し乾いた頬を撫でる。目が軽く充血している。疲れてるよな、1点を争うハードな毎日の中で、あんな場に放り出されて。いろんな人間相手にして。挙句勝手にいなくなった弟を、きっと必死に探してくれたんだ。優しい、おれのおにいちゃん。
「おれが、男と寝たら」
なのにおれは、そんなごうを、また傷つける。
「ごうと一緒になれる……?」
ごうとおなじがいい。ちいさな頃は、それがすべてだった。活発なごうと引っ込み思案な自分。明らかに性質が違うことを知って、バスケを始めたことをきっかけに諦めたけど、その欲求は自分の中に深く根付いた。
ごうが、女よりも男に対して性的な欲求を感じる人間だと知ったのは、中学の頃だった。その時に感じたのは、嫌悪でも驚きでもなく、胸を握り潰すような、圧倒的な“不当”感。
おれがいるのに。おれは幼い子どもが地団駄を踏むように、思った。男がいいなら、誰より近くにいて、誰よりごうのことをわかってる、おれでいいじゃん。
もちろん、わかってる。誰よりごうのことを知っているからこそ、この気持ちに、自分よりも大切にしてきた実の弟の歪んだ想いに、ごうが応じるワケがないってこと。どんな角度から見ても、間違ってるのはおれで、おれの想いだ。そんなことはわかってる。わかってるのに、
見開かれたごうの目に映るおれが、色のない雫を流すのが見えた。ごうの喉が震える。痛みが移ったみたいに。おれが泣くと、いつもなるみたいに。
「おれは、ぜんぜんキレイじゃない……のに、」
「ご、うに……っ」
「たいせつに、……されるのがつらい……」
“イオはキレイだから”
誇らしげなごうの声が、頭蓋の中で響く。やめてくれ。叫びたくなるのを、喉を押さえて、堪える。大切な兄に、誰にも言えない欲求を抱いてる。ごうが同じ性をもつ人間にどんなふうに触れるのか、どんなふうにキスして、どんなふうに脱がすのか。どうしてその相手は、おれじゃないのか。
おれは、ごうの大切な弟は、油断すると口からそんなエゴが怒涛のように流れてくるのを、必死で殺して、そばにいるんだ。だから。
「ごめ……なんでもない。こりゃ酔ってるわ、ホントもう大丈夫だし今日は帰って」
腕を摩り、目を擦って、とりなすように笑う。次の瞬間世界はガクンと揺れて、冷えた身体を長い腕が捕らえて、抱き締められたことを知る。大切だ、声にならない叫びが、強く抱き締める腕から身体に直接流れてくる。張り詰めていたものが、音を立てて崩れていく。こんなの、やさしい拷問だ、熱を持った頭の片隅で思う。ごうは、おれの言うことはなんでも、たいていかなえてくれるけど。
「イオ……」
「かえ、ってよ……」
今は、こんなちっぽけな要求すら、通らない。
どれくらい抱き締められていただろう。腕の力が緩められて、密着した身体が少し離れる。ホッとしながらも、寒い、と思った。ごうの腕の中、ずっと暖かい場所にいたい。ごうと溶け合って、ひとつになりたい。そしたらおれなんか、なくなっても構わないのに。
自分が一生抱き続けるだろう渇望のどうしようもなさに、喉が痙攣して、蛇口が壊れたみたいにまたポロポロと流れる。次々生まれては頬を辿っていく生ぬるいそれを指の腹で掬い、ごうはその優しい唇で、まなざしで、残酷な言葉を吐いた。
「イオは、世界で一番、キレイ」
「イオ、コレ食べた?イオ絶対好きだよ」
ギョーカイのパーティに似つかわしくない飾らない声に、おれは緩む頬を隠して呆れた顔を作り振り向く。撮影で遅れて入ったせいで、今日初めての会話だ。もちろん、その存在は会場に入って一番に見つけてたけど。
「持って来すぎじゃない?両手塞がってんじゃん」
「これさぁ、プレーン食べておいしさに感動してたらいろんな味があって!全部試したくて欲張っちゃった」
スーツ姿で笑うごうは、おれの自慢の年子の兄だ。高身長にバシッと決まったスーツ。普段はユニフォームとか練習着を着ていることが多く、オフの日でも割とカジュアルな恰好が好みなごうだけど、バスケ界のプリンスって言われてる精巧な顔立ちと長い手足の持ち主がフォーマルなスーツを着ると、弟のおれですら気圧されるような圧倒的な華があった。
男らしい骨格の割に小さな顔、彫刻みたいな鼻筋といい黄金比で配置された二重瞼といい、黙ってたらたぶん近寄りがたさすら感じるビジュアルの完成度だけど、ごうはそんなことには頓着せずに弟相手に相好を崩してあれもこれもと食わせようとしてくる。周囲の高揚した、あるいは微笑ましさそうな視線を感じながら、仕方なくごうが差し出すミニタルトに口をつける。
「……んま」
「でしょ?!このマロンのやつもイオ好きだと思う」
ごうの大きな、いろんな表情にくるくると形を変える目がパッと輝いて、優しい微笑みのカタチを作る。その中に当然のように自分がいることに一々安堵してしまうことにも、ごうが完璧な、慈しみと信頼を全面に湛えた笑みを自分に向けるたびに軋む胸にも、決してごうに気付かせてはいけない。どれどれー、って軽い口調で言いながら、さっきより近付いたせいで一瞬ふわりと鼻をくすぐったごうの香りに高鳴る鼓動を、少し距離を置いてやりすごした。
「さっきさぁ」
開けた距離をまた詰めて、ごうがおれだけに聞こえる声で、言う。
「前に番組一緒になったタレントさんに弟さん紹介してください~って言われた。イオモテてる」
ちょっと拗ねたような声。ふざけるように軽く肘打ちされて苦笑する。
「あほか。んなのおれだってしょっちゅう言われてるよ。耳タコ」
「他の人もね、キレイだなぁ……ってイオ見ると思わず、って感じで言うんだよね。星見てるみたいにうっとり。まあ仕方ないよね、ホントにイオはキレイだもん」
「……あのさぁ」
「でしょ?って返したらびっくりした顔して笑われる」
「恥ずかしいんでやめてもらっていいですか。またブラコン言われんじゃん」
「コンプレックスなワケないよね、むしろ誇り。イオプラ?」
「ブラザーどこ言った。限定的すぎるわ」
恥ずかしげもなく言うごうに、また軋み始める場所から気を逸らすようにつっこみを入れると、黒いスーツを着た主催側の広報っぽい集団に声を掛けられた。
「青田選手、SNS用に写真いいですか?」
「あ、はい。イオは?」
「おれはさっき撮ったー。もうお酒飲んじゃったし」
「そうなの?じゃあごめんイオお皿持ってて!」
いつからだろう。ごうといることで胸のうらっかわがこんな風に痛むようになったのは。自分の中の仄暗い欲望に気付いたときから?ごうの、きっとおれには秘密にしておきたかっただろう秘密を知ったときから?答えの出ない問いを振り切るように、ごうから受け取ったお皿にのった一口サイズのタルトを口に入れる。ごうがイオは好きだと思うと言ったマロンタルト。こんなのあるの気付かなかったな、と思いながら、いつだって自分のより先におれの好きなものを見つけてきてくれた、子どもの頃のごうの姿を長身の背中に重ねる。
「青田、荻野さんいらしたわ。挨拶行くぞ」
写真をきっかけにいろんな人に囲まれて話しかけられているごうをぼんやりと見ながら、ごうが離れて幾分味気なくなった気がする口の中のタルトを咀嚼していると、チームの先輩らしき人に呼ばれたごうがおれを振り返った。
「あ、ハイ行きます!じゃあね、イオ。今日おれ車だし、送るから一緒に帰ろうね」
「ありがと、マネージャー」
「イオさん、お酒、あんま飲んじゃダメですよ」
「ごうこそジュースと間違えて飲まないでね」
「それちょっとやりそう。気を付ける!」
スポンサーだろうか。どっかの社長さんっぽい、いかにも偉い感じのおじさん一堂に向かって大股で歩きながら、ごうがおれに手を振った。おれも降り返して、ふぅ、と息を吐く。
今日は出版社の周年パーティーで、専属モデルをやってるファッション誌があるおれはもちろん、バスケ雑誌でたびたび特集されてるごうも、ゲストとして呼ばれた。若手の中でも群を抜いて人気のあるごうはチームの、バスケ界全体の広告塔でもあるし、こういう場で鉢合わせることはたまにある。おれはIOって芸名で仕事してるけどごうと兄弟ってことは公表してるし、取材とかで互いの話もよくするから二人でいると周りの注目を感じることも多い。
ごうが離れたことで注がれる視線の数が減ったのを感じてふ、と肩の力を抜く。おれは一通り挨拶も済ませたし、偉い人のスピーチも終わってご歓談タイムという名の誰が抜けようかわからない時間だし。ぶっちゃけもう帰りたいけどごうはまだかかりそうだなぁってちょっとぼんやりしていると、さっきまでうちの社長のマリさんに命じられて名刺配りに奔走していた若手のマネージャーがおれのそばに戻ってきた。
大学までずっと野球少年だった、という彼が快活な声でイオさん何か飲みますか?と訊いてくれたので、「なんかフルーツ系のカクテルあったら飲みたい。あんま強くないやつね」とお願いして壁に軽く背を預ける。ハイ!と走って行った彼は、誰かにぶつかりそうになって頭下げてる。大丈夫かなぁ……あ、名刺交換始めた。これは結構時間かかる感じかな。
そうやって戻ってこないマネを待ちつつ、どれくらいぼんやりしていただろう。もちろん誰かに声掛けられたら必要に応じて挨拶したり適当に話したりしつつ、自分からはそこまで積極的に交流はしなかった。まぁマリさんもおれにそこまで求めてないでしょ。途中ごうが通りかかってダメ元で「もう帰りたいー」口パクで言ってみたらお兄ちゃんの顔で笑って「待ってて」ってされた。待つけどさ。ごうのこと待つなんて慣れてるし。子どもの頃、公園のリングの前からなかなか帰ろうとしなかった背中を思い出す。
そうしていい加減喉乾いたから何か取りに行こうかなと思ったときだった。
「良かったらこれ、飲みますか?」
差し出されたグラスに、顔を上げる。ピンクと赤の中間みたいな透き通った色をしたカクテルの向こうに、知らない顔がある。少し焼けた肌、黒髪短髪によく整えられた髭を生やした、身長はおれと同じかちょい高いくらいの、三十代半ばくらいの男だ。グラスを受け取るべきか迷っていると、名刺を出された。ごうが時々特集されてるバスケ雑誌の名前があった。
「編集、さん」
「山本です。青田選手にはいつもお世話になってます」
「あ、こちらこそ」
軽く頭を下げて、グラスを受け取る。愛想の良い目でじ、っと見られて、軽くグラスを合わせて乾杯をして一口飲んだ。
「……おいしい」
「コスモポリタン、ベリーのカクテルです」
「へぇ」
「初めて?」
「あ、はいおれそんな酒飲まないんで」
「知ってます」
「え?」
「青田選手も、ですよね」
山本さんが視線をやった方につられて目をやると、ごうは何人かと談笑していた。年いってるのも若いのも、男も女も。ごうの周りには自然と人が集まる。これもまた見慣れた光景、と苦い何かを飲み下すように何となくガラスの残りを飲み干すと、山本さんが音を立てずに拍手をした。
「ごうよりは、おれのが強いです」
「みたいですね。実は青田選手からよくイオさんのお話を聞いていて、お会いしてみたかったんです」
「そうですか」
慣れてる感じの人だな、と思う。喋り方も笑顔もマイルドでギョーカイっぽいわざとらしさがなくて、着てるもんもセンス悪くなくて女にモテそう。
「今日は青田選手と?」
「帰りは一緒に、って言ってるんですけど……いつになるかな」
また新しい人に声をかけられてるごうを見ながら苦笑すると、山本さんがああ、という顔で頷いて落ち着いた声で言った。
「一応主催側の端くれでこんなこと言うのも何なんですが、もう堅苦しいのは終わりましたし。良かったら上のバーでゆっくりお話ししませんか?またウチで青田選手の特集を組むんで、一番近い人から見るパーソナルなところの話も聞きたくて」
知らない人と酒飲むなんていつもなら丁重にお断りする。でもごうを待ちたいし、パーティーには飽きたし、足疲れたし。知らない、つってもまるっきり仕事関係ない人じゃないし。どうしようかな、と迷って、ごうの方を見ると、状況は変わらない、というかむしろ輪が広がってる感もある。やっとこ戻ってきたマネくんから「遅くなってすみません!」ってカシオレを受け取り「おつかれ。後はおれ適当にハケるから、今日はもう帰ってもいいよ」と声を掛けて、「おれあんまり飲めないけどいいですか」と山本さんにことわると、「もちろん。飲みやすいお酒お勧めしますよ」とにこやかに言われた。
「キレイですよね」
エレベーターで上がった最上階にあるバーの夜景は、確かにキレイだった。二人がけのソファに座り、メニューを見てもちんぷんかんぷんだったから「これ飲みやすいですよ」「これは青田くんも好きなやつ」と山本さんに勧められるがままに何杯か飲んで、(ごう、青田くん、って呼ばれてんだ。まぁ結構年上っぽいもんな)とか思いながら、確かに飲みやすい酒をどんどん入れていった。いつも通りのつもりだったけど、こういう公の場でもおれと違って自然体で、普段と変わらないごうが近いのに遠く感じて、ちょっと疲れたのかも。なんて言い訳しながら、口当たりが軽くて高そうなグラスにちょびっとしか入ってない酒の効果で、頭はふわふわしていく。門外漢ですが、なんて言いながらファッションに詳しいだけじゃなく自分も実業団でバスケをしていたという山本さんの話は面白くて、というかごうのプレイをいろんな表現で褒めてくれるのがうれしくて、人見知りのわりにはおれもリラックスして喋った方だと思う。
山本さんは、「まだ対外的にはオフレコですけど」もうすぐ会社を辞めて独立すると言う。あれ?じゃあごうの特集は?って思ったとき、「だからって訳じゃないですけど思い切って。ずっと話してみたかったんで声掛けて」と少し熱っぽく言ったあと、窓の外に目を逸らし「本当に、キレイだ」と呟いた。
夜景なんていくらでも見てそうな山本さんがしみじみ言ったので、えらくロマンチストだなぁと笑って「山本さん東京タワー似合いますね、オンナノヒトめちゃ口説いてそう」と軽口を叩くと、山本さんは軽く目を細めて、ゆっくりとおれの顔を見た。その目の色に、何か落ち着かないものを感じて口の中が乾く。「確かに夜景もキレイなんですけど、俺が今言ってるのは……」グラスを置いてこっちに向き直った山本さんの手が、頬に触れる。
(あ、これヤバい)
よけようと軽く腰を上げた瞬間、頭がぐわんと揺れた。ソファに沈むように背を預けて、夜景を背負った山本さんの暗くてイマイチよくわからない表情を伺う。
「庵さんのこと」
「え、何……」
「誌面や動画で見るより本物の方が良いですね、肌も透明感が凄くて、瞳も、海の底でできた宝石みたいで」
「山本さん、おれ相手に口説いても何も出ない……ちょ、さわんな」
身を捩りながら手首を掴むと、「……ッ!!」手の甲をぬるりと冷たい何かが這った。舐められた……?信じられなくて、手首から離れた手が震える。
「気強そうなのに時々儚げで、エロいなって思ってた。ベッドの上だとどんな顔するんだろう。これは俺の予想だけど、まるっきりのノーマルじゃないよね?当ててみよっか。抱かれる方、でしょ。まぁこれは俺の希望だけど」
突如トーンの変わった、愉悦を含んだ声に鳥肌が立つ。両手で挟むようにして頬を撫でられながら誰かに異変を知らせようと視線を動かしても、ソファの両端が衝立みたいになってて座った状態だと他の人が見えない。これ、ほぼカップルシートじゃん、今更ながらに気付いて両手で胸を押すけど、距離感がつかめなくて、それはシャツの上を滑っただけだった。
「結構回った?」
眉を上げて笑われて、テーブルの上のグラスを見る。そんなにたくさん飲んだ記憶はない。全部おれでも飲みやすかった。でも、思ってるより度数が高かったのかもしれない。勧められるがままに飲んだことを今更ながら悔やんで、自分のバカさを実感したらより頭の中が掻き回されるような感じがした。
「かえ、る……」
「一人で?無理でしょ。部屋で休もう」
声を掛けてきたときとは全然違う顔をした男が、おれの腰を支えて立たせる。ヤバい、逃げなきゃ。って思うのに足がふらついて支えがないと立てない。密着することで他人の、それも名前や所属や立場以外はよく知らない男の吐息や香水の香りを感じて、ぞわ、となったところに腰骨を確かめるみたいに撫でられて、声にならない悲鳴が喉奥に沈む。
膝が折れそうになって、視界がぐにゃりと沈んだ。赤茶のじゅうたんが波打って、その向こうの壁際に置かれた花瓶や、自分の足元までがゆっくり歪む。どうしよう。男の力は思ったより強くて、振り切ることができない。部屋に連れ込まれる前に逃げないとなのに身体が言うことを聞かない。いくら酒飲んだからって、こんな奴に支えられないと歩けないなんて――。悔しくて、涙が滲んで、余計に視界が歪んで思考が鈍る。泣いてる場合かよ、そうだ電話――、ごう。スーツのポケットに伸ばした指先を、男の節ばった手が捕らえる。
「やめ……ッ、やめろ、やだ、ごぉ……っ」
男はしゃがみ込んで、身を固くするおれを立たせようと腕を引く。エレベーターが上がってきたことを知らせる上品な音が鳴る。誰か――。期待半分、絶望半分で開いていく扉を見上げたとき、頭上で息を呑む音が聞こえた
「ここにいたの、イオ」
箱の中には、ごうがいた。一瞬何かを確かめるように細めた目はさっきまでとは全然違う鋭さを孕んでいて、男の手が離れていく。ごうは引き剥がすようにおれの腕を引いて立たせ、バランスを崩した身体を受け止める。相変わらず視界は揺れるし息苦しいけどごうの匂いと体温に、身体が弛緩するのがわかった。
「歩ける?帰るよ」
「あ、の……青田くん」
わかりやすく狼狽えた声に、ごうはおれを抱き止める力を込めて静かに言った。
「ご退職されるって聞きました。……今までありがとうございました」
「ああ、また会場に挨拶に」
「いや、大丈夫です」
ごうがおれを見下ろす。どこか異常はないか、欠けてる部分は、乱れは、点検するみたいに。それはただの視線で、物理的な力はないはずなのに、肌がゾワゾワチリチリして。おれは肩をすくめるようにしてごうを見上げる。
「こんなに飲ませて、どこに連れてく気だったんですか?」
「や、俺は別に」
「二度と近づかないで下さい、イオにも、俺にも」
それはおれを守るための、不埒な他人に向けた言葉なのに。おれは頭から氷水をかけられたような衝撃を感じ、まるで世界に置いて行かれたように、息の仕方を忘れる。ほんの数秒、全身を硬直させてごうの無機質な声の余韻に耐え、縋るようにその袖を掴んだ。
帰りの車の中、おれのネクタイを解き、ペットボトルの水を渡して「気持ち悪くなったら言いな」と言ったっきり、ごうは黙ってしまった。ハンドルを握り前をじっと見て運転するごうの横顔に射すテールランプをぼんやり見ながら、「ごめん」を言うタイミングを探してるうちに、おれはいつの間にか眠っていた。
ごう、ごめんなさい。
夢の中のおれは、ごうの裾を引き、“弟”の声で言う。
ごうは優しく微笑む。
それは何の、“ごめん”?
問いかける声は、ごうのものとは微妙に違うものだった。
着いたよ、とごうの声で意識が浮上する。車を降りたごうは助手席に回って、肩を貸してくれた。もう大丈夫、ごうは帰りなって何回も言ったけどごうは玄関までついて来て、勝手知ったるキッチンで浄水器から水を注ぎ、おれに渡した。
「……ペットボトルまだあるよ」
リビングのソファに座らされたおれは、立ったままのごうに無言で見つめられて、仕方ないからそれを一口飲んだ。
「ありがと、もうだい」
「あのさぁ……」
やけに静かな部屋。ごうの押し殺した怒りが、声の隙間から滲む。
「何考えてんの?」
さっきホテルで聞いたものとはまた違う冷たい言葉に、心臓が軋む。
「なに、って……ごめん心配かけて」
「よく知らない人についてって。こんなになって」
「知らないっつっても名刺貰ったし」
静かな剣幕に圧されて、どうでもいいことを言ってしまう。そういうことじゃない。わかってる。空気を変えたくて何か話題はないかと視線を泳がすけれど、上手く頭が回らない。滅多に怒らないごうが怒っている。確かにおれは、ごうに心配かけたし、探してくれたんだろうけど。
「……名刺貰ったら誰にでもついてくの」
まるでごうらしくない言葉に、毛が逆立つような不快感が走る。同時に腹から熱いモノがこみ上げて、内側から鼻をツンと痛くした。イヤだ、泣きたくない。ごうを見上げて睨みつけ、「だとしても、ごうには関係ない」声が震えないように喉に力を入れて、言葉を押し出す。
「関係ない……?」
「セクシャルなことは、いくら兄弟でも踏み入っていい場所じゃないでしょ」
「襲われたかもしれないんだよ?よく知らない男の人に、あのまま部屋に連れ込まれて」
ごうの言葉に、男の視線や、声や、匂いを思い出す。あの身体が乗っかってくることを一瞬想像して、胃が痙攣するような感覚を堪えたあと、吐き出すように、言った。
「……それでも、べつにいい」
「良いワケない、イオは」
きっとおれをノーマルだと思ってるごうが、顔を顰める。おれは不意にさっき見た夢の中で、自分が何に謝っていたのかを知る。知って、思わず笑ってしまう。おれがごうに謝りたいのは、心配をかけたことじゃない、大事な役割を放り出させて、探させたことでもない。ごうを騙して、自分の気持ちを隠し続けているおれの、至極身勝手で、一方的な想い。
ごうの思う、キレイなおれでいられなくてごめん。
おれの視線を捕らえるようにしゃがみ込んだごうの、少し乾いた頬を撫でる。目が軽く充血している。疲れてるよな、1点を争うハードな毎日の中で、あんな場に放り出されて。いろんな人間相手にして。挙句勝手にいなくなった弟を、きっと必死に探してくれたんだ。優しい、おれのおにいちゃん。
「おれが、男と寝たら」
なのにおれは、そんなごうを、また傷つける。
「ごうと一緒になれる……?」
ごうとおなじがいい。ちいさな頃は、それがすべてだった。活発なごうと引っ込み思案な自分。明らかに性質が違うことを知って、バスケを始めたことをきっかけに諦めたけど、その欲求は自分の中に深く根付いた。
ごうが、女よりも男に対して性的な欲求を感じる人間だと知ったのは、中学の頃だった。その時に感じたのは、嫌悪でも驚きでもなく、胸を握り潰すような、圧倒的な“不当”感。
おれがいるのに。おれは幼い子どもが地団駄を踏むように、思った。男がいいなら、誰より近くにいて、誰よりごうのことをわかってる、おれでいいじゃん。
もちろん、わかってる。誰よりごうのことを知っているからこそ、この気持ちに、自分よりも大切にしてきた実の弟の歪んだ想いに、ごうが応じるワケがないってこと。どんな角度から見ても、間違ってるのはおれで、おれの想いだ。そんなことはわかってる。わかってるのに、
見開かれたごうの目に映るおれが、色のない雫を流すのが見えた。ごうの喉が震える。痛みが移ったみたいに。おれが泣くと、いつもなるみたいに。
「おれは、ぜんぜんキレイじゃない……のに、」
「ご、うに……っ」
「たいせつに、……されるのがつらい……」
“イオはキレイだから”
誇らしげなごうの声が、頭蓋の中で響く。やめてくれ。叫びたくなるのを、喉を押さえて、堪える。大切な兄に、誰にも言えない欲求を抱いてる。ごうが同じ性をもつ人間にどんなふうに触れるのか、どんなふうにキスして、どんなふうに脱がすのか。どうしてその相手は、おれじゃないのか。
おれは、ごうの大切な弟は、油断すると口からそんなエゴが怒涛のように流れてくるのを、必死で殺して、そばにいるんだ。だから。
「ごめ……なんでもない。こりゃ酔ってるわ、ホントもう大丈夫だし今日は帰って」
腕を摩り、目を擦って、とりなすように笑う。次の瞬間世界はガクンと揺れて、冷えた身体を長い腕が捕らえて、抱き締められたことを知る。大切だ、声にならない叫びが、強く抱き締める腕から身体に直接流れてくる。張り詰めていたものが、音を立てて崩れていく。こんなの、やさしい拷問だ、熱を持った頭の片隅で思う。ごうは、おれの言うことはなんでも、たいていかなえてくれるけど。
「イオ……」
「かえ、ってよ……」
今は、こんなちっぽけな要求すら、通らない。
どれくらい抱き締められていただろう。腕の力が緩められて、密着した身体が少し離れる。ホッとしながらも、寒い、と思った。ごうの腕の中、ずっと暖かい場所にいたい。ごうと溶け合って、ひとつになりたい。そしたらおれなんか、なくなっても構わないのに。
自分が一生抱き続けるだろう渇望のどうしようもなさに、喉が痙攣して、蛇口が壊れたみたいにまたポロポロと流れる。次々生まれては頬を辿っていく生ぬるいそれを指の腹で掬い、ごうはその優しい唇で、まなざしで、残酷な言葉を吐いた。
「イオは、世界で一番、キレイ」
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