遼州戦記 司法局実働部隊の戦い 別名『特殊な部隊』の初陣

橋本 直

文字の大きさ
56 / 81
第二十一章 『特殊な部隊』の無知な隊員

第55話 正義は紙一枚でやってくる——元憲兵隊長の告白

しおりを挟む
 廊下の突き当たり。マジックで『喫煙所』と書いた紙がセロテープでゆがんでいる。古びた灰皿と、非常口の緑の人型。人工灯の白が、床のワックスで薄く滲んだ。

「第六艦隊提督の本間中将も馬鹿じゃない。むしろ身分制度の厳しい甲武国で『本間様には及びもせぬがせめてなりたやお殿様』と歌われた金持ちだ。国持ち大名クラスの武家貴族も本間さんにはかなりの金を借りてるって話もあるくらいだからな。でも所詮は平民は平民なんだ。『サムライの国』を自称する甲武の軍人はほとんどが武家貴族か士族だ。平民なんて使い捨ての駒ぐらいの感覚しかない。そんな環境であそこまで出世するのは、相当な切れ者の証だ。近藤の旦那が本国政府の意に沿わない危険な行動を取ってこれまで築き上げてきた『平民にして最高に出世した将軍』としての地位を簡単に捨て去るような人じゃないんだ」

 嵯峨の語る『平民』と『士族』の絶対的な格差が甲武と言う軍隊の中にあることに誠の心は冷たく冷めていった。

「結局人間はわが身が可愛いのさ……『平民の希望の星』だなんて言って義兄貴に褒めたたえられて、並んで写真に写る時点で本間さんの底は知れてる。そう言う人間は残酷になった時の怖さは……俺も戦争でうんざりするほど見てきたよ。恐らく近藤の旦那が事を起こしたとしても俺達とぶつかる前に、有りもしない理由をでっちあげて奴を更迭する可能性がある。本間中将は俺も会ったことは無いが隙を見せない切れ者だそうだ。そう言う部下の不始末を処理することには慣れてる人だ。ことが大きくなる前に闇に葬るくらいの芸当はできる御仁だ……まあ上に立つ人間というものはみんなそんなもんだ。そうなりゃ甲武国の『連座制』で近藤の配下の一族郎党、家族親類まで全員全財産没収の上、『流罪』か『死罪』だ……決起した連中は愚か、その家族や七親等以内の人間も容赦なく処断される……そう言う身内に犯罪者が出れば自分も同罪として処罰されるという制度があの国の体制を守り続けてきた……今回はその体制を守ろうと決起した近藤の旦那の親戚一同が断罪される訳だ……もし、近藤の旦那の身柄が本間さんの手に渡ればな」

 嵯峨は、紙巻の先に赤い星を点して、喉の底から早口で吐き出す。煙は天井のセンサーを避けるように曲がり、誠の胸にざらりと刺さった。

 司法局の権限を軽く越境する話を、一士官候補生に……この人の『線引き』はいつも薄い。誠は相づちのタイミングを逃す。

「『流罪』や『死罪』って……『死罪』は死刑なのは分かるんですけど、『流罪』って何です?流すって……どういう刑ですか?」

 我ながら頼りない声だと思う。けれど、訊かずにはいられない。

「お前さんでも理解できる方から言うと『死罪』って言っても東和みたいな絞首刑じゃない。『切腹』だ。しかも、自ら喜んで腹を切りたがるような根性の座った『サムライ』なんて居ないからね。そいつが『切腹』となるとまず、形だけ切腹用の短刀を目の前に置いて、それにそいつが手を伸ばしたとたんに介錯担当の人間がそいつの首を斬り落とす。俺はこれまで10人ほど不始末を犯した部下を『切腹』させたが、そん時は俺が介錯してやった。そん時は腹を切るのが『サムライ』だって言うことでしっかり腹に短刀を突き立てて真一文字に切り裂いてからちゃんと首を落としてやった。それが『サムライ』の名誉なんだよ、あの国では。より長い間腹に短刀を突き立ててより幅広く腹を切り裂いた人間が立派な『サムライ』と褒めたたえられる。俺は公家だからそんな『サムライ』の思考回路は理解不能だ。まあ身分制とは無縁の東和育ちのお前さんには分からないだろうな」

 嵯峨がまるで異星人を見るような目で『サムライ』を見ていることは誠にも分かった。遼州人の嵯峨や誠にはそもそも『切腹』にそれほどこだわる地球人という物が理解できないのは分かっていたが、甲武の地球人でも公家と『サムライ』にはそれだけの思想の断絶があるのだと嵯峨の死んだような目を見てそう思った。

「じゃあ、そいつが切腹しない公家、俺やかなめ坊みたいな身分の人間ならどうするかというと『流罪』にするわけだ。甲武の『流罪』は半端じゃねえぞ。まるで江戸時代以前のそれだ。意気地のない『サムライ』の切腹は平民の『斬首』と大して変わらないただのこの東和にも有る『死刑』だけど、『流罪』は命を奪われないだけ余計達が悪いんだ……公家は血の汚れを嫌うものなんだそうだ。じゃあ、俺は公家だけどなんでこんなに人を斬らなきゃいけないの?……ただ首を落とされるだけで目の前に短刀が置かれるかどうかの違いだけの?『サムライ』の切腹と平民の『斬首』に比べて、『流罪』は直接殺されないだけ質が悪い……大概の公家は『流罪』を命じられただけで一家心中するもんだよ」

 嵯峨は天井に薄煙を押し上げ、指先で灰を正確に落とした。だらしない姿勢のまま、動作だけは職人みたいに無駄がない。

「僕は歴史には詳しく無いんで……いわゆる『島流し』ってやつですか?でもそれが嫌で『一家心中』なんて……命があるだけいいじゃないですか?」

 誠の間の抜けた問いに嵯峨は大きなため息をついた。

「島流し?そんなのただ入れ墨されて帰ってくるのが保証されてる懲役刑だろ?そんなのただの罰ゲームじゃん。俺の知ってる風俗店のお姉さんにも喜んでタトゥーをお金かけて入れてる人がいたよ?甲武の『流罪』はそんな甘いもんじゃない。家財も身分もすべて取り上げられて、半分壊れかけのコロニーに運ばれて、そこで暮らせって身一つで置き去りだ。助けてくれる人なんて一緒に来た家族と家臣連中だけだが、それが逆に過酷な環境ではお荷物になる。最後の食事は移送船で降りる前に与えられるのが最後になる。大概の人間にとって人間が食べて良いもので口に入るものがそれが最後になる。そんな状態だ、それこそ一年生き延びられたら奇跡なんだ。他からの援助は一切禁止だからただひたすら飢えて乾いて死んでいく。そんなところにも地元民が居ることは居るんだが、そいつ等は『流罪』の対象になる女を散々楽しんだ挙句に金にする事しか考えちゃいないんだ。要するに、『流される』ってのは、宇宙空間に放り出されるのと大差ないってことだ。死ぬまで時間がかかるだけでな。だから地元民もその『流罪』になった中に女がいるといち早くさらって飯を食わせた後、散々楽しんだ挙句売りに出す。それがあの国の『伝統美』なんだと。『国の方針に逆らう人間は自分の勝手に生きろ』って訳だ……まあ、男は全員死んで女は普通の貧しい平民なら年季が開ければ自由になれる女郎屋に終身契約売られて高い値段が付くわけだ。しかも、それに食いつく平民の金持ちは『公家の姫君』が抱けると大喜び……そうしてその女は一生を終える……売り物として価値がなくなるまでな……価値が無くなれば他の女郎と同じ『無縁墓』に埋められる……それが当たり前のことなんだ」

 喉の奥がきゅっと鳴る。宇宙での『勝手に』は、ほとんど死刑宣告だ。

「そんな……宇宙で支援も無しに生きるなんてできるわけないじゃないですか!それにその女の人の扱い!酷いじゃないですか!と言いうか甲武は売春は合法なんですか?人身売買も!」

「そうなんだ。ほとんどは半年で餓死するわけだ……賢くて、そこの住人になり切れる知恵が有れば別だがな。あと、売春と人身売買が合法なのはお前さんの言う通り。でも、それを法律上率先して禁止している地球人は人身売買はしないけど民族浄化はしている訳だから。ガス室に送られるより命があるだけマシだろ?ってのが甲武の理屈。そしてそんな男を見殺しにして女を売って贅沢に暮らしているそこに生きてる住人は『流罪』になった人間の中で頭の回転が速かった人間の子孫なんだ。同じ境遇なんだけど、連中にはそんな同情なんて心があるなんて話は俺が聞いた中では一度も無いな。『流罪』で女が送られてくると連中は男も女も良い金になっていいもんが食えると狂喜乱舞する。しばらくの楽しみとある程度の金が保証される訳だからな……そこの地元民の女も残酷なのさ……人間が分かりあえる?そんなのは十分飯が食える安全地帯にある例外的人間にだけ許された特権だ。それが特権だと理解できない時点でそいつには人間が分かりあえるなんて言葉を口にする資格はないと俺は思うよ。俺は少なくとも人は分かり合えない存在だと思う……俺もお前さんが何を考えてるか分からないし、口にした言葉も俺が正確にその意図を理解している自信は無い。人は絶対に分かり合えない生き物なんだよ」

「餓死……。窒息しないだけ、マシってことですか……そんな環境が当たり前……僕の言うことはただむなしい虚言なんですよね……」

 言葉にした途端、背中が冷えた。嵯峨は満足そうに、けれど目は全然笑わずうなずく。

「そうだよ。国賊は餓死して当然ってのが、貴族制国家・甲武国なんだ。それが貴族主義者の言う『気高き伝統』なんだと。ひでえもんだ。国を批判する貴族は餓死。貴族制が気に入らない平民も餓死。それが甲武。……まあ、餓死より女はひどい目に遭う。言いたくねえから言わねえ。俺は女好きだが無理やりってのは趣味じゃねえ。双方の合意があって初めて『関係』だ。……ただ、この国ではその合意の仲介が金だと売春だっつって逮捕される。俺もそれが怖いからそう言うことはしてないよ。確かに『駄目人間』だけど」

『そんな国の僕から見て歪んでいるとしか言えない『伝統』を守るために、自分はこれから戦場に出る……』

 その事実に、誠はまだうまく手を伸ばせないでいた。

 金属臭のする現実が、言葉の隙間から滲み出る。誠は口を閉ざした。閉ざすしかなかった。

「そういう所なんだよ、宇宙なんてのは。甲武国……あそこは人口が増えるんで困ってる。口減らしに制度を作って、それがまだ運用されてる。この東和の人口は一億二千万。甲武は五億居たんだ。まあ、前の戦争でそのうちの男の二億が死んだがね。そのほとんどが平民だ。増えすぎた平民が息するだけで税金がかかる。だったらその平民から富を巻き上げて肥え太った公家を一門まるごと手っ取り早く『餓死』させれば、没収したその私財が国庫を潤す上に誰も手を汚さず良心も傷まない。特にその罪人の公家が爵位を持ってるような身分のある人間だったりすると連座して死ぬ人間が多いから国にとっては好都合ってわけ。それこそそいつの失った荘園ををめぐり公家同士が飢えたライオンみたいにシマウマの死体に群れるような光景を見ることになる……この空の向こうじゃ、それが当たり前だ。自然に生きること自体が難しい世界じゃな」

 非常口のピクトが、無表情でこちらを見ている。逃げ道のマークに、逃げ道は描かれていない。

「東和共和国に生まれたことを感謝しな。ひどいところに生まれようもんなら……死んで当然、が世の中なんだ。……俺は認めたくねえけど、俺の育った国・甲武国はそんな国だ。ひでえ国だ」

 黙っていると、自分がとても世間知らずに思えた。いや、実際そうなのだ。

「そんな国……変えないと。誰も何も言わないんですか?」

 押し殺したつもりの声が、少しだけ尖った。嵯峨は顔をしかめ、煙をもう一段、天井に重ねる。

義兄貴あにき……かなめ坊の親父な。その甲武国宰相の西園寺義基は、現状を変えたいと言ってた。身分とか豊かさとか、人間の価値じゃねえだろってのが義兄貴の思想だ。だがそれは完全なる異端なんだ、あの国では。どこまで行っても身分がすべて、富がすべて。国のすることに間違いはないと国民の大半があんなにひどい目に遭った第二次遼州大戦に負けた今でも信じ切ってる。信じられない奴の所には憲兵隊が来て、しょっ引く。それが真実だ」

 かなめが尊敬している父……民衆の政治を実現しようとする宰相。誠の中で像が組み上がる。重く、孤独だ。

「当たり前の話じゃないですか! 人間はそれぞれ価値があるはずです!不満があったら、それを理由に憲兵隊が来るって……」

 勢いに気づいて、誠は言葉を切る。嵯峨は肩で笑った。

「そりゃあお前さんの勝手な理想論だ。空気が普通にある東和共和国の国民の間の世間話程度なら通用するが他所じゃ通用しないよ。空気が金を出さなきゃ手に入らない世界じゃ、現実はそんなに甘くない。特に甲武はその配分の優先順位の基準を『身分』に求めた国だ。生まれながらに貴族や士族には特権がある。貴族には年金、士族は軍・警察・役所に優先採用と言う特権を与えて国家に対する忠誠心を持った支配階級を作ってそいつ等にいつどんな動きをするか分からない貧しい平民達を監視させる。豊かな平民は、多額の袖の下を士族の役人に掴ませることで自分のせがれがどんな脳なしでもずっと豊かに何不住なく暮らしていける。……空気に値札が付く星じゃ、それが常識だ」

 短い沈黙。蛍光灯の唸り音が、やけに近い。

「遼州圏に住んでる元地球人はな……地球の『憎悪の民主主義』の二の舞はごめんなんだ。『憎悪の民主主義』からつまはじきにされたり、その憎しみでおきた戦争で居場所を追われたのが今の遼州圏の元地球人の国の住人なんだから当然のことだわな。だから、生きる事さえ苦労する環境で自分達をこんな辺境に追放した『民主主義』を否定する生き方を選んだわけだ」

「『憎悪の民主主義』?」

 誠は嵯峨の言葉に違和感を感じた。ここ東和共和国も大統領を元首とする民主制国家である。誠も20歳で選挙権を得てから一度も選挙に行ったことが無かったがそれが当たり前でそこに『憎悪』と言う言葉が混じってくる意味が分からなかった。

「敵を作り、煽り、踊り、狂う民主主義だ。どこの世界でも、民主主義が終わる時に必ず現れる政治状況だ。古代ローマにも古代インドにも、民主主義的な手続きはあった。……お前、歴史は苦手だったな。知ってる?ギリシャやローマやインドに民主主義があったなんて?」

 嵯峨は明らかに誠を馬鹿にするような口調でそう言った。

「ええ、ローマとかインドは知ってますけど……ローマってイギリスですか?それとギリシャって何です?」

 口に出した瞬間、失言の鐘が鳴る。嵯峨は目を細め、諦め半分の笑いが浮かんだ。

「ローマはイタリアだよ。しかもギリシャは知らないと来てるんだ……まったく。話を戻す。地球人の文明が始まった時から『何か困ったときは多数決で決める』と言う発想はあった。で、古代が終わる頃、民主制は霧みたいに消えた……そして今の地球圏で行われている『民主主義』による選挙も……ただの金配りのセレモニーに落ちぶれた」

 嵯峨は一本目の火をもみ消し、二本目に火は点けない。青いライターの蓋だけ、親指でカチ、と鳴らす。

「民主主義ってのはね……その多数決ってのが曲者なんだ。ローマが民主制から帝政へ移る原因は『富の偏在』にあるというのは西洋史をかじった人間なら誰でも知ってることだ。金が偏ると、多数決は『買える』多数で決まる。富める者が金を配り、自分に投票させる。対抗できるのも、金のある富者だけ。庶民は蚊帳の外で、おこぼれを狙って走り回る」

「でも庶民は……自分たちの道を守ろうと……それにそんなこと東和でやったら選挙違反で逮捕されますよ」

 どこまでも東和共和国民の価値観でしかものを考えられない誠に嵯峨は心底呆れたようなため息をついた。

「そりゃあ400年間社会問題らしい社会問題が何一つ起きなかった東和だからだろ?何一つ不満が無い、みんな同じ、国民総中流でこの400年間何も問題が無かった。そんなところでなんで政治に価値を見出す人間が居るの?だって今も、来年も、百年後も何にも変わらない。時々、地震が起きたり、毎年予算の編成とかしなきゃいけないから政治家はいるけど……投票率5%以下が400年続いて民主主義が機能してるなんて東和の人間もずいぶんとお人好しだなあと俺は思うよ。そんなこと地球じゃ考えられない。追い詰められれば地球人は政治に多くを求める。政治にできることがたかが知れてるのにな。結果、生まれたのが『憎悪の民主主義』って奴だ。貧しい者ほど、自分の利益を忘れて『敵を憎む快楽』に投票する。選挙行動を心理学的に研究した研究者の結論は『大半の有権者はまず憎悪によって投票先を決める』と言うことらしいんだ。……神前、ヒトラーは知ってるな?お願いだから知ってるって言ってよ?」

 嵯峨は願うような口調でそう言った。

「知ってます! 髭の昔の人です!」

 髭と言えばヒトラー。そのくらいの知識は誠にも有ったのだが、その表現方法が嵯峨を絶望させた。

「昔の人は全員、髭が生えてたわけじゃないよ?その民主主義の有権者の投票行動の特性を上手く使って独裁者へ登りつめた男だ。うまくいかない時代には、誰かのせいにしたくなる。『ユダヤ人』や『共産主義者』のせいで、自分達の暮らしは苦しいんだ。ヒトラーたちはそう主張した。そして派手なパフォーマンスでその裏付けを次々に捏造してそれがあたかも事実であるかのように民衆に信じ込ませて憎悪を煽り、民主的に多数の民衆の支持を得て政権を握る。古代のローマ人のように金じゃなく『イメージ』で民衆を操った。制服から、行動パフォーマンス、ポスターや宣伝映画まで徹底的にこだわって民衆の好みを徹底的に研究し尽くし、その好みを自分の望む方向に導くような情熱的な演説を行った。そんな人間が現れれば有権者は何にも考えずにそいつを支持してすべての自分の権利を国家への忠誠に還元してそいつに全権を預ける道を選ぶ……民主主義の致命的欠点は、そこだ……だから地球人は民主主義が好きなんだよ……地球人は全て自分の頭上にヒトラーが現れることを望んでいる……それが敵であるか味方であるかは別としてね」

 嵯峨は視線を少し落とす。言葉は刻むように続く。

「二十一世紀に現れたヒトラーの劣化版はもっとひどい。この国でもそうだけど当時も今も地球圏じゃ『資本』がすべてに優先する。広告料と放映権料と言う二つの金でメディアをがんじがらめにして言論を自分達の都合のいいように塗りつぶした。ネットではその『憎悪を煽る記事だけが注目される』と言う地球圏の投稿サイトのAIの特性を利用して有名・無名のインフルエンサーが有る事無い事を拡散して小銭を稼いで金持ちの嘘を何にもしなくても拡散してくれるんだ。真偽が溶けて、有権者は『権威を補強するマシーン』と化した。『民意がすべてで選挙に勝てば何をしてもいい』。それが二十一世紀に現れた『憎悪の民主主義だ』」

 一度も選挙に興味を持ったことが無い誠がかなめやカウラが紛争ばかりのベルルカン大陸の元地球人の国が内戦終了時に『選挙』を行うことを不思議に思っていた遼州人の誠にはその疑問がようやく溶けた気がした。『選挙に勝てば何をしてもいい』のなら武器を置いて選挙で『何をしてもいい』という条件を作ればいい。元地球人らしい詭弁……誠には嵯峨の言う地球人の詭弁をそこに見た。
 
「AIがすべての労働力に置き換わり、人類は『超富裕層』が政治と経済を掌握し、それに忠誠を尽くす役人と軍人がそれを支える状況下でロボットの補助部品に落ち込んだ市民たちも選挙権は奪われなかった。いや、『超富裕層』にとってはその方が都合がよかったからだ。『超富裕層』の行う政治にはヒトラーのような統一された価値はない。ただ、どので国も『票田』と化した市民がよりネットとメディアが称賛する『超富裕層』を神に等しい存在として彼等の『資本』をより集積させるためのシステムが出来上がった。民主主義は『資本の代弁者である政府がやる事こそ正義』の印章を押す機械に堕ちた。要するに、『金持ちがやることにハンコを押す係』に、民主主義は落ちぶれたって話だ。『超富裕層』が一国家、一民族を支配して競い合い、争いあった。『自由競争論理』が国家間の『競争』へと転化していった。国家の『自由競争』の究極の形が戦争だ。ただそれにはそれを支配者の『超富裕層』が望んでもなかなか踏み切る勇気は彼等には無い。でも、その背を『民意』が押してくれたら?……それまでは使うことをためらっていた『核』もそんな『憎悪』で頭がいっぱいになった有権者にはまさに『神の正義の鉄槌』と化したんだ。……正義は憎悪を生み、憎悪は悪を生む。俺は『正義』って言葉が嫌いだね。聞くのもうんざりだ」

「僕は遼州人なんで戦争大好きな地球人は怖いんで地球の話はしないでください。それより……隊長は、正義が嫌いなんですか……? じゃあ、何のために僕たちは戦うんですか?」

 真正面からの問いに、嵯峨はふっと笑い、そして急に静かになる。

「俺は前の戦争で、自分の国で『正義』とされたもののために人を殺した。うんざりするほどの数を、だ。俺の当時の身分は、治安維持を行う憲兵隊長。……『あらゆる手段を用いても構わないから自国では国家の維持すら難しい同盟国の秩序を守れ』ってのがその命令。命令は紙一枚で降ってくる。その同盟国……俺の生まれた遼帝国で国家に逆らう可能性のある思想の持ち主は片っ端からしょっ引いて、処刑した」

 誠は息を止めていることに気づく。喉が乾く音が、自分の耳にうるさい。

「遼帝国が崩壊し、甲武が負けたあとで、それは『悪』になった。けどな、俺が命令書を受け取った時、それはどちらの国の政府も認めた正式な『正義』だったんだぜ。印章とサインの付いた、立派な正義だ……それに一部隊指揮官が逆らう?そんなことができるわけがないじゃないの」

 自分をあざ笑うように嵯峨は静かに誠を見つめた。隊長の手が、その印章の重さで血に染まった。そう想像した瞬間、誠の喉は勝手に鳴った。

「でも……それは隊長の意志じゃ。上の命令で……」

 そこまで誠が行った時、嵯峨は右手を上げて言葉を制した。

「命令だから、責任が薄まるなら、誰も苦しまないよ。現場は、印章を血で洗う。俺達武装警察には、これからも『正義』の命令書が来る。作戦が終わる頃にはそれが『悪』に裏返ってるかもしれないってこと。今回だって、そうなってもおかしくない」

 嵯峨は煙草を灰皿に押し付け、静かに立ち上がる。二歩、歩いて振り返らない。肩越しの声だけが残った。

「本が要るなら、うちのちっちゃい中佐殿に訊けば。見た目ちっちゃいおつむのわりに読書家だからね。『ローマ』と言えば『ガリア戦記』辺りを勧めてくれるだろうね。丁度、民主制から寡頭政治と言う独裁政治に移る過程の政治家の記録でその時の時代の空気が良く分かる。ヒトラーと言えば……その異常な選民思想の裏付けとなった思想家であるニーチェだのハイデガーだの、面倒くせえのを薦めてくるだろうけどな。……その前に、お前さんは小学校の社会科からやり直せ。たぶんどっちを読んでも今のお前さんには理解できそうにないや」

 足音が遠ざかり、非常口の緑が何事もなかった顔に戻る。誠は一人、喫煙所の紙の張りを見上げる。角が少しめくれて、空調でパタパタ揺れた。

 甲武国。空気に値札の付く星。正義が命令書で届く世界。
 
 胸の奥に、小さな鉛球みたいな重さができた気がした。

 ……それでも。
 
 誰かが、それを言葉にしてくれたことが、救いでもあった。

 誠は深く息を吸い、咳き込んだ。タバコの匂いと、ワックスの匂い。人工の空気は、今日も正確に調合されている。

『おかしなことは誰かが変えなきゃいけない。けど、『変える』って、どの言葉のことを言うんだろう?そして『変える』ことが本当に正しいって誰に言えるんだろう……』

 自問に答える声は、今はまだない。
 
 ただ、足は詰所の方へ向いていた。紙の匂いのする現実に、戻るために。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...