深緑の花婿

立菓

文字の大きさ
19 / 30

大切な時間

しおりを挟む
 コノハが皇宮こうぐうに来てから、約二ヶ月が経った。まだ雪が降る日も時々あるので、寒い時期が続いている。


 相変わらず建比古たけひこは、分かりやすく自分の弟に対してもやもやとしているようだったが、コノハは引き続き篤比古あつひこと関わる業務が多いようだ。自主勉強や食事等、篤比古の身の回りの事だけでなく、この頃はシマの世話の補助も始めたらしい。

 また最近は、白人しろと怜明りょうめい天皇に接する業務で忙しいようだ。
 白人の代わりではないが、篤比古の自由時間に、篤比古が手作りの猫じゃらしでシマを遊ばせているのを、コノハが微笑ましく見ている時間も増えてきた。

 それから、彩女あやめの事務の手伝いをしている時に、コノハは筆の使い方も習うようになった。
 コノハが筆を使うのに慣れてきたら、彩女から簡単な文字を教えてもらうことも約束したらしい。



 そのように新しいことを少しずつ覚えていく、慌ただしい日々を送っていたコノハだったが、仕事以外で、どうしても心がざわついてしまうことが一つあった。

 それは、コノハが一人で廊下ろうかを歩いている時である。遠くからコノハを見て、若い女官たちがひそひそ話をしていたり、睨《にら》んできたりすることが何度もあったようだ。
 その度に、コノハは何だか気まずい思いをしてしまう。きっと熱狂的な支持者のように建比古に憧れているのか、それとも淡い気持ちなのか本気なのか、片思いをしている娘たちなのかもしれない、と……。


(なんか……嫉妬しっとされているっぽい、のかな? とはいえ、わたしの周りの人を気にし過ぎているのに、建比古さま、ご自分の魅力には全く気付いていないなぁ~……)

 夕食を取るために、コノハは衛士府えじふに向かう途中で、薄っすら苦笑いをしながら歩いていた。
 衛士府の建物のそばまで来ると、見回りをしている近衛兵の二人組とすれ違った。コノハは建比古の執務室までの道順がうろ覚えだったので、近衛兵たちに執務室の場所をたずねたようだ。


 何とか建比古の執務室まで辿たどり着くと、コノハは「失礼いたします……」と出入り口の引き戸の前で声をかけた。
 だが、建比古の返事は聞こえなかった。引き戸にかぎは掛かっていないようなので、コノハは恐る恐る引き戸を開けて、執務室の中に入った。

 建比古の執務室は静かだった。篤比古の書斎よりも狭く、棚や机の上は書物でいっぱいだ。西側の角には、とても小さな仏壇ぶつだんがあるようだ。
 コノハが何となく部屋の以前の様子を思い出したが、家具の配置が少し変わったようだ。大量の書物が置いてある机は壁の方に寄せられていて、空いた空間には一人用の食台と椅子いすが置かれている。

 新しく置かれた食台の前の椅子に座る前に、コノハは一番奥にある背もたれの高い大きな椅子に座っている建比古に声をかけるべきか、悩んでいたようだ。
 建比古は両腕を組んで、背もたれに背中を当てながら、うたた寝をしていたからだ。


 ひとまず自分用らしい食台の前の椅子に腰かけようと、コノハは椅子を後ろに移動した。
 すると、椅子を動かした時の音がしたためか、建比古はすぐに目を覚ましたようだ。

「お疲れ様です、起こしてしまってすみません。……ちょっと早く来過ぎた、かな?」

「そんなことは無い。……仕事には慣れてきたか?」

「はい。……少しずつですが、彩女さんだけや白人さんだけでなく、篤比古様からもいろいろなことを教わっています」

 建比古は「……そうか」とつぶやくと、大きく欠伸あくびをした。

「最近、人事異動関係の仕事で忙しくてな。あまり事務は得意じゃないのもあって、いつも以上に疲れてる。
 ……でも、お前の顔を見たら、疲れが吹き飛んだ気がするな。来てくれて感謝している」

 コノハは少し対応に困って、「え、あ――」と小声を出すことで精一杯だった。
 『お前の顔を見たら』云々うんぬん、さらりと夫らしい男前なことを言えるのは、流石は大人の殿方である。


 その時、部屋の出入り口から足音が聞こえてきた。
 コノハが引き戸の方を見ると、「夕食をお持ち致しました」という女官の声がした。

 コノハが引き戸を開けると、二人の女官が夕食の膳を持って立っていた。
 コノハは膳を受け取ると、女官にお礼を言って、建比古の机の上まで運んだ。声かけをしていない女官から、もう一つの膳を受け取ると、コノハは自分の机の上に置き、女官たちに会釈えしゃくをした。

「……運ばせて悪いな」

「いえ、気にしないでくださいっ」

 コノハは椅子に座ると、建比古と一緒に「頂きます」と言いながら両手を合わせた。
 今晩の主菜は、豚肉の醤油煮しょうゆにだ。コノハは豚肉を一口食べた後に、玄米入りの白飯をはしで口に入れた。

「このお肉……、とても柔らかくて、ほんのり甘いですねっ! 初めて食べました、何のお肉ですか??」

「豚の肉だ。……美味うまいか?」

「はいっ! 村で食べていた硬~い猪肉ししにくよりも、おいしいですね!!」

 皇国では、基本的に肉は高価である。庶民が食べられる肉は、たまにしか食べられない野生動物のものしか無いのだ。狩人かりうどの知り合いが居ない者は、肉も食べられる機会が全く無いらしい。
 それ故、コノハは豚肉を食べられたことに感激をしたようだ。



「そーいや、……前に父方の叔父から武術を習った、と言っていたな。その人について興味があるんだが、詳しく話を聞かせてくれないか?」

 食事が一段落した時に、建比古は再び声を出した。
 コノハは小さく返事をすると、以前に住んでいた薬畑山やくはたさんでの暮らしについて、ゆっくりと話し始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

竜華族の愛に囚われて

澤谷弥(さわたに わたる)
キャラ文芸
近代化が進む中、竜華族が竜結界を築き魑魅魍魎から守る世界。 五芒星の中心に朝廷を据え、木竜、火竜、土竜、金竜、水竜という五柱が結界を維持し続けている。 これらの竜を世話する役割を担う一族が竜華族である。 赤沼泉美は、異能を持たない竜華族であるため、赤沼伯爵家で虐げられ、女中以下の生活を送っていた。 新月の夜、異能の暴走で苦しむ姉、百合を助けるため、母、雅代の命令で月光草を求めて竜尾山に入ったが、魔魅に襲われ絶体絶命。しかし、火宮公爵子息の臣哉に救われた。 そんな泉美が気になる臣哉は、彼女の出自について調べ始めるのだが――。 ※某サイトの短編コン用に書いたやつ。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...