赤と青のヒーロー

八野はち

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第二十三話 真っ白な壁

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 いつも通り茜の部屋のドアをノックする。

「どうぞ」
 
 弱々しい声が返ってきた。
 ドアを開けると、点滴と管に繋がれた茜がベッドに横になっていた。

「やあ、翼くん。今日は何を持ってきてくれたのかな?病院ってほんとに退屈で死んじゃいそうだよ。学校といい勝負だね」
 
 また、音楽を聴いていたようだ。本当にやることがないらしい。
 茜はすっかり痩せこけ、目の周りが真っ黒になっていた。

「今日はイチゴショートケーキ持って来た。食べられそうなのか?」
「わーい、うん。でも今はちょっと食べれそうにないから、冷蔵庫入れといてくれるかな」
 
 震えだしそうな口を必死に抑えつけ、何とか言葉を紡ぐ。
 分かってたじゃないか。こうなることなんて。
 自分の甘さに反吐が出そうになる。
 
 心のどこかで、茜なら何とかしてくれるはずだって、何の根拠もない希望に縋って、現実から目を背けていた。
 なぜ彼女なのだろうか。こんなにも、誰かのために生きようと努力し、夢があって、こんなにも死と対極にいる茜がなぜこんな目に遭わなければならない。他にいくらでもいるではないか。俺みたいなやつがのうのうと生きて、時間を無駄に浪費しているのに、なぜ俺ではなく彼女が死ななくてはならない。

「翼くん?どうかしたの?どこか痛いの?」
 
 胸が痛かった。張り裂けそうだ。
 なんで、こんな状態で人のことまで心配できる。自分のことで精一杯のはずだろ。

「なあ、死なないよな?」
 
 答えなんて分かり切っているのに、俺は最低な質問をした。

「死なないよ」
 
 茜は真っ直ぐにこちらを見据えて、はっきりと答えた。

「私は死なないよ翼くん。だって私の心はまだ折れてないから。まだまだ、やりたいことがたくさんあるんだ。私はおばあちゃんになるまで長生きして、最後は老衰で死ぬ予定だからね。こんなところで死ぬつもりはないよ。だって私まだ十七歳だよ」
 
 茜の目はまだ死んでいなかった。体も心もこんなに追い詰められても、まだ心が死んでいなかった。

「退院したら、まずいちご狩りに行こうよ。お腹いっぱいイチゴ食べたい。それから、また翼くんのお家でお泊り会したいな。今度こそかつ丼作ってもらうからね。それから、今度はサッカーしたいな。私のボレーシュートすごいんだよ。あと、また小学生たちと遊びたいね。今度こそこびと捕まえるぞ!他にも春になったらお花見もしたいし、夏になったら海に行きたいな。全部一緒にやろうね翼くん。退院するのが楽しみだな」
 
 茜は目をキラキラさせながら、未来に思いを馳せる。

「…ああ。全部やろう。好きなだけかつ丼作ってやる。何回でも、どこにでも出かけよう」
「約束だからね」
「もちろんだ」
「なあ、茜。なんでお前はそんなに強くいられるんだ。なぜそんなにぶれない」
「私の中にはね、炎があるの。力強く、メラメラと燃えて、私の心の真ん中にある。その炎はね、なにがあっても消えないの。雨が降っても、槍が降っても、嵐が来ても、小さくなって弱々しくなる日もあるけれど、絶対消えない。また、すぐに、力強く燃えだして、そして私の全身を駆け巡る。その熱が、私の力の原動力になって、私を突き動かす。意志の炎。私の命が尽きるまで、燃え続ける。そして、その炎は真っ暗闇の中、煌々と光って、私の進むべき道を照らしてくれる。心の羅針盤なの。だから私は、どんなときも迷わない」
 
 そして、その炎は、その近くにいる人たちをも照らし、燃え広がっていくのだろう。まるで、太陽のようだと思った。だから茜からはお日様の匂いがするのかもしれない。

「お前らしいな」
 
 俺は心の底からそう思った。

「なあ、クマが酷いが、寝られないのか?」
「うん、薬の副作用で眠れないの。ねえ、翼くん。私このままじゃ、薬に殺されそうだよ。たくさん飲まなきゃいけないの。薬飲みたくない。でもお医者さんは良くなるから飲みなさいって」
「翼くん。ここから一緒に逃げ出さない?私ここにいても治らない気がする」
「バカ言うな。ここは病気を治すための場所だろ。必ず良くなるさ」
 
 俺は茜が自分を信じる限り、俺も彼女を信じようと思った。必ず治るはずだと。それにここから出たとして一体どこに行くというのだ。

「そっか」
 
 病室を出る時、茜は困ったように笑っていた。それ以来、茜のその顔をよく見るようになった。

 

 ある日、俺が学校帰りに商店街によって、差し入れにコロッケを買って行った時。その日は十一月も下旬へと差し掛かり、季節も移り替わろうとしていて、肌寒い日だった。
 
 いつも通り、茜の部屋に向かうと、ドアは開いていて、看護師さんたちがひっきりなしに出入りしていた。
 部屋の中を覗いてみると、酸素マスクを装着した茜の姿があった。

「君!そこ邪魔だからどいて!」
 
 茜を乗せたベッドが集中治療室へと運ばれていく。
 買ってきたコロッケが、ぐちゃっと音を立てて地面に落ちる。
 俺は、何もできずに、集中治療室の扉が閉まるまで、ただその場でバカみたいに突っ立ているだけだった。
 喉元まで迫ってきていた絶望を必死に抑え込む。
 
 俺にできることは、ただ茜を信じて祈ることだけだった。永遠にも感じられる時間が過ぎ、
処置を終えた先生が出てきた。
 俺は急いで駆け寄る。

「茜は⁉助かるんですか⁉」
「君お友達かい?大丈夫。一応今回は何とかなった」
 
 俺は安堵してその場に座り込みそうになるのを何とか堪える。

「ただ、非常に意識が混濁している。もしかしたら、もう意識が戻ることはないかもしれない」
 
 集中治療室の冷たい真っ白な扉と、ベッドの上の真っ白な天井が重なる。悪い夢ならもうたくさんだ。俺は床に崩れ落ちた。
 夜の病棟を、儚げに蛍光灯の光が点滅して照らしていた。それはまるで、すり減った茜の命を表しているようだった。

 

 
 茜の部屋を訪れる。茜はたくさんの管に繋がれ、酸素マスクを着けていた。

「茜。お見舞いに来たぞ。元気か?」
「って元気なわけないか。ははっ。何バカなこと言ってるんだろうな俺」
「そういえばそろそろクリスマスだぞ。今年は何を頼むんだ?まさかまだヒーローのフィギュアなんて言わないだろうな」
「お前はもっとお洒落な下着を買ってもらえ。もう高校生なんだから」
「ってそんなこと言ったら、また、ぶん殴られるな。あのパンチは効いたぜ」
「…」

 俺の独り言が病室に空しく響き渡る。

「なあっっ。返事をしてくれよっ!」
 
 茜の目はずっと閉じられたままだ。

「お前、やりたいこといっぱいあるんじゃなかったのかよ!俺と全部回ろうって約束しただろ!病気になんか負けてられないって言ってたじゃねえか!また、笑ってくれよ」
 
 最後は言葉がほとんど出てこなかった。
 ほんとに、もう、このまま…。
 俺は茜の温もりを、生を感じたくて、手に触れる。
 
 その時。茜が弱々しく手を握り返してきた。

「茜⁉」
 
 茜は変わらず目を閉じていた。でも、まだ…
こんな状態になってまで、こいつは戦ってるんだ。まだ、諦めずに、必死に抗っている。
 変われるものなら変わってやりたい。一体どれほどの苦しみをこの小さな体で背負っているのか。
 俺はただ、強く強く茜の手を握ることしかできなかった。



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