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第十九章 『特殊な部隊』と寿司
第50話 鏡は間違えない、舌は学ぶ
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次の日は雨だった。
庁舎のひさしを叩く雨粒が、規則と不規則の境目を行き来する。灰色の雲の影は敷地のコンクリートを暗く沈め、訓練場の白線は細く滲んでいる。ランニングと地獄の筋トレは中止になり、代わって『これまでのシミュレーションの感想をまとめる』書類仕事に置き換えられた。キーボードの乾いた音だけが、雨音のグルーヴに寄り添って続く。
終業時間が近づくにつれ、誠の背中にはいつもより重い湿気がまとわりついた。そんな暗鬱に、ふっと差し込む灯りのように、笑顔のかわいいランが視界の端に現れる。
「今日、寿司連れてってやる……感謝しろよ。オメーはアタシなりによくやってるという評価している証だ。まーアタシは食い物にはこだわる質でね……期待して良ーぞ」
いつもどおり、ランは中佐のデスクに据えられた将棋盤へ視線を落としつつ、駒をひとつ指で弾いた。桂馬。跳ねる軌道の駒を、ちいさな指先でくるりと返す仕草が妙に板についている。雨で重くなった背中にだけ、ぽんと明かりをつけられたみたいだった。
「よかったな……寿司じゃん」
「初めてじゃないか?配属一月以内に中佐が隊員を、寿司に連れて行くなんて」
かなめもカウラも、いつになく素直な笑みでこちらを見た。雨の日はみんな、少し優しい。
「回転寿司ですか?回転ずしもおいしいところがあるらしいですけど……どこのチェーンです?それとも千要は魚介類で有名だから僕の生まれた東都には無いローカルチェーンでもあるんですか?」
思わず前のめりで尋ねる誠。胸の内では、醤油皿にぽちゃんと落ちる想像のひとかけが波紋を広げる。
「おいおいおい。アタシの食通ぶりを舐めてんのか?職人の握らねえ寿司は寿司じゃねー!ちげーよ。ちゃんとしたカウンターの寿司だ。ちゃんとした職人が掌の温度まで考えて強すぎず弱すぎずの絶妙な力で握って出すのが寿司ってもんだ。それ以外は寿司によく似た別の食いもんだ。アタシはそんなの寿司だなんて認めてねーんだよ!なんでもそこの大将は、東都の銀座で修業したとか言ってたぞ。アタシも東和国防軍のお偉いさんに連れられて銀座の名店は一通り制覇しているが、あの味なら十分通用するレベルだ。菱川重工のお偉いさん目当ての結構高級な店なんだそーな。確かにそんな人間じゃねーとあの微妙な違いは理解できねーだろーな。まーアタシはあそこでは一番の常連でね。週に一度はあそこで一杯やるのが楽しみなんだ。その付き合いもあるからアタシが良い仕入れ先を教えてやったから、それが縁ですっかり顔になっちまったが……まーそんな縁なんてものも良ーもんだとアタシは思ってる……戦場じゃ作れない種類の縁ってやつだ……アタシが前の戦争で負けることで手に入れた数多くの良いことの一つがそれだ」
ランは桂馬を手に、盤面を読みながらさらりと言う。その口ぶりは簡単だが、『縁をつくる』手腕の影がにじむ。
誠は、回っていない寿司という未知に胸をくすぐられつつ、モニタに残った入力欄を小走りで埋め、送信の確認ダイアログを叩いた。昨日の島田の仕打ちで頭をよぎった『退職』という黒い札は、雨の音の中でどこかへ流れていく。
「食通で鳴らすクバルカ中佐が認めた寿司だからな……タダより高いものは無いということもある。気を付けた方が良い」
カウラのぼそりは、薄い蒸気のように空中に溶けた。忠告の意味は分かる。だが、胃袋の歓喜は理屈に勝ちやすい。誠は素直に急ぎ、更衣ロッカーに向かう。
更衣室の金属扉は、濡れた靴底のせいでいつもより少し重い。着替えを済ませてドアを押すと、廊下は雨の匂いでひんやりとして、床ワックスの鈍い反射が蛍光灯を縞にした。ドアのすぐ横に設けられた喫煙所からは白い煙の帯がゆるく流れ出ている。
「寿司食えるんだ……いいねえ……俺半年以上食ってねえけど」
安物のソファにだらりと腰を落とし、灰皿を遠くに置いたまま器用に灰を落とすのは、嵯峨。雨の日の隊長は、いつもより『駄目人間』の羽織が似合う。
「しかも回らない寿司って……ありがとうございます!」
誠の心はもう、木のカウンター、濡れた柳葉包丁、朱の塗り椀に支配されていた。思わず頭を下げると、嵯峨は鼻で笑う。
「俺が奢るんじゃねえんだから……まあ、いいや。ランに色々教わんな……あのちっちゃいのは、見た目に反して読書家だからな。色々、社会勉強ができるだろうよ。まず、お前さんに欠けてるのはその部分だからな。頑張りな」
紫煙がゆっくりと空調の吸い込み口へ吸われていく。雨の音と換気扇が混じるこの箱は、たいていの説教がよく響く。
「アイツの社会常識問題についていくために必須の知識なんだが……甲武国は……『共和国』じゃない。『帝国』でもない。その理由……分かるか?」
嵯峨の目がわずかに細くなる。社会という語にアレルギーがある誠は、反射的に身構えた。
「僕……社会は苦手なんで」
素直に白旗を掲げれば、嵯峨は肩をすくめるだけだ。
「それは知ってるよ……理由は簡単だな。甲武国の元首は人間じゃないんだ……皇帝や王様が君臨しているわけじゃないから『帝国』でも『王国』でもない……なんだか奇妙な国だろ?あそこの『伝統』を重視する連中から言わせるとだからこそ『甲武は選ばれた神の国』なんだそうだ」
見慣れた煙草の箱を指で叩きながら、嵯峨は軽く笑う。言っている中身は笑えないのに。
「人間じゃない……『神の国』?というか『元首』ってなんです?」
正面からの疑問に、嵯峨は心底あきれた、しかしどこか楽しげな表情で見上げた。
「あのなあ……お前さんも一応は大学出てるんだろ?確かに聞いてるよ、お前さんの社会常識の欠如の原因は。高校時代までは野球一筋。大学に入ったら入ったでプラモとかフィギュア作成とかイラスト作成ばかりに熱中して新聞もテレビも見て無かったって、お前さんの母さんも嘆いてた。まあいいや、元首って言うのはその国の代表のこった。あそこの元首はな……『鏡』なんだ……『甲武の御鏡』と呼ばれて貴族の会議をやる『金烏殿』と呼ばれる建物の奥深くに飾られてる」
「鏡?鏡が代表なんですか?」
雨音が一瞬だけ遠のく。思わず口ごもる誠。
「そう、鏡。遼帝国の遼薫とか言う皇帝から初代の甲武国宰相西園寺基……ああ、かなめのご先祖な。そのかなめのご先祖が受け取った鏡があそこの国の元首なんだ。あそこの四大公家である西園寺家、九条家、田安家、嵯峨家はその鏡の信任に応えて政を行うことになってるんだ」
言葉は淡々としていた。だが、その背後には歴史という重い衣が畳まれている気配がした。
「鏡が信任? そんな機能があるんですか? AIでも搭載してるんですか? すごいですね。まるで地球みたいだ。地球じゃあ大手の企業は従業員なんて一人もいなくて全部AIが企業を運営してるんでしょ?遼帝国って……焼き畑農業しかしないのに何でそんなに技術が発達していたんですか?どんな技術を使ったんです?ぼくの『力』とやらも関係あるんですか?」
自分でも間抜けだと分かる返ししかできない。嵯峨は、煙を咥えた口の端で笑った。
「AI搭載って……そんな鏡気持ち悪いわな。その鏡はしゃべりもしないし文字が浮き出るわけじゃねえよ。第一、独立当初の遼帝国にそんな技術はねえよ。まあ、お前さんの『力』とは無関係とはいえないのは確かなんだけどな。そんな『地球人が文明化してやった』と信じてるこんな二十世紀末日本を再現した東和共和国とは違って、今でも焼き畑農業が灌漑農業に変わったくらいで電気もガスも必要としない昔ながらの生活をしている。そんな国だから今でもそんなAI搭載の鏡なんて作れねえよ。ただの普通の青銅製の鏡だ。俺は見たことがあるが……何のことは無い、何の変哲もない半径二十五センチぐらいの丸い鏡だ。裏になんか色々書いてあるらしいが……殿上貴族の最高位にあるかなめ坊じゃねえんだ。俺は表しか見たことがねえよ。まあ、綺麗に顔が映る普通の鏡だよ。ただそれだけ」
見たことがある、と彼は言った。その一言が、何よりも現実味を帯びる。
「なんでそんな鏡をありがたがるんです?鏡なんていくらでも作れるじゃないですか」
「その理由は簡単だ……人は間違うが物は間違わないって訳。いわゆる国の御神体だな。神社とかに大木とか石とか御神体にしているところあるじゃん。そんな感じだな。だから甲武を『神の国』ということでその伝統を絶対化して身分制を維持している人間にとってはその根拠ともいえるのがそれが頂点で国が一つの形として成り立っているというところにあるわけだ。連中はそれを『国体』と称して神聖視しているが、どこかの負けの決まった戦争を初めて予想通り負けた国みたいで俺は好きじゃないけどね」
嵯峨は誠でもイメージしやすいように言葉を選びながらそう言った。
「確かにそう言う神社はありますね。いわゆる神が宿っているって……そんな理解で良いんですか?」
「まあそう考えると一番しっくりくるわな。鏡が神様って訳だな。神様だもん……間違いを犯すわけがない。だから『鏡が神様』逆らうものは不遜……って鏡が何か言うわけないじゃないの。その鏡の権威をかさに着て威張ってるアンタ等に俺は逆らってるんだよって言うのが若い頃の俺が教官や上官に向って言った言葉だな……今でも思い出すよ」
そう言い切る嵯峨の顔に影が差すのを誠は見逃さなかった。
「確かにそうですけど……代表なんですよね?その鏡は。でも国の代表が何かを決めなきゃならない時はどうするんですか?鏡が間違いを犯さないって鏡が何か言うわけがないじゃないですか。間違云々以前の話でしょ?」
いくらなんでも無茶がある。誠には嵯峨の『鏡が御神体ですべてを決める』と言う言葉を今一つ理解できないでいた。
「そんなもん政治をやってる甲武国をその血筋によって支配している貴族が決めりゃあいい。そしてその責任は貴族が鏡に対してとる訳だ。だからそいつ等は間違いを犯すと酷い目に遭う……まあ、神である『御鏡』に恥をかかせたんだから当然の報いだというんだが……鏡が恥ずかしがるようなことは無いと俺は思うんだけどね。それを絶対だと言いたがる連中にとっては違うらしいけど」
「なんかしっくりしないんですけど……ただ単に誰かを生贄に差し出して自分達の責任を逃れたいだけのように聞こえますけど……」
誠のなかで、東和共和国の大統領制の図と、鏡という『物』がどうしても重ならない。雨の縞が、思考の窓をさらに曇らせる。
「鏡はただ政治を行う貴族達の顔を映すだけ……その苦悩も愚かさもすべてはっきりと映す……間違いを犯すことが無いんだ。だから鏡が元首って訳。絶対に過ちを犯さない元首が出来上がるんだ……そしてお前さんの言う通り、間違いを犯したと貴族の誰かがその中の一人にそれを全部押し付ければ後の人間は責任逃れが出来る……いくらでも都合よく解釈で来て便利なシステム……見事なもんだよ」
灰皿にコツ、と灰が落ちる音。喫煙所の時計が、分針を一目盛りだけ進めた。誠の頭の中には、誰もいない玉座の上に、ぽつんと鏡だけが置かれている図が浮かんだ。そこに頭を下げる人々の列。その滑稽さと薄気味悪さが、同時に喉に引っかかった。
「でも誰も異論をはさまないんですか?どう考えても僕には変なことに思えるんですけど……」
誠の問いを嵯峨は何かを諦めたような笑顔を返すことで答えた。
「異論を言う人間の顔を映すのもまた鏡なんだ。鏡に文句言ったって疲れるだけだよ……それに失政は鏡に忠誠を誓った貴族達が悪いってこと。鏡は何1つ間違っちゃいないわけだ……失敗できるのは人間の特権だな……でも、失敗を押し付けられた可哀そうな貴族は別としてそれ以外の人間は一切責任はないと言って言い逃れが出来る。そして、そうして切り捨てられた貴族に取って代わる……この東和が選挙で大統領や首相を決めているように甲武じゃあそんな責任の押し付け合いに勝利した無責任な世渡り上手が全権を手にする……のが20年前のどんな言い逃れも通用しない大失敗である第二次遼州大戦まで続いてきたわけだ」
「それが甲武国の政治……」
誠には理解不能な国……かなめや嵯峨の育った甲武と言う国が誠にはさらに分からなくなっていた。
「そう。鏡に誓いを立て鏡に頭を下げて政治を行うのがあそこの貴族ってことなんだ。選ばれた血とやらだけでその地位に上り詰めた人間が責任の押し付け合いに終始する……そして隙あれば責任は取らないけど自由に国を動かせるおいしい地位に就こうとする……だからそんな地位である『関白太政大臣』……なんてお前さんは知らないよね?あの国の貴族の最高位の地位、政府の責任者の『宰相』の任免権すら握るが一切責任を取らないという決定権はあるけど責任は全部『宰相』に押し付けて済ませられるおいしい貴族の最高位なんだ……かなめ坊の父親の義兄貴はその地位を降りて、本来『関白太政大臣』を降りると就くことになる『太閤』にすらならずに平民になって責任を負わされる宰相になった……それなりの覚悟があるんだろうな……何の得も無いのにね」
外の雨脚が、少しだけ弱まった。繁華な夜の前触れのように、基地の駐車場に車の灯りが点き始める。
「じゃあ前の戦争でたくさんの甲武の兵が死んだのは……その時の宰相のせいに?その時の『関白太政大臣』や『太閤』は何の責任にも問われなかったんですか?」
誠は甲武の責任の押し付け合いの政治が理解できずにそうつぶやくことしかできなかった。
「甲武の兵隊は鏡の為に死んだわけだが……死んだ原因を作ったのは時の政府と軍って訳なんだ。鏡は何も間違っちゃいない……全責任は負ける戦争をした政府にある訳だ。あと、時の最高の貴族である『太閤』はかなめ坊の爺さんで俺にとっては義父である西園寺重基。義父は戦争反対一本やりで軍部や時の宰相を務める軍人出身の政治家をこき下ろしてほとんど幽閉同然に暮らしてた。そして『関白太政大臣』もその息子でかなめ坊の親父さんの義兄貴の西園寺義基ってこっちは外務省で遼帝国の大使なんかを歴任した外務官僚とは名が知れた人物だったんだが義兄貴も軍部とは反りが合わないから外務省への出仕を停止させられて家に閉じこもってた。だから四大公家筆頭の西園寺家は前の戦争では一切責任を取らなかったわけだ。ただ、俺もそんな事は言えないでしょ?アンタ等は軍部の暴走や庶民の熱狂を止められたんじゃないの?とは隣で見てて思ってた。俺もそんな鏡に責任を取るべき貴族の一人で、力の足りなかった無能な軍人。ただそう言うことだ」
嵯峨は胸ポケットから二本目を抜いた。火の先が小さく灯る。
「どこか……納得できないんですけど。戦争に反対した人が責任を負うって変ですよね?負ける戦争をした人たちが責任から逃げたってのは卑怯ですよね?違いますか?それと隊長は戦争に反対したんでしょ?なのになんでそれに責任を感じるんです?貴族だからですか?軍人だからですか?」
誠は首をかしげる。モノのためにヒトが死ぬ、そして誰の責任でそれが起きたかは誰も分からない。その合理と不条理の同居に胃がざわついた。
「そうかい。俺にはよくできた政治体制と言えると思うがね。人間は絶対に間違える生き物だ。その生き物の顔を映し出す鏡が映された人間に全権を与える。そして責任はあっちこっちに分散して結果的に国家の危機に瀕するような政局にまでは発展しないから国家体制は何時までも変わらずに永続させることができる……隠喩が効いててなかなか興味深いし、巧妙にできた『伝統』とやらを守るためシステムだよ。義兄はそれがあんまり好きじゃねえから『関白太政大臣』なんて辞めてやるって言って平民になったわけだがね。……義兄貴は人間が好きだからな、人間が元首の国にしたいんだろ、甲武を。例え、次に危機が訪れたときは自分やその人間が責任を取らされて甲武の『伝統』が壊れてもそんなものは人間が人間らしく生きていくことに比べれば全く無価値だというのが義兄貴の思想だな」
嵯峨は上手そうにタバコの煙を吸うと天井に煙を噴き上げた。その言葉の意味を全部は理解できない。ただ、『伝統』よりも『人間らしさ』の方を選ぶ、という感覚だけは、誠の胸にすとんと落ちた。
「隊長のお兄さんってことは西園寺さんのお父さんですよね。人間が好きな宰相……良い国ですね。それとそんな責任を取る覚悟……自分勝手な西園寺さんに見習ってほしいです」
嵯峨は口角をひとつだけ上げた。
「人間好きな政治家ねえ……あそこの政治家は確かに国民のことを考えて政治をしたことなんて無かったな。それは鏡が元首の国の弱点かも知れないね。初めての『人間を愛する』宰相の登場……かなめ坊の親父、俺の義兄の登場は時代の必然なのか、それとも鏡の意図に反した異質な要素なのか……それは俺にも分からないよ……それは時代が判断する……そして次の時代という物が有れば、その時に生きている人間がそれを評価する。それが歴史って呼ばれるものだ。まあ、歴史には極端に偏った知識しか持ってないお前さんには理解できない話かもしれないけどね」
時に人を食ったような顔をする嵯峨のまさにそんな顔が誠の目の目に遭った。
「良い時代が来るんじゃないですか、甲武国にも。西園寺さんのお父さん。どんな人なんですか?」
普段は社会に背を向けてきた誠の口から、自然に問いが零れる。ここに来てから、世界の地図が少しずつ色づいてきた。
「西園寺義基……。『平民』も身分や特権を握っている連中も生まれに関係なく平等に生きていける政治、そしてその人間こそが責任を取る政治をやろうと考えている『伝統』なんていう形式じゃなくて生きている人間の為の政治をやろうという政治家だ。俺は長いことあそこの家に厄介になってたからな……義兄にゃあ頭が上がらねえんだ。それ以上にそのかみさんには頭が上がらねえがな」
嵯峨が珍しく人に敬意をもってその人となりを語っている。誠は初めて見る光景にさらに好奇心を刺激された。
「良い人みたいですね……それじゃあ西園寺さんのお母さんってどんな人なんです?隊長が頭が上がらない人って想像がつかないですし、西園寺さんは相当厳しく育てられたみたいでそのことを口にすると黙って銃に手をやるんで怖くって聞けないんです」
そんな言葉が誠の口を突いて出たのは当然のことかもしれなかったが、その言葉を聞くなり嵯峨の表情は明らかに不機嫌なものに変わった。
「そりゃあ……かなめが銃に手をやる理由も俺もよく分かる。というか、俺も今、お前さんがあの女の話をした瞬間にそのまま取るもの取り合えずに隊長室に『粟田口国綱』を取りに行きたくなったくらいだもん……まあ、一言でいえば……鬼」
珍しく真剣な表情で物騒なことを口にする嵯峨の顔から笑いが消えていたことでかなめの母親が誠との想像を絶する人物であろうことは誠でも理解できた。
「ああ、今の話は聞かなかったことにしてね。そんな事を俺が言ったなんてあの鬼に聞こえたら俺は殺されるな。恐らく俺の知ってる限り、うちのランと互角にやりあえるのはあのおばさんともう一人……それについちゃあお前さんの方が詳しいか。つまり、この時点でこの宇宙には『人外魔法少女』が最低三人いることをお前さんは分かったんだ。良かったね、上には上がいるもんだよ。俺もこの三人には逆立ちしたって勝てないから」
誠は思わず目をむく。嵯峨はすぐに片手を振って帳尻を合わせる。
「まあ、『人外魔法少女』なんて言った時点で分かれよ……冗談だよ。まあ食えないオバサンだな。俺が鬼扱いしてたのは忘れろ。本当に冗談じゃ済まなくなる」
「はあ」
皮肉の笑みと紫煙。喫煙所の空気は、いつも半歩だけ非公式だ。
「まあさっきも神社の話が出たように宗教とか研究すると似たような話が出てくるが……お前さんは理系だもんな。関心ないんだろ?」
嵯峨はタバコを吸いながらも分かったのか分かっていないのかすらよく分かっていない誠の顔を呆れた顔で見つめてそう言った。
「また馬鹿にしてるんですか?確かに、西園寺さんのお母さんが怖いこと以外はよくわからない話ばかりで……そんな事なら高等数学の計算式でも見ている方が精神衛生には良いとは思ってます」
こうして口にした言葉が今の誠の本音だった。
「そう卑屈になりなさんなって。それに俺も経済学を勉強するのに微分積分なんかを学んだ以上の数学の難しい話なんて知らないんだからそっから先の話をお前さんにされたら俺も何が何だかわからないとしか答えられないと思うよ。そんなに政治や歴史の知識が欲しいなら寿司でも食いながらランに相談してみな。いい本を紹介してくれるんじゃないかな……お前さんに理解できるかどうかは別だが」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃないですか!人を持ち上げてから落とす!典型的な人を見下している人間の論法ですよ!」
誠はなんやかんや言いながら自分を馬鹿にして笑ってタバコをふかす嵯峨に抗議した。
「馬鹿にされるような知識量だから馬鹿にされるんだよ。フェルマーの最終定理は戦争じゃ何の役にも立たないんだ。俺達は『武装警察』その仕事にはフェルマーの最終定理は必要ないから必要な知識を勉強しなさいって……ああ、それはランの決め台詞だったな」
「確かにクバルカ中佐ならそう言いそうですけど」
誠は何か質問するたびに嫌な顔をして『勉強しろ!』と叫ぶちっちゃな上官を思い出して苦笑した。
「そこまで分かってるならちょっとは勉強してよ……社会常識だよそんなの。だから1つも内定貰えないんだよ」
胸の一番やわらかいところを、指でつつかれたみたいに痛む。誠はつい眉根を寄せ、睨み返した。
「人の進路をすべて潰した人の言うセリフですか?それ」
「確かにな……それよりランを待たせてるんだろ?行って来いよ。それと海産物が貴重な甲武じゃ寿司はそれこそ貴族の中でも選ばれた支配階級の特権なんだ。その辺を理解して食ってくれると俺としてもお前さんと話をした甲斐があるってもんだ」
嵯峨の吐く煙は、どこか機嫌の良い形をして天井へほどけた。雨音はいつのまにか小降り。店先の暖簾の音が、脳裏に先回りして揺れる。
「行ってきます!それとさっき隊長が言ってたこと!ネットで調べてみますね!」
喫煙所のドアを押し開ける。廊下の蛍光灯が白くのび、濡れた窓ガラスに街の灯りがぼんやり滲む。さんざんおもちゃにされたという事実と、そうされて当然の自分の無知を同時に抱えながら、誠は大股で歩きだした。
雨上がりの夜に、回らない寿司のカウンターが静かに待っていた。
庁舎のひさしを叩く雨粒が、規則と不規則の境目を行き来する。灰色の雲の影は敷地のコンクリートを暗く沈め、訓練場の白線は細く滲んでいる。ランニングと地獄の筋トレは中止になり、代わって『これまでのシミュレーションの感想をまとめる』書類仕事に置き換えられた。キーボードの乾いた音だけが、雨音のグルーヴに寄り添って続く。
終業時間が近づくにつれ、誠の背中にはいつもより重い湿気がまとわりついた。そんな暗鬱に、ふっと差し込む灯りのように、笑顔のかわいいランが視界の端に現れる。
「今日、寿司連れてってやる……感謝しろよ。オメーはアタシなりによくやってるという評価している証だ。まーアタシは食い物にはこだわる質でね……期待して良ーぞ」
いつもどおり、ランは中佐のデスクに据えられた将棋盤へ視線を落としつつ、駒をひとつ指で弾いた。桂馬。跳ねる軌道の駒を、ちいさな指先でくるりと返す仕草が妙に板についている。雨で重くなった背中にだけ、ぽんと明かりをつけられたみたいだった。
「よかったな……寿司じゃん」
「初めてじゃないか?配属一月以内に中佐が隊員を、寿司に連れて行くなんて」
かなめもカウラも、いつになく素直な笑みでこちらを見た。雨の日はみんな、少し優しい。
「回転寿司ですか?回転ずしもおいしいところがあるらしいですけど……どこのチェーンです?それとも千要は魚介類で有名だから僕の生まれた東都には無いローカルチェーンでもあるんですか?」
思わず前のめりで尋ねる誠。胸の内では、醤油皿にぽちゃんと落ちる想像のひとかけが波紋を広げる。
「おいおいおい。アタシの食通ぶりを舐めてんのか?職人の握らねえ寿司は寿司じゃねー!ちげーよ。ちゃんとしたカウンターの寿司だ。ちゃんとした職人が掌の温度まで考えて強すぎず弱すぎずの絶妙な力で握って出すのが寿司ってもんだ。それ以外は寿司によく似た別の食いもんだ。アタシはそんなの寿司だなんて認めてねーんだよ!なんでもそこの大将は、東都の銀座で修業したとか言ってたぞ。アタシも東和国防軍のお偉いさんに連れられて銀座の名店は一通り制覇しているが、あの味なら十分通用するレベルだ。菱川重工のお偉いさん目当ての結構高級な店なんだそーな。確かにそんな人間じゃねーとあの微妙な違いは理解できねーだろーな。まーアタシはあそこでは一番の常連でね。週に一度はあそこで一杯やるのが楽しみなんだ。その付き合いもあるからアタシが良い仕入れ先を教えてやったから、それが縁ですっかり顔になっちまったが……まーそんな縁なんてものも良ーもんだとアタシは思ってる……戦場じゃ作れない種類の縁ってやつだ……アタシが前の戦争で負けることで手に入れた数多くの良いことの一つがそれだ」
ランは桂馬を手に、盤面を読みながらさらりと言う。その口ぶりは簡単だが、『縁をつくる』手腕の影がにじむ。
誠は、回っていない寿司という未知に胸をくすぐられつつ、モニタに残った入力欄を小走りで埋め、送信の確認ダイアログを叩いた。昨日の島田の仕打ちで頭をよぎった『退職』という黒い札は、雨の音の中でどこかへ流れていく。
「食通で鳴らすクバルカ中佐が認めた寿司だからな……タダより高いものは無いということもある。気を付けた方が良い」
カウラのぼそりは、薄い蒸気のように空中に溶けた。忠告の意味は分かる。だが、胃袋の歓喜は理屈に勝ちやすい。誠は素直に急ぎ、更衣ロッカーに向かう。
更衣室の金属扉は、濡れた靴底のせいでいつもより少し重い。着替えを済ませてドアを押すと、廊下は雨の匂いでひんやりとして、床ワックスの鈍い反射が蛍光灯を縞にした。ドアのすぐ横に設けられた喫煙所からは白い煙の帯がゆるく流れ出ている。
「寿司食えるんだ……いいねえ……俺半年以上食ってねえけど」
安物のソファにだらりと腰を落とし、灰皿を遠くに置いたまま器用に灰を落とすのは、嵯峨。雨の日の隊長は、いつもより『駄目人間』の羽織が似合う。
「しかも回らない寿司って……ありがとうございます!」
誠の心はもう、木のカウンター、濡れた柳葉包丁、朱の塗り椀に支配されていた。思わず頭を下げると、嵯峨は鼻で笑う。
「俺が奢るんじゃねえんだから……まあ、いいや。ランに色々教わんな……あのちっちゃいのは、見た目に反して読書家だからな。色々、社会勉強ができるだろうよ。まず、お前さんに欠けてるのはその部分だからな。頑張りな」
紫煙がゆっくりと空調の吸い込み口へ吸われていく。雨の音と換気扇が混じるこの箱は、たいていの説教がよく響く。
「アイツの社会常識問題についていくために必須の知識なんだが……甲武国は……『共和国』じゃない。『帝国』でもない。その理由……分かるか?」
嵯峨の目がわずかに細くなる。社会という語にアレルギーがある誠は、反射的に身構えた。
「僕……社会は苦手なんで」
素直に白旗を掲げれば、嵯峨は肩をすくめるだけだ。
「それは知ってるよ……理由は簡単だな。甲武国の元首は人間じゃないんだ……皇帝や王様が君臨しているわけじゃないから『帝国』でも『王国』でもない……なんだか奇妙な国だろ?あそこの『伝統』を重視する連中から言わせるとだからこそ『甲武は選ばれた神の国』なんだそうだ」
見慣れた煙草の箱を指で叩きながら、嵯峨は軽く笑う。言っている中身は笑えないのに。
「人間じゃない……『神の国』?というか『元首』ってなんです?」
正面からの疑問に、嵯峨は心底あきれた、しかしどこか楽しげな表情で見上げた。
「あのなあ……お前さんも一応は大学出てるんだろ?確かに聞いてるよ、お前さんの社会常識の欠如の原因は。高校時代までは野球一筋。大学に入ったら入ったでプラモとかフィギュア作成とかイラスト作成ばかりに熱中して新聞もテレビも見て無かったって、お前さんの母さんも嘆いてた。まあいいや、元首って言うのはその国の代表のこった。あそこの元首はな……『鏡』なんだ……『甲武の御鏡』と呼ばれて貴族の会議をやる『金烏殿』と呼ばれる建物の奥深くに飾られてる」
「鏡?鏡が代表なんですか?」
雨音が一瞬だけ遠のく。思わず口ごもる誠。
「そう、鏡。遼帝国の遼薫とか言う皇帝から初代の甲武国宰相西園寺基……ああ、かなめのご先祖な。そのかなめのご先祖が受け取った鏡があそこの国の元首なんだ。あそこの四大公家である西園寺家、九条家、田安家、嵯峨家はその鏡の信任に応えて政を行うことになってるんだ」
言葉は淡々としていた。だが、その背後には歴史という重い衣が畳まれている気配がした。
「鏡が信任? そんな機能があるんですか? AIでも搭載してるんですか? すごいですね。まるで地球みたいだ。地球じゃあ大手の企業は従業員なんて一人もいなくて全部AIが企業を運営してるんでしょ?遼帝国って……焼き畑農業しかしないのに何でそんなに技術が発達していたんですか?どんな技術を使ったんです?ぼくの『力』とやらも関係あるんですか?」
自分でも間抜けだと分かる返ししかできない。嵯峨は、煙を咥えた口の端で笑った。
「AI搭載って……そんな鏡気持ち悪いわな。その鏡はしゃべりもしないし文字が浮き出るわけじゃねえよ。第一、独立当初の遼帝国にそんな技術はねえよ。まあ、お前さんの『力』とは無関係とはいえないのは確かなんだけどな。そんな『地球人が文明化してやった』と信じてるこんな二十世紀末日本を再現した東和共和国とは違って、今でも焼き畑農業が灌漑農業に変わったくらいで電気もガスも必要としない昔ながらの生活をしている。そんな国だから今でもそんなAI搭載の鏡なんて作れねえよ。ただの普通の青銅製の鏡だ。俺は見たことがあるが……何のことは無い、何の変哲もない半径二十五センチぐらいの丸い鏡だ。裏になんか色々書いてあるらしいが……殿上貴族の最高位にあるかなめ坊じゃねえんだ。俺は表しか見たことがねえよ。まあ、綺麗に顔が映る普通の鏡だよ。ただそれだけ」
見たことがある、と彼は言った。その一言が、何よりも現実味を帯びる。
「なんでそんな鏡をありがたがるんです?鏡なんていくらでも作れるじゃないですか」
「その理由は簡単だ……人は間違うが物は間違わないって訳。いわゆる国の御神体だな。神社とかに大木とか石とか御神体にしているところあるじゃん。そんな感じだな。だから甲武を『神の国』ということでその伝統を絶対化して身分制を維持している人間にとってはその根拠ともいえるのがそれが頂点で国が一つの形として成り立っているというところにあるわけだ。連中はそれを『国体』と称して神聖視しているが、どこかの負けの決まった戦争を初めて予想通り負けた国みたいで俺は好きじゃないけどね」
嵯峨は誠でもイメージしやすいように言葉を選びながらそう言った。
「確かにそう言う神社はありますね。いわゆる神が宿っているって……そんな理解で良いんですか?」
「まあそう考えると一番しっくりくるわな。鏡が神様って訳だな。神様だもん……間違いを犯すわけがない。だから『鏡が神様』逆らうものは不遜……って鏡が何か言うわけないじゃないの。その鏡の権威をかさに着て威張ってるアンタ等に俺は逆らってるんだよって言うのが若い頃の俺が教官や上官に向って言った言葉だな……今でも思い出すよ」
そう言い切る嵯峨の顔に影が差すのを誠は見逃さなかった。
「確かにそうですけど……代表なんですよね?その鏡は。でも国の代表が何かを決めなきゃならない時はどうするんですか?鏡が間違いを犯さないって鏡が何か言うわけがないじゃないですか。間違云々以前の話でしょ?」
いくらなんでも無茶がある。誠には嵯峨の『鏡が御神体ですべてを決める』と言う言葉を今一つ理解できないでいた。
「そんなもん政治をやってる甲武国をその血筋によって支配している貴族が決めりゃあいい。そしてその責任は貴族が鏡に対してとる訳だ。だからそいつ等は間違いを犯すと酷い目に遭う……まあ、神である『御鏡』に恥をかかせたんだから当然の報いだというんだが……鏡が恥ずかしがるようなことは無いと俺は思うんだけどね。それを絶対だと言いたがる連中にとっては違うらしいけど」
「なんかしっくりしないんですけど……ただ単に誰かを生贄に差し出して自分達の責任を逃れたいだけのように聞こえますけど……」
誠のなかで、東和共和国の大統領制の図と、鏡という『物』がどうしても重ならない。雨の縞が、思考の窓をさらに曇らせる。
「鏡はただ政治を行う貴族達の顔を映すだけ……その苦悩も愚かさもすべてはっきりと映す……間違いを犯すことが無いんだ。だから鏡が元首って訳。絶対に過ちを犯さない元首が出来上がるんだ……そしてお前さんの言う通り、間違いを犯したと貴族の誰かがその中の一人にそれを全部押し付ければ後の人間は責任逃れが出来る……いくらでも都合よく解釈で来て便利なシステム……見事なもんだよ」
灰皿にコツ、と灰が落ちる音。喫煙所の時計が、分針を一目盛りだけ進めた。誠の頭の中には、誰もいない玉座の上に、ぽつんと鏡だけが置かれている図が浮かんだ。そこに頭を下げる人々の列。その滑稽さと薄気味悪さが、同時に喉に引っかかった。
「でも誰も異論をはさまないんですか?どう考えても僕には変なことに思えるんですけど……」
誠の問いを嵯峨は何かを諦めたような笑顔を返すことで答えた。
「異論を言う人間の顔を映すのもまた鏡なんだ。鏡に文句言ったって疲れるだけだよ……それに失政は鏡に忠誠を誓った貴族達が悪いってこと。鏡は何1つ間違っちゃいないわけだ……失敗できるのは人間の特権だな……でも、失敗を押し付けられた可哀そうな貴族は別としてそれ以外の人間は一切責任はないと言って言い逃れが出来る。そして、そうして切り捨てられた貴族に取って代わる……この東和が選挙で大統領や首相を決めているように甲武じゃあそんな責任の押し付け合いに勝利した無責任な世渡り上手が全権を手にする……のが20年前のどんな言い逃れも通用しない大失敗である第二次遼州大戦まで続いてきたわけだ」
「それが甲武国の政治……」
誠には理解不能な国……かなめや嵯峨の育った甲武と言う国が誠にはさらに分からなくなっていた。
「そう。鏡に誓いを立て鏡に頭を下げて政治を行うのがあそこの貴族ってことなんだ。選ばれた血とやらだけでその地位に上り詰めた人間が責任の押し付け合いに終始する……そして隙あれば責任は取らないけど自由に国を動かせるおいしい地位に就こうとする……だからそんな地位である『関白太政大臣』……なんてお前さんは知らないよね?あの国の貴族の最高位の地位、政府の責任者の『宰相』の任免権すら握るが一切責任を取らないという決定権はあるけど責任は全部『宰相』に押し付けて済ませられるおいしい貴族の最高位なんだ……かなめ坊の父親の義兄貴はその地位を降りて、本来『関白太政大臣』を降りると就くことになる『太閤』にすらならずに平民になって責任を負わされる宰相になった……それなりの覚悟があるんだろうな……何の得も無いのにね」
外の雨脚が、少しだけ弱まった。繁華な夜の前触れのように、基地の駐車場に車の灯りが点き始める。
「じゃあ前の戦争でたくさんの甲武の兵が死んだのは……その時の宰相のせいに?その時の『関白太政大臣』や『太閤』は何の責任にも問われなかったんですか?」
誠は甲武の責任の押し付け合いの政治が理解できずにそうつぶやくことしかできなかった。
「甲武の兵隊は鏡の為に死んだわけだが……死んだ原因を作ったのは時の政府と軍って訳なんだ。鏡は何も間違っちゃいない……全責任は負ける戦争をした政府にある訳だ。あと、時の最高の貴族である『太閤』はかなめ坊の爺さんで俺にとっては義父である西園寺重基。義父は戦争反対一本やりで軍部や時の宰相を務める軍人出身の政治家をこき下ろしてほとんど幽閉同然に暮らしてた。そして『関白太政大臣』もその息子でかなめ坊の親父さんの義兄貴の西園寺義基ってこっちは外務省で遼帝国の大使なんかを歴任した外務官僚とは名が知れた人物だったんだが義兄貴も軍部とは反りが合わないから外務省への出仕を停止させられて家に閉じこもってた。だから四大公家筆頭の西園寺家は前の戦争では一切責任を取らなかったわけだ。ただ、俺もそんな事は言えないでしょ?アンタ等は軍部の暴走や庶民の熱狂を止められたんじゃないの?とは隣で見てて思ってた。俺もそんな鏡に責任を取るべき貴族の一人で、力の足りなかった無能な軍人。ただそう言うことだ」
嵯峨は胸ポケットから二本目を抜いた。火の先が小さく灯る。
「どこか……納得できないんですけど。戦争に反対した人が責任を負うって変ですよね?負ける戦争をした人たちが責任から逃げたってのは卑怯ですよね?違いますか?それと隊長は戦争に反対したんでしょ?なのになんでそれに責任を感じるんです?貴族だからですか?軍人だからですか?」
誠は首をかしげる。モノのためにヒトが死ぬ、そして誰の責任でそれが起きたかは誰も分からない。その合理と不条理の同居に胃がざわついた。
「そうかい。俺にはよくできた政治体制と言えると思うがね。人間は絶対に間違える生き物だ。その生き物の顔を映し出す鏡が映された人間に全権を与える。そして責任はあっちこっちに分散して結果的に国家の危機に瀕するような政局にまでは発展しないから国家体制は何時までも変わらずに永続させることができる……隠喩が効いててなかなか興味深いし、巧妙にできた『伝統』とやらを守るためシステムだよ。義兄はそれがあんまり好きじゃねえから『関白太政大臣』なんて辞めてやるって言って平民になったわけだがね。……義兄貴は人間が好きだからな、人間が元首の国にしたいんだろ、甲武を。例え、次に危機が訪れたときは自分やその人間が責任を取らされて甲武の『伝統』が壊れてもそんなものは人間が人間らしく生きていくことに比べれば全く無価値だというのが義兄貴の思想だな」
嵯峨は上手そうにタバコの煙を吸うと天井に煙を噴き上げた。その言葉の意味を全部は理解できない。ただ、『伝統』よりも『人間らしさ』の方を選ぶ、という感覚だけは、誠の胸にすとんと落ちた。
「隊長のお兄さんってことは西園寺さんのお父さんですよね。人間が好きな宰相……良い国ですね。それとそんな責任を取る覚悟……自分勝手な西園寺さんに見習ってほしいです」
嵯峨は口角をひとつだけ上げた。
「人間好きな政治家ねえ……あそこの政治家は確かに国民のことを考えて政治をしたことなんて無かったな。それは鏡が元首の国の弱点かも知れないね。初めての『人間を愛する』宰相の登場……かなめ坊の親父、俺の義兄の登場は時代の必然なのか、それとも鏡の意図に反した異質な要素なのか……それは俺にも分からないよ……それは時代が判断する……そして次の時代という物が有れば、その時に生きている人間がそれを評価する。それが歴史って呼ばれるものだ。まあ、歴史には極端に偏った知識しか持ってないお前さんには理解できない話かもしれないけどね」
時に人を食ったような顔をする嵯峨のまさにそんな顔が誠の目の目に遭った。
「良い時代が来るんじゃないですか、甲武国にも。西園寺さんのお父さん。どんな人なんですか?」
普段は社会に背を向けてきた誠の口から、自然に問いが零れる。ここに来てから、世界の地図が少しずつ色づいてきた。
「西園寺義基……。『平民』も身分や特権を握っている連中も生まれに関係なく平等に生きていける政治、そしてその人間こそが責任を取る政治をやろうと考えている『伝統』なんていう形式じゃなくて生きている人間の為の政治をやろうという政治家だ。俺は長いことあそこの家に厄介になってたからな……義兄にゃあ頭が上がらねえんだ。それ以上にそのかみさんには頭が上がらねえがな」
嵯峨が珍しく人に敬意をもってその人となりを語っている。誠は初めて見る光景にさらに好奇心を刺激された。
「良い人みたいですね……それじゃあ西園寺さんのお母さんってどんな人なんです?隊長が頭が上がらない人って想像がつかないですし、西園寺さんは相当厳しく育てられたみたいでそのことを口にすると黙って銃に手をやるんで怖くって聞けないんです」
そんな言葉が誠の口を突いて出たのは当然のことかもしれなかったが、その言葉を聞くなり嵯峨の表情は明らかに不機嫌なものに変わった。
「そりゃあ……かなめが銃に手をやる理由も俺もよく分かる。というか、俺も今、お前さんがあの女の話をした瞬間にそのまま取るもの取り合えずに隊長室に『粟田口国綱』を取りに行きたくなったくらいだもん……まあ、一言でいえば……鬼」
珍しく真剣な表情で物騒なことを口にする嵯峨の顔から笑いが消えていたことでかなめの母親が誠との想像を絶する人物であろうことは誠でも理解できた。
「ああ、今の話は聞かなかったことにしてね。そんな事を俺が言ったなんてあの鬼に聞こえたら俺は殺されるな。恐らく俺の知ってる限り、うちのランと互角にやりあえるのはあのおばさんともう一人……それについちゃあお前さんの方が詳しいか。つまり、この時点でこの宇宙には『人外魔法少女』が最低三人いることをお前さんは分かったんだ。良かったね、上には上がいるもんだよ。俺もこの三人には逆立ちしたって勝てないから」
誠は思わず目をむく。嵯峨はすぐに片手を振って帳尻を合わせる。
「まあ、『人外魔法少女』なんて言った時点で分かれよ……冗談だよ。まあ食えないオバサンだな。俺が鬼扱いしてたのは忘れろ。本当に冗談じゃ済まなくなる」
「はあ」
皮肉の笑みと紫煙。喫煙所の空気は、いつも半歩だけ非公式だ。
「まあさっきも神社の話が出たように宗教とか研究すると似たような話が出てくるが……お前さんは理系だもんな。関心ないんだろ?」
嵯峨はタバコを吸いながらも分かったのか分かっていないのかすらよく分かっていない誠の顔を呆れた顔で見つめてそう言った。
「また馬鹿にしてるんですか?確かに、西園寺さんのお母さんが怖いこと以外はよくわからない話ばかりで……そんな事なら高等数学の計算式でも見ている方が精神衛生には良いとは思ってます」
こうして口にした言葉が今の誠の本音だった。
「そう卑屈になりなさんなって。それに俺も経済学を勉強するのに微分積分なんかを学んだ以上の数学の難しい話なんて知らないんだからそっから先の話をお前さんにされたら俺も何が何だかわからないとしか答えられないと思うよ。そんなに政治や歴史の知識が欲しいなら寿司でも食いながらランに相談してみな。いい本を紹介してくれるんじゃないかな……お前さんに理解できるかどうかは別だが」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃないですか!人を持ち上げてから落とす!典型的な人を見下している人間の論法ですよ!」
誠はなんやかんや言いながら自分を馬鹿にして笑ってタバコをふかす嵯峨に抗議した。
「馬鹿にされるような知識量だから馬鹿にされるんだよ。フェルマーの最終定理は戦争じゃ何の役にも立たないんだ。俺達は『武装警察』その仕事にはフェルマーの最終定理は必要ないから必要な知識を勉強しなさいって……ああ、それはランの決め台詞だったな」
「確かにクバルカ中佐ならそう言いそうですけど」
誠は何か質問するたびに嫌な顔をして『勉強しろ!』と叫ぶちっちゃな上官を思い出して苦笑した。
「そこまで分かってるならちょっとは勉強してよ……社会常識だよそんなの。だから1つも内定貰えないんだよ」
胸の一番やわらかいところを、指でつつかれたみたいに痛む。誠はつい眉根を寄せ、睨み返した。
「人の進路をすべて潰した人の言うセリフですか?それ」
「確かにな……それよりランを待たせてるんだろ?行って来いよ。それと海産物が貴重な甲武じゃ寿司はそれこそ貴族の中でも選ばれた支配階級の特権なんだ。その辺を理解して食ってくれると俺としてもお前さんと話をした甲斐があるってもんだ」
嵯峨の吐く煙は、どこか機嫌の良い形をして天井へほどけた。雨音はいつのまにか小降り。店先の暖簾の音が、脳裏に先回りして揺れる。
「行ってきます!それとさっき隊長が言ってたこと!ネットで調べてみますね!」
喫煙所のドアを押し開ける。廊下の蛍光灯が白くのび、濡れた窓ガラスに街の灯りがぼんやり滲む。さんざんおもちゃにされたという事実と、そうされて当然の自分の無知を同時に抱えながら、誠は大股で歩きだした。
雨上がりの夜に、回らない寿司のカウンターが静かに待っていた。
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