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第三章

誰そ彼時の追憶現象

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 同日、太陽も落ち始めて、街がオレンジ色に染まる頃。周辺の境界線を写して回った、俺たちは目的地とする茅乃の小学校へと辿り着いていた。

 校門から広がる風景は、如何にも正統と言える学校の造りを捉え、所々は煤による若干の灰色に染まっていたが、なかなかに立派だ。陽も傾いているというのに、夏の陽射しはそれはもうまばゆく、校舎を橙黄色に彩っている。

「ここが茅乃の通っていた中学か」
「そう、なかなかに大きいでしょ。生徒数もかなり多いから、日中なら数えきれないほどのニヒルとか校庭を駆け回ってるんだけどね」
「そうなのか?」
「うん」

 そう、すでに日は落ち始めていた。
 じきにこの校舎も夜の闇に包まれることだろう。茅乃もそれを見越してか、早めに中学校へ行こうと提案していたのだが、ある理由によりこの時刻にさせてもらった。

「所謂、マンモス校ってやつだな」
「そそ、じゃあ入ろっか」

 茅乃は告げながら、校門横の鉄ドアから堂々と侵入する。

「——って、なんの躊躇いもないのな」
「え? だって、母校だし。OG枠でしょ?」
「そういう問題なのか」

 実際であれば、警備員にでも取り抑えられそうなものだが、そんな常識はここではなんの力も持たない。何事もなく、あっさりと校舎内へと入ることができたわけだが。
 分かっていたことではあるけど、改めてこの世界の常識は逸脱している。
 玄関口で来賓用のスリッパへと履き替えた、俺たちはゆっくりと廊下を歩いた。廊下に並ぶボードには掲示物には学年ごとの個性豊かな展示物や習字などが貼られており、作品からは生徒たちの試行錯誤の後が見受けられる。

「あ、なんか懐かしいかも」
「中学って、そんなに昔のことか? ていうか茅乃って、本当は何歳なんだ?」

 前にも一度だけ訊ねた気がするこの質問。
 茅乃もまともに答えるつもりはなかったが、関係も進展したのでそろそろ話してくれてもいいのではないだろうか。

「えぇ、どうしよっかな。アヤセくんは、そんなに私のことが気になるの?」
「変な言い回しに変換するな。だけど、まぁ知りたいとは思ってるよ」

 言葉にしてから妙な恥ずかしさに襲われて、表情筋を手で覆った。

「ん。そっか。ならヒントをあげると、私が最後にここに来たのが二年前だってことかな。それだけは教えてあげる」
「二年前か」

 茅乃の言ったことを鵜呑みにするのであれば、中学を卒業してから二年が経っているということになるだろうか。だとすれば、単純計算で茅乃は高校二年生ということになるが。

 考えを巡らせている俺を置き去りに茅乃はどんどんと廊下を進んでいた。廊下では茅乃は何度も立ち止まり、物思いに耽っている。
 橙色の陽光に照らされた校舎の廊下を歩く茅乃に何度も見惚れて、その度に胸が締め付けられるのを感じた。

「ここをまっすぐに進むと音楽室で、こっちが図書室っ! でね、そしてここが、私が三年生の頃の教室だよ」

 表情に喜色を浮かべて笑いかける、茅乃。
 茅乃の言葉に耳を傾けながら瞼を閉じると、中学の頃の茅乃がすぐそこにいるような気さえする。笑顔で廊下を駆け回る、そんな茅乃が見えてくるようだ。

「それでね、ここの木の部分に線があるでしょ? これは私が友達と身長を測ったときに付けたんだ。まぁ、その後にこっ酷く叱られたんだけどね」
「中学生なのにやってることは、子供なんだな」
「し、失敬なっ。中学生だって子供の部類に入るでしょ。それに私だってやめた方がいいって言ったんだけど友達がどうしても——って聞いてるの?」

 必死に言い訳を並べて言い逃れを試みる茅乃に自然と笑いが溢れていた。

「ねぇ、今の話に笑う要素あった?」
「ごめんごめん。本気で弁明する茅乃がおかしくてさ」
「私怒っていいよね?」

 不機嫌そうにそっぽを向いた茅乃を見ると、少しだけ安心できた。

「活発な子どもだったんだな」
「そうだね、一年生の頃は結構なやんちゃをしてたかも?」
「何だよ、その限定詞は」

 教室の机を指でなぞりながら、儚い瞳で溢したその言葉を聞き届けた。すると今度はハッと顔をあげて、教室を出ると階段の方へと駆け出す。

「あっ、他にもね。見ておきたい場所があるんだけどね。こっちこっち」
「————活発なのは今も変わらないと思うけどな」
「え、何か言った?」
「いやなんでも」

 先導するように何歩も先を歩く、茅乃。俺も、あるモノを決して見逃さないよう周囲に意識を配りながら、茅乃の背を追う。

「ノスタルジック? って、いうんだっけ。こういう懐かしいなーっていう感情がぶわって広がるのって」
「そうだな」
「授業中はいつも暇だったから、教科書に落書きしたり、窓際の席だった時はずっと空を眺めてたりしたなぁ。ほらここから、校庭も見えるんだよね」

 窓を覗くとそこには落ちかけの夕陽と町並みが広がっていた。高場にあるお陰で景色も悪くない。目線を落とすと茅乃の言った通り、グラウンドも見えた。
 白線で大きな楕円形の周りには鉄棒や雲梯やらの遊具も充実している。

 ただ、あるもの・・・・がどこにも見当たらないと、半ば諦めかけていたそのときだった。教室の窓から見下ろしたグラウンドの隅にソレを捉えた。

 現れてくれて、良かった。

「なぁ、ちょっとだけ待っててくれないか? すぐ戻るよ」
「あっ、うん。いいけど——」

 茅乃にひとこと断りを入れて、すぐさま泡沫の方へと足を進めた。シャボン玉のような見た目の大きな球体。ソレから放たれる独特な空気感は異様で、遠目でも確認できた。
 俺は、ソレが消えてしまう前に急いでグラウンドへ向かう。

「やっぱり、あるよな」

 ゼェハァと息を切らして、校庭まで足を進めた俺はそれを目の前にそう呟いた。これは、追憶を見るための言わば、鍵のような存在だ。

 額に溜まった玉の汗を拭うと、すぅと息を吐き出した。

 幼少の頃の茅乃を映す、この泡沫にはもう一つ重要な法則があった。
 泡沫の出現時刻——夕方にのみ出現するということだ。敢えて日が落ち始めてから、ここに来たのもそれが理由である。

 元々、夕刻は黄昏時と呼ばれており、その語源は『誰ぞ彼』と云われている。ちょうど茅蜩ひぐらしが鳴き始める時間だ。

 この時間帯は、沈みかけの太陽により人の顔の判別がつかなくなるほどに薄暗くなる。つまりは、そこにいるのは誰ですか、と訊ねる頃合いというわけだ。

 俺は追憶現象の起こる時間が夕方なことには意味があると考えている。そもそもこう云われるように黄昏時は他人の識別がつかなくなる時間帯だ。

 追憶現象が起こっている間は、俺と茅乃の境界線がなくなり識別もほとんどが付かなくなる状態なので、状況は類似している。二人を隔てる壁が消えて、溶け合い一つになるような一体感が追憶現象にはあった。

 まぁそれでも、黄昏時に関しての知識は記憶の中のものであり、詳細には知らなかった。
 誰ぞ彼——黄昏時があるように、『彼は誰』があったような気はするが、記憶の中の知識が上手く像を結んでくれなかった。
 予定では本屋でその辺りの伝承が記された本を探すつもりでいたが、本は真っ白なページで埋め尽くされていたため、調べることもできまい。

「悪いけど、覗かせてもらうぞ」

 泡沫を前に俺は、そう発した。後ろめたい気持ちを和らげたいだけなのは分かっているが、言わずにはいられない。
 茅乃が自分の記憶を俺に覗かれていることを知ったら、どんな表情をするだろうか。考えるだけで、胸が苦しくなるのは、きっと俺が茅乃に対して友達以上の感情を抱いているからだ。

 だが、日に日に強くなる「助けないと」という使命感がきっと今の俺を突き動かしていた。

 そっと突き出した、腕。目の前のソレに手を伸ばす、その直後のこと。
 プツリと切断された意識は、暗転、別の風景へと切り替わった。
 これで六度目とはいえ、慣れることはないだろうな。夢心地に飲み込まれながら、そんなことを考える。

   ꕤ

 遠方で、油蝉が鳴いた。
 その日は夏の蒸し暑さを一層感じられる日で、晴々とした青に浮かぶ白い雲、ガヤガヤと聞こえる生徒の騒めきがグラウンド全体に満ちている。
 授業の合間、中休みでのこと。
 茅乃は校庭から体育館へと続く、石段の階段にぺたりと座っていた。そこに茅乃を囲うようにして、何人もの少女が群がり始める。

『なぁ、茅乃。次の授業、先生が休みだから、みんなでバスケするらしいよ』
『そう、らしいね』

 快活なオーラを纏った少女、他にも数名が茅乃の周りを取り囲んでいた。それに対して茅乃はどこか浮かない顔だ。

『いつもは体育を休んじゃってるけど、今日くらいは一緒にやってみない?』
『でも』
『大丈夫だよ! そんなに激しい運動をするわけじゃないし、茅乃が疲れてそうならすぐに交代できるようにみんなに話してあるからさ』
『うん、そうだよ!』

 周りの少女たちもいつも体育を休んでいる茅乃のことを気遣っているようだ。直後、休み時間が終了のチャイムが鳴る。

『行こ? 茅乃ちゃん』
『う、うん。そうだねっ! 私だって、たまには参加した方がいいよねっ』

 茅乃はそう答えながら、曖昧に笑っていた。あの笑みだった。取り繕うようなその場凌ぎのような笑み。そのまま、茅乃はみんなに囲まれながら、仲睦まじく校舎の入り口まで歩いて行ってしまった。
 茅乃は中学一年生になっていた。
 学校は家から近いものの小学生の頃の友達とはクラスが分かれて、ちょっぴり疎遠になってしまったようだ。
 バスケットボール。
 敢えて補足する必要もない遊戯だが、茅乃にはみんなに混じって体育ができない理由があった。しかし、みんなの誘いを無碍にすることも、茅乃にとっては心苦しいことではある、ということらしい。
 茅乃はその誘いを受けることにした。幸いにも、茅乃のチームにはバスケ部の女子がいたため、あまり激しく動き回ることもなく、授業を終えることができた。
 シュートが決まりあがる歓声。みんなと並んで茅乃の表情も明るく染まる。

 なんだ、私にだってこれくらいのことはできるじゃん!

 茅乃の心の声が伝わってくるようだった。
 だが、それが起こったのは授業終わりの昼休みのことだった。

『か、茅乃ちゃん!? どうしたの急に』

 給食を片付けている最中の茅乃が胸を押さえて倒れたのである。周囲にいた生徒たちにも、その動揺の波紋が広がる。だが、誰もこの状況を飲み込めず、ただ立ち尽くしてしまっていた。

『ちょっと、そこをどいて——しっかり! 紡希さん!』

 駆けつけたのは近くの女教師だ。
 茅乃の側に膝を突いて、意識の確認をしている。

『先生は紡希さんを保健室に運ぶから、みんなは授業の準備をして待っているように!!』

 曇りゆく景色、ゼェゼェと煩い息遣いに、締め付けるような胸の痛み。女教師の言葉を最後に茅乃の意識は途絶えた。
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