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第33話 げっ

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 すでに打ち始めてから三十分以上が経過。
 だいぶ慣れたのか、だんだんとまともなラリーができるようになった。

 この市営コートは四面ある。
 私たちが使っているのは入口から最も遠い四番コートだが、最も入口側にある一番コートとその隣の二番コートでも、どこかの同好会と思われる中年男女の集団がプレーを始めていた。

 三番コート。つまり私たちがやっているコートの隣だけが、まだ誰も来ていない。



「あ! そうだダイチくん、サーブ打ってもらってもいい?」

 ふたたび少しの休憩をはさんだときに、私はそう頼んだ。

「サーブ、ですか? まだ早いような気がしますけど」
「うん。私もサーブを受けるのはまだ無理だと思う!」
「え。じゃあ何でです?」

 太過ぎず細すぎずのバランスの良い眉毛を少し持ち上げ、不思議な顔をする彼。

「ふふ。単にダイチくんのサーブが見てみたいという好奇心」
「……? わかりました」

 彼はボールの入ったカゴを持ち上げると、コート後方のライン――ベースライン――の中央よりもやや左側に立った。
 私はその対角に立つ。

「じゃあ、打ちますね。スピードは抑えるので――」
「あ。ちょっと待って! 最初は思いっきり打ってみて」
「え? あ、はい。ではいきますね」

 彼は体を横向きにし、トスをサッとあげ――。
 パコーン。

「ひえっ!」

 速っ!
 弾丸?
 速すぎっ!!

 私は情けない声とともに、顔をラケットの面で隠してしゃがんでしまった。
 当然ボールは素通り。
 後方のフェンスにボールが当たった音のみが、彼のほうに返っていく。

「えっと。次はスピード落とします?」
「ゴメンナサイ、アマクミテマシタ。オトシテクダサイ」
「じゃあゆっくり打ちますので。がんばって返してみてください」

 パコーン。

「ぎゃあ!」

 また同じような反応になってしまった。
 たぶん、さっきよりは遅い。
 けれども、超超速いが超速い程度になったくらいで、返せそうな気がまったくしない。

「アオイさん、しゃがんで隠れてると取れないです」
「いや、速すぎだって! これでも無理」

 サーブを打ってほしいと自分から頼んだにもかかわらず、このざまである。
 ソフトテニスでは、あまり速いサーブを見たことがなかった。
 アンダーサーブ――下からトスをあげるように打つサーブ――すら普通に見かけた記憶がある。
 こんなに硬式テニスのサーブが凶暴だとは思わなかった。

「じゃあもう少しスピードを落としてみます。前に踏み出してボールをブロックするイメージでやってみてください」
「前!?」

 後ろじゃなくて前に!?
 意外なアドバイスに、思わず聞き返してしまった。

「はい。仮に速いサーブでも、下がりながら返そうとするのはあまりよくないです。
 前でさばければ、ボールもそこまで弾みあがってきませんし、左右の角度も付かないうちに打ち返すことができます」

 なるほど。
 こちらに飛んでくるボールに対し、前に行って取るという発想はなかった。
 実際にできるかどうかは置いておいて、チャレンジはしてみよう。
 よーし。

 またダイチくんがトスを上げる。
 そしてサーブを、打った。

 さっきよりもさらにスピードが抑えてあるので、なんとかボールが目で捉えられる。
 もちろんそれでも速いことには変わりないのだけれども。

 私より少し右側、フォア側に打ってきたようだ。
 右に動きながら、言われたとおりに最初に構えた位置から前にも動く。
 結果、斜め前に踏み出しながらボールをお迎えすることになった。

 ブロックするイメージ、ということは。
 ラケットを振るというよりも、テークバックをコンパクトにして、当てにいくという感じかな?
 そう思った私は、ちょうど胸くらいの高さに弾んできたボールに対し、スッとラケットを出す。

「あ、当たっ――」

 当たった!!
 けれどもダイチくんのほうのコートには返らず。
 ネットの一番上の白い帯に当たった。

 私の一瞬の喜びをせせら笑うような、パチンという音。
 帯に跳ね返され、無情にも私の立っているところまでボールが戻ってきた。

「あー! いけそうだったのに! もう一回!」
「はい。今タイミングはぴったりでしたよ」

 次だ。
 またトスが上がり、パコーン。
 また同じようなコースと深さだ。

 よし今度は――。

「取れたあああっ」

 ラケットの真ん中から外れたところに当たったのか、パコーンという心地よい音はしなかった。
 けれども、弱々しいながらボールはネットを越え、反対側のコートに入った。
 う、うれしい。



 ダイチくんがこちらに来た。

「アオイさん、すごいですね。びっくりしました」

 いや、たぶん私がすごいわけではない。
 彼のアドバイスが適切なのだと思う。
 説明は理路整然。相手に合わせた提案。

 SPI試験の結果は嘘をつかないなあ、と思う。
 やはり彼は基本的に頭が良いのだ。

「ダイチくんのおかげ!」

 お世辞ではなく本心からそう思い、それを伝え。
 私はラケットを左手に持ち替えると、右手をあげて、彼の顔の前に出した。

 もちろん、ミッションクリアのハイタッチ!
 ……のつもりだった。

 ところが、彼の右手はすぐに動かなかった。
 両目をパッチリと開き。少し中央に寄らせながら、私の手のひらを不思議そうな顔で見る。
 そのまま数秒の時が過ぎる。

 彼は開き切った瞼を戻すと、ラケットを左手に持ち替えた。
 そしてノドボトケが少しだけ上下に動くと、やっと右手が動き出した。
 ゆっくりな速度で、ぎこちなく、あがってくる。

「ちょ、ちょっと待った!」
「――えっ」
「いや、なんかそんなに大切なことのようにやられちゃうと……あははは」

 恥ずかしくなってしまい、手を引っ込めラケットを両手で抱えてしまった。
 もちろん照れ笑い付きだ。
 しかし彼のほうは、笑ってはいなかった。

「俺は……大切――」
「あ! ダイチ!!」

 突然、ダイチくんの名を呼ぶ高い声が。
 私とダイチくんは、その声の方向に顔を向ける。

 女の子二人組だ。
 二番コートの後ろを抜け、まだ空いていた三番コートに入ってきたところだった。

「げっ」

 ダイチくんがそう小さくつぶやいたのが聞こえた。
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