【完結】共生

ひなこ

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5.過去への旅路

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「病院で簡易的な検査はしましたが、先生も言ってました。どちらを残そうとか消そうとか、思い通りになる病状ではない。これからの治療と、過ごし方次第でどうとも転ぶと」
 そんなこと、母は一度だって自分に言ったことはなかった。
 だいたい、記憶喪失だったってこと自体が隠されてきた。もう長いこと。

「ママは一体何なの。どこから来たの?私を産んで育てたのはママなんだよね?」
「事故直後から、琴美さんの中に急に生まれた別の人格。それ以上はわかりません。通常の人格交代とも違っていて、彼女の場合、琴美さんの身体を生かすために意識を保っていたとも言えるそうです」
 医者の説明はいつ頃のことなのだろうか。まるで暗記したみたいに、名倉は言った。

「生かすため?」
「心身ともに弱っていた琴美さんは、放っておけば死んでいたかもしれない。優子があなたの命を救ったとも言える。だけど彼女にしてみれば、自分の人生と思い努力してきたのに、いつ元の持ち主に奪回されるかわからない。日々怯えて暮らして来たんです」

「だから、私の歌を全部回収して聞けないようにしたのね」
 そこでやっと、琴美が口を挟む。
 名倉が今語ったことで、状況を理解した部分もあるようだった。
 
 優子が、自分の歌、そしてそっくりな声質の有紗の歌声を避けていたのはそういう事情からだったのだ。
 自分の歌声が、人格交代の鍵になることを知っていたから。

 琴美は壁時計を見る。そろそろ始発も動き出す。
「だけど、私にはどうしても果たさなきゃならない約束があるの。ごめん名倉、どうかこの土日は私たちを見過ごして。それから後はまた考える。それまでどうにかつないでちょうだい」

「そんな、無茶ですよ」
 琴美はクローゼットを開け、服を何着か床に放り出す。
「あと三十分で出る。有紗ちゃん、泊まり支度をして」
「わかった、ママ」
 荷造りを始める二人を見て、名倉は何度も頭を掻いた。

「あああ、もう!あなたたちは、どうしてそうやって勝手なんですか!」
「二十年ぶり、たった二日きりよ。それくらい聞いてくれてもいいじゃない。それが終わったら私は……」
「どうするって言うんです?」
「ありさに会ってからよ。きっとその時、何かが見えるんだと思う」



 東海道新幹線を途中下車して、昔ながらの地方鉄道に乗り換える。
 環状かんじょうに敷かれたこの路線は昭和初期からの姿を留め、文化遺産として知られている。二人は、カラフルに彩られた二両電車に乗り込んだ。

「うわあー、久々に見た。こんなに年季入ってる路線なのに、車体だけ妙に新しいんだ?」
 胸が大きく開いたブラウスに、黒いレース地のスカート。落ち着いたミセスの出で立ちをしているのに、琴美は子供のようにはしゃいでいる。
「ママ、落ち着きないよ。ちゃんと座って」
 有紗はボックス席に座り、隣席をポンポンと叩く。
「あとサングラスはちゃんとしてね?新幹線の中でも外しちゃってたじゃない。アナウンサーがオフで無防備なんて、見つかったら危険なんだから」
「やあね、名倉みたいなこと言わないで。それに私、アナウンサーじゃないし」
 隣に座り、やっぱりサングラスを外してしまった。
 有紗も苦笑いする。

「有紗ちゃんは、私の母さん……ううん、おばあちゃんと会ったことはどれくらいあるの?」
「うんと……四歳くらいの時一回。あとおじいちゃんのお葬式の時かな。電話は何回かあるよ。でもほとんど会ってないし、話もできてない」

 幼心にも、母が祖母を遠巻きにしていたのを気づいていた。ちょうど母は父と別れてすぐの時期で、ふさぎ込んでは陰で泣いていた。でもそれは琴美ではなく、優子の方だったからだ。
 きっと祖母も、優子をいぶかしがっていたのだろう。優子は、三崎家にとっては全くの他人だ。

「そっかー。じゃあ今日いきなり行ったら驚くだろうな」
 琴美は、ふああ、とあくびをすると娘の肩に寄りかかった。
「やだママ、眠いの?」
「だってえ、結局寝てないじゃない。かなり長時間乗るから、寝ても降り過ごさないわよ」
 すうっと眠り込んでしまった。

 頬を寄せて有紗も目を閉じる。ママと一緒に旅行。初めて、そう思えた。

 途中駅では有名な観光スポットもある。たくさんの客が降りる、そこで目を覚ませば降りはぐれることもないだろう。有紗が眠りかけた頃、琴美が立ち上がった。

「……ママ?」
 すっくと立ち上がり通路を歩いていく。トイレだろうか。
 荷物まで抱えて?まだ降りる駅ではないのに。……まさか? 
 気持ちの悪い違和感に囚われ、とっさに後を追う。

「……ねえ、今から高速飛ばして迎えに来てよ。冗談じゃないわよ、こんなの」
 乗車口の近くで声をひそめ、携帯で話しているのが聞こえた。
 今喋っているのは、琴美ではなくて……。

「名倉ちゃん、だから生ぬるいって言ったじゃない?すぐに社長と話せって、治療の件よ!」
「……優子、さん?」
 きっ、とにらんだ目は、紛れもなく優子の眼差しだった。

「どうして入れ替わったの?ママが眠ったから?」
「さ、帰るわよ」
 答えずに娘の腕を引っ張った。
「どこに!」
「どこって、東京よ。取材だって山ほどあるのに、こんな勝手なことして」
「勝手じゃない!」

 生みの母に会いに行くことのどこが勝手なのか。しかも二十年近く会えていなかったのに。
「あなたは自分が本当のママじゃないってばれたくないから、おばあちゃんにも会いたくないんでしょ?」
 怒りをこめ、優子の手をふりほどく。

「ねえぇ、有紗?本当のママって何?あなたを産んだのは私よ。琴美じゃないでしょ」
「……違う。あなた、じゃない。私の、ママは」

 夜中、二人で歌い上げたハーモニー。
 有紗には、琴美の方がずっと身近だった。会ってすぐに肌がなじんだ。
 自分と琴美には、歌と言う疑いない共通点がある。
 それを聴くまいとして逃げ続けてきた、この女である訳がない。

「ねえ、有紗よーく聞いて?私、あなたを産み落とすまでに、一日以上かかったのよ。お腹が壊れるんじゃないかってくらい痛くて、それでもあなたは全然出てきてくれなくて。張り裂けそうな辛さを耐えて、身体張ってやっと産んだのに」
「……」
 そこを言って、何になる?
 生々しい記憶だけを盾に、押しつけられる母性に怖気おぞけが走る。
 この世に出してやったのは自分だ、とばかりに押しつけるその感情は……何?

「熱を出した時も寝ずに看病したのに。パパがいなくて泣いた時にも、朝まで抱きしめてあげたじゃない。なのに?」
 有紗のほおにも涙が伝う。 
 そうなんだ、それは確かにそうだった。だけど……。

 有紗の中で、一つの答えが形を取り始めた。
「ママ?物心ついてからずっと、いつも怖くて聞けずにいたことがある。……あなたは私を世話してはくれたけど、実は。私のこと、嫌いだったんじゃない?」
 長い間、胸にひっそりと溜まってきた毒を突きつける。   
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