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精霊の裏切り
えこひいき
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アルテミスが進んだ先の部屋は、ひと目で異様とわかる空気をまとっていた。
壁一面には歪んだ幾何学模様が彫り込まれ、見る角度によって形がうねるように変わって見える。甘さと苦みが入り混じった複雑な香が焚かれ、幾重にも垂れた薄布の奥、低い寝台のような台座に、人形のような整った顔立ちの美青年、もとい精霊フェインが優雅に腰掛けていた。
腰まで伸びる豊かな巻き毛を靡かせ、こめかみからは、なめらかな曲線を描く山羊の角が伸びている。青年はアルテミスの姿を見つけると、長い睫毛に縁取られた瞳をぐるりと動かした。
「あぁ、やっと来たね。まったく嘆かわしいよ。精霊王様がお選びになる“器”以外は無意味だっていうのに。こんなの、時間の無駄だ。付き合わされる僕の気持ちを少しは慮って欲しいものだね。君もそう思うだろう?」
「えっと……」
薔薇の花弁のように深紅の唇をとがらせ、気だるげに頬杖をつくフェインを前に、アルテミスは困ったように首をかしげた。
「あの……それが、質問ですか?」
「なんだって? もちろん違うさ。単なる雑談だよ」
フェインはぎょっとしたように目を開くと、小虫でも追い払うように手をひらりと振った。
「やれやれ、冗談も通じないとは……。それにしても、君はずいぶん小さいね。いつから帝国は、生まれたての赤ん坊を皇帝候補にするようになったんだい?」
「ぼく、もう五歳です。赤ちゃんじゃありません」
アルテミスは、少しむっとして言い返した。アリスはいまだに「かわいい赤ちゃん」扱いをしてくるが、アルテミス自身は立派な男子のつもりだった。
「そうかい? 人間の子供の年齢なんて、よく分からないよ。正直どうでもいいし」
フェインは心底興味なさそうに肩をすくめてみせた。
「まったく、百年ぶりに呼び出されたと思ったら、つい昨日まで揺り籠にいたような小さな子ども相手に、こんな茶番だ。さっさと済ませて帰りたいよ。人間界の空気は髪に良くないんだ」
目にかかる茶色の巻き毛を、指先で完璧な角度に整えながら、フェインはアルテミスの足先から、つむじまでを値踏みするようにゆっくりと眺めながら、フェインはわざとらしくにっこりと微笑んだ。
「ヴァルキラには会ったかい? あれは病的な戦闘狂だからね。君みたいな弱っちい生き物が嫌いでね、きっと冷たく扱われたろう?」
「いいえ。そんなこと、ありませんでした。ヴァルキラは、とても優しかったです。昔のお話も、たくさん聞かせてくれました」
「……ふん、そうか」
フェインがつまらなそうに鼻を鳴らすと、アルテミスは、なんだか胃の奥がむずむずと落ち着かない心地がした。
「さて。無駄話はここまでだ。君の“魂の質”を見せてもらうよ」
フェインは細身の杖を取り出すと、先端から淡く光る魔法の糸を伸ばした。糸は生き物のようにゆらりとうねりながら、アルテミスの胸元へとそっと触れる。その瞬間、淡い緑光が弾けるように広がり、アルテミスの額に大地の紋章が浮かび上がった。
「こ、この紋章は……!! き、きみ……これは、どういうことだい……!?」
「えっと、その……」
先ほどまでの気取った態度を一変させ、血の気の引いた顔で詰め寄ってくるフェインに、鋭い剣幕で迫られても、アルテミスは答えることができなかった。
過保護なユミルが、アルテミスの“勝利”を確実なものにするため、自らを差し出し、精霊王の加護を引き出したなどという事情を、アルテミスが知る由もないからだ。
だが幸いにも、その沈黙をフェインはまったく別の意味で受け取ったようだった。
「あぁ……なるほど、そうか。そういうことか……!」
フェインは何度も大きくうなずき、恋する乙女のようなうっとりとした笑みを浮かべた。
「あぁ、偉大なる精霊王様……! 本当に意地悪なお方だ……! 僕を試すなんて! でも、フェインはしかと見抜きましたよ……!」
ひとり納得して興奮するその様子に、アルテミスは思わず一歩引いたが、フェインはそんなことお構いなしに、湧きあがる優越感に恍惚と震えていた。
「ヴァルキラは気づかなかっただろう? 彼女は昔から気が利かなくてね。いつだって、あのお方の望みを叶えてきたのは僕だったんだ」
「あの……」
アルテミスが口を開く前に、フェインはすっと距離を詰め、その小さな手を取った。
「っ……!」
ひたり、と触れたフェインの肌は驚くほど冷たく、アルテミスは思わず身をのけぞらせた。
「名前を言っていなかったね。僕はフェイン。帝国の歴史書を読んだことはあるかい?……まあ、まだ君には少し早いだろうけど。何を隠そう、この僕こそが偉大なる精霊王様とともに、穢らわしい闇の精霊族を討伐し、建国の礎となった精霊さ」
そう言うとフェインは、空間からふわりと茶器と小さな卓を呼び出した。湯気を立てるカップに小さな壺から黄金色の蜂蜜をたっぷりと注ぐと、呆気に取られるアルテミスに、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた。
「お茶はいかがかね? 北方の霧深い高原で採れた、たいへん貴重な香草茶だ。味の分かる者なら、きっと気に入るはず」
「あ、ありがとうございます……」
アルテミスは、むせ返るほど甘く濃厚な香りに思わず息を詰まらせながらも、恐る恐るカップに口をつけた。その様子を目を細めて見ながら、フェインはとびっきり甘やかすような口調で続けた。
「君からは、幼い身体には収まりきらないほどの魔力の奔流を感じるよ。そうだろう? 精霊王様がお選びになるのも無理はない」
ついさっきまでアルテミスのことなど取るに足らぬ木端のように見下していたというのに、フェインは自分の言葉に何度もうなずき、満足げに微笑んだ。
「さて……何の話だったかな。ああ、そうだ。選定の儀の最中だったね」
指先で顎をなぞり、芝居がかった溜息をつく。
「僕からの問いは難しいよ。でも、心配しなくていい。どんな答えをしても、『結果』は変わらないのだから、ね?」
言いながらフェインは嬉しそうにくすくすと笑ったが、アルテミスは笑わず、戸惑いを隠せない表情を浮かべた。
その反応に、フェインは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに気を取り直したようだった。
「つまりだね。今回は言わば、勝者の決まった出来レースさ。そして精霊王様のご意志どおり、君を導く役目を担うのは――僕だ。この意味は、わかるよね?」
「つまり……合格、するってことですか?」
「そうとも。安心したかい?」
まさにこの展開こそがユミルの狙いであった。ヴァルキラはともかく、私に心酔していたフェインやセリオスは精霊王のお墨付きとあれば、他の皇子達の実力などお構いなしにアルテミスを持ち上げるはずである。
しかし、なんと愉快で、そして悲劇的なことか。アルテミス自身は、それを望んでいなかった。
「あの……でも、ぼく、ちゃんと試されたいです」
「……なんだって?」
片眉をつり上げるフェインに、アルテミスは慌てて言葉を継いだ。
「ぼくが皇帝になってもいいか、確かめるんでしょう? カリスト兄さまや、アデル兄さまと同じように……ぼくにも、ちゃんと質問してください」
「おかしなことを言うね」
フェインは肩にかかる巻き毛を払うと、すっと立ち上がった。衣の裾がわずかにめくれ、アルテミスは初めて、彼の膝から下が人ならぬ山羊の蹄であることに気づいた。
「高潔であることは悪くない。でもね、それだけじゃ足りない。もっと賢くならなくてはいけない。歴代の皇子たちが、正攻法だけで生き残ってきたとでも思うかい? それに……選ばれなかった皇子が、どうなるかも知っているはずだ。君も、その歳で人生を終えたくはないだろう?」
「それは……」
アルテミスは言葉に詰まったが、フェインはそれを待つことなく、役者じみた仕草で両手を大きく広げ、朗々と告げた。
「それでは――精霊王様の最良の部下にして、賢王ラインハルトに仕えし精霊フェインが汝に問う。『汝が、もっとも恐れるものは何だ?』」
壁一面には歪んだ幾何学模様が彫り込まれ、見る角度によって形がうねるように変わって見える。甘さと苦みが入り混じった複雑な香が焚かれ、幾重にも垂れた薄布の奥、低い寝台のような台座に、人形のような整った顔立ちの美青年、もとい精霊フェインが優雅に腰掛けていた。
腰まで伸びる豊かな巻き毛を靡かせ、こめかみからは、なめらかな曲線を描く山羊の角が伸びている。青年はアルテミスの姿を見つけると、長い睫毛に縁取られた瞳をぐるりと動かした。
「あぁ、やっと来たね。まったく嘆かわしいよ。精霊王様がお選びになる“器”以外は無意味だっていうのに。こんなの、時間の無駄だ。付き合わされる僕の気持ちを少しは慮って欲しいものだね。君もそう思うだろう?」
「えっと……」
薔薇の花弁のように深紅の唇をとがらせ、気だるげに頬杖をつくフェインを前に、アルテミスは困ったように首をかしげた。
「あの……それが、質問ですか?」
「なんだって? もちろん違うさ。単なる雑談だよ」
フェインはぎょっとしたように目を開くと、小虫でも追い払うように手をひらりと振った。
「やれやれ、冗談も通じないとは……。それにしても、君はずいぶん小さいね。いつから帝国は、生まれたての赤ん坊を皇帝候補にするようになったんだい?」
「ぼく、もう五歳です。赤ちゃんじゃありません」
アルテミスは、少しむっとして言い返した。アリスはいまだに「かわいい赤ちゃん」扱いをしてくるが、アルテミス自身は立派な男子のつもりだった。
「そうかい? 人間の子供の年齢なんて、よく分からないよ。正直どうでもいいし」
フェインは心底興味なさそうに肩をすくめてみせた。
「まったく、百年ぶりに呼び出されたと思ったら、つい昨日まで揺り籠にいたような小さな子ども相手に、こんな茶番だ。さっさと済ませて帰りたいよ。人間界の空気は髪に良くないんだ」
目にかかる茶色の巻き毛を、指先で完璧な角度に整えながら、フェインはアルテミスの足先から、つむじまでを値踏みするようにゆっくりと眺めながら、フェインはわざとらしくにっこりと微笑んだ。
「ヴァルキラには会ったかい? あれは病的な戦闘狂だからね。君みたいな弱っちい生き物が嫌いでね、きっと冷たく扱われたろう?」
「いいえ。そんなこと、ありませんでした。ヴァルキラは、とても優しかったです。昔のお話も、たくさん聞かせてくれました」
「……ふん、そうか」
フェインがつまらなそうに鼻を鳴らすと、アルテミスは、なんだか胃の奥がむずむずと落ち着かない心地がした。
「さて。無駄話はここまでだ。君の“魂の質”を見せてもらうよ」
フェインは細身の杖を取り出すと、先端から淡く光る魔法の糸を伸ばした。糸は生き物のようにゆらりとうねりながら、アルテミスの胸元へとそっと触れる。その瞬間、淡い緑光が弾けるように広がり、アルテミスの額に大地の紋章が浮かび上がった。
「こ、この紋章は……!! き、きみ……これは、どういうことだい……!?」
「えっと、その……」
先ほどまでの気取った態度を一変させ、血の気の引いた顔で詰め寄ってくるフェインに、鋭い剣幕で迫られても、アルテミスは答えることができなかった。
過保護なユミルが、アルテミスの“勝利”を確実なものにするため、自らを差し出し、精霊王の加護を引き出したなどという事情を、アルテミスが知る由もないからだ。
だが幸いにも、その沈黙をフェインはまったく別の意味で受け取ったようだった。
「あぁ……なるほど、そうか。そういうことか……!」
フェインは何度も大きくうなずき、恋する乙女のようなうっとりとした笑みを浮かべた。
「あぁ、偉大なる精霊王様……! 本当に意地悪なお方だ……! 僕を試すなんて! でも、フェインはしかと見抜きましたよ……!」
ひとり納得して興奮するその様子に、アルテミスは思わず一歩引いたが、フェインはそんなことお構いなしに、湧きあがる優越感に恍惚と震えていた。
「ヴァルキラは気づかなかっただろう? 彼女は昔から気が利かなくてね。いつだって、あのお方の望みを叶えてきたのは僕だったんだ」
「あの……」
アルテミスが口を開く前に、フェインはすっと距離を詰め、その小さな手を取った。
「っ……!」
ひたり、と触れたフェインの肌は驚くほど冷たく、アルテミスは思わず身をのけぞらせた。
「名前を言っていなかったね。僕はフェイン。帝国の歴史書を読んだことはあるかい?……まあ、まだ君には少し早いだろうけど。何を隠そう、この僕こそが偉大なる精霊王様とともに、穢らわしい闇の精霊族を討伐し、建国の礎となった精霊さ」
そう言うとフェインは、空間からふわりと茶器と小さな卓を呼び出した。湯気を立てるカップに小さな壺から黄金色の蜂蜜をたっぷりと注ぐと、呆気に取られるアルテミスに、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた。
「お茶はいかがかね? 北方の霧深い高原で採れた、たいへん貴重な香草茶だ。味の分かる者なら、きっと気に入るはず」
「あ、ありがとうございます……」
アルテミスは、むせ返るほど甘く濃厚な香りに思わず息を詰まらせながらも、恐る恐るカップに口をつけた。その様子を目を細めて見ながら、フェインはとびっきり甘やかすような口調で続けた。
「君からは、幼い身体には収まりきらないほどの魔力の奔流を感じるよ。そうだろう? 精霊王様がお選びになるのも無理はない」
ついさっきまでアルテミスのことなど取るに足らぬ木端のように見下していたというのに、フェインは自分の言葉に何度もうなずき、満足げに微笑んだ。
「さて……何の話だったかな。ああ、そうだ。選定の儀の最中だったね」
指先で顎をなぞり、芝居がかった溜息をつく。
「僕からの問いは難しいよ。でも、心配しなくていい。どんな答えをしても、『結果』は変わらないのだから、ね?」
言いながらフェインは嬉しそうにくすくすと笑ったが、アルテミスは笑わず、戸惑いを隠せない表情を浮かべた。
その反応に、フェインは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに気を取り直したようだった。
「つまりだね。今回は言わば、勝者の決まった出来レースさ。そして精霊王様のご意志どおり、君を導く役目を担うのは――僕だ。この意味は、わかるよね?」
「つまり……合格、するってことですか?」
「そうとも。安心したかい?」
まさにこの展開こそがユミルの狙いであった。ヴァルキラはともかく、私に心酔していたフェインやセリオスは精霊王のお墨付きとあれば、他の皇子達の実力などお構いなしにアルテミスを持ち上げるはずである。
しかし、なんと愉快で、そして悲劇的なことか。アルテミス自身は、それを望んでいなかった。
「あの……でも、ぼく、ちゃんと試されたいです」
「……なんだって?」
片眉をつり上げるフェインに、アルテミスは慌てて言葉を継いだ。
「ぼくが皇帝になってもいいか、確かめるんでしょう? カリスト兄さまや、アデル兄さまと同じように……ぼくにも、ちゃんと質問してください」
「おかしなことを言うね」
フェインは肩にかかる巻き毛を払うと、すっと立ち上がった。衣の裾がわずかにめくれ、アルテミスは初めて、彼の膝から下が人ならぬ山羊の蹄であることに気づいた。
「高潔であることは悪くない。でもね、それだけじゃ足りない。もっと賢くならなくてはいけない。歴代の皇子たちが、正攻法だけで生き残ってきたとでも思うかい? それに……選ばれなかった皇子が、どうなるかも知っているはずだ。君も、その歳で人生を終えたくはないだろう?」
「それは……」
アルテミスは言葉に詰まったが、フェインはそれを待つことなく、役者じみた仕草で両手を大きく広げ、朗々と告げた。
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