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第五章

本物の笑顔

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 この世界に来て、四年以上が過ぎた頃だろうか。日付の感覚どころか、季節すらも忘れて、永劫にも感じられる日々を、只管ひたすらに無心で過ごしていると、私の身体にある変化が起こった。
 ある朝、目を覚ますと胸の内側がひどく熱く感じられた。衰弱しきった身体に生命力が注がれるようで、ただただ困惑していた。

「久しぶりに外に出ようかな」

 私は確かにそう思っていた。
 何かに——誰かに呼ばれている気がした。
 いや、気のせいに違いない。しばらく堕落した生活を送っていると、ふとした瞬間に新しい何かを始めたくなるあの現象だろう。

 私はベットから起き上がって、熱いシャワーを浴びた。外の空気が吸いたくなっただけかもしれない。感じたことのない衝動に駆られながら、私は家を飛び出してある場所へ向かっていた。
 ドクン、ドクン——。
 幾度となく脈打ち動悸する心臓がやけに活発で、私はただただその場所へと歩みを進めていた。

「なんで、こんなとこに来ちゃったんだろ」

 行き場をなくした私が迷いに迷って、彷徨いながら辿り着いた場所。
 そこは、秋葉原駅だった。
 電車を降りた私は階段を踏み締めて下った。そして導かれるままに一階へと着いた私はその足で駅の改札に向かっていた。
 山手線と総武線の交錯する場所に向かって。
 次の刹那、私はあの田舎の駅に立っていた。

「————っ」

 如月駅。
 あれ以来、どんなに探しても来ることができなかった場所だ。
 あまりのことに訳も分からなかったが、それはもう慣れっこ。ゆったりとした足取りで古風な改札を抜けると駅のベンチで人影を見つけた。人影? ニヒルの間違いだろうか。

「そこに——誰かいるの?」

 一歩、また一歩と距離を詰めて行き、その少年の前に立った私は息を呑む。
 ありえない、と。そんな常識的な考えが何度もリピートされたが、目の前の光景を疑うわけにもいかない。

「うそっ、驚いた。ほんとのほんと、ほんとに——」

 人がいた。ニヒルではない、人が。
 私以外の誰かを見るのは、何年ぶりだろうか。

「まさかこの世界に、人がいる、なんて。そんなことありえない、のに」

 驚きのあまりに胸が弾んで、浮かれちゃダメだと抑止する。

「えーっとさ。人がいるとかいないとか、なんのこと?」
「なにって、や、やっぱ、喋ったよね!?」

 ああ、こんなことはあるのだろうか。
 ニヒルじゃない、四年半ぶりに見かける本物の人。

 戸惑いをあらわにする私を少年はひどく不気味がってるように見えた。

「ご、ごめんね。なんかこうして話してみると、やっぱり、生きてるというか、人なんだなぁって、ちょっと驚いちゃって」

 補足を加えてみたが、むしろ困惑させてしまったようだ。
 私だって少年と同じ状況でそう言われれば、そんな顔もするだろう。

「人、ね」
「うん」

 少年の頭の上にぽかんとクエスチョンマークが浮かんだ。私の言葉を理解しようとしていたが、やはり無理だったらしい。

「いやいや、なんだその変な物言いは。驚きの沸点も低いし、まるで俺が機械か死人にでも見えたような反応だけど」
「まぁ、この暑さなら人が死ぬくらいありそうだけどって、そうじゃなくて! 私が驚いたのは、兎に角、仕方ないわけでね」

 仕方ない。
 理解不能と言わんばかりにこちらを見つめるが、私からすれば、そもそも会話したのも久々だった。そんなことなど、言えるはずもないけれど。

 少年はこの状況を呑み込めていないようで、周囲を見渡しては眉根をひそめていた。おそらく私同様に彼も彼自身の意思で来たわけではないようだ。

 人に会えた。
 誰かと会話をしている。
 極めて当たり前のことだけで、取り乱してしまうほどに今の私は人に飢えているのだろう。しばらくして、落ち着きを取り戻した私は彼へと視線を戻す。

「ん」

 数秒くらいだろう、しばらく彼を見つめているとなんだか目頭がじんわり熱くなるのを感じた。一体、どうしたというのだ。すると彼が異変に気付いたようで、二人に流れる沈黙を破った。

「なん、で、泣いてるんだ?」
「え。泣いて? あっ、ほんとだ」

 一瞬、何を言っているのか分からなかったが、目元に指をあてるとその言葉の意味が理解できた。私は泣いていたのだ。

 昔から涙もろいところはあったが、まさか人前でこうも決壊してしまうとは想像以上に涙腺が弱くなっていたのだろう。

「気づいてなかったのか」

 呆れたように少年はそう続ける。

「あはは、気づかなかったよ。嬉しい時も涙が出るってほんとなんだね」
「どういう意味だよ」
「うんん、こっちの話」

 私はこれ以上、弱った姿を見られないようくるりと身体の向きを回転させて、天を仰いだ。

「ごめんね、なんだか嬉しくて。誰かにこうやって会えたことが久しぶりで」

 ああ、そうか。
 私はそう告げてから、心のどこかで安堵している自分がいることを理解した。
 不安だったのだろう。
 孤独で寂しかったのだ。だってずっと一人で、こんなだだっ広い世界にいれば、誰だって心細くもなる。いくら年月が経過しようとそれは変わらない。

 だからこそ、一人じゃなくなった今、私は安堵していたのだ。
 見上げた空にはすべてを飲み込みそうなほど大きな入道雲が山々にかかっていた。一人じゃない。
 ただそれだけのことで、私の心はちょっぴり救われていた。

 これが私がアヤセくんに会うまでの物語。

   ꕤ 

 茅乃は自分の話を語り終えると息を吐いて、再び枕元に寄り掛かった。全身を脱力させて、ふぅと小さく息を吐き出した。

「現実世界の私はきっと病気で死んでるんだよね。まぁ生きてたとしても、入院生活だったわけだし。でもアヤセくんの学校にも行けたってことは、ここは私の精神世界じゃないのかな? 記憶によって生まれてるのは分かるけど」
「どう、だろうな」

 結論を出すのはまだ早いと、曖昧な返事で濁した。実際に俺の中には一つの確信があったが、茅乃にそのことを伝えたくなかった。

「これで私の話はすべて、君が知りたかったことだよ。どう? 面白かった?」
「そうだな、まぁなんとなく、いろいろと腑に落ちたかな」
「黙ってて、ごめんね。食事とかで気づかれるかと思ったんだけど。私の知らない味は再現できてないわけだし」
「まぁ、記憶喪失だったからな。味とか分かんなかったし」

 茅乃の話すことが本当であれば、この世界の食べ物は茅乃の感じたことのある味や知っている味に基づいているため、実際のものとは触感も味もことなるかもしれない。だが、記憶のない俺がそれに気づくこともないのも事実だ。
 大抵のものはこんな味なのかと、受け入れることしかできなかっただろう。

「そういえば、アヤセくんって初めは厚着だったよね。もしかして、外の世界は冬なのかな?」

 如月駅で茅乃に会ったときにコートを着ていたことを言っているのだろう。

「ああ、たしか元の世界は、2021年の三月くらいだったな」
「そっか。私が来たのが2016年の三月二十日だから、私が来てから実は五年が経ってたのか。時間感覚が正しいわけじゃないから、半年もズレてたってことかな」

 他にも、茅乃が意識を失って半年後にこの世界に来たという仮説も考えられるが、議論をしたところで、答えはでない。

「やっぱりさ、怒ってるよね? ずっと嘘をつき続けてたこと。私の事情にアヤセくんのことを巻き込んじゃったんだって思って」

 思考を巡らせながら茅乃の状況を整理していると、しおらしい声音で訊ねた。

「嘘、か。別にそんなことはないけど」
「うんん、やっぱり嘘だよ。できれば、永遠にアヤセくんは何にも気づかずに一緒にいてくれる存在になって欲しいって願ってたんだから」

 遠回しに一緒にいて欲しいと言われたようで、気恥ずかしい。
 しかし、茅乃がそう思っていたことに納得はできた。
 境界線の調査を進めるたびに茅乃はどこか寂しそうに、顔を曇らせていた。気のせいではなかったわけだ。

「私ね、見放されたくなかったんだ。本来の私を見せると、煙たがられるんじゃないかなって。多分、自分を演じることの副作用なんだよね」

 茅乃は窓の奥を眺めているせいもあり、陰って表情はよく見えない。

「でもやっぱ、誰かには気付いてもらいたかったんだと思う。私の本心を。もしかしたら、その気持ちが形になったのがアヤセくんの言ってた泡沫ってやつなのかも」

 追憶現象の紡希茅乃。茅乃は人前では、いつも笑っていた。
 とってつけたような笑みを浮かべながら、感じのいい人間を演じていたのだとすぐにわかった。

「美術館で見た絵のことだけど、覚えてる?」
「あの少女の絵か」
「うん」

 孤独少女、キャプションにそんな題名が書かれていた。

「私ね、あの絵の解釈をアヤセくんから聞いたときにすごく救われたんだよね。きっとこの人なら、演じていた紡希茅乃じゃなく、私のことをちゃんと見てくれるかもしれないって」
「それは俺を買い被りすぎだと思うんだが」
「うんん。そんなことない。今は私のことをアヤセくんに話せて良かったって思ってる。だからこそ、ずっと嘘を吐いてたことを、謝り、たかった、から」

 茅乃はベッドから近くにいた俺に身体を預けると顔を俯かせた。肩は小刻みに震えていて、幼い少女のように感じられた。

「ご、ごめんね、アヤセくん」

 茅乃はぽつりと呟く。
 幼いのは、当然だ。いつもの茅乃の余裕な態度は見放されないための偽物で、
誰に頼ることもせずにこの年齢になってしまったから。外面を強固なもので固めていたせいで、中身はずっと脆くて壊れやすいのだろう。

「ずっと、騙してて、黙っててごめん、ね——」

 涙声を必死に堪えたようだった。

 罪悪感なんて言葉がある。自身のやましさに押し潰されそうな胸の内を表現した言葉で、嘘を吐いていたことを非難されるべきだと茅乃は考えている。
 きっとそれを世間では、優しくて強いと表現する。罪悪を強く抱ける心根の優しさに、自身の持つの感情に向き合おうとする強さを茅乃は持っている。

「ありがとう、茅乃。話してくれて」
「ん」

 向き合ってくれたことへの感謝以外に、茅乃へ伝えたいことはなかった。
 いや、そもそも俺は茅乃を責められるほどできた人間ではない。響谷文世という人間の持つ弱さをよく知っている。
 だからこそ、茅乃には憧れのような念を抱いてしまっていた。

 向き合うこと。一口にそう言っても、簡単なことではない。
 茅乃の姿を双眸に捉えながら、俺は自身の胸に問いかけた。

 目の前の少女の強さに対して、俺ができる精一杯の向き合い方とは何か。
 答えは、最初からこの胸に持ち合わせている。

 俺は力なく天井を見上げてから、胸中で決意した。なんとなく差し迫っているであろうタイムリミットになす術がないことに苛立ちを覚える。

「そろそろ、帰ろうか。茅乃」
「うんっ! そうだねアヤセくん!」

 茅乃は憑物の落ちたすっきりとした笑顔でそう答える。

 その笑顔は、響谷文世の人生を合わせても、とびきりのもので、目の前の少女をつい抱きしめたくなったことは、わざわざ言うまでもない。

 胸が痛かった。前と同じで締め付けられるような苦しさ。
 使命感だ。

 この日、学校で俺はこの世界に来るまでのすべての記憶を思い出した。
 自分のこと、家族のこと、親友のこと。
 そして、現実の響谷文世が——既に死んでいて・・・・・、取り返しがつかないことも、

 高校の教室で倒れたあの瞬間に、思い出していた。

 ああ、心臓の音が矢鱈と煩い。

 だが、紡希茅乃を元の世界へと帰すという選択に迷いはない。

 茅乃の顔を思い浮かべながら、俺は左胸を右手で強く鷲掴みにした。

   ꕤ

 翌日、この世界に雪が降った。
 冬の到来に無力ながら布団の中で全身を丸めて、身を守ろうとしていたのが印象的な朝だった。

 窓際に寄って曇り空を見上げると、反射した自分の顔が映って見える。
 死んでいるという事実を思い出しても、表情はわりと晴れやかなものだった。

「俺の未来が君でよかった」

 溢れて落ちた独言は、誰の耳にも届かない。
 残された時間で茅乃にしてあげられることをしよう。
 そんなことを決意した朝だった。
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