4 / 5
4
しおりを挟む
その夜もひさは皆が寝静まるのを待って、梯子段を下りた。
台所は母屋と廊下でつながっている。床板を軋ませないように、息を殺してゆっくりと歩いた。店へ続く長い廊下につきあたる。すぐ右側は仏間で、その先は主夫婦が休んでいる奥の間。
ひさはすり足で、一歩いっぽ確かめるように足を繰り出している。廊下は土間で直角に折れている。
昼間は馬方や船頭、荷主などでごったがえすお店の土間も、今は静まり返って広さだけが目だった。ひさは引き戸の前に両膝をついた。引き戸をに手をかける。
この戸の向こうは、帳場だった。
低い格子の結界の中には帳場机があり、その下にはあたり箱(すずり箱)と銭箱が置いてあるはずだった。
ひさは息を飲んだ。心の臓がまるで自分と無関係の生き物のように、激しく脈打っていた。
闇がひさの身体を圧迫し、深い水底にでもいるようだった。
(何をしようとしているか、判っているのか) と、心の中で別の自分がしきりに叫んでいる。また一方で、
「借りるだけ、借りるだけだ。後で何倍にもして返す」
という久助の言葉が何かのまじないのように、何度もこだましていた。
引き戸にかけた指に力を込める。戸が、こんなにも重いものかと、不思議に感じた。戸が滑りだすと思われたその瞬間だった。
「……あんねえ」
みぞおちに冷たい刃を刺し込まれたような感覚がした。
振り返る。
てるが直角に曲がった廊下の切っ先に立っていた。両目をしきりに擦っている。
「――てる」
ひさは駆け寄った。てるを抱いた。あんねえ、と言いながらてるは身体の隙間を埋めるようにくっついてくる。
(ああ、おれはてるに救われたんだ……)
そう思った。
と、次の瞬間、中の間の引き戸ががらりと開いた。
「どうした」
中年すぎの男が顔を出して、野太い声で訊いた。主の仙蔵であった。
「旦那様すんません。てるが寝ぼけちまって」
ひさはてるの手を引いて、台所へと戻る。
その後、てるを寝かしつけたひさは再び梯子段をおりる。
握り飯をもって外へ出た。太鼓橋を渡って、久助のいる土蔵へ急いだ。
ひさが久助に気づいて五日ばかりが経っていた。夜毎に通ううち、久助の言葉を信じるようになっていたのかも知れない。
京に行きたければ、行けばよい。お旗本になれるなら、なったらいい。
でも、盗みはだめだ。
人さまの、ご主人さまのお金に手をつけてはならない。
今日こそはきちんと久助に話をしよう。源五郎親方にきちんと詫びを入れ、もう一度船に乗せてもらうように。それこそまた小僧から始めてもよいではないか。そのくらいの気構えで親方に話せば、きっとわかってくれるに違いない。
そう思った。
柳の向こうに土蔵が見える。
最初、何か妙な感じがした。それが何か、すぐにはわからなかった。
明かりがついているのだ。ほんのりと提灯のあかりが。
土蔵の小窓から中を覗く。息を飲んだ。
裸の男と女が絡み合っている。提灯の明かりに照らされて、ふたりの顔が見えた。久助とそして、おこうだった。
信じられない。が、それは目の前で起きている。どうしたらよいか、わからなかった。 風が吹き付ける。凍てつくような寒さのはずだが、感じなかった。
声がした。おこうのかん高い、さかりのついた雌猫のような声。その声を聞いていると、急に憎しみが沸いてきた。
(……おれは盗みまでしようとしたのに。それなのに……)
おこうの笑った顔がよぎる。化け物のような、あの顔。
(そうか、あのときから……)
おこうは知っていたのだ。
ひさは怒りで自分がどにかなってしまうのではないか、と思った。おこうが憎かった。
(汚らしい売女め。このままじゃあ、済まさねえ)
土蔵の入り口に回り込もうとした時、後ろから腕を掴まれた。
「こんただことだと思ったべ」
ふくだった。
(今夜は何ということだべ。さっきはてるに救われ、今度はまたふくが……)
ふくは窓からちらりと中を覗いた。
「ありま、お楽しみだこと」
小声でそういうと、ひさの手を引っ張った。そして、どんとんと土蔵から遠ざかって行った。惚けたように、ひさは従った。
もういいと思ったか、橋の近くでふくは手を離した。
「ありゃあ源五郎船の久助だね」
ひさは頷いた。
「あの男はもうだめだべ。あきらめるこったあ」
ふくはまったく簡単にそう言った。
ひさは顔を上げた。何と言っていいか判からなかった。心の中は、言葉にならぬ感情で煮えくりかえっていた。
「久助さが、悪いんじゃねえ。あのおなごが、おこうが悪りいんだ」
吃って、突っ掛かりながらやっとそれだけのことを言った。言いながら涙が溢れ出ているのに、ようやく気づいた。
ふくは先に立って橋を上っていく。
「おめえには言わねえかったが……」
ふくはあたりを見回した。人影はない。川音が、低く聞こえた。
「番頭さんに聞いたんだが、源五郎船の若い衆がセジから船頭の金を十両も盗んで逃げたそうだわ。なんでもそいつは江戸で鉄火場(博打場)に出入りするようになって、借金をこさえたらしい」
ひさは目眩がした。欄干に辛うじて掴まった。あの土蔵での思い出がよぎる。
――鬢油の香り、江戸の匂い。
「同じ村の出だしよお、源五郎旦那は番所へ届けなかったそうだよ。十両盗んだと言やあ、三尺高けえところへ、首が乗っちまうからなあ」
「……でも久助さは、京に行くって。新鮮組に入ってお旗本になるんだって」
「なあにを呆うけたことを。いっぱしの船頭にもなれん男が、なんでお侍なんぞになれるものかね」
ひさは橋の上、ちょうど太鼓のてっぺんでへたり込んでしまった。もう何も言えなかった。
このまま新河岸川へ飛び込んで、水底に沈んだまま誰にも気づかれずに、消えてしまいたかった。
台所は母屋と廊下でつながっている。床板を軋ませないように、息を殺してゆっくりと歩いた。店へ続く長い廊下につきあたる。すぐ右側は仏間で、その先は主夫婦が休んでいる奥の間。
ひさはすり足で、一歩いっぽ確かめるように足を繰り出している。廊下は土間で直角に折れている。
昼間は馬方や船頭、荷主などでごったがえすお店の土間も、今は静まり返って広さだけが目だった。ひさは引き戸の前に両膝をついた。引き戸をに手をかける。
この戸の向こうは、帳場だった。
低い格子の結界の中には帳場机があり、その下にはあたり箱(すずり箱)と銭箱が置いてあるはずだった。
ひさは息を飲んだ。心の臓がまるで自分と無関係の生き物のように、激しく脈打っていた。
闇がひさの身体を圧迫し、深い水底にでもいるようだった。
(何をしようとしているか、判っているのか) と、心の中で別の自分がしきりに叫んでいる。また一方で、
「借りるだけ、借りるだけだ。後で何倍にもして返す」
という久助の言葉が何かのまじないのように、何度もこだましていた。
引き戸にかけた指に力を込める。戸が、こんなにも重いものかと、不思議に感じた。戸が滑りだすと思われたその瞬間だった。
「……あんねえ」
みぞおちに冷たい刃を刺し込まれたような感覚がした。
振り返る。
てるが直角に曲がった廊下の切っ先に立っていた。両目をしきりに擦っている。
「――てる」
ひさは駆け寄った。てるを抱いた。あんねえ、と言いながらてるは身体の隙間を埋めるようにくっついてくる。
(ああ、おれはてるに救われたんだ……)
そう思った。
と、次の瞬間、中の間の引き戸ががらりと開いた。
「どうした」
中年すぎの男が顔を出して、野太い声で訊いた。主の仙蔵であった。
「旦那様すんません。てるが寝ぼけちまって」
ひさはてるの手を引いて、台所へと戻る。
その後、てるを寝かしつけたひさは再び梯子段をおりる。
握り飯をもって外へ出た。太鼓橋を渡って、久助のいる土蔵へ急いだ。
ひさが久助に気づいて五日ばかりが経っていた。夜毎に通ううち、久助の言葉を信じるようになっていたのかも知れない。
京に行きたければ、行けばよい。お旗本になれるなら、なったらいい。
でも、盗みはだめだ。
人さまの、ご主人さまのお金に手をつけてはならない。
今日こそはきちんと久助に話をしよう。源五郎親方にきちんと詫びを入れ、もう一度船に乗せてもらうように。それこそまた小僧から始めてもよいではないか。そのくらいの気構えで親方に話せば、きっとわかってくれるに違いない。
そう思った。
柳の向こうに土蔵が見える。
最初、何か妙な感じがした。それが何か、すぐにはわからなかった。
明かりがついているのだ。ほんのりと提灯のあかりが。
土蔵の小窓から中を覗く。息を飲んだ。
裸の男と女が絡み合っている。提灯の明かりに照らされて、ふたりの顔が見えた。久助とそして、おこうだった。
信じられない。が、それは目の前で起きている。どうしたらよいか、わからなかった。 風が吹き付ける。凍てつくような寒さのはずだが、感じなかった。
声がした。おこうのかん高い、さかりのついた雌猫のような声。その声を聞いていると、急に憎しみが沸いてきた。
(……おれは盗みまでしようとしたのに。それなのに……)
おこうの笑った顔がよぎる。化け物のような、あの顔。
(そうか、あのときから……)
おこうは知っていたのだ。
ひさは怒りで自分がどにかなってしまうのではないか、と思った。おこうが憎かった。
(汚らしい売女め。このままじゃあ、済まさねえ)
土蔵の入り口に回り込もうとした時、後ろから腕を掴まれた。
「こんただことだと思ったべ」
ふくだった。
(今夜は何ということだべ。さっきはてるに救われ、今度はまたふくが……)
ふくは窓からちらりと中を覗いた。
「ありま、お楽しみだこと」
小声でそういうと、ひさの手を引っ張った。そして、どんとんと土蔵から遠ざかって行った。惚けたように、ひさは従った。
もういいと思ったか、橋の近くでふくは手を離した。
「ありゃあ源五郎船の久助だね」
ひさは頷いた。
「あの男はもうだめだべ。あきらめるこったあ」
ふくはまったく簡単にそう言った。
ひさは顔を上げた。何と言っていいか判からなかった。心の中は、言葉にならぬ感情で煮えくりかえっていた。
「久助さが、悪いんじゃねえ。あのおなごが、おこうが悪りいんだ」
吃って、突っ掛かりながらやっとそれだけのことを言った。言いながら涙が溢れ出ているのに、ようやく気づいた。
ふくは先に立って橋を上っていく。
「おめえには言わねえかったが……」
ふくはあたりを見回した。人影はない。川音が、低く聞こえた。
「番頭さんに聞いたんだが、源五郎船の若い衆がセジから船頭の金を十両も盗んで逃げたそうだわ。なんでもそいつは江戸で鉄火場(博打場)に出入りするようになって、借金をこさえたらしい」
ひさは目眩がした。欄干に辛うじて掴まった。あの土蔵での思い出がよぎる。
――鬢油の香り、江戸の匂い。
「同じ村の出だしよお、源五郎旦那は番所へ届けなかったそうだよ。十両盗んだと言やあ、三尺高けえところへ、首が乗っちまうからなあ」
「……でも久助さは、京に行くって。新鮮組に入ってお旗本になるんだって」
「なあにを呆うけたことを。いっぱしの船頭にもなれん男が、なんでお侍なんぞになれるものかね」
ひさは橋の上、ちょうど太鼓のてっぺんでへたり込んでしまった。もう何も言えなかった。
このまま新河岸川へ飛び込んで、水底に沈んだまま誰にも気づかれずに、消えてしまいたかった。
0
あなたにおすすめの小説
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる