Don't Speak

国沢柊青

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act.08

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[9]

 その夜。
「おい、もうちょっとそっちに寄れよ」
 クリスのベッドに寝っ転がっていたショーンは、風呂から上がってきたバスローブ姿のクリスに追い立てられた。
 クリスのベッドはダブルサイズだが、デカイ男が二人となるとそれなりに気を使わないと横になれない。
「ああ、ごめん・・・って、あんたなに裸になってんだよ!!」
 ショーンは目を白黒させて怒鳴った。
 ベッドに腰掛けてバスローブを脱いだクリスは、何が悪いと言った表情を浮かべ、ショーンに取り合う様子など見せず、さっさとアッパーシーツを被る。
「俺はいつも裸で寝るんだよ。お前さんが勝手に転がり込んでいる癖に、なぜ俺があわせなきゃならん。それが嫌なら、さっさと出て行け」
 そう言ってクリスはショーンに背を向ける。
 確かにクリスの言った通り、自分はクリスの好意に甘えている形なのだから、文句は言えない。ショーンは、大人しくシーツに潜った。ギュッと目を瞑る。
 しかし、こうして目を瞑ると、先程目に焼き付いたクリスの裸体が嫌でも目に浮かんでくる。
 クリスは、スコットの男らしい肉体労働者といった具合の身体つきとは違って、身体自体が商品といってもおかしくないようなバランスの取れたしなやかな身体をしていた。
 クリスは、昔、ダンサーだったのかもしれない。
 ショーンが眠れないまま、黙って寝っ転がっていると、いろんな音が聞こえてくる。
 終演を迎えた劇場は静かなはずだったが、誰か劇団の人間が上の階に居残っているのだろうか。時折男女が話している声が聞こえてきたが、何を話しているかは分からなかった。
「・・・眠れないのかい?」
 ふいにクリスが呟いた。
「え?!」
 ショーンはドキリとして、思わず大きな声を上げてしまう。
 ショーンがクリスの方に身体を向けると、クリスは背を向けたまま、「眠れないのか、と訊いたんだ」と繰り返した。
 クリスがこちらに顔を向ける。
「スコットのことを考えて眠れないか?」
 ショーンは顔を赤らめた。
 本当のところ、眠れない原因がスコットのせいなのか、クリスのせいなのかよく分からなかった。
 ショーンが言い淀んでいると、クリスは少し笑った。
「お前さん達は、本当によく似た親子だ」
「え・・・?」
 ショーンが訊き返す。
 クリスは答えた。
「二人とも、酷く不器用に生きてるってことさ。二人とも頭は賢いくせに、お前らより要領よく生きてるヤツらはごまんといる。頭が良すぎるっていうのも考えものだな。もっと肩の力を抜いてみればいい」
 確かに、そうかもしれないな・・・。
 ショーンはそう思った。
 クリスが言うように、自分達は随分不器用にお互いのことを想ってきたように思う。
 例え想う形は違えども相手のことを一番に想っているのは確かなのに、こんなにもすれ違っているだなんて・・・。
 昼間は悲しみで一杯だったが、今は不思議と落ち着いている。
 静かに 、穏やかに、じんわりと悲しみが身体中に染み渡って行くようだ。
「・・・もう家に帰ったらどうだ?」
 ショーンの物悲しい表情をどう捕らえたのだろう。クリスがふいにそう切り出す。
 ショーンは再びクリスに視線をやった。
 間近に、こっくりとしたブラウン色の瞳があった。
「ホント言うとな。今公演に来ている演出家が、お前さんに明日の稽古、参加して貰いたいってリクエストが来ていて、俺としては明日もお前さんが自主休校してここにいてくれると非常に助かるんだが。ま、そんなのは所詮、汚い大人の都合だからな」
 そういうことを正直に言ってくれるクリスにショーンは好感を持った。
 大抵の大人は、きれい事しか口にしない。学校の先生や近所のおじさん、おばさん達・・・。
 洞察力の鋭いショーンのような少年にとっては、その浅はかさが逆に子どもを傷つけることを、彼らは知らない。
 彼らは意識せずに大人になり、自分の子ども時代、大人に負けない・・・いや大人以上に研ぎ澄まされた感性を持って日々を過ごしていたことを忘れていく。
 子どもは、大人が思っているほど何も分かっていない訳ではないのだ。
「よければ、俺が家に電話してやるぞ。あっちもきっと心配してる」
 クリスの申し出を、ショーンは断った。
「ごめん・・・。ありがたいけど・・・。まだ正直スコットと顔を合わせるのが怖いよ。きっとスコットだって、そうだと思う。もしスコットが本気で俺を連れ戻そうとしてるんなら、今頃とっくにここに来てる筈だもん。スコットは、俺が隠れている場所、すぐに分かるんだ・・・」
 クリスは、ふ~んと呟いて、「ま、俺はいいけど。お前さんの好きにしたらいいさ」と言って、再びショーンに背を向けた。
 その左側の二の腕に小さな刺青がある。
「何・・・? これ」
 ショーンは思わずその刺青に触れた。
「ん?」
 クリスがこちらを覗き込む。
「これ・・・、何かの文字かい?」
 クリスの腕に残る『蓮花』と書かれた異国の文字。ショーンには、まるで記号のように見える。
 クリスは、「中国の文字だ」と答えてくれた。
「何て読むの?」
「リンファ」
「・・・リンファ・・・。意味は?」
「蓮の花のことさ」
「ブッダが座ってる花のこと?」
 クリスが頷く。
 ショーンはもう一度、リンファと呟いた。
「・・・ひょっとしてこれ、昔の恋人の名前?」
 ショーンがそう訊くと、クリスはニヤリと笑った。
 クリスはそれ以上答えようとはしなかったが、それでもそれが大事な意味を持つ文字であることは明らかだった。
 クリスは相変わらず得体の知れない男だったが、それでも彼にだって心を焦がす経験があったに違いない。
 恋に苦しんでいるのは自分だけじゃないと分かったような気がして、ショーンの心は少し軽くなった。クリスの言うように肩の力が抜けて、今度こそ安らかに眠れるような気がする。
「・・・おやすみ、クリス」
 ショーンがそう囁くと、クリスは優しげな微笑みを浮かべた。
「おやすみ、ショーン」
 その言い方は、スコットの声によく似ていた。


 翌朝は、早い時間からステージ上でリハーサルが始まった。
 ギタリスト役の俳優が昨日から左手の指先を怪我してしまい、ギターが握れない状態になっていたため、急遽台本を調整しなくてはならなかったためだ。
 物語はこうだ。
 ロックンロールが社会の敵と見なされていた時代の話で、社会から受ける差別や偏見、そして仲間内からも噴出してくるドラッグや様々な利害問題に立ち向かいながら、それでも純粋に音楽を愛する姿勢を貫く青年の話で、現代に蔓延る様々な差別問題を諷しした内容が高く評価された作品だった。
 更に、この作品のためにカリスマ的な人気を誇るロックアーティストがオリジナルスコアを提供していることもあり、楽曲的にも優れているとミュージカルサントラとしては異例の売上げを記録した作品でもある。
 幸い、ギタリスト・ジェット役の台詞は少なく、他の役者に振り分ければ何とかなる展開だったので、リハーサルをこなせば切り抜けられそうであった。
 だが、この作品は演劇の間に挿入されるライブ演奏がウリなだけに、ギターだけ録音した音を流すというのは多少なりとも作品の仕上がりに迫力を欠く結果となった。やはり、ギターはロックの中核をなす大事なパートだけに、仕方のないことだった。
 ジョン・シーモアはその穴を何とかあの赤毛の少年に助けて貰おうと思っていたが、ホール内にいまだその少年の姿は見えなかった。
「口説き損ねたのか」
 一つ席を挟んで座る劇場主に、ジョンはステージを見ながら声を掛けた。
 クリスもまた、ステージ上のリハーサルの様子を見ながら、答える。
「あんたの意向は伝えたよ。だが、選ぶのはヤツ自身だからな。こういうことは、強制するものじゃないさ」
 ジョンは溜息をつく。
「ま、そうだが・・・。しかし残念だよ。こんな片田舎でそのままにしておくには勿体ない逸材だ。── おい、この俺が言ってるんだぞ」
 新人発掘の才能でも高く評価されているジョン・シーモアだ。
 彼に見い出されたとなると、それは本物の“ダイアの原石”と言っていい。
 クリスはふっと笑みを浮かべる。
「才能なんてものは、本人が必要として、初めて才能って言うんだよ」
 流石のジョン・シーモアでも、この劇場主にかかっては何も言えなくなる。
 昔は、遥か遠くアジアの国で華々しいステージを繰り広げていたスターダンサーだった男だ。
 その美しさと言ったら、ジョンも震え上がるほどだった。
 各国の著名な演劇関係者や音楽関係者が挙って大枚を叩いて、異国の島に通った。
 四分の一アジアの血が混じっているそのエキゾチックな容姿ときめ細やかな肌、伸びやかな肢体。その一癖も二癖もある媚びない性格とも相まって、男女関係なく誰もが彼に夢中だった。
 その彼が訳あってアジアに見切りを付け、遠くアメリカの地に渡り、片田舎の小さな劇場を買い取ったと聞いて、ショービジネス界の人間達は挙って彼と連絡を取りたがった。
 しかしクリスはもう、皆の予想に反してステージに立つことはなかった。
 その代わり、完全に寂れた劇場をどこまで自分で立て直すことができるのかを楽しんでいるようであった。
 ステージを降りた天才ダンサーは、華やかな衣装に身を包むことはなくなったが、それでもなお随分と魅力的な男だった。
 誰もがクリスの元を訪れ、公演をし、再びクリスの魅力に夢中になって、ニューヨークに帰って来る。それは、ジョン・シーモアでもそうだった。
 あのクリス・カーターがそう言うんじゃ、諦めるしかないか・・・。
 ションがそう思った時である。
 右手にあるホールのドアが薄く開いた。
 あの赤毛の少年が顔を覗かせる。
「・・・アイツ、何やってんだか」
 クリスがクスクスと笑いながら、席を立つ。
 あのクリス・カーターにそんな表情を浮かべさせてしまうところを見ると、やはりあの少年は貴重な存在に違いない。
 戸口でクリスと数分話をした後、少年はおずおずとジョンの元まで連れてこられた。
「こちら、演出家のミスター・ジョン・シーモア。こちらは、ただいま家出中の住所不定無職、ショーン・クーパー」
「は、初めまして」
 緊張した面もちで少年が右手を差し出す。
 これが天才の手か。
 ジョンはにっこりと人なつっこい笑顔を浮かべながら、その手を握り返した。
「リハーサルに参加してもらえるのかな?」
「あの・・・ええと・・・」
 言い淀んでいるショーンを見て、クリスが補足する。
「こいつ、音楽リハビリがしたいんで、見学させてくれとさ。まだ出演するかどうかは悩んでる最中だと。ま、人前でまともに弾いたこともなければ、歌ったこともないんだ。大目に見てやってくれ」
「そういうことなら仕方がないな・・・。こっちとしては、ぜひ君のプレイを見せてもらいたいのだけれど。余計なプレッシャーはかけたくない。好きなように見学していってくれ。興味が湧いてきたら、いつでも声をかけてくれたらいいからね」
 人の誘導が上手いなぁ・・・とクリスが横目で見ているのを感じながらも、ジョンは再度力強くショーンの手を握った。


 ショーンの目を意識してか、役者は皆化粧や衣装を身にまとってはいないものの、ほぼ完全に公演をやりきるような形で幾度かリハーサルを行った。
 時折、ジョンの厳しい声が飛びながらも、役者達は皆プライドを持って素晴らしい演技と演奏を見せた。まるでリハーサルとは思えないほどの力の入れようだった。
 作品の要であるバンド演奏は、元々ミュージシャン出の役者を揃えているだけあって、プロのロックバンドのような迫力があった。質のいいライブに来ているような錯覚を覚えるようだったが、ギターだけは録音した音を流しているようで、些か残念に思えた。
 幾度か曲を聴いているだけで、ショーンの中に譜面が浮かんでくる。
 気づけば、ショーンの左手が勝手に動いて、ギターの旋律と同じような動きを見せていた。ショーンの斜め後ろに腰掛けていたクリスは、そのショーンの様子に気づいていたが、敢えて何も言わず、ただじっとショーンを見守り続けた。


 結局、ショーンはジョンに一声もかけることなくリハーサルは終わった。
 その日の公演に招待されたショーンは、リハーサルよりも数段完成されたステージを見せつけられ、圧倒されてしまった。
 今まで意識的にそういう世界とは距離を置いていたために、受けた衝撃は大きかった。
 ── 自分が、このステージに上がるなんて・・・。
 スタンディング・オベーションの止まらない空気の中、ショーンは返って萎縮してしまった。
 その日のディナーは、ジョンやクリス、劇団の役者やスタッフに連れられて隣街のレストランに連れていってもらった。
 流石に都会の洗練されたレストランともあって料理も美味いし、何よりその雰囲気が違う。
 その華やかさに最初は後込みしていたショーンも、元々はそれ以上に華やかな世界で生活していた頃に培われてきた勘もあるのか、次第に馴染んで笑顔もちらほら浮かべるようになった。
 特別に貸し切られた個室で大きなテーブルを囲み、劇団員とワイワイガヤガヤと食事やおしゃべりを楽しむ。
 若いスタッフや役者達の燃えるような情熱に触れ、熟年の役者の苦労話に耳を傾け、ショーンは自分が求めていた世界を今までなぜこんなにも避けてきたのかと後悔の念を感じた。
 スコットの言った通り、自分の身体には音楽が染みついている。
 今までに感じたことのない開放感に、ショーンは目の覚める思いだった。


 慣れないことをして気を張っていたのだろうか。
 ショーンはクリスの部屋に帰ってくるなり、ベッドに突っ伏すとそのまま眠り込んでしまった。
 身体は一人前だが、やはりまだ子どもだ。
 クリスは、寝室を覗き込んで少し微笑んだ。
 今日連れて行かれたレストランで、ショーンは人知れず何度か電話をしようと席を立っていたことをクリスは知っていた。
 おそらく、家に電話をしようとしたのだろう。
 けれど一度もまともにナンバーを押せずに自分の席に帰って来ていたことなど、クリスにはお見通しだった。
 ショーンには内緒にしておいたが、クリスは既に、スコットに電話をかけていた。
 電話は留守電だったが、ショーンがここにいて無事だということと、迎えに来る勇気ができたら迎えに来たらいいということを吹き込んでいた。
 ショーンが言った通り、スコットにもまた自分の心を整理する時間が必要だったのだ。
 クリスは、リビングに取って返し、キッチンからグラスを二つ取ってくると、その一つにウイスキーを注いだ。
 丁度同じタイミングでドンドンと裏の鉄のドアがノックされる音が聞こえてくる。
「全く、揃いも揃って呼び鈴を鳴らすということをしない親子だね・・・」
 クリスはそう愚痴った後、自分の言ったことに笑いながら、裏口のドアを開いた。
 予想通り。
 そこには寡黙な面もちのスコットが、ひっそりと立っていた。
 クリスは何も言わず、スコットを招き入れた。


 スコットが以前も訪れたことのあるクリスの私室に入ると、テーブルの上にスコット用のグラスが用意されていた。
「まぁ、座れば」
 クリスはそう言いながら、グラスにウイスキーを注ぐ。
 ── ようは、見透かされていた訳か。
 スコットは、何だか気恥ずかしくなって俯くと、自分が赤面しているのを誤魔化すようにさり気なくソファーに腰を下ろした。と言っても膝にきつくサポーターを巻いていたために動きはぎこちなかった。
 それを見てクリスがあからさまに顔を顰める。
「大丈夫なのかい? お前さんの脚は。病院に行ったかどうか、オタクの息子が心配してたぜ」
 スコットの座る二人掛けのソファーの向かいに一人用のソファーを移動させてきてクリスが腰をかける。
 スコットは、「ああ、知り合いの先生に一応見てもらったよ」と答えた。
「腫れが引くまでは多少不便だが、すぐに良くなると言ってもらった」
 そう言ってスコットは、少し微笑む。
 酷く疲れ切った顔。
 おそらく、ろくに睡眠も取れなかったのだろう。
 クリスは敢えてそのことに触れなかったが、如何にこの二日間スコットが思い悩んだか手に取るように分かった。
 ショーンの中で沸き上がった感情は、一気に高温度で噴火したようなものだが、スコットの場合はどちらかというと、じんわりと長時間に渡って苦しみが持続していくタイプのものだ。
 二人を単純に比べると、より素直で情熱的な分、ショーンの方が立ち直りが早いのかもしれない。
 明らかに見たところ、今回の件では、スコットの方が重傷のように見えた。
 元々真面目で義理堅い性格の男だ。こういう時は、その生真面目さが仇となる。
「ショーンは?」
 スコットにそう訊かれ、クリスは親指で自分の背後のドアを指さした。
「人のベッドを占領して、爆睡してるぜ。元気なものさ」
 スコットは立ち上がって片足を引きずりながら寝室のドアまで行くと、少しドアを透かして中を覗き見た。優しげな微笑みを浮かべる。
「・・・よく寝てる」
「劇団の連中に酒を飲まされてたからな」
 クリスもスコットの隣に立って中を覗き込むと、面白そうにクスクスと笑った。
 スコットが険しい表情でじっとクリスを見つめてくる。
 クリスは肩を竦めると、「少しだけだって、心配するなよ」とすぐに言い訳をした。
「全く、本当に過保護だな。甘やかしすぎなんだよ」
 クリスはそう言ってソファーに戻ると、ウイスキーを煽った。
「すまん・・・」
 スコットもそう呟きながら、ソファーに腰掛ける。
「本当にそうなのかもな・・・。俺は、愛し方を間違ったのかも。だから、ショーンを混乱させてしまった。確かに、ショーンを最初に引き取りたいと思った理由は、自分の目の前からビルの生きていた痕跡が消えてしまうのが怖かったからだ。今になってショーンに対する愛情は父親としての純粋な愛情なんだといくら言っても、最初が不純な動機だったんだから、仕方がない・・・」
 スコットはそう言って、頭を抱える。
 クリスは新たに注いだウイスキーをチビリチビリと舐めながら、グラス越しにじっとスコットを見つめた。
「それって・・・不純な動機か?」
 クリスの言った言葉に、スコットがハッとして顔を上げる。
「俺にはそうは思えないがな。愛する人が残したもののために新たな人生の選択をすることは間違っているか? 少なくとも、あの時点では借金の肩代わりまでしてショーンの人生を救おうとした人間は誰もいなかった。お前さん以外はな。それは、素晴らしいことなんじゃないのかね?」
 クリスの言うことを聞いて、スコットの大きな瞳が赤く充血する。
 スコットは今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「優しくするのはやめてくれ・・・。また甘えてしまいそうになる・・・」
 クリスは溜息をつく。
「俺だって、それにつけ込む気は更々ないよ。今それをやったら、流石に罪悪感を感じる」
 クリスの憮然とした表情に、スコットは少しだが笑った。
 クリスは、そんなスコットの笑顔を横目で見ながら、「いずれにしても、間違ったと思うなら、やり直せばいいじゃないか」と言って空になったグラスにウイスキーを注いだ。スコットも思い立ったように、注がれたままになっていたグラスに口をつける。
「・・・じゃ、お前さんはやはり、ショーンに対して恋愛感情は持てないというんだな?」
 しばらく自分の手元に目を落としていたスコットだが、やがて小さく頷いた。
「余りにも、大切な思い出が多過ぎて・・・。その中で俺達は、やはり親子なんだよ。彼に対して魅力を感じないと言ったら嘘になる。もし全然関係ない赤の他人として出会っていたなら、あの子の魅力に魅入られていたのかもしれない。あの鮮やかな赤い髪、茜色の瞳。美しい横顔。── そして何より、痛いほど優しいハートを持っているんだ・・・。ショーンを見て、魅力的でないと思う人間がいるはずがない。お前もそう思うだろ?」
 クリスが微笑みながら「ああ、そうだな」と呟く。
「けれど俺の中では、魅力的に育ってくれたショーンを誇る気持ちの方が大きいんだ。世界中に大声で『彼は俺の息子だ!』って叫び出したくなるくらいに。俺にとっては、本当に掛け替えのない存在なんだよ。・・・けれど、こんなことになるなんて・・・。俺は随分と苦しい思いを、あの子にさせてきたんだなぁ・・・」
 グスリとスコットが鼻を鳴らす。そしてグイッとウイスキーを飲み干した。
 クリスが空きグラスに再び注ぐと、それをまた一気に煽る。
 そしてゴホゴホと咳き込んだ。
 クリスが席を立ち、水の入ったグラスを持ってくると、「ありがとう」とスコットは言って、水を少し飲んだ。
「きっともう、前みたいな親子関係には戻れないんだろうな・・・。もし俺がショーンの重荷になるんだとしたら、俺は身を引くよ。あの子には、輝ける未来が待っている。俺が原因でその未来を潰したくはないんだ」
「それでお前はいいのかい? 身を引くって、要するにショーンの前から姿を消すってことだろう? そんなことに耐えられるのか?」
 また少し沈黙が流れる。
 スコットは、ゴシゴシと顔を擦ると、クリスを真っ直ぐ見つめて笑顔を浮かべた。
「いいんだ。できるんだ。お前には分からないだろうが、身を引くことも親の努めだと思う。親は、子どもに過度の期待をするものじゃない。子どもの存在を人生の保険にしてはいけないんだ。ましてや俺は、社会のマイノリティーとしてレッテルを貼られてしまった。彼と距離を置いた方がいいだろう。この世で彼が輝いていてくれる限り、孤独なんて怖くないんだ・・・」
 それは悲劇のヒロインを気取る訳でもなく、自分にそう言い聞かせる訳でもなく、正真正銘スコットの心の底から出た言葉だった。
 その穏やかな微笑みが、何よりそれを証明していた。
 クリスは、眩しそうに目を細める。
 無償の愛。
 その思いの何と強いことか。
 時として、親の愛情は、他のどんな愛情よりも勝ることがある。
「・・・愛してるんだな・・・本当に。けれどスコット。ショーンが本当にそうして欲しいと思っていると思うか?」
「え・・・?」
「それは本人に訊いた方が良さそうだ。・・・なぁ、おい。お前はどう思うんだ? ショーン」
 クリスが後ろのドアを振り返る。
 スコットが驚いている目の前で、まるでクリスの質問に答えるようにドアが薄く開いた。
 そこには、バツが悪そうな顔つきのショーンが立っていた。
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