遼州戦記 司法局実働部隊の戦い 別名『特殊な部隊』の初陣

橋本 直

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第十七章 『特殊な部隊』の『特殊』な飲み会

第44話 誰も死なない日の夜

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 その日の終業を告げる鐘が、隊舎の金属廊下を震わせて消えた。整備庫からは、油の甘い臭いとソケットレンチの乾いた音。詰め所の壁時計は17:59で止まりかけ、誰かが指で軽く弾いて進める。

「おい、神前。飲みに行くぞ……今日は島田とサラとパーラも一緒だ。あの島田の馬鹿がなんで自分を呼ばないんだってうるさく言って来るんだ……この前の飲み会でバイクの部品がどーたら言って拒否ったのはオメエじゃねえかと言ったら、神前は自分の射程だから面倒を見る責任があるんだとか訳の分からねえことを言って来るんだ。アイツの理解不能なヤンキーの『絆』とか言うモノらしいや、面倒かもしれねえがあの二人の馬鹿と……」

 そこで一度息をつき、かなめは口角だけ上げた。

「居ても居なくても同じ女が席に座るがそれは空気だと思って無視しろ。パーラの奴はああ見えて時々オメエに近づこうと色々理由を付けてこの部屋に来る理由をアメリアに言ってるらしいがアメリアが全力で阻止しているらしい。あんなに面白みのねえ女に近づかれたらオメエも災難だろ?でもまあ、パーラの存在はうちでは『空気』以上でも以下でもないんだ……飲み会の間もパーラとは口をきくなよ……アイツと喋ってるのを見かけたら射殺するからな」

 立ち上がったかなめの声は、いつもの命令調より半音明るい。机上では、ランが将棋盤の駒を小箱に落とし込むコトリという音だけがやけに清潔に響いた。

 そしてかなめの言葉からアメリアが『境遇から見て誠と結ばれる可能性があるので全力で誠との接触を阻止する』と宣言した女性の一人がパーラらしいと察した。

 確かに『特殊な部隊』の女子で誠とまともに話す機会のあった女性でまともに日常会話が成立しそうなのはパーラぐらいだった。そしてパーラは誠を一目見た瞬間からこの異常空間でしかない『特殊な部隊』から誠を救おうとしていた。誠も何度か遠くから転職情報誌を手に誠に笑顔で駆け寄ろうとするパーラをアメリアがわざとらしく呼び寄せて何か面倒くさそうな用事を頼む場面や、いきなり銃を抜いてわざとらしく構えて見せるかなめを目撃したことは一度や二度ではなく、その度にパーラは誠に同情の視線を投げて立ち去って行った。

 微笑みよりもどこか諦めとため息が似合うネガティブ女子のパーラだが、いくらアメリアの『全力で誠との接触を阻止する』宣言を受けても自分に近づこうとしているというかなめの言葉を聞いて『モテない宇宙人』としての自覚のある誠はパーラに強く惹かれている自分に気付いていた。しかし、目の前でホルスターの中の銃を叩きながら上機嫌で自分を見つめて来るかなめを見て誠はアメリアだけでなくかなめもまた誠とパーラの間に恋が芽生えることを『銃で阻止する』可能性が高いことは理解した。

「分かりましたよ……パーラさんとはあまり会話をしなきゃ西園寺さんは満足なんでしょ?そうします。でも……こんなにすること無くていいんですかね。僕達がこれまでやった警察らしいお仕事って、僕が拉致されたときにマフィアのボスを捕まえたくらいじゃ無いですか……だからうちには予算が出ないんですよ。そんな、何もすることが無いからって一日中走っているだけの組織なんて世の中の為に全くならないじゃないですか。別に僕は『特殊な部隊』の広告塔としてニューイヤー駅伝に出るわけじゃないんですよ?まったく無意味に走ってるだけ……というか西園寺さんはその時間はそれを見ながら木陰でアイスを食べてるだけでお給料が出るなんていい身分ですね。そんな無駄飯食いにお金を出すほど同盟機構の予算も無尽蔵ってわけにはいかないでしょうからね」

 配属二週間。紙コップの底に輪染みを作り続けるだけの日が、思ったより多い。たまにやる『白兵戦模擬』は、結局仮想。肌は汗をかくのに、銃声はスピーカーを通って骨に届く。現実と虚構の境目が、喉に引っかかっている。

「一日中貴様だけが走るという環境が不満なのか?一緒にパーラも走っているのだから問題ないじゃないか。予算が無いんだ仕方がない。それだけ今の遼州は平和だってことだ。感謝こそすれ恨む話では無いな。それと私も先ほど西園寺が言っていた貴様に近づこうとするパーラの不埒な行動は見逃すことができないから詰め所の前で見かけたら追い返すようにしている。あの女は貴様を『特殊な部隊』の色に染めるのに邪魔な存在だ……気を付けろ」

 カウラは端末を落とし、立ち上がりざまに椅子を机に入れる。所作が静かだと、言葉も落ち着いて聞こえるから不思議だ。そしてアメリアやかなめばかりではなくカウラもまたパーラを『特殊な部隊から誠を奪おうとする敵』として認識していてパーラから誠を引きはがす活動を行っていることを知って誠は自分とパーラが『特殊な部隊』に馴染めない同志として仲良くなることは許されない事なのだとあきらめの境地に近い心境にあった。

「お二人とも……そんなに僕とパーラさんを引き離して楽しいんですか?と言うか……うちって何のための部隊なんです?この前、僕が誘拐された時だって東都警察や県警の特殊部隊だってできる制圧作戦だったらしいじゃないですか。それをわざわざシュツルム・パンツァーやそれを運用する運用艦まで用意しているなんて。平和な割には物騒すぎる話じゃ無いですか?」

 今日、納入されたばかりの端末を閉じる音が、やけに軽い。

「うちは『軍事警察』って組織なの!……東和警察の管轄は東都だけ!県警は県だけ!うちの管轄するのは遼州同盟の加盟国の領域すべてって訳!同盟機構の構成国家間で軍隊が動くとまずいような軍事衝突が起きたらそれに対応するのがうちのお仕事!まったく神前には理解力と言うものがねえな!」

 かなめは人差し指をビシッと立てる。詰め所のホワイトボードにはマジックで『出動=政治』と大書き(たぶんランの字)。その横に誰かが小さく『※予算は出ない』と落書きしてある。

「でもそれならなおのこと東和宇宙軍が動けばいいじゃないですか……あの人達は戦争が大規模になりそうなときには飛行禁止区域を指定して違反した軍隊の機動兵器を無力化するのがお仕事でしょ?軍隊の正面衝突を避けるなんてまさに西園寺さんの言う『軍事衝突を避ける』という行動そのものじゃないですか。それのプロが居るのに何でほぼ同じ役割の癖にその切り札の電子戦専用機がカウラさんの機体一機しかないうちが同じことを目的に活動する必要があるんですか?それこそ電子戦で機動兵器を無力化するのが売りのそちらの領分のお話じゃないですか。彼等が出てきたら僕達に出番なんて無いでしょ?うち」

 誠の『常識』を口にすると、かなめとカウラは同時にため息をついた。息のハモり具合が、ちょっと面白い。

「何度も同じことを言わせるな……第二次遼州大戦や遼南内戦で東和宇宙軍が飛行禁止区域の絶対的効果を使って戦果の拡大を防いだのは時は遼大陸に東和が持っている鉱山の利権が絡んでいたからだ。それを口実に東和宇宙軍が動いたわけで、それは遼州圏の平和を守ったわけじゃなくて東和共和国の一国の国益を守るという目的があったからだ。東和共和国の利益につながらないような紛争に東和宇宙軍が出動することは絶対にありえない。だから同盟加盟国全体の内部で起きる東和共和国の利益にならない軍事衝突を阻止するための部隊が必要になるわけだ。まず、軍が動くってことはいわゆる政治問題に発展するんだ。うちの組織は軍組織で装備も軍に準じているがあくまで『警察』なんだ。東和共和国ではなじみが薄いが大昔の『ソビエト連邦』に似た政治体制の外惑星連邦には『軍事警察特殊部隊』が存在する。まあ、同じようなものだと考えれば……ああ、貴様にそう言う社会知識を期待するのは無駄だったな」

 言い切るカウラの横で、ランは将棋箱を胸に抱え、ぷいっと目を逸らす。『説明は部下の役目じゃない』みたいな顔をしている。

「まあいいです。とりあえず、東和宇宙軍は東和に関係ない場所には無関心だからそれ以外の第三国の軍が派遣されると政治問題になりそうな軍事衝突が起きそうな現場に出動する『特殊部隊』なんですね」

 社会常識に疎い誠はカウラの話を半分ぐらいしか理解していなかったがとりあえず自分なりの理解の具合を言ってみた。

「そうだ、軍が動けないような事態に対応する正義の味方。『特殊』な『特殊部隊』って訳だ……なんだかかっこいいだろ?燃える展開じゃねえか」

「……まあ、今は暇だが、いずれ本当の仕事が回ってくる。そうなれば、お前も今の『平和』がどれだけ貴重か分かるだろう」

 いかにも物騒なことが大好きなかなめの言葉を背に、ロッカーへ向かった。背中で聞いたカウラの低い声が、妙に長く残った。男子更衣室はからっぽだった。整備班はハンガーに張り付き、誠の専用機から外装を剥がしている最中だ。床に落ちたアルミ粉が、蛍光灯で細かく光る。

 Tシャツに着替えて扉を開くと、廊下の向こうでアメリアがにこにこ手を振る。糸目がいつもより楽しそうだ。

「誠ちゃん!」

「アメリアさん、運航部も暇なんですか……と言うか運用艦はここに無いんでしょ?なんで勤務地がここなんですか?いつもしゃべっているだけでお給料がもらえるなんて良い職業ですね?それとアメリアさんが『愛が生まれそうな二人の女子』の一人はぱーらさんですね?僕を死ぬまで童貞で過ごさせるのがそんなに面白いんですか?まあ、アメリアさんの事だから『面白いの!』って即答しそうですけど」

 言った瞬間、糸目が細いまま吊り上がる。怒るときも笑う形なの、ずるいのはアメリアらしいと誠は思った。

「ひどいこと言うわね、誠ちゃん。なんであんなド田舎勤務なんてしなきゃなんないのよ!あそこはねえ……あそこはねえ……」

 拳をぎゅっと握る。ほんの少し潤んだ。どうやら本当に嫌らしい。

「まあ遠いと言えば遠いわね……でも、ここ豊川からなら都心の渋滞地獄を通らなくて済むから、それほど時間はかからないけど、運用艦の係留されている場所の周りに何にもないのよ。あの『特殊な趣味』の人達でもない限り住みたくないわよ。私はあんなとこに勤めるなんて絶対嫌!趣味人の私が言うんだから間違いないわ!それとパーラと誠ちゃんの接触を私が全力で阻止している事実に気付いたんだ……じゃあ、パーラにはその『運用艦の管理』を名目にあっちに異動してもらおうかしら?そうすれば出動のとき以外は誠ちゃんとパーラが接触する可能性はないわけだし、運用艦での出動の際は私は艦長だから副長のパーラのシフトを完全管理して誠ちゃんと絶対遭遇しないようにするのは簡単だし」

 『趣味人の私』と胸を張る。この人、胸を張るときは大抵、嘘を混ぜない。だが、それ以上に自分の婚活が上手くいかない腹いせに誠とパーラに生まれるかもしれない『モテない宇宙人』である遼州人の誠のあこがれる『愛』を絶対に叩き潰すというアメリアの力強い宣言が誠の心に重くのしかかった。

 玄関を出ると、夕暮れの熱気がまとわりついた。アスファルトの匂い、遠くの草むらの水の匂い。そこへ『スカイラインGTR』の低い排気音が近づく。

「なにもたもたしてんだ!行くぞ!いつもの月島屋だ」

 助手席から身を乗り出すかなめ。運転席のカウラは、片手でハンドル、片手でウインカー。すべてが教本通りの角度で美しい。



 月島屋は、いつもの提灯が一本切れていて、紐だけが風に揺れる。暖簾を掻き分けると、鶏脂が焼ける匂いと、七輪のパチパチが一気に押し寄せた。冷房は弱め、扇風機が二台。座敷は満席、誠たちはいつものカウンター。

「思うんだけど……なんか……私の席、神前君から遠くない?アメリア、わざとやってるわね」

 パーラの抗議は、アメリアのあざけるような視線、そして両隣からの無言の殺気で、すぐ沈んだ。アメリア、かなめ、カウラの三人の視線が常にパーラと誠の間を往復していることに誠はすぐに気付いた。

『この女達……意地でも僕がパーラさんと仲良くするのを阻止することで意見が一致しているらしい……』

 その三人の女達から明らかに自分よりひどい扱いを受けているパーラを見ながら誠はため息を漏らした。

「小夏!アタシの酒!」

 かなめの声に、奥から春子さんがすっと出てくる。藤色の着物、涼しい手の甲がひらひらと動いた。『レモンハート』のボトルがカウンターに置かれるたび、木が低く鳴る。

「すみませんね……いつもごひいきに。西園寺さんの『レモンハート』。まだまだケースであるわよ」

 笑顔で春子は現金払いのお得意様のかなめを見つめていた。

「ケースで頼むとは……西園寺。貴様は飲みすぎだぞ」

「うるせえんだよ!この身体だ。アタシのことは『鉄の肝臓を持つ女』と呼べ」

 ふたりのやり取りに、春子さんが目尻で笑う。こういうやり取りを何度も見てきた店の笑いだ。

「じゃあ、いつものコースでいいわよね?」

 アメリアが全体の顔色をざっと見る。焼き場の源さんが炭を起こし直す。火の色が一段白くなった。

「俺!豚串追加で。前回足りなかったんで」

 島田は煙草に火をつけ、空気清浄機の小型が仕事を諦める音を立てた。

「神前、レバーはやるわ。アタシあれ、苦手だから」

「はあ」

 気が進まないけれど、命は惜しい。うなずく以外の選択肢はない。

「分かったわ。源さん!盛り合わせ七人前に豚串!」

 冷蔵庫の蝶番が、いい音で開く。

「毎回ここですね……これで三度目ですよ。豊川には他に店が無いんですか?」

 誠は時折訴えかけるような視線を遠くから送ろうとするたびにアメリアやかなめににらみつけられて俯くパーラを意識しながらそのことに気付いている自分を誤魔化すようにそう言った。

「ここが一番サービスが良いの!チェーン店の焼鳥屋はラム酒置いてねえだろ?」

「意地でもラム酒を頼む貴様がどうかしてるんだ」

「なんだと!」

「お二人とも……抑えて」

 言いながら、誠はビール瓶を受け取る。ラベルは必ず上、それが『特殊な部隊』のルールだった。

 サラは能天気に中瓶を配り、カウラへ手渡そうとするがカウラは一度さっきのこもった視線をパーラに送った後、柔和な笑みを浮かべて皿に向けて静かに首を横に振った。
 
「私は運転してきているんだ。飲まないぞ」
 
 カウラはそう言って、誠の前へ瓶をスライドするように押しやった。アメリアが小夏からグラスを受け取り、首だけで誠を見る。
 
「じゃあ注ぎますね」

 誠は笑顔で誠に向けてそう言った。
 
「ちゃんと『ラベルは上』にして注ぐのよ。それがうちのルールだから」

 カウンターの木目に、泡のリングが重なっていく。夏の模様だ。

「烏龍茶……は、パーラさんとカウラさんだけ?」

 春子がグラスを置く音は、氷が当たる澄んだ音。パーラは時々銃を叩きながら自分をちらちらと見て来るかなめに怯えながらサラにビールを注ぎ、肩をすぼめて小さく礼をする。

「そう言えば、隊長は来ないんですか?あの人いかにも飲みそうなんですけど」

 誠が訊くと、カウラは真顔で経済白書みたいな口調になる。

「隊長は月に小遣いと言うか生活費3万円だ。……店で酒を飲む金なんてある訳が無い」

 頭の中で『3万円』の文字がでかく点滅する。どうやってタバコ代と焼酎とオートレース……というか3万円で生活ができるということ自体が誠には冗談にしか聞こえなかった。

「ああ、叔父貴?なんであんな小遣いで生きていけるかって話だろ?あのおっさんはやたら運がいいのか、読みが鋭いのか、結構趣味のオートレースで勝ってるみたいだぞ……さも無きゃそもそも仕事中に安い甲種焼酎を飲むような真似ができるわけがねえ。まあ当然負ける時もあるみたいだから隊の連中に借金しているときもあるけどな。電気ガス水道は常にどれかが止まってる状態だし、通勤も中古屋で千円で買ったママチャリだし」

 かなめは乾杯を待たずにラムを傾ける。グラスの縁に、薄く口紅が残る。禁止事項の貼り紙(『乾杯前飲酒・罰金』)を横目で見て、アメリアが咳払い一つしてまるで自分の存在感を示すようなしぐさをして見せた。

「じゃあ、注ぎ終わったことだし!乾杯しましょう!」

『乾杯!』
 
 ガラスが触れ合い、七輪の音と混じって涼しい音になる。春子さんと小夏がししとうを配り、皿の上で塩が光る。

「いいねえ……夏だねえ……」

 かなめはししとうを齧ってから、ラムで追いかける。強い。ほんとうに強い。

 ……そこからは、各人の『仕事のようで仕事でない話』が始まる。

 島田が煙草を指で弄びながら、ふっと笑う。
 
「今日の模擬戦、仮想だって分かってても手に汗かくんだよな。ハーネス外した後のTシャツが、毎回同じとこで張り付く。現実の汗って正直だわ」
 
 アメリアがニヤリと笑った。
 
「誠ちゃん、また刃に逃げたでしょ。射撃はお守り。格闘が勝ち筋、って顔してたわよ」
 
 パーラがようやく誠に話しかける機会だと遠い席から身を乗り出したが、殺気を込めた視線がアメリアとかなめとカウラから放たれるのですぐに黙り込んで手に持ったネギまを口に運んで俯いた。
 
「パーラ……神前に話しかけるな……命が惜しければな……」
 
 かなめが脇のホルスターに手をやりながら即座に遮った。
 
「仕事のことしか頭にねえ常識人は黙って酒と焼鳥食って帰ればいいんだ。ああ、パーラはサラと島田の運転手だから飲めねえのか。じゃあ、焼鳥だけ食って黙ってろ。それと飲みの席で戦術を語るな。代わりに語れ、恋バナを……ああ、そんなのできるのうちじゃあサラぐらいなものだから……サラ、島田。話せ。あと、パーラ。貴様の願望を一言でも口にしたらその場で射殺するから覚悟をしておけよ」

 かなめは命令口調で島田とささやきあっているサラに向けてそう叫んだ。かなめに銃で脅されたパーラは完全につまはじきモードでうつむいたままほぼ涙目でねぎをゆっくりと噛みしめながら呆然とした視線を店内にさまよわせていた。

 そんなパーラの悲しそうな顔を見るたびに誠の心に見てはいけないものを見るような罪悪感が、ビールの苦さにうっすら混じった。
 
「それはもっと企業秘密です!」

 と、なぜかサラが一番大きな声で返した。

 カウラは静かに盛り合わせを崩し、皮だけ器用に避けて誠の皿へ運ぶ。
 
「脂は男子に回せ。……神前、さっきの『床の流れ』の読み、良かったぞ」
 
 カウラ褒め言葉は短い方が刺さる。胸の奥が、少しだけ熱くなる。

 春子が、そっと冷やしトマトを置いた。

 「いつもごひいきにしていただいているサービスね。この頃、暑いから……ちょっと用意してみたのよ」

 色気のある声で春子がそっとささやく。小夏が、伝票の端に小さく『西園寺=レモン×1/3』と計算メモが春子の手に見えた。今日はまだ三分の一しか空いてないらしい。まだだ。

 店の扇風機が風向きを変え、提灯の切れた紐がまた揺れた。
 
 アメリアがビールのジョッキを何度もテーブルに意味もなくたたきつけた。
 
「ねえ、誠ちゃん。暇って、いいことなんだよ。暇ってことは、誰も死んでないってことだから。私はね、暇な日に乾杯できる職場が、一番好きだわ……まあ、そのぶん、動くときはシャレにならないことになると思うけどね」
 
 糸目の奥が、やわらかい光になる。
 
「でもまあ、そのうち来るけどね。『本当の仕事』。その時は、今日の汗が、ちょっとだけ効くことになるかもね」

 誠は、レバーを一つ、覚悟して口に運んだ。鉄の味が口の中に広がる。
 
 模擬戦の仮想汗と、今の現実の汗が、喉の奥で交ざった。
 
『暇は、たしかに、いい。けれど同時に、僕の足は、いつでも踏み込める位置に置いておきたい。……少なくとも、二週間前の僕よりは、ちょっとだけマシな位置に』
 
 ビールを飲むジョッキを手に誠はそんなことを考えていた。

 グラスを置く音が、微妙に前のめりになる。

 七人分の皿がほぼ空になったころ、外は群青。ビルの向こうの空の色が、夜に移る手前の一番いい時間だった。

 ガラス戸の向こうで、提灯の切れた紐だけが、まだ風に揺れていた。
 
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