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六十九、杉野清飛
しおりを挟む翌日、恐る恐る台所に顔を出すと美恵子さんはケロリとしていた。気を遣ってくれているのか、本当に何も思っていないのかの判別がつかなくて、自分から昨夜のことを口に出すことはできず、「おはよ」とだけ口にした。
そして、美恵子さんと、そして聞きつけた祖父母からも「高校は行った方が良い」と言われるようになった。それは怒鳴るような口調では無く、優しく諭すようなものでみんなが心配してくれていることは痛いほどわかった。俺はこれまで、不安な気持ちは努めて表情に出さないようにしていたのだが最近はそれも難しくなってしまって、大翔にも心配をかけてしまっていた。このままでは駄目だと、そう思っても今までどのように表情を出さないようにしていのかが分からなくなってしまって、逃げるようにあの何も無い場所に向かうようになっていった。
(五月……か。)
いつものようにベンチに座って、新しい稲の為に掘り起こされる土を眺めていると季節の移ろいを感じ、そしてあの日が近づいてくることに寂しい気持ちを抱いた。
(お母さんの命日だな。)
お母さんがもし生きていたら、今の俺はどのような選択をしていたのだろう。恐らく、高校に行くのにこんなに悩むことは無かっただろうし、美恵子さんは別にしても、仁さんと祖父母は今後の選択にはあまり関わってこなかっただろう。それに、こんなに自己嫌悪に苛まれることも無かっただろうし、お金のことで苦労はしても全て手放したいと思う程、自暴自棄になることも無かったはずだ。
(なんで、お母さんが死んじゃったんだろう。)
何度も繰り返し唱えた問いの答えは簡単だった。ただ運が悪かっただけ。バイクに撥ねられた、事件性のない事故。殺される理由なんて無く、ただ運が悪かっただけで母は短い生涯を終えた。
わかっているのに、なぜ?という思いは止まらない。そんな理由なんかでは納得できず、しかしそれ以上の答えは無いことも知っていた。
(疲れた。)
特に何をしている訳でも無いのに、ここ最近はずっと体が重い。何かを考えるのも嫌になって、土と時々飛んでくる虫を視界に映しながら時間が経つのを待った。
(あれ、暗くない?)
ふと我に返ると辺りが暗くなっていることに気づいた。雑貨屋で仁さんが買ってくれた腕時計を見ると、既に家に帰る時間は遥かに過ぎていた。
(やばい。早く帰らないと。)
自転車を置いて電車で帰る事も考えたが、お金を持ってきていなかった。急いで自転車に跨り、はやる気持ちをおさえながら、思いっきり漕ぎはじめた。
家に着くと、自転車を雑に停めてとりあえず玄関に向かった。ドアを開けようとした瞬間、背後から「清飛!」と声をかけられ後ろを振り返る。
「あ……」
そこには肩で息をする美恵子さんがいた。俺を探してくれていたのだ。すぐにそう気づいて、謝ろうと口を開いた。しかし、それよりも早く美恵子さんが駆け寄ってきて力強く抱きしめられた。
「ごめん!ごめんね、清飛……!本当にごめん!」
「え?」
何故謝られているのかわからず、そして泣いてる美恵子さんに頭の中が真っ白になった。
「ずっと清飛の表情が暗くて心配だったの。それなのに高校の話したらもっと辛そうになって……今日なかなか帰ってこなかったから出て行ってしまったんじゃないかって思って怖くなった。姉さんみたいにいなくなってしまうじゃないかって」
頭をガンと殴られたような気分だった。
美恵子さんの言葉で酷い罪悪感に襲われた。きっといなくなってしまったというのは、死別のことではなく学生時代に出て行った母のことを言っているのだろう。急に出ていって連絡もとれず、元気にしているのかも分からないーー美恵子さんも急なお別れを寂しさを経験していた。しかも、二度も。
「ごめん、なさい。そんなつもり全然無くて……ただ時間に気付かなかっただけで……」
「ううん、大丈夫。帰ってきてくれて良かった。高校のこと、一緒に考えよう?清飛ができるだけ辛くないようにしよう、ね?」
高校なんて行かなくて良いと、もう言えなかった。きっと美恵子さんはそれを義務だと思っている。俺や大翔が、余計な苦労をしなくてすむように導くことを。
「……うん。意固地になってごめんなさい」
俺の言葉に、抱きしめていた腕を解いた美恵子さんは普段と同じように明るい笑顔を浮かべていた。
「清飛、ちょっといい?」
大翔が眠りについて、夜も遅い時間に部屋に美恵子さんが訪ねてきた。仁さんも一緒だったので何事かと驚き、勉強していた手を止める。
「なに?どうしたの?」
俺の問いかけに美恵子さんは優しく微笑みながら、少し緊張した声で話し始めた。
「今から言うことは強制でも何でもないし、そういう選択肢もあるって言うふうに捉えて欲しいんだけど、少し聞いてくれる?」
「え、うん……」
「……清飛、一人暮らししてみない?」
「……え?」
「少し離れた高校の近くにアパートを借りて、そこで暮らすの。ものすごく離れた場所は無理だけど」
言ってる意味が分からなくて、反応が遅れた。しかし、美恵子さんと仁さんの表情を見ていると悪い提案では無いのだと、そう思った。
「家にいるの、辛いと思ってない?」
「……!」
「去年からかな?突然おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くようになったり、今度は度々自転車で出かけるようになったり。理由を聞いても「大丈夫」としかいわなくて、私たち何もしてあげることができなかった」
「違う!美恵子さん達が悪いんじゃ……」
「でも、しんどい気持ちを抱えてるのも事実でしょう」
何も言えない。どうしよう。否定しなきゃ。
ぐるぐると頭の中に言わなければいけないと思う単語が並ぶが、それが言葉となって口からは出てこなかった。不安になっていると、それに勘づいてか手をぎゅっと握られる。
「清飛は優しい子ね」
「ちが……」
「清飛だけが我慢しなくて良いの。少しでも生きやすい場所を見つけて良いのよ。悲しい思いをしたのに、私たちの家族になって擦れずに大きくなってくれて本当に嬉しいわ。だけどそれが清飛の我慢でしか成り立っていないのだとしたら、私達は清飛がもっと幸せになれるように良い方法を一緒に考えていきたいの」
美恵子さんの優しい言葉は嬉しかった。しかし、高校に通いながら一人暮らしなんて、金銭面でもどれ程家族に負担をかけてしまうだろう。家族のことを思うなら断らなければいけない。
でも、その提案をしてくれたことで心が軽くなったのも実感した。今落ち着いていたとしても、また何かのきっかけで怖くなって家族を悲しませるかもしれない。それなら離れて暮らしてみても良いのではないだろうか。
気持ちが一人暮らしに大きく傾くが、踏ん切りがつかなくて口籠る。
「今決めなくても良いのよ」
「……うん」
「家にいても一人暮らしをしても、私達はずっと清飛の家族よ。もし家を出て寂しくなったらいつでも帰ってきていいし、こっちの学校に通いなおしても良い」
「そんな、はちゃめちゃじゃない?」
「私は清飛のお母さんの妹よ!はちゃめちゃな所はよく似ているわ!」
(そうだ、思い切りが良い良いのはお母さんと似ている。)
二人とも、こうと決まればあまり悩まない。それは母と美恵子さんが一番似ている所だと思う。
結局、「もう少し考える」と言って、この日に一人暮らしのことは決める事はなかった。しかし、自分の中で答えは出ていて、翌朝には美恵子さんと仁さんに伝えて、通う高校を探し始めた。
(結局、家族といても一人でいても寂しさはずっとある。)
自分の考えがいかに甘かったかと、一人暮らしを始めて思った。一人になりたかったはずなのに、抱きしめてくれる安心感や撫でてくれる手が恋しくて、これまでとは違う辛さをずっと感じていた。時々家に帰ったらホッとしたけど、すぐにまた一人になると思うと悲しくなって顔を出すのを控えるようになった。
(本当に、面倒くさい奴だ。俺は。)
ただ、寂しくなっても恐怖を感じることがないのは良かった。余計な刺激を入れないようにすることで、怖さを排除し、日々の行動はルーティン化していった。しかし、ケリーの登場は刺激以外の何物でも無く、居なくなってしまったへの喪失感はそろそろ一週間が経つというのに、全然消えてくれなかった。
日曜日になると、熱はすっかり下がっていた。まだ若干の気怠さは残っているが、明日からは学校に行けるだろう。
洗濯機をまわして、ベランダに干す。昼ごはんを食べてゆっくりと静かな時間を過ごし、午後からは読書でもしようかと、そうぼんやりと思い始めていた。しかし、時計が十三時を指す頃にその予定は無くなってしまった。
清水が訪ねてきた。
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