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新人OLの未央ちゃんは分裂する
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緊張で震える手で、未央は化粧室の鏡の前に立ち、自分の姿を何度も確認していた。
「落ち着いて、落ち着いて……」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、深呼吸を繰り返す。
けれど呼吸が整うたびに、心臓の鼓動はまた強く跳ね返ってきた。
白いブラウスにネイビーのスーツ。髪はきちんとまとめ上げ、メイクも控えめに。
それだけなら誰が見ても「新社会人らしい清楚なスタイル」で通るだろう。
でも問題は見た目ではない。彼女の“特異体質”にあった。
「お願いだから、今日は分裂しないで……」
未央は、震える指先をぎゅっと握りしめる。
今日から彼女は大手広告代理店「クリエイトワークス」の新入社員となる。
ずっと憧れていた企業で、狭き門をくぐり抜け、やっと手に入れたチャンスだ。
しかし、未央には並外れた――というか、常識から外れた身体的な秘密があった。
極度の緊張を覚えると、彼女の身体は真っ二つに裂けて、まるで生き物のように自己再生し、“二人”の未央になってしまうのだ。
最初にその現象が起きたのは中学生の頃。
クラス発表会のステージ上で、緊張に押し潰されそうになった瞬間だった。腰のあたりから、
「ミチミチィ……」
と肉が裂ける嫌な音がして、まるで布が裂けるように身体が縦に割れ始めた。
飛び散る血と体液、急激に襲ってくる割裂感に震える暇もなく、上半身と下半身はそれぞれ地面に転げ落ちた。
だが恐ろしいのはその先だった。
地面に転がった上下の肉塊は生々しい音を立てながら血や内臓液を垂れ流し、欠けた部分を埋めるように肉が盛り上がっていく。
まるでスライムが自己再生するかのように、ドロドロとした赤黒い塊がうごめきながら形を整えていった。
やがて数秒後、そこには全く同じ容姿をした二人の未央が立ち尽くしていたのだ。
それも、肌や服にはまだ乾ききらない血液や黄色い液体が絡みついたまま……。
当然、その場にいた観客たちは悲鳴を上げた。
だが教師の一人は「特別演出かと思った」と後に語ったという。
本人にとっては全く笑えない出来事だったが。
分裂した後、意識はそれぞれが独立しているものの、考え方や記憶は共有されている。
だから二人の未央はお互いに意思疎通がとれる。
数時間経つとどちらかの身体が消えてなくなり、どろどろに溶けるように腐敗していく。
それはそれで壮絶な悪臭と惨状を伴うため、未央がこの体質を他人に隠すのは至難の業だった。
「今日は大丈夫、きっと大丈夫……」
そうやって必死に唱えながら、未央は最終的に準備を整え、化粧室を出た。
そして、始業の朝礼――。
「皆さん、こちらが今日から我々の部署に配属となる新入社員の佐藤未央さんだ」
マーケティング部長である中村が、オフィスに集まったおよそ二十名ほどの前で未央を紹介する。
一斉に集まる視線に、未央は呼吸が止まる思いだった。
「さ、佐藤未央と申します。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします……!」
頭をぺこりと下げる。背筋がぞわりと震え、手の平にはうっすらと汗が滲む。
どうしても鼓動が早まってしまい、胸が苦しい。
すると、腰回りが微かに熱を帯びてくるのがわかる。冷や汗が背筋を這い、
(いや、まだ大丈夫……耐えて……!)
必死に自分を宥める。
ここで分裂なんかしたら初日から大騒ぎ……あるいは自分の評価が大きく下がってしまうに違いない。
「佐藤さんは大学でマーケティング心理学を専攻して、非常に優秀な成績を収めたそうです。斎藤チームに配属しますから、皆さんよろしく」
「はいはい、私のところに来るのね」
そう応じたのは、三十代前半の女性――斎藤香織。
業界でも有名な実力派で、クールな眼差しが印象的なリーダーだ。
「ええと、よ……よろしくお願いします」
未央は再度頭を下げながら、恐る恐る斎藤のほうを見る。
鋭い視線に射竦められるような感覚だ。斎藤はどこか冷ややかに微笑んでいるようにも見えた。
朝礼が終わると、斎藤が未央を自分のチームのエリアへと案内してくれた。
「ここがあなたのデスク。パソコンのセットアップは終わってるから、まず社内システムの使い方を覚えてもらうわね」
「はい。よろしくお願いします」
斎藤が素早い口調で説明を始める。
次々と操作を示しながら、時折専門用語も交えて言い放つため、未央はあわあわとメモを取ろうとする。
しかし、緊張からか手先が震えてペンを落としてしまった。
カラン、と乾いた音が床に響く。
「大丈夫?焦らなくていいけど、うちは仕事のスピードが早いからね。努力してついてきてちょうだい」
「は、はい……」
その言葉に、未央はますます肩が強張った。頭の中で警鐘が鳴る。
心臓の鼓動が加速し、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
(やばい……そんなに緊張してないつもりなのに、体が勝手に反応しそう……!)
その瞬間、腰のあたりから嫌な音が聞こえた。
「ミチミチィッ……」
血の気が一気に引き、未央は思わず小さく悲鳴を上げる。
斎藤は説明に夢中でまだ気づいていないが、自分の身体が裂けはじめているのを未央ははっきりと感じ取った。
背筋を走る激痛、内臓を掻き回されるような違和感。
皮膚が縦方向に引き裂かれる感触がはっきりと伝わり、耳には湿った肉が引きちぎれる生々しい音がこびりつく。
(こんな、初日から……!いや……!)
悲鳴をこらえようにも、うめき声が漏れそうになる。
腰から溢れた血液が地面に滴り落ち、ヌルヌルとした黄色の体液がスーツの背面を伝っていく。
分厚い生肉がちぎれるような臭いが鼻を突いた。
斎藤はなおもパソコンを操作している。あまりにも集中しているのか、このグロテスクな光景に気づかない。
未央の身体は真っ二つに裂け、上半身は椅子に寄りかかるように倒れ落ち、下半身はデスクの横にずるりと崩れる。
肉がちぎれるビチャッという音、粘液が垂れるポタポタという音だけがやけに大きく響き、辺りには生臭い鉄の匂いが濃密に広がっていった。
裂けた上半身と下半身は、蠢く血肉を盛り上がらせながらそれぞれが急速に再生を始める。
裂け目からは骨や筋繊維が露わになっており、そこに新たな肉が絡みついていく。
ぶよぶよとした組織が息づくように蠢き、やがて皮膚へと形を変え、まるで溶接されたかのように縫い合わさっていく。
「ん、んあ……」
声にならない声が喉の奥で震え、未央は両方の身体で苦痛に耐えながら、手足を突っ張って必死に呼吸をする。
そして十数秒後――。
二人の「未央」が、そこに存在していた。外見も服装も全く同じ、血まみれの自分。
そして互いの目を合わせると、一方が小さく頷き、もう一方は瞳を潤ませて恥じ入るようにうつむいた。
――長年の経験から、分裂したあとにどう行動すればいいかはほぼ無言のやりとりでわかる。
問題は、それを他人に見られたかどうか……。
「ちょっと未央ちゃん、分裂なんかしてないで早く仕事して」
突然、斎藤の声が降ってきた。
彼女はこちらを見ずに言う。
まるで「こぼしたコーヒーをサッと拭いておいて」程度の調子だった。
未央たちはギョッとして斎藤のほうを振り向く。
(今のこの血みどろの状況……見ていたの……?)
心臓が止まりそうなほど恥ずかしく、鼓動が一気に高鳴った。
「す、すみません……!」
裂ける前の“元の身体”だった方の未央が椅子に座り直し、真っ赤な顔をして謝罪する。
頬や首筋にはまだ生々しい血がこびりつき、スーツにも無数の飛沫がかかっているが、斎藤はまるで意にも介さない。
「コピー機の操作も覚えてもらわないと困るから、今分裂してるそっち……右側の未央ちゃん、コピー室行って」
「え、あ……はい、わかりました……」
“分裂体”として生まれた未央も恥ずかしそうに俯きながら、その場を離れた。
デスクや床には血と体液の染みが残されているのに、斎藤は目もくれない。
むしろ、「後で掃除はしておいて」程度の事務連絡しかなかったのだ。
未央はただ頷くしかなかった。
(なんでこの会社……こんなに普通の反応なの……?)
恥ずかしさを噛み殺しながら、分裂した未央はコピー室に逃げ込むように向かった。
自分の体質に対してここまで無頓着というか、寛容というのは初めてだった。
普通なら悲鳴を上げられてもおかしくないのに……。
「助かったといえば助かったけど……でも……」
自分がやっていることは、社会通念から考えれば相当グロテスクで、しかも致命的な人間離れだとわかっている。
こんな当たり前に扱われる方が、むしろショックだった。
コピー室のドアを閉めると、あらためて体中を見回す。
腿からふくらはぎへ、血と体液がダラダラ垂れていて生臭い。
先ほどの分裂で裂けた部分は再生して完璧な形状に戻ったものの、服や肌は血塗れの痕跡が生々しい。
足元には赤黒い飛沫がポタポタ垂れて床を汚していく。
「うわ……最悪……」
そして、その“最悪さ”は本来、周囲の人間にとっても同じはずなのだが。
なぜ平然としていられるのか、不気味でさえある。
しかし、この状況を逆手に取ることを思いついた。
分裂による「自分の増殖」は、時間制限こそあるものの、同時に仕事をこなす人数が増えるという利点がある。
分裂体は数時間後に腐敗して消えてしまうが、それまでのあいだは全く同じスキルと記憶を持って動き回れるのだ。
「……よし、せっかく二人になったんだし、有効に使うしかないよね」
そう小さく呟くと、分裂した未央は雑巾を探しに行き、コピー室と周辺の床にこびりついた血液を急いで拭き取った。
その後も、仕事を覚えるあいだに何度か分裂を繰り返した。
資料室で膨大なファイルを目にしたとき、会議室で先輩から矢継ぎ早に質問攻めにあったとき――。
そのたびに未央は恥ずかしさで胸を焼かれながら、血と体液をばら撒いて真っ二つに裂ける。
それなのに、周囲はまるで「ちょっと厄介な体質」の延長くらいにしか見ていない。
斎藤に至っては「あとで始末しておいてね。こっちはこっちで作業進めてるから」と、顔色一つ変えない。
「分裂したの?じゃあ二人で倍の速度でやってくれるわよね?」
「わっ……はい……」
むしろ業務効率の改善を期待している様子すらある。
未央は膨れ上がりそうな羞恥心を押し殺しながら、言われたタスクを二人に分かれて必死にこなす。
だが、分裂すると緊張が一時的に和らぐせいか、案外うまく動けてしまうのだった。
一度だけ、同期の田中にその瞬間を目撃されたときはさすがに驚かれた。
田中は最初、双子だと思ったらしいが、その矢先に一体が黒ずんで腐り始め、どろどろに溶けて消えていく様子を目撃して悲鳴を上げ、気絶しかけた。
「え、救急車!救急車呼ばなきゃ!」
「違うんです、そういう体質で……落ち着いて……!」
だが斎藤が「彼女はそういう特殊スキルを持ってるの。気にしないで」と一言言うと、田中もなぜかそれ以上は深く追及しなかった。
「会社って、いろんな人がいるんだな……」と呟きながら茫然としていたのが印象的だ。
気がかりといえば、分裂体が消える際の腐敗臭だ。これが凄まじい。
本人が言うのもなんだが、鼻が曲がるような腐肉の悪臭が立ち込め、血や体液が粘りを残しながら床や壁に付着する。
その光景を、斎藤をはじめとする先輩社員が「慣れた感じで」片付ける様子は、正直なところ寒気すら感じた。
「ゴミ捨て場に捨てるとクレーム来るのよね。特別に処理するから、そのときは声かけて」
「す、すみません……私のせいで……」
未央は泣きそうなほど恥ずかしかった。いくら体質とはいえ、自分の溶けた肉の塊や悪臭の処理を他人に手伝ってもらうのは、申し訳なさと同時に惨めさが込み上げる。
それでも会社の人たちは「いいのいいの、気にしないで」と笑うだけ。
あまりの大らかさに拍子抜けするほどだった。
そんなこんなで一週間ほど経った頃、未央はチームの重要プロジェクトを任されることになった。
大手飲料メーカーの新商品キャンペーンで、来週にはプレゼンをしなくてはならないという。
「この案件、かなり急ぎなの。資料作りに時間かけてる余裕はないわよ」
斎藤は眠そうな目で言いながら、分厚い資料の束をどさりと未央の机に置いた。
「ひ、一週間で……ですか?」
目の前に積まれた膨大なファイル。見るだけでも頭がクラクラする。
緊張のあまり、また腰が熱くなる予兆を覚えた。
「新人だからって甘くはないわ。でも、分裂できるなら一人でやるより効率は上がるでしょ?」
「え……そ、それは……」
確かに、分裂すれば二倍の速度で資料に当たることはできるが、あの生々しい破裂と恥辱を伴う。
それに、また会社の中を血まみれにしてしまうと思うと気が引けた。
しかし斎藤は、「任せたわよ」と言い放つだけだった。曖昧に頷き、未央は資料を抱え込む。
すると、思ったよりずっしりと重たく、どっと不安が押し寄せた。
「ま、まあ……やるしかないよね……」
そう呟いた瞬間に訪れる――あの嫌な音。
「ミチミチィッ……!」
「ひゃ……ああああ!」
断末魔のような声が漏れる。腰から腸が引きずり出されるような感覚に、息が詰まる。
頑張ろう、と気合いを入れただけでここまで緊張が増幅するのか、と自分でも呆れそうになる。
だが身体は正直だ。激痛とともに生血が噴き出し、股のあたりをドロドロの液体が流れ落ちていく。
スーツの生地は一瞬にして真っ赤に染まり、足元に広がる血溜りに、ドクンドクンという鼓動が伝わった。
「ほら、またやってる」
斎藤が少しうんざりした様子で眉をひそめた。
プレゼン資料にべったりと血が飛んで汚れてしまったのを、ハンカチで拭き取ろうとしている。
「……すみません……」
未央は舌を噛みそうなほどの恥ずかしさに顔を真っ赤にしてうつむく。
斎藤の表情は「しょうがないなあ」という程度で、驚きも軽蔑もない。
むしろ気にしているのは資料が汚れたことだけのようだった。
ビチャリ、という粘液の跳ねる音とともに、未央の身体は真っ二つに裂け、床の上と椅子の上に二つの肉塊が落ちる。断面からは筋肉繊維が盛り上がり、ぼこぼことした塊が次第に形を取り戻していく。
その過程はあまりにもグロテスクで、生臭さと鉄のような味が混ざり合った独特の臭いが充満した。
未央は必死に声をこらえる。斎藤の前で悲鳴を上げるなんて恥ずかしすぎるし、こんなにドロドロの肉塊を晒しているだけでも十分に屈辱的だから。
脂汗が顔ににじみ、口の端からは唾液混じりのよだれが垂れてしまう。
「さっさと再生して、分裂終わったら資料に戻って」
「っ……はい……」
中途半端に動かそうとした片腕が、まだ生成途中の皮膚を突き破り、激痛が駆け巡る。
その度に顔を歪め、声にならない声を喉で殺す。
数秒後、ようやく二人の未央が完成した。
床に生まれ落ちた方は血の海に浸かりながらゆっくりと起き上がり、椅子に残った方はスカートの上に飛び散った肉片を手で払い落とす。
どちらもハアハアと呼吸を荒くしていて、まだ十分に感覚が戻っていない。
「じゃあ、一人は調査、もう一人はコンセプト立案ね」
と斎藤が事務的に言い放つ。
「は、はい……」
未央たちは顔を見合わせた。どちらがどちらをやるか、一瞬の無言で合図を交わす。
右の未央が「じゃあわたし調査する」と呟き、左の未央が「わたしはコンセプトを……」と続ける。
「……よろしくお願いします」
二人がまた同時にお辞儀をすると、血まみれの服から新たな血の滴りが落ちる。
斎藤はそんな様子に見向きもせず、テーブルに置いたファイルを指差す。
「とりあえず、仮説立案を進めて。それから具体的なデータを洗い出すのよ。分裂のメリットを活かしてサクサクやって頂戴」
「……わかりました」
未央たちの声は暗い。グロテスクな姿を見られている以上に、斎藤からの「普通すぎる」扱いがむしろ精神的にこたえるのだ。
(どうしてこんなに当たり前みたいに分裂を受け入れてるんだろう……)
こうして、二人がそれぞれの作業に取り掛かり始めた。
社内で顔を合わせる人たちも、「ああ、未央さん双子だったんですか?」などと最初は疑問を口にするが、すぐに「あ、また分裂してんのね」程度の反応になった。
掃除担当のスタッフなどは完全に慣れたような表情で、血や体液の飛び散った跡を拭き取っていく。
(なんだろう、この光景……会社って、こんな場所だっけ……?)
未央は恥ずかしさと戸惑いを抱えながらも、一心不乱に仕事をこなし続ける。
プレゼン前日には、資料作成の追い込みで未央は何度も分裂し、一時的に四人になって同時並行で作業した。
デスクひとつでは足りず、会議室を借りて「自分」で打ち合わせしながら膨大なデータをまとめていく。
その内、一体が消える頃には資料が完成し、次の一体が消える頃にはリハーサルが終わる。
身体が腐り落ちて消えるたびにひどい悪臭と後片付けが必要になるが、斎藤は特に何も言わない。
「空気清浄機、もっと強力なの買おうかな」などと事務的につぶやくだけだった。
そして迎えたプレゼン当日――。クライアント企業の重役が来社し、会議室での発表となった。
直前の緊張で、未央は少しだけ体に熱を感じていたが、なんとか一人の状態を保っている。
(大丈夫……今は落ち着いている……)
深呼吸をして、資料を抱えて会議室に入る。クライアントや上司、斎藤が揃って座っている。
その視線に飲まれそうになりつつ、未央はプレゼン用のスライドを表示し始めた。
「えー、まず今回のターゲット層ですが……」
声が少し震えている。心臓がドキドキとうるさいほど鳴り、鼓膜を揺らす。
手汗で資料が少し湿っているのがわかる。嫌な予感がするが、ぐっとこらえて喋り続ける。
……しかし。
「では具体的なマーケティング施策について……」
そう切り出した瞬間、腰に鋭い痛みが走った。
「あ……」
嫌な音が聞こえる。ミチミチィッ……ビチャッ……。
一度緊張が臨界点を超えると止められない。
未央はスカートのウエスト部分が裂けるのを感じ、下着ごと大量の血液が溢れ出していく感触に全身が震えた。
ざわり、と会議室内の人々が動揺する。未央は必死に口を閉ざすが、分裂は容赦なく進行する。
数秒のうちに彼女の腰が真っ二つに裂け、上半身はテーブル上に覆いかぶさるように倒れ込み、下半身は床へどしゃりと崩れ落ちた。
「ひっ、うあ……が、ふ……」
生々しい呼吸音と、ズルズルという肉の摩擦音が混ざり合う。
黄色い体液がテーブルの上を流れ、クライアントの書類やスーツへとじわりじわりと広がっていく。
独特の鉄錆臭と生臭さが混じった強烈な臭いが鼻を刺した。
「うわ……こ、これは……!」
クライアントの部長らしき男性が目を見開いている。
未央は「終わった……!」という絶望感に襲われた。
初対面のクライアントの前で、この惨劇。
これが理由で商談が破談になってもおかしくない。頭が真っ白になる。
しかし、意外にもその部長は驚きよりも好奇心に満ちた声を上げた。
「すごいな! まさか分散型リーダーシップを人間が身体で体現するとは……これぞイノベーション!」
「はい、弊社ではアウトオブザボックスなアイデアを大切にしていまして」
斎藤がにこやかに応じる。
その横で、未央の上半身と下半身は再生を続けていた。
ドロドロと蠢く肉が欠けた部分を埋め、数秒もしないうちに、同じ姿の未央が二体となって立ち上がる。
「す、すみません、本当に申し訳ありません……!」
二人の未央が口を揃えて謝罪すると、クライアントは楽しげに笑った。
「いいんですよ、むしろ面白い! こういう突拍子もない視点が、ビジネスの革新には必要なんだ!」
予想外の反応に、未央たちはさらに緊張が高まる。すると分裂体も同時に怪しく揺れ始め、
「あ、やば……んん、また……」
ミチミチィッ……といういやな音がして、二人の未央が同時に裂け始める。
ビチャビチャと血と体液が飛び散り、会議室の壁や天井を汚していく。
そのたびに彼女は恥ずかしさで顔から火が出そうになる。
(こんなの、悪夢だよ……なんで、どうして、みんな平然としてるの……!?)
結果、短時間で未央は四人に増え、会議室には血まみれの未央が勢揃いするというカオスが広がった。
腐った肉や黄ばんだ液体がフローリングの溝に染み込み、クライアントの部長や担当者たちが浴びた血をちょっと拭いながら「なかなか壮観だね」と笑う。
「これぞまさに指数関数的成長ですね! いやあ、面白い!」
その状況をただ称賛する彼ら。恥ずかしさでメンタルが追い詰められる未央たち。
それでもプレゼン自体は順調に進められた。
元の未央が発表し、分裂体が資料配りや質疑応答をフォローする形で、むしろ大好評だったほどだ。
会議が終わると、最初に裂けた未央の身体が消えるタイミングが来た。
肌が少しずつ黒ずみ、腐敗が始まる。
人目のあるところで悪臭をまき散らすわけにはいかないからと、斎藤が素早く「トイレに行って」と指示した。
四人のうち二人もそろそろ限界らしく、同時に腐り始める。
「はい……すみません……!」
彼女らは慌ててトイレに駆け込み、個室に駆け込み――と同時に、皮膚が崩れ出し、骨が溶け出し、血や体液がドロドロと流れ落ちていく。
強烈な腐臭が一気に満ち、呼吸をするだけでも吐き気を催すほどだ。
個室の壁や床には、未央だった肉片がべったりこびりつき、腐敗ガスで曇り上がっていく。
ぐしょぐしょと音を立てながら身体が完全に溶け去ると、もうそこには赤黒い塊と黄ばんだ液体だけが残る。
未央は気を失いかけるほどの羞恥と自己嫌悪を味わいながら、残った体で消臭スプレーを振り、トイレットペーパーの束で念入りに拭き取った。
「もう、最悪……恥ずかしい……こんなの……」
誰に聞かれるでもなく、つぶやいた言葉がむなしく響く。
トイレを出ると、何人かが気まずそうに鼻を押さえながら通り過ぎる。
けれど、彼らの視線に嫌悪感や拒絶は感じられない。むしろ「お疲れさま」という雰囲気すら漂っているのが余計に混乱を深めた。
そしてプレゼンが成功して数日後、未央は突然社長室に呼ばれた。
呼び出しを受けたとき、緊張で胃がキリキリと痛んだが、これも仕事の一環だろうと自分に言い聞かせる。
社長室の扉を開けると、そこには社長の神山と数人の役員がいた。
神山はふわりと笑みを浮かべ、
「君が噂の新人・未央くんだね。話はよく聞いているよ」
と声を掛けた。
「は、はい……本日、お時間をいただきましてありがとうございます」
未央は定型文をぎこちなく口にする。
役員たちも興味深そうに未央を眺め、なにやら楽しげに囁き合っている。
「実はね、君の“才能”を存分に見せてもらいたいんだよ。いろいろな部署からも噂が来ていてね。……今ここで分裂してみせてくれないか?」
「えっ……ここで……ですか?」
未央は凍りついた。
社長室は高級なカーペットが敷かれ、重役が揃って見守る中、分裂ショーを要求されるなんて。
(そんな……恥ずかしいに決まってる……まるで下着どころか、内臓まで全部晒してるようなものなのに……)
とはいえ「できません」と断るには、あまりにも社長の圧が大きすぎる。
「君は緊張すると分裂するんだろう? こんな場で充分緊張してるんじゃないかな?」
神山はまるで意地悪く笑うようにそう言った。
確かに、未央の心臓は先ほどから高鳴って止まない。全身が熱くなってきている気がする。
「そ、その……はぁ……っ……」
乱れる呼吸を抑えきれない。
すると、期待を裏切らないかのように、腰が焼けるように熱くなり始めた。
「だめ……だめです……」という声は喉の奥で消え、次の瞬間、血と骨と肉が引き裂かれる最悪の音が社長室に響く。
「ミチミチ……ビチャッ……!」
真新しいカーペットに濃厚な血飛沫が散り、下半身の切れ端がずるんと落ちる。
未央は思わず甲高い悲鳴を上げてしまった。
「ひぃ……あ、あああ……!」
「おお……すごいな、本当に真っ二つじゃないか……!」
神山は感嘆の声を上げ、役員たちも興味深そうに身を乗り出す。
こちらに一歩近づいてきて、あろうことか手で血を触れようとさえしている。
上半身と下半身は、それぞれドロドロと蠢いて新たな肉を形成し、裸同然の血まみれ姿をさらしながら再生していく。
生理的嫌悪感と羞恥が渦を巻き、未央は顔中から汗と涙を流しながらもう一人の“自分”と視線を交わした。
そこにはどうにもならない共感がある。
(こんなの、公開処刑と一緒じゃない……)
しかし社長や役員たちは面白がって
「もっと分裂しないのかね?」
「ほら、君はここまで来てもまだ緊張してるだろう?」
そう煽り立てる。極度の羞恥と焦りが未央の心を容赦なく突き刺し、すると再び、
「ミチミチィッ……バシュッ……!」
先ほど生まれたばかりの二人の未央も、それぞれ真っ二つに裂け始める。
背骨が折れるバキバキという衝撃音、血潮が湧き上がるような轟音、内臓液が飛沫を描いて天井まで飛ぶ。
カーペットはあっという間に修羅場と化し、壁紙にもべったりと赤や黄色の液体が付着する。
次々と分裂していく未央たち。その数はあっという間に四体、八体、十六体へと増えていく。
「うわあ……見事だな、これは壮観だ……」
「ははは、人件費が浮きまくりじゃないのか?」
社長室は生臭い匂いと鉄錆の匂いが充満し、未央たちのうめき声が重なり合う。
内臓を吐き出しては再生する、その繰り返し。もう言葉にならない。
泣き出したいほどの恥辱感と、痛みや熱さで頭の中は真っ白だ。
最終的に、血まみれの未央が十六人、震える足取りでずらりと並んでいた。
彼女たち全員が顔を赤らめ、見られたくない部分を覆うように腕を抱く。
服はほとんど原型を留めておらず、ビリビリに裂けた布や肉片が混ざった惨状だ。
それでも、下着だけはどうにか残っている部分もあれば、半分だけ破れたものもある。
それらが逆に痛々しく、妙に生々しい。
「いやあ、素晴らしい……! うちの会社は人材こそ宝だが、君のような特別な才能を持つ社員は、さらに宝だ!」
神山は血にまみれた手を振りながら笑っている。
役員たちも
「これだけ増えれば、新しいプロジェクトを一人で回してくれるな」
「分裂ショーを取引先に見せたら盛り上がりそうだ」
口々に囁き、勝手な夢を描いているようだった。
「え、えっと……」
十六人の未央は同時に声を発する。まるで合唱のように震えた声が社長室を満たす。
神山は椅子から立ち上がり、にこやかに言った。
「営業部への異動はどうかね? 君はクリエイティブもいいが、その分裂力をフルに活かすなら、営業でガンガン行ってもらいたいんだが」
「は、はい……頑張ります……」
十六人が揃って答えた。どろりと垂れる血液がカーペットに落ちる音がやけに響く。
「決まりだな。これからも期待してるよ、未央くん」
神山が楽しそうに頷き、パチパチと手を打ち鳴らす。
拍手は役員たちにも伝播し、狭い社長室に生温い歓声が渦巻く。
全身に血を浴び、下着まで晒しながら立たされている未央たちは、しかし会社の上層部から認められたという安堵と、この異常な光景に対する怒涛の羞恥がないまぜになり、複雑な表情で肩を震わせていた。
後日――。
未央のデスクには「緊急用消臭スプレー」と「分裂時用雑巾セット」が支給された。
営業部への異動に際しての“特別仕様”らしい。
誰もが特別視せず、むしろ「君にはこれが必要でしょ?」と言わんばかりの態度で渡してくる。
当然、仕事中に分裂すれば、血や内臓液が飛び散るし、腐敗時の悪臭もセットでついてくる。
それでも誰も文句を言わない。
「もっと分裂してくれてもいいよ」
「業務効率が上がるし」
「新規開拓で君を連れて行こう」
むしろ歓迎している。思わず唖然としてしまうほどだ。
社会人になるというのは、もっと普通の困難にぶつかるものだと思っていた未央。
しかし、彼女の人生は想像をはるかに超えた形で進んでいる。
分裂という特殊スキルは、異常なほど「当たり前」扱いされ、社内では「緊急事態には未央を緊張させろ」というブラックジョークまで生まれつつあった。
「……この会社、ほんとに大丈夫なのかな……」
そう呟きながら、未央はこれからの仕事に向けてスーツを新調し、また分裂で破れることを想定した着替えをロッカーにいくつもスタンバイさせる。
ある意味では、この場所は彼女にとって最大の理解者が集まる世界なのかもしれない。
グロテスクな分裂と腐敗を、ただの日常のように扱ってくれる人々。
普通では考えられないけれど、未央はここでなら、自分の力を活かして働いていける……そんな奇妙な居心地の良さを、ほんの少し感じはじめていた。
そして今日も、どこかの部署で誰かが叫ぶ。
「新しい案件、大至急で!」
「やばい、明日の商談資料が全然間に合わない!」
そんな声が上がると、笑いながら誰かが囁くのだ。
「おい、未央ちゃんを呼べ。あの子を緊張させれば一気に人手が倍増するぞ!」
やがて、“あの子”が駆けつければ、血と体液の飛沫とともに未央の分身が生まれ、仕事を手伝ってくれる。
確かに効率は圧倒的に良い。問題はそのたびに悲鳴をかみ殺し、恥をかき続ける未央の心ではあるが……。
――そう、ここはクリエイトワークス。未央の分裂は、早くも社内の“ちょっと便利な機能”として、不可欠な存在になりつつある。
「落ち着いて、落ち着いて……」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、深呼吸を繰り返す。
けれど呼吸が整うたびに、心臓の鼓動はまた強く跳ね返ってきた。
白いブラウスにネイビーのスーツ。髪はきちんとまとめ上げ、メイクも控えめに。
それだけなら誰が見ても「新社会人らしい清楚なスタイル」で通るだろう。
でも問題は見た目ではない。彼女の“特異体質”にあった。
「お願いだから、今日は分裂しないで……」
未央は、震える指先をぎゅっと握りしめる。
今日から彼女は大手広告代理店「クリエイトワークス」の新入社員となる。
ずっと憧れていた企業で、狭き門をくぐり抜け、やっと手に入れたチャンスだ。
しかし、未央には並外れた――というか、常識から外れた身体的な秘密があった。
極度の緊張を覚えると、彼女の身体は真っ二つに裂けて、まるで生き物のように自己再生し、“二人”の未央になってしまうのだ。
最初にその現象が起きたのは中学生の頃。
クラス発表会のステージ上で、緊張に押し潰されそうになった瞬間だった。腰のあたりから、
「ミチミチィ……」
と肉が裂ける嫌な音がして、まるで布が裂けるように身体が縦に割れ始めた。
飛び散る血と体液、急激に襲ってくる割裂感に震える暇もなく、上半身と下半身はそれぞれ地面に転げ落ちた。
だが恐ろしいのはその先だった。
地面に転がった上下の肉塊は生々しい音を立てながら血や内臓液を垂れ流し、欠けた部分を埋めるように肉が盛り上がっていく。
まるでスライムが自己再生するかのように、ドロドロとした赤黒い塊がうごめきながら形を整えていった。
やがて数秒後、そこには全く同じ容姿をした二人の未央が立ち尽くしていたのだ。
それも、肌や服にはまだ乾ききらない血液や黄色い液体が絡みついたまま……。
当然、その場にいた観客たちは悲鳴を上げた。
だが教師の一人は「特別演出かと思った」と後に語ったという。
本人にとっては全く笑えない出来事だったが。
分裂した後、意識はそれぞれが独立しているものの、考え方や記憶は共有されている。
だから二人の未央はお互いに意思疎通がとれる。
数時間経つとどちらかの身体が消えてなくなり、どろどろに溶けるように腐敗していく。
それはそれで壮絶な悪臭と惨状を伴うため、未央がこの体質を他人に隠すのは至難の業だった。
「今日は大丈夫、きっと大丈夫……」
そうやって必死に唱えながら、未央は最終的に準備を整え、化粧室を出た。
そして、始業の朝礼――。
「皆さん、こちらが今日から我々の部署に配属となる新入社員の佐藤未央さんだ」
マーケティング部長である中村が、オフィスに集まったおよそ二十名ほどの前で未央を紹介する。
一斉に集まる視線に、未央は呼吸が止まる思いだった。
「さ、佐藤未央と申します。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします……!」
頭をぺこりと下げる。背筋がぞわりと震え、手の平にはうっすらと汗が滲む。
どうしても鼓動が早まってしまい、胸が苦しい。
すると、腰回りが微かに熱を帯びてくるのがわかる。冷や汗が背筋を這い、
(いや、まだ大丈夫……耐えて……!)
必死に自分を宥める。
ここで分裂なんかしたら初日から大騒ぎ……あるいは自分の評価が大きく下がってしまうに違いない。
「佐藤さんは大学でマーケティング心理学を専攻して、非常に優秀な成績を収めたそうです。斎藤チームに配属しますから、皆さんよろしく」
「はいはい、私のところに来るのね」
そう応じたのは、三十代前半の女性――斎藤香織。
業界でも有名な実力派で、クールな眼差しが印象的なリーダーだ。
「ええと、よ……よろしくお願いします」
未央は再度頭を下げながら、恐る恐る斎藤のほうを見る。
鋭い視線に射竦められるような感覚だ。斎藤はどこか冷ややかに微笑んでいるようにも見えた。
朝礼が終わると、斎藤が未央を自分のチームのエリアへと案内してくれた。
「ここがあなたのデスク。パソコンのセットアップは終わってるから、まず社内システムの使い方を覚えてもらうわね」
「はい。よろしくお願いします」
斎藤が素早い口調で説明を始める。
次々と操作を示しながら、時折専門用語も交えて言い放つため、未央はあわあわとメモを取ろうとする。
しかし、緊張からか手先が震えてペンを落としてしまった。
カラン、と乾いた音が床に響く。
「大丈夫?焦らなくていいけど、うちは仕事のスピードが早いからね。努力してついてきてちょうだい」
「は、はい……」
その言葉に、未央はますます肩が強張った。頭の中で警鐘が鳴る。
心臓の鼓動が加速し、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
(やばい……そんなに緊張してないつもりなのに、体が勝手に反応しそう……!)
その瞬間、腰のあたりから嫌な音が聞こえた。
「ミチミチィッ……」
血の気が一気に引き、未央は思わず小さく悲鳴を上げる。
斎藤は説明に夢中でまだ気づいていないが、自分の身体が裂けはじめているのを未央ははっきりと感じ取った。
背筋を走る激痛、内臓を掻き回されるような違和感。
皮膚が縦方向に引き裂かれる感触がはっきりと伝わり、耳には湿った肉が引きちぎれる生々しい音がこびりつく。
(こんな、初日から……!いや……!)
悲鳴をこらえようにも、うめき声が漏れそうになる。
腰から溢れた血液が地面に滴り落ち、ヌルヌルとした黄色の体液がスーツの背面を伝っていく。
分厚い生肉がちぎれるような臭いが鼻を突いた。
斎藤はなおもパソコンを操作している。あまりにも集中しているのか、このグロテスクな光景に気づかない。
未央の身体は真っ二つに裂け、上半身は椅子に寄りかかるように倒れ落ち、下半身はデスクの横にずるりと崩れる。
肉がちぎれるビチャッという音、粘液が垂れるポタポタという音だけがやけに大きく響き、辺りには生臭い鉄の匂いが濃密に広がっていった。
裂けた上半身と下半身は、蠢く血肉を盛り上がらせながらそれぞれが急速に再生を始める。
裂け目からは骨や筋繊維が露わになっており、そこに新たな肉が絡みついていく。
ぶよぶよとした組織が息づくように蠢き、やがて皮膚へと形を変え、まるで溶接されたかのように縫い合わさっていく。
「ん、んあ……」
声にならない声が喉の奥で震え、未央は両方の身体で苦痛に耐えながら、手足を突っ張って必死に呼吸をする。
そして十数秒後――。
二人の「未央」が、そこに存在していた。外見も服装も全く同じ、血まみれの自分。
そして互いの目を合わせると、一方が小さく頷き、もう一方は瞳を潤ませて恥じ入るようにうつむいた。
――長年の経験から、分裂したあとにどう行動すればいいかはほぼ無言のやりとりでわかる。
問題は、それを他人に見られたかどうか……。
「ちょっと未央ちゃん、分裂なんかしてないで早く仕事して」
突然、斎藤の声が降ってきた。
彼女はこちらを見ずに言う。
まるで「こぼしたコーヒーをサッと拭いておいて」程度の調子だった。
未央たちはギョッとして斎藤のほうを振り向く。
(今のこの血みどろの状況……見ていたの……?)
心臓が止まりそうなほど恥ずかしく、鼓動が一気に高鳴った。
「す、すみません……!」
裂ける前の“元の身体”だった方の未央が椅子に座り直し、真っ赤な顔をして謝罪する。
頬や首筋にはまだ生々しい血がこびりつき、スーツにも無数の飛沫がかかっているが、斎藤はまるで意にも介さない。
「コピー機の操作も覚えてもらわないと困るから、今分裂してるそっち……右側の未央ちゃん、コピー室行って」
「え、あ……はい、わかりました……」
“分裂体”として生まれた未央も恥ずかしそうに俯きながら、その場を離れた。
デスクや床には血と体液の染みが残されているのに、斎藤は目もくれない。
むしろ、「後で掃除はしておいて」程度の事務連絡しかなかったのだ。
未央はただ頷くしかなかった。
(なんでこの会社……こんなに普通の反応なの……?)
恥ずかしさを噛み殺しながら、分裂した未央はコピー室に逃げ込むように向かった。
自分の体質に対してここまで無頓着というか、寛容というのは初めてだった。
普通なら悲鳴を上げられてもおかしくないのに……。
「助かったといえば助かったけど……でも……」
自分がやっていることは、社会通念から考えれば相当グロテスクで、しかも致命的な人間離れだとわかっている。
こんな当たり前に扱われる方が、むしろショックだった。
コピー室のドアを閉めると、あらためて体中を見回す。
腿からふくらはぎへ、血と体液がダラダラ垂れていて生臭い。
先ほどの分裂で裂けた部分は再生して完璧な形状に戻ったものの、服や肌は血塗れの痕跡が生々しい。
足元には赤黒い飛沫がポタポタ垂れて床を汚していく。
「うわ……最悪……」
そして、その“最悪さ”は本来、周囲の人間にとっても同じはずなのだが。
なぜ平然としていられるのか、不気味でさえある。
しかし、この状況を逆手に取ることを思いついた。
分裂による「自分の増殖」は、時間制限こそあるものの、同時に仕事をこなす人数が増えるという利点がある。
分裂体は数時間後に腐敗して消えてしまうが、それまでのあいだは全く同じスキルと記憶を持って動き回れるのだ。
「……よし、せっかく二人になったんだし、有効に使うしかないよね」
そう小さく呟くと、分裂した未央は雑巾を探しに行き、コピー室と周辺の床にこびりついた血液を急いで拭き取った。
その後も、仕事を覚えるあいだに何度か分裂を繰り返した。
資料室で膨大なファイルを目にしたとき、会議室で先輩から矢継ぎ早に質問攻めにあったとき――。
そのたびに未央は恥ずかしさで胸を焼かれながら、血と体液をばら撒いて真っ二つに裂ける。
それなのに、周囲はまるで「ちょっと厄介な体質」の延長くらいにしか見ていない。
斎藤に至っては「あとで始末しておいてね。こっちはこっちで作業進めてるから」と、顔色一つ変えない。
「分裂したの?じゃあ二人で倍の速度でやってくれるわよね?」
「わっ……はい……」
むしろ業務効率の改善を期待している様子すらある。
未央は膨れ上がりそうな羞恥心を押し殺しながら、言われたタスクを二人に分かれて必死にこなす。
だが、分裂すると緊張が一時的に和らぐせいか、案外うまく動けてしまうのだった。
一度だけ、同期の田中にその瞬間を目撃されたときはさすがに驚かれた。
田中は最初、双子だと思ったらしいが、その矢先に一体が黒ずんで腐り始め、どろどろに溶けて消えていく様子を目撃して悲鳴を上げ、気絶しかけた。
「え、救急車!救急車呼ばなきゃ!」
「違うんです、そういう体質で……落ち着いて……!」
だが斎藤が「彼女はそういう特殊スキルを持ってるの。気にしないで」と一言言うと、田中もなぜかそれ以上は深く追及しなかった。
「会社って、いろんな人がいるんだな……」と呟きながら茫然としていたのが印象的だ。
気がかりといえば、分裂体が消える際の腐敗臭だ。これが凄まじい。
本人が言うのもなんだが、鼻が曲がるような腐肉の悪臭が立ち込め、血や体液が粘りを残しながら床や壁に付着する。
その光景を、斎藤をはじめとする先輩社員が「慣れた感じで」片付ける様子は、正直なところ寒気すら感じた。
「ゴミ捨て場に捨てるとクレーム来るのよね。特別に処理するから、そのときは声かけて」
「す、すみません……私のせいで……」
未央は泣きそうなほど恥ずかしかった。いくら体質とはいえ、自分の溶けた肉の塊や悪臭の処理を他人に手伝ってもらうのは、申し訳なさと同時に惨めさが込み上げる。
それでも会社の人たちは「いいのいいの、気にしないで」と笑うだけ。
あまりの大らかさに拍子抜けするほどだった。
そんなこんなで一週間ほど経った頃、未央はチームの重要プロジェクトを任されることになった。
大手飲料メーカーの新商品キャンペーンで、来週にはプレゼンをしなくてはならないという。
「この案件、かなり急ぎなの。資料作りに時間かけてる余裕はないわよ」
斎藤は眠そうな目で言いながら、分厚い資料の束をどさりと未央の机に置いた。
「ひ、一週間で……ですか?」
目の前に積まれた膨大なファイル。見るだけでも頭がクラクラする。
緊張のあまり、また腰が熱くなる予兆を覚えた。
「新人だからって甘くはないわ。でも、分裂できるなら一人でやるより効率は上がるでしょ?」
「え……そ、それは……」
確かに、分裂すれば二倍の速度で資料に当たることはできるが、あの生々しい破裂と恥辱を伴う。
それに、また会社の中を血まみれにしてしまうと思うと気が引けた。
しかし斎藤は、「任せたわよ」と言い放つだけだった。曖昧に頷き、未央は資料を抱え込む。
すると、思ったよりずっしりと重たく、どっと不安が押し寄せた。
「ま、まあ……やるしかないよね……」
そう呟いた瞬間に訪れる――あの嫌な音。
「ミチミチィッ……!」
「ひゃ……ああああ!」
断末魔のような声が漏れる。腰から腸が引きずり出されるような感覚に、息が詰まる。
頑張ろう、と気合いを入れただけでここまで緊張が増幅するのか、と自分でも呆れそうになる。
だが身体は正直だ。激痛とともに生血が噴き出し、股のあたりをドロドロの液体が流れ落ちていく。
スーツの生地は一瞬にして真っ赤に染まり、足元に広がる血溜りに、ドクンドクンという鼓動が伝わった。
「ほら、またやってる」
斎藤が少しうんざりした様子で眉をひそめた。
プレゼン資料にべったりと血が飛んで汚れてしまったのを、ハンカチで拭き取ろうとしている。
「……すみません……」
未央は舌を噛みそうなほどの恥ずかしさに顔を真っ赤にしてうつむく。
斎藤の表情は「しょうがないなあ」という程度で、驚きも軽蔑もない。
むしろ気にしているのは資料が汚れたことだけのようだった。
ビチャリ、という粘液の跳ねる音とともに、未央の身体は真っ二つに裂け、床の上と椅子の上に二つの肉塊が落ちる。断面からは筋肉繊維が盛り上がり、ぼこぼことした塊が次第に形を取り戻していく。
その過程はあまりにもグロテスクで、生臭さと鉄のような味が混ざり合った独特の臭いが充満した。
未央は必死に声をこらえる。斎藤の前で悲鳴を上げるなんて恥ずかしすぎるし、こんなにドロドロの肉塊を晒しているだけでも十分に屈辱的だから。
脂汗が顔ににじみ、口の端からは唾液混じりのよだれが垂れてしまう。
「さっさと再生して、分裂終わったら資料に戻って」
「っ……はい……」
中途半端に動かそうとした片腕が、まだ生成途中の皮膚を突き破り、激痛が駆け巡る。
その度に顔を歪め、声にならない声を喉で殺す。
数秒後、ようやく二人の未央が完成した。
床に生まれ落ちた方は血の海に浸かりながらゆっくりと起き上がり、椅子に残った方はスカートの上に飛び散った肉片を手で払い落とす。
どちらもハアハアと呼吸を荒くしていて、まだ十分に感覚が戻っていない。
「じゃあ、一人は調査、もう一人はコンセプト立案ね」
と斎藤が事務的に言い放つ。
「は、はい……」
未央たちは顔を見合わせた。どちらがどちらをやるか、一瞬の無言で合図を交わす。
右の未央が「じゃあわたし調査する」と呟き、左の未央が「わたしはコンセプトを……」と続ける。
「……よろしくお願いします」
二人がまた同時にお辞儀をすると、血まみれの服から新たな血の滴りが落ちる。
斎藤はそんな様子に見向きもせず、テーブルに置いたファイルを指差す。
「とりあえず、仮説立案を進めて。それから具体的なデータを洗い出すのよ。分裂のメリットを活かしてサクサクやって頂戴」
「……わかりました」
未央たちの声は暗い。グロテスクな姿を見られている以上に、斎藤からの「普通すぎる」扱いがむしろ精神的にこたえるのだ。
(どうしてこんなに当たり前みたいに分裂を受け入れてるんだろう……)
こうして、二人がそれぞれの作業に取り掛かり始めた。
社内で顔を合わせる人たちも、「ああ、未央さん双子だったんですか?」などと最初は疑問を口にするが、すぐに「あ、また分裂してんのね」程度の反応になった。
掃除担当のスタッフなどは完全に慣れたような表情で、血や体液の飛び散った跡を拭き取っていく。
(なんだろう、この光景……会社って、こんな場所だっけ……?)
未央は恥ずかしさと戸惑いを抱えながらも、一心不乱に仕事をこなし続ける。
プレゼン前日には、資料作成の追い込みで未央は何度も分裂し、一時的に四人になって同時並行で作業した。
デスクひとつでは足りず、会議室を借りて「自分」で打ち合わせしながら膨大なデータをまとめていく。
その内、一体が消える頃には資料が完成し、次の一体が消える頃にはリハーサルが終わる。
身体が腐り落ちて消えるたびにひどい悪臭と後片付けが必要になるが、斎藤は特に何も言わない。
「空気清浄機、もっと強力なの買おうかな」などと事務的につぶやくだけだった。
そして迎えたプレゼン当日――。クライアント企業の重役が来社し、会議室での発表となった。
直前の緊張で、未央は少しだけ体に熱を感じていたが、なんとか一人の状態を保っている。
(大丈夫……今は落ち着いている……)
深呼吸をして、資料を抱えて会議室に入る。クライアントや上司、斎藤が揃って座っている。
その視線に飲まれそうになりつつ、未央はプレゼン用のスライドを表示し始めた。
「えー、まず今回のターゲット層ですが……」
声が少し震えている。心臓がドキドキとうるさいほど鳴り、鼓膜を揺らす。
手汗で資料が少し湿っているのがわかる。嫌な予感がするが、ぐっとこらえて喋り続ける。
……しかし。
「では具体的なマーケティング施策について……」
そう切り出した瞬間、腰に鋭い痛みが走った。
「あ……」
嫌な音が聞こえる。ミチミチィッ……ビチャッ……。
一度緊張が臨界点を超えると止められない。
未央はスカートのウエスト部分が裂けるのを感じ、下着ごと大量の血液が溢れ出していく感触に全身が震えた。
ざわり、と会議室内の人々が動揺する。未央は必死に口を閉ざすが、分裂は容赦なく進行する。
数秒のうちに彼女の腰が真っ二つに裂け、上半身はテーブル上に覆いかぶさるように倒れ込み、下半身は床へどしゃりと崩れ落ちた。
「ひっ、うあ……が、ふ……」
生々しい呼吸音と、ズルズルという肉の摩擦音が混ざり合う。
黄色い体液がテーブルの上を流れ、クライアントの書類やスーツへとじわりじわりと広がっていく。
独特の鉄錆臭と生臭さが混じった強烈な臭いが鼻を刺した。
「うわ……こ、これは……!」
クライアントの部長らしき男性が目を見開いている。
未央は「終わった……!」という絶望感に襲われた。
初対面のクライアントの前で、この惨劇。
これが理由で商談が破談になってもおかしくない。頭が真っ白になる。
しかし、意外にもその部長は驚きよりも好奇心に満ちた声を上げた。
「すごいな! まさか分散型リーダーシップを人間が身体で体現するとは……これぞイノベーション!」
「はい、弊社ではアウトオブザボックスなアイデアを大切にしていまして」
斎藤がにこやかに応じる。
その横で、未央の上半身と下半身は再生を続けていた。
ドロドロと蠢く肉が欠けた部分を埋め、数秒もしないうちに、同じ姿の未央が二体となって立ち上がる。
「す、すみません、本当に申し訳ありません……!」
二人の未央が口を揃えて謝罪すると、クライアントは楽しげに笑った。
「いいんですよ、むしろ面白い! こういう突拍子もない視点が、ビジネスの革新には必要なんだ!」
予想外の反応に、未央たちはさらに緊張が高まる。すると分裂体も同時に怪しく揺れ始め、
「あ、やば……んん、また……」
ミチミチィッ……といういやな音がして、二人の未央が同時に裂け始める。
ビチャビチャと血と体液が飛び散り、会議室の壁や天井を汚していく。
そのたびに彼女は恥ずかしさで顔から火が出そうになる。
(こんなの、悪夢だよ……なんで、どうして、みんな平然としてるの……!?)
結果、短時間で未央は四人に増え、会議室には血まみれの未央が勢揃いするというカオスが広がった。
腐った肉や黄ばんだ液体がフローリングの溝に染み込み、クライアントの部長や担当者たちが浴びた血をちょっと拭いながら「なかなか壮観だね」と笑う。
「これぞまさに指数関数的成長ですね! いやあ、面白い!」
その状況をただ称賛する彼ら。恥ずかしさでメンタルが追い詰められる未央たち。
それでもプレゼン自体は順調に進められた。
元の未央が発表し、分裂体が資料配りや質疑応答をフォローする形で、むしろ大好評だったほどだ。
会議が終わると、最初に裂けた未央の身体が消えるタイミングが来た。
肌が少しずつ黒ずみ、腐敗が始まる。
人目のあるところで悪臭をまき散らすわけにはいかないからと、斎藤が素早く「トイレに行って」と指示した。
四人のうち二人もそろそろ限界らしく、同時に腐り始める。
「はい……すみません……!」
彼女らは慌ててトイレに駆け込み、個室に駆け込み――と同時に、皮膚が崩れ出し、骨が溶け出し、血や体液がドロドロと流れ落ちていく。
強烈な腐臭が一気に満ち、呼吸をするだけでも吐き気を催すほどだ。
個室の壁や床には、未央だった肉片がべったりこびりつき、腐敗ガスで曇り上がっていく。
ぐしょぐしょと音を立てながら身体が完全に溶け去ると、もうそこには赤黒い塊と黄ばんだ液体だけが残る。
未央は気を失いかけるほどの羞恥と自己嫌悪を味わいながら、残った体で消臭スプレーを振り、トイレットペーパーの束で念入りに拭き取った。
「もう、最悪……恥ずかしい……こんなの……」
誰に聞かれるでもなく、つぶやいた言葉がむなしく響く。
トイレを出ると、何人かが気まずそうに鼻を押さえながら通り過ぎる。
けれど、彼らの視線に嫌悪感や拒絶は感じられない。むしろ「お疲れさま」という雰囲気すら漂っているのが余計に混乱を深めた。
そしてプレゼンが成功して数日後、未央は突然社長室に呼ばれた。
呼び出しを受けたとき、緊張で胃がキリキリと痛んだが、これも仕事の一環だろうと自分に言い聞かせる。
社長室の扉を開けると、そこには社長の神山と数人の役員がいた。
神山はふわりと笑みを浮かべ、
「君が噂の新人・未央くんだね。話はよく聞いているよ」
と声を掛けた。
「は、はい……本日、お時間をいただきましてありがとうございます」
未央は定型文をぎこちなく口にする。
役員たちも興味深そうに未央を眺め、なにやら楽しげに囁き合っている。
「実はね、君の“才能”を存分に見せてもらいたいんだよ。いろいろな部署からも噂が来ていてね。……今ここで分裂してみせてくれないか?」
「えっ……ここで……ですか?」
未央は凍りついた。
社長室は高級なカーペットが敷かれ、重役が揃って見守る中、分裂ショーを要求されるなんて。
(そんな……恥ずかしいに決まってる……まるで下着どころか、内臓まで全部晒してるようなものなのに……)
とはいえ「できません」と断るには、あまりにも社長の圧が大きすぎる。
「君は緊張すると分裂するんだろう? こんな場で充分緊張してるんじゃないかな?」
神山はまるで意地悪く笑うようにそう言った。
確かに、未央の心臓は先ほどから高鳴って止まない。全身が熱くなってきている気がする。
「そ、その……はぁ……っ……」
乱れる呼吸を抑えきれない。
すると、期待を裏切らないかのように、腰が焼けるように熱くなり始めた。
「だめ……だめです……」という声は喉の奥で消え、次の瞬間、血と骨と肉が引き裂かれる最悪の音が社長室に響く。
「ミチミチ……ビチャッ……!」
真新しいカーペットに濃厚な血飛沫が散り、下半身の切れ端がずるんと落ちる。
未央は思わず甲高い悲鳴を上げてしまった。
「ひぃ……あ、あああ……!」
「おお……すごいな、本当に真っ二つじゃないか……!」
神山は感嘆の声を上げ、役員たちも興味深そうに身を乗り出す。
こちらに一歩近づいてきて、あろうことか手で血を触れようとさえしている。
上半身と下半身は、それぞれドロドロと蠢いて新たな肉を形成し、裸同然の血まみれ姿をさらしながら再生していく。
生理的嫌悪感と羞恥が渦を巻き、未央は顔中から汗と涙を流しながらもう一人の“自分”と視線を交わした。
そこにはどうにもならない共感がある。
(こんなの、公開処刑と一緒じゃない……)
しかし社長や役員たちは面白がって
「もっと分裂しないのかね?」
「ほら、君はここまで来てもまだ緊張してるだろう?」
そう煽り立てる。極度の羞恥と焦りが未央の心を容赦なく突き刺し、すると再び、
「ミチミチィッ……バシュッ……!」
先ほど生まれたばかりの二人の未央も、それぞれ真っ二つに裂け始める。
背骨が折れるバキバキという衝撃音、血潮が湧き上がるような轟音、内臓液が飛沫を描いて天井まで飛ぶ。
カーペットはあっという間に修羅場と化し、壁紙にもべったりと赤や黄色の液体が付着する。
次々と分裂していく未央たち。その数はあっという間に四体、八体、十六体へと増えていく。
「うわあ……見事だな、これは壮観だ……」
「ははは、人件費が浮きまくりじゃないのか?」
社長室は生臭い匂いと鉄錆の匂いが充満し、未央たちのうめき声が重なり合う。
内臓を吐き出しては再生する、その繰り返し。もう言葉にならない。
泣き出したいほどの恥辱感と、痛みや熱さで頭の中は真っ白だ。
最終的に、血まみれの未央が十六人、震える足取りでずらりと並んでいた。
彼女たち全員が顔を赤らめ、見られたくない部分を覆うように腕を抱く。
服はほとんど原型を留めておらず、ビリビリに裂けた布や肉片が混ざった惨状だ。
それでも、下着だけはどうにか残っている部分もあれば、半分だけ破れたものもある。
それらが逆に痛々しく、妙に生々しい。
「いやあ、素晴らしい……! うちの会社は人材こそ宝だが、君のような特別な才能を持つ社員は、さらに宝だ!」
神山は血にまみれた手を振りながら笑っている。
役員たちも
「これだけ増えれば、新しいプロジェクトを一人で回してくれるな」
「分裂ショーを取引先に見せたら盛り上がりそうだ」
口々に囁き、勝手な夢を描いているようだった。
「え、えっと……」
十六人の未央は同時に声を発する。まるで合唱のように震えた声が社長室を満たす。
神山は椅子から立ち上がり、にこやかに言った。
「営業部への異動はどうかね? 君はクリエイティブもいいが、その分裂力をフルに活かすなら、営業でガンガン行ってもらいたいんだが」
「は、はい……頑張ります……」
十六人が揃って答えた。どろりと垂れる血液がカーペットに落ちる音がやけに響く。
「決まりだな。これからも期待してるよ、未央くん」
神山が楽しそうに頷き、パチパチと手を打ち鳴らす。
拍手は役員たちにも伝播し、狭い社長室に生温い歓声が渦巻く。
全身に血を浴び、下着まで晒しながら立たされている未央たちは、しかし会社の上層部から認められたという安堵と、この異常な光景に対する怒涛の羞恥がないまぜになり、複雑な表情で肩を震わせていた。
後日――。
未央のデスクには「緊急用消臭スプレー」と「分裂時用雑巾セット」が支給された。
営業部への異動に際しての“特別仕様”らしい。
誰もが特別視せず、むしろ「君にはこれが必要でしょ?」と言わんばかりの態度で渡してくる。
当然、仕事中に分裂すれば、血や内臓液が飛び散るし、腐敗時の悪臭もセットでついてくる。
それでも誰も文句を言わない。
「もっと分裂してくれてもいいよ」
「業務効率が上がるし」
「新規開拓で君を連れて行こう」
むしろ歓迎している。思わず唖然としてしまうほどだ。
社会人になるというのは、もっと普通の困難にぶつかるものだと思っていた未央。
しかし、彼女の人生は想像をはるかに超えた形で進んでいる。
分裂という特殊スキルは、異常なほど「当たり前」扱いされ、社内では「緊急事態には未央を緊張させろ」というブラックジョークまで生まれつつあった。
「……この会社、ほんとに大丈夫なのかな……」
そう呟きながら、未央はこれからの仕事に向けてスーツを新調し、また分裂で破れることを想定した着替えをロッカーにいくつもスタンバイさせる。
ある意味では、この場所は彼女にとって最大の理解者が集まる世界なのかもしれない。
グロテスクな分裂と腐敗を、ただの日常のように扱ってくれる人々。
普通では考えられないけれど、未央はここでなら、自分の力を活かして働いていける……そんな奇妙な居心地の良さを、ほんの少し感じはじめていた。
そして今日も、どこかの部署で誰かが叫ぶ。
「新しい案件、大至急で!」
「やばい、明日の商談資料が全然間に合わない!」
そんな声が上がると、笑いながら誰かが囁くのだ。
「おい、未央ちゃんを呼べ。あの子を緊張させれば一気に人手が倍増するぞ!」
やがて、“あの子”が駆けつければ、血と体液の飛沫とともに未央の分身が生まれ、仕事を手伝ってくれる。
確かに効率は圧倒的に良い。問題はそのたびに悲鳴をかみ殺し、恥をかき続ける未央の心ではあるが……。
――そう、ここはクリエイトワークス。未央の分裂は、早くも社内の“ちょっと便利な機能”として、不可欠な存在になりつつある。
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【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
静かに過ごしたい冬馬君が学園のマドンナに好かれてしまった件について
おとら@ 書籍発売中
青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である
そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。
なんと、彼女は学園のマドンナだった……!
こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。
彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。
そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。
そして助けられた少女もまた……。
二人の青春、そして成長物語をご覧ください。
※中盤から甘々にご注意を。
※性描写ありは保険です。
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