彼の描いた 春景色

もち紬

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彼の描いた 春景色

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 彼は絵描きになりたかったが、挫折した。
 美大へは行かず、都内のそこそこの大学の文学部へ進学したのは、周囲に反対されたからだ。絵など学んだところで食っていけないぞ、と。
 彼も、よくわかっていた。
 才能があっても売れない画家がごまんといる世界で、自分の絵はしょせん趣味の域を出ない。好きなだけではどうにもならない。学校の勉強なら、さいわい人より少しだけできた。
 物分かりのいいフリをした。
 未練がましく絵画サークルに所属していたものの、けっきょく美術とは無関係の一般企業に就職して、画材は押入れの奥深くに追いやられた。



 朝起きると、彼は満員電車でギュウギュウゆられて職場へむかう。
 デスクに座って、一日中パソコンをにらみつけて、キーボードをカタカタ鳴らす。ときどき電話の呼出音に引っぱたかれて、受話器にペコペコ謝って、またキーボードをカタカタ鳴らす。
 帰ってくるのは、夜。
 満員電車でギュウギュウゆられて、一人暮らしのアパートにたどり着く頃には、心身ヘトヘトになっている。いい加減な食事をとっているあいだも、ベッドにもぐりこんでからも、スマートフォンのまぶしい画面を、虚ろな目でぼーっと眺めている。
 週末は、昼過ぎにようやく起きてくる。
 洗濯に掃除に買い出しにと、一週間ぶんの家事を済ませると、もう陽が傾きはじめている。シャンプーとトイレットペーパーをさげて、ドラッグストアからの帰り道、夕焼け空を飛んでいるカラスを見上げる。
 虚しい気持ちになる。
 人生を浪費している。生きるために仕事に行くのか、仕事に行くために生きているのか、わからなくなる。絵画展のポスターを見ても、写生に気持ちのよさそうな晴天でも、翌日からまた仕事だと思うと、とても出掛ける気力が湧かない。

 彼は、己の限界に気づけなかった。

 ある日、隣の席の後輩が彼のデスクの端に、そっとティッシュペーパーの箱を置いた。
 なんだろうと、彼はパソコンから顔を上げた。
 自分の頬が濡れていることに、ハッとした。止めようと焦るほど、破裂した水道管のように涙が溢れ出してくる。周囲の視線に耐えられず、彼は職場のトイレに逃げこんだ。
 そんなことが、三度もあった。
 病院に行くという選択肢は彼にはなかった。自分をだと認めたくなかった。甘えだと言い聞かせた。根性なし、みっともない。恥ずかしくて、みぞおちがギリギリ痛んだ。

 やがて、彼は仕事をやめた。
 アパートに引きこもって、食料の買い足しなど最低限のほかは、外に出ようとしなくなった。窓のカーテンは昼夜問わず、重く閉ざされた。
 真っ暗な部屋で、ベッドの毛布にくるまって、彼はタブレットをぼーっと眺めていた。以前、デジタル絵に挑戦しようと購入したのだった。SNSに溢れている作品のクオリティに圧倒され、意気込みはすっかり萎縮して、動画を垂れ流す道具になり果てていた。
 面白くなくていい。時間が潰せればそれでいい。
 転職サイトを開こうとすると指が震えて、みぞおちがギリギリ痛む。息が吸えなくなる。涙が止まらなくなる。自分が許せなくて、無関係な動画ばかりを延々と眺めている。
 暗闇を照らすディスプレイの光が眼鏡に青白く反射して、それが、彼の世界のすべてになっていた。
 いつ死のうか考えていた。
 生きている理由がわからなかった。
 充電ケーブルを首に巻きつけては引っかける場所を探し、洗剤のボトルを眺めては致死量を計算している。何年も世話になったアパートを事故物件にしてしまうのが申し訳なかった。後処理が少しでも楽なようにゴミ袋をつなげてシートを作ろうと考えた。中途半端に死に損なって後遺症が残ったら、そう思うと踏ん切りがつかない。臆病な自分が情けなかった。

 彼がめくるのをやめたカレンダーに埃が白く積もってゆき、あっという間に、一年が溶けた。

 ある日の昼下がり。
 カフェインを求めてゴミ溜めのような暗闇からこっそり出てきた彼は、アパートの一階で呼び止められた。
 大家が立っていた。
 彼の祖母くらいの歳で、気さくで世話好きで、みずから箒やら熊手やらを手に、アパートを清掃して回っている姿をよく見かける。
 彼は身構えた。
 冷や汗が背中をつたった。
 定職についていないことが、バレたのだ。
 いまは貯金があるから、家賃を払えている。しかし残高は底をつきかけている。あるいは、悪臭の苦情が入ったか。あるいは、死ねずにいることを感づかれたか。いずれにせよこんな不安定な人間、大家からしたら疫病神だ。出ていってくれ、そう通告されるに違いない。グズグズしすぎた。さっさと死んでおくんだった。
 青ざめて立ち尽くしている彼に、大家の老婦人は庭仕事用の帽子を持ちあげて「いいお天気ねえ」と、にっこり笑った。

「あなた、知ってる?あそこに川があるでしょう」
「…………神社の、むこうのですか」
「そうそう。あそこの土手にねえ、桜が植わってるのよ。1キロくらい、ずらーっと」
「はあ」
「わたしも、今朝見てきたの。ちょうど満開でねえ、とってもきれいだったわあ。桜の下が遊歩道になってるのよ。お花見スポットで人気なの」
「はあ」
「時間があったら、寄ってらっしゃいな」

 またにっこり笑って、老婦人はアパート裏の草むしりに戻っていった。
 拍子抜けだった。
 彼はしばらく、その場に突っ立っていた。
 世間は春になっていたらしいと、ぼんやり思った。




 コンビニを出た彼は、ちょっと迷ったあと、アパートとは別方向へ歩きだした。
 駅を越えて、坂をくだって、神社の石段の前を過ぎると、川にかかったコンクリートの橋が見えてくる。
 街中にしては、まあまあ川幅が広い。
 市の設置した看板が立っている。

 『自然散策コース・1300m』

 部活ジャージを着た男子高生が、ゼエゼエ言いながら彼を抜き去っていく。
 大型犬の散歩をしている若い女性が、リードで引っぱられながら歩いてくる。
 Tシャツ姿の中年夫婦が、川を泳いでいる水鳥を指さしながら談笑している。
 首から一眼レフをさげた老人、スマートフォンをかまえた家族連れ、キャアキャア笑いながら走っていく子どもたち……
 彼は自分の端末を見た。
 今日は、日曜日。
 社会人が川岸をフラフラしていても、なんの問題もない。
 ホッとして、丸まった背中を少しだけ伸ばした。堤防の上の散策路をゆっくり歩きはじめた。
 

 桜が咲いてる。
 どの桜も、どっしり大きい。
 学校の校庭に生えているようなヒョロヒョロじゃない。一本ずつが名のある公園の主役を張れる貫禄がある。それが、川沿いの土手にどしん、どしん、と生えている。
 淡いピンクの花は満開だった。
 ちょっとの風ではびくともしない。はらはら散る風情がない代わりに、みすぼらしく葉が混じっている枝もない。
 がっかりした。
 期待外れだった。
 桜とは、こんなに退屈なものだっただろうか。
 春の心はのどけからまし?
 そんな興奮は、ちっとも湧いてこない。
 昔、旅先で見た桜を思い出していた。
 神社の境内一面が、満開だった。回廊の柱のようにならんだ桜の木から、はらはら、はらはら、花びらが舞い散って、淡いピンク色に染めあげられた地面は花びらの重なりでやわらかく、一足踏むごとに、夢のなかを歩いている心地だった。
 あるいは、別の観光地で迷いこんだ桜並木。
 夜、街灯にぼんやり照らされた桜雲が白く浮かびあがって、寝静まった住宅街は幻想世界に沈んでいた。

 ここの桜は、どれもつまらない。
 ただ、植わっている。ただ、咲いている。
 たしかに綺麗ではある。
 しかし、白っ茶けて、うすっぺらい。
 現実になってしまっている。
 あの圧倒的なときめきは、心が震えるほどの神秘は、どこへ行ってしまったのか。

 胸にぽっかり空いた穴を、風が吹きすぎていった。
 これが、最期に見る春なのに。
 来年の春はきっと、自分には来ない。来てはならない。
 惰性でずるずる生きていて何になる?
 ここまで出てきたのは、勇気をもらえるんじゃないかと思ったからだ。断ち切る度胸を。これほど綺麗な景色を最期に見た、大丈夫、未練はない。そう、踏ん切りをつけられると思った。こんな桜じゃ、まるで足りない。しかし二十九年も生きてきて、何者にもなれなかった。ゴミクズにしかなれなかった。そんな自分には、たしかに相応しい終焉かもしれない。

 あるいは、と彼はコンビニで買ったコーヒーをひと口飲む。

 自分の心が、硬くなってしまったせいかもしれない。
 やわらかい子どもの肌が、歳を取るにつれてガサガサに干乾びていくように。
 浪費してしまったのだ。
 みずみずしい時代を。ささやかな移ろいを繊細に感じて、琴線をかき鳴らせる貴重な若さを。トイレの水みたいに虚無へ流してしまった。
 彼はもうひと口、コーヒーを飲む。
 チルドカップの中で少しぬるくなったブラックコーヒーは、ストローが溶けそうなほど酸っぱくて苦い。
 土手をがむしゃらに駆け出してわめき散らしながら川に飛びこみたい衝動を抱えて、彼はどこか安堵してもいた。
 不相応な夢を、見なくてよかった。
 こんな平凡でうすっぺらい感性しか持たない自分に、だれかの心に響く絵なんて描けるはずがなかった。
 

 人通りが増えてきて、行く手に次の橋が見えた。
 桜を見にきた人々の多くが、その橋でむこう岸へ渡っていく。彼もなんとなく、人の流れについていく。
 対岸は、広場になっていた。
 ぐるりと桜が植えられている。芝生の上で、たくさんの人がレジャーシートを広げている。
 お弁当をつまんでいる。バーベキューのにおいがする。子どもたちが駆けまわって、大人たちはビールを飲んでいる。
 彼は昔から、人混みが大の苦手だった。
 立っているだけでも目眩がして、頭痛がして、しなびたレタスのようにグッタリしてしまう。
 しかしここの喧騒は、不思議と苦にならない。
 ぼんやり白茶けた桜より、むしろ活気があって興味を惹かれる。パーティー会場に迷いこんだショウジョウバエのような気後れを感じつつも、休日だという免罪符が彼をちょっとだけ大胆にする。
 芝生のあちこちに小さなテントがたくさん立っている。もう半袖の人がけっこういる。入学式帰りのようなワンピースの子どもたちと母親の集団。すれ違ったベビーカーから、赤ん坊ではなく小型犬がしっぽをふってくる。一段低くなった河川敷には、菜の花の群生のまんなかでシートを広げている家族がいる。楽しそうだと思うより先に、蒸し暑かろうと案じてしまう――

 広場をぐるっとまわった彼は、こちら側の堤防を引き返すことにした。
 最初のコンクリート橋を渡って、アパートへ帰るつもりだ。
 こちらの岸には、菜の花が咲いている。
 彼は、奇妙に思った。
 菜の花とは、こんなにぼんやりした玉子色だっただろうか。うるさいくらい、どぎついイエローではなかったか。
 種類がちがうのかもしれないと、彼は考えてみる。
 植物に詳しいわけじゃない。
 菜の花は、菜の花でしかない。品種がいくつあるのかもわからない。
 菜の花の手前の草むらも、彼の目には雑草に見える。ただ緑の草むらが広がっている。
 ふと、彼は足をとめた。
 濃い紫色が見えたからだ。
 食べ散らかしたブドウの皮ような紫色が、草むらにぽつぽつ咲いている。
 スミレとは、形がちがう。
 これは、あれだ、カラスノエンドウ。
 しかしカラスノエンドウは、もっと赤みの強い紫色ではなかったか。
 眺めて思案しているうちに、彼の目の前で、不思議なことが起こりだした。
 ただの緑色だと思っていた草むらが、鮮やかに色づきはじめたのだ。最初はぽつぽつと、たちまちドッと大群が押し寄せるように。
 ギザギザしたやわらかい黄緑色は、ヨモギの葉。
 銀緑の鈴をシャラシャラぶら下げているのがカラスムギ。
 点々と青いオオイヌノフグリ、パールシュガーをこぼしたみたいなぺんぺん草、焼け焦げたキノコのようにのびているたくさんの黒い茎は、花が終わったオオバコの軸――

 彼は、菜の花へ目をやった。
 目に染みるほど鮮やかなイエローが、陽の光を浴びてどこまでも広がっている。
 菜の花だけじゃない。
 突然、世界のすべてがクリアに見えた。
 彼は驚いて、歩いてきた土手を振り返った。

 桜が咲いている。
 生き生きと。 
 力強く。

 満開の花を、淡いピンク色の雲を、こぼれ落ちそうなほど枝に抱えて、どしん、どしん、と生えている。うすい花びら一枚一枚を陽の光に透かして、夢のようにかがやいて、並んだ一本一本から、巨大な噴水のように春が溢れ出している。
 心が、震えていた。
 彼は、歩いてきた道を引き返しはじめた。
 すべてが来たときとは違って見えた。
 何もないと思って通りすぎた土手の日陰に藪椿が白く咲いている。
 淡い藤色のオオアラセイトウが群生している。
 対岸の柳の大木が、暗緑色の川面へ若草色の枝を垂れている。
 川面に映った柳の影を、白銀の波で引き裂いて、マガモの親子が泳いでいく。
 ポツンとはずれて土手に立っている、一本桜。
 一眼レフで熱心に写していた老人はもういない。こんな青白くて貧相なものをと、さっきは呆れて追い抜いた。むこうのソメイヨシノとは種類がちがうらしい。真っ白な花を、風に飛ばされてきた花嫁のベールのように揺らしている。

 曇っていた眼鏡が、晴れたようだった。
 あるいは、レンズのピントが合ったような。

 そうだった。
 世界は、色鮮やかだ。
 だから、絵を描こうと思ったのだ。
 どんなにカラフルな画像でも、スマホやタブレットでは、この色彩は再現できない。

 以前の彼が見ていた色彩には、まだ及ばない。
 両目をはげしくき焦がして、鋭利なかぎ爪で魂をえぐり出すような、強烈な色彩の洪水には、まだ遠く及ばない。
 けれど錆びついていた心臓は、かすかに動きはじめていた。どくん、どくんと、脈打っていた。共鳴の仕方を、思い出したようだった。
 感覚が戻りつつある彼には、広場の喧騒はもはや、うるさすぎた。
 人が多すぎる。
 人間は、不揃いすぎる。配色がめちゃくちゃで、動きがめちゃくちゃで、てんでばらばらに蠢いて、わめきちらして、調和の欠片もない。情報量が多すぎる。いらない情報ばかり。目眩がする。

 彼は、足早に広場をぬけていく。
 もう一度、橋の上で振り返った。
 満開の春を、目にきつけるために。

 帰ったら、この景色を絵にするのだ。
 筆とパレットを引っぱり出さないと。
 アクリルより、透明水彩がいい。
 草むらのグリーンに、菜の花のレモンイエロー。
 あるいは、深いビリジアンの川面と、桜の白。
 あるいは……
 あるいは……

 神社の石段も、傾斜のきつい坂道も、もう彼の目には映らない。
 体が、軽かった。
 一年ぶりに、頬がゆるんでいた。








 <終>
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