古典的条件付けの楽園

鏡上 怜

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1・明智 透

業火の中へ

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「可哀想なとおるくん。その哀しみ、晴らしてあげましょうか?」

 蒼白い月明かりの中、叔父のリヒャルドと過ごした濃密で背徳的な時間を、そして彼から向けられた熱を込めた愛情が自分だけに向けられたものではないことを思って涙を流すとおるにふと囁いた、透き通った声。

「――――っ!? だ、誰ですか……?」
 慌ててはだけられた衣服を掻き集めて、夜の空気に晒されたままの裸身を隠す透。その慌ただしい様子に、微笑ましいものを見たような含み笑いをしながら、声の主は姿を現した。

 ひと目見て抱いた印象は、というものだった。

 夜闇を切り裂くように怜悧な白。
 全てを優しく飼い殺しにしてしまうような蒼白の光をこちらに差し向ける月とも違う、はっきりとした、異端じみた白だった。
 ふわふわと所々カールした髪はもちろんのこと、身に着けている衣服も穢れなど知らぬとでもいうような純白で。真雪のように白い肌に、唇だけが血潮のように赤い。月明かりを浴びて、いや、小屋の中を透に向かって歩み寄るときに影の中を通っても、その瞳はエメラルドグリーンの輝きを絶やさない。

「あなたは、誰なんですか……?」
 思わず声を震わせる透に、白い男は「あぁ」と極めて軽い声を上げる。
「これは失礼しました! こちらの習慣にはあまり慣れていないものでして……」
 そして仰々しいほどに恭しく腰を折り曲げて、わざとらしい笑顔を透に向けた。
「私のことは、ヴァイスアプフェルとお呼びくださいませ。もし馴染みにくいと仰るなら、そうですね……。お気軽に白リンゴとでも!」
 親しみやすさを演出しようとしているのだろうか、おどけたような声を出したヴァイスアプフェル。
 透は怪訝そうな目線を彼に向けて、「何のご用ですか」と先程よりも強い口調で尋ねる。

 今は真夜中といってもいい時間。
 そんな時間に他人の住居に――しかもその敷地の隅にある小屋にやってくるなど、非常識を通り越して異常だ。得体の知れない言動に、夜闇から浮き上がったように白い姿。何よりも、初対面で透の中を見透かしているとでもいうようなその微笑が気に入らなかった。
「すぐにでも警察を呼べるんですよ?」
「どうぞ?」
 間髪入れずに返された言葉。
 思わずたじろいだ一瞬だった。

「お辛かったでしょう?」
 囁かれた静かな声。
 いつの間にか背後に回り込んでいたヴァイスアプフェルの吐息が、透の耳を撫でる。
「――――っ」
「お父様とお母様を亡くされた貴方の心にかがり火を灯したのが、貴方の叔父様……えぇ、リヒャルド様ですね? 無理はございませんとも、あの方はとても魅力的だ。同性であっても惹かれてしまうのは仕方のないことなのです。
 それでも、貴方の真摯な想いも虚しく、あの方の心は奥方様のもの。貴方もそれは感じていたはずだ、夜毎お2人の営みをご覧になっていたのならば」

 言いながら、ヴァイスアプフェルは透の萎えたペニスを軽く撫でる。

「こんなにか弱いモノを欲望で満たして、それでも届かない想いに、貴方は苦しんでいた。ご自分で慰めているとき、貴方は奥方を羨んでいたでしょう? いや、恨みもしていたことでしょう。無理からぬことなのです、それが愛というもの、人を求めるということ。
 独占したい、独占されたい、脇目など振らずに自分だけを。そう思うのは、自然なことなのです。相手との交わりを望み、時にその欲の醜さに自らを呪ったとしても、それこそが自然な姿だ……」

 囁き声とともに、折れそうなほどに細長い指が透の睾丸を揉みこむ。
 思わず漏れそうな声を堪えながら、透は抵抗する。
 もたらされる快楽だけではなく、まるで透の心の底を代弁するようなその声に。

「ですが、どうでしょう。思い出してごらんなさい、今しがた貴方と交わったあの方の姿を。ここから立ち去るあの方の、欲望に満ちたあの顔を。あの方は、貴方に欲望を叩きつけて尚、」
「やめてください!」

 泣きそうな声で、ヴァイスアプフェルを押し退ける透。
 そんな少年を嗤うように、ヴァイスアプフェルは尚も囁く。

「耳を澄ましてごらんなさい。あの方は、リヒャルド様は今このときこの瞬間、奥方様を求めていらっしゃるのです、貴方を抱いたときとは比べ物にならないほどに激しい欲望をもって、ね?」

 聞こえるはずはない、そんなことありえない。
 そう思うのに、はっきりと聞こえてくる。
『あぁっ、リヒャルド……っ もっと、もっと私を犯して! 貴方の欲望で私を潤して!』
『クローディア、クローディア! あぁ、君はなんて美しいんだ。君の前では、きっとヴィーナスですら霞む。この世の美という美の頂点で、君は……っ あっ、』

 美しい風貌を持つ人間たちの、獣じみた交わり。
 クローディアの全身を丹念に舐めまわし、愛撫し、歯型を刻み、爪痕を残し、まるで本物の獣になってしまったようなリヒャルド。それはどこか女主人とその飼い犬同士の赦されざる交わりのようにも見えて。

「やめて……」
 思わず、声が出ていた。
「やめろおおおおおおおおおっっっっ!!!!」
 それが誰に向けたものかもわからないまま。

 現実味のない、白昼夢のごとき幻の中。
 透はを見てしまった自分を夢想する。

 振り返って驚いた顔をするリヒャルドに向けて、忍ばせていたナイフを振り下ろす。美しい顔にたちまち吸い込まれていく刃は赤い血液で汚れ、引き抜いた瞬間に飛び散った血液はたちまち透の顔と彼の周辺を赤黒く染めた。見ると、リヒャルドは怯えたような顔をして逃げようとしている。クローディアのほうに向かって。
 行かせない。
 あらん限りの力で、その細いながらも均整のとれた足を踏みつける。
「――――っ」
 リヒャルドが声にならない悲鳴を上げる。ひしゃげるような音とともに透自身の足にも激痛が走ったが、構う余裕はない。抵抗するように伸ばされた腕を刺し、ブツッ、という感触とともにリヒャルドがまた悲鳴を上げる。
 その悲鳴が、とてもうるさく感じて。
 もう遅い時間なのに、近所迷惑ですよ。
 痛みに大きく開いた口にナイフをねじ込み、その歯を削り、口内粘膜をこそげ落とし、舌を2つに裂きながら、喉元に突き立てる。

 ごぼごぼごぼごぼ、とくぐもった水音が、端正な顔立ちをした叔父の口から響く。
 汚い音だな、と妙に醒めたことを思いながら、そのまま喉をかき回しているうちに、リヒャルドの瞳からは光が失われた。あとはただ怯えているだけだったクローディアの瞳を、乳房を、そして腹部を何度も執拗に刺した。途中で刃が折れていたらしいナイフを一心不乱に突き立てたあと、透はふと、我に返った。

「ここ、は……? ひっ!?」
 いつの間にやってきたのか、そこは叔父と叔母が使っている寝室。
 毎晩のように交わり合っているその様子を、自分を慰めながら覗いていた部屋。ベッドの上には、2人の姿。しかし、既に事切れた、血と恐怖に包まれた姿。

 そんな、ありえない。
 だって自分はあの小屋の中でヴァイスアプフェルにあの呪わしい交わりを想像させられていただけのはずなのに。
 それが、どうして……!?
「お、叔父に何をしたんですか!!?」
 恐怖とともに激しい怒りを感じて、透は白い男に詰め寄る。
 それに微笑とともに答えて、男は囁く。

「何を言っているのです、透くん? これ貴方が望み、貴方が為したことなのですよ?」

 促されて見下ろした両手は、赤黒い血液にまみれていた。
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