異形の郷に降る雨は

志々羽納目

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四.宮内さん再び

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 竜がひとたび宙を舞えば、雲が生じて嵐がくるというものだ。
 だが、つねに空を舞っているのではない。ふだんは洞窟など人目につかぬ場所に潜み、身を横たえて翼を休めているものだ。
 つまり働き過ぎはよくない。私とておなじだ。戦士とて剣を鞘に収め鎧を外すこともある――なにが言いたいかというと、休日の昼下がりに居間で横になりテレビを観る時間が素敵ということだ。
 テレビの特番で、フランスのメドックマラソンなるものが取りあげられている。参加者は仮装してマラソンを走り、道中に設けられたポイントごとに地元のワインを飲んでツマミを喰らい、そしてまた走って、飲んで、走るそうだ。奇妙な格好をした酔っ払いが大量に蠢くという恐るべき行事だが、参加者はみなエンジョイしている。空や大地や景色や酒、さらには人生すらも愉しみながら、『いま』そこにある自由を満喫しているのだろう。
「変なマラソンだな」
「うん、変だねぇ」
 若葉も頷き、皿の大学ポテトを楊枝で刺してひとつ頬張る。
「おいしいよね、これ」
「おいしいよな、これ」と私もひとつつまむ。
 大学ポテトとは私の手作りスイーツだ。作り方はかんたんで、ざく切りにしたさつま芋を水にさらしてから油で揚げる。大学芋なら水と砂糖で作った飴にからめて黒胡麻をふって仕上げるが、大学ポテトはフライパンで少なめの飴と揚げた芋を炒り、バターを加えて焼き色と照りをつけ、最後にしょう油少々を垂らして仕上げる。べたつきが少なく、こんがりしたきつね色で外はサックリ、中はほっこりだ。味わいは大学芋とスイートポテトのいいとこどりといった感があるので大学ポテトと名づけた。
 アツアツを頬張りながら、近頃ジロウに会っていないと気づいた。人相、いや河童相は厳ついが、あれで甘いものに目がないのだ。
 ジロウの両親は、父が河童で母は人間だ。遠野物語を読み解けば、人と河童の子はむかしから居た。ずっと忌み嫌われる存在であり、捕らえられ殺されることもあったらしい。
 だからジロウは身を隠す。隠せと親に教わった。母の血故か、ジロウは十分間程度なら人の姿に変化できる。頭の皿も隠れて水かきも消えるが、たったそれだけの能力で人間の社会に紛れることはできない。
 テレビに映るご陽気なランナーたちとは違い、ジロウには自由な『いま』など一度として存在しなかった。つねに人目から逃れて生きてきた。
 はじめて出逢ったのは私が小学生の頃だ。河原で水切りをして遊んでいたとき、投げた石が水中にいたジロウの皿を偶然直撃した。そして「ぐぇ」と呻いて「誰じゃぁ」と憤怒の河童が川面から顔をだしたのだ。
「やかましい、おまえこそ誰じゃあ」
 すでに大物の片鱗が表れていた私は河童などに動じない。むしろ河童以上の怒りが湧いていた。皿に当たって沈んだのは芸術的なほど形のよい石であったからだ。私史上最高の石で、投げた感触からも凄まじい記録がでるという確信があったのだ。それをへんてこりんな頭に邪魔されたのだから怒りも当然だ。
 ジロウはいきなり我に返ると、「いままで誰にもみつからなかったのに」と顔面蒼白になった。赤ら顔だがそのときばかりは青かった。
「泣いてんじゃねぇ。石返せ」
「……おめぇ、俺が怖くねえのか」
「怖えわけあるか。河童ぐらい居て当然だろが。それより石返せ」
「変わりもんだな、おめぇ。おっ母に聞いてた人間とは違う」
「おまえ、親や仲間もいるのか」
「親は死んだ、河童の仲間もいねぇ」ジロウは目を伏せ、嘴を戦慄かせた。
「ならば遊び相手になってやるから子分になれ」
「はあ? わけわからん。子分にはおめぇがなれ」
「生意気だな。遊びにきてやらんぞ」
「寂しいのは、もう嫌だ」
 私はふんと鼻を鳴らした。
「とりあえず友達になってやる。遊びにもきてやろう。でも大きくなったらおまえが子分だぞ」
「考えておいてやる」とジロウが目元を拭って、笑った――。
「ふむ」
 しぶしぶ起きあがった私は、大学ポテトをタッパーに詰めた。まったくもって面倒くさい。
 妹は鼻歌交じりでノートに色鉛筆を走らせていた。イラストを描くことが好きなのだが、その絵はいつも私の眼を釘付けにする。
 不思議と言えば魔訶不思議、味があると言えば濃厚すぎるほど味の濃いイラストが白いノートの上で産声をあげつづけている。素晴らしき画才、容赦なく前衛的、たぶんアート、うんぬんかんぬん。嗚呼、妹よ、妹よ――。
 兄の口からなにも言えない。日本語には思いやりという素敵な言葉が存在する。
「お兄ちゃん、どこ行くの」
「ああ」と頭をかく。河原と言いかけたが思い直して「子分のところ」と答えた。
 さて、久しぶりに相撲でもとってくるか。
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