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九.異形の郷に降る雨は
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スマホが震えた。手袋を外して画面の受話器マークをスライドさせると権現さんの声がした。
「おつかれさまです。こちらおにぎりもサイドも完売しました」
Q市で営業をしていた二号車の権現さんだ。このバスより小型な販売車を英太とふたりで切り盛りしている。
「おつかれさまでした。気をつけて帰ってきてください」
権現さんは火の元のチェックなども抜かりがないし、ほんとうにしっかりしていて安心できる。南部さんも英太には過ぎた嫁だといつも言っている。
このまま三号車、四号車と増やしてビジネスを拡大し、ゆくゆくは多雨野に社屋を構えたい。若葉が大学を卒業する前に準備を整え、手伝ってもらうのが理想だ。そして多雨野の若者が働ける場所になれたのなら、他に何も言うことはない。
「雨が気持ちええなぁ」
薄霧のように、目に見えぬほど細かく柔らかな雨が降りつづく。
「多雨野らしい雨です」
「ウチ、ここの雨は好きやで」
「私もです」
周囲の緑は色鮮やかで、山々は静けさに満ちている。まるで雨のなかに眠っているかのようだ。遠野物語に描かれた世界の多くは失われてしまった。だが、この多雨野には河童も、経立も、天狗も、神隠しも、マヨイガも、座敷わらしも、ゴンゲンサマも、オクナイサマも、なにもかもが存在している――山の神だけはいまどこをふらついているのかわからないが。多雨野の雨はすべてを受け入れてくれる。
追加のおにぎりを店先に運ぶと、二十人以上の行列ができていた。一番後ろに仏頂面さげたコータローの姿があった。目が合うとヤツはふいと横を向いて、手だけを振って返してくる。テンプレのツンデレだ。
「毎度ありがとうございます」
軽やかな声に、ふと我が家に妹がきた日のことが思い出された。
居間で寝転んでいた父が不意に顔をあげ、「お、きたようだ」と呟いた。外を見てこいと言われ、玄関を開けた。綿のような雪が降っていた。家のまえで、かわいらしい揺りかごのなかで赤子がおぎゃあおぎゃあと泣いていた。背中から「お前の妹だ」と父の声が聞こえた。
わけがわからぬ私はただ戸惑った。赤子が泣きながら小さな手を指し延ばす。私はすこし躊躇い、その手を両手で包んだ。握れば潰れてしまいそうな頼りなき存在。それでいて小さな掌は驚くほど温かく、柔らかかった。まるで私のほうが包み込まれているような錯覚があった。赤子はぴたりと泣き止み、私を見て笑った。この世のすべてがとろけるような笑顔だった――。
「あ、お兄ちゃん、あの車ってそうじゃない」
若葉の声に誘われ、我がオクナイサマも車の外にでてきた。
「お、ほんまや。きたきた」
「あらあらまあまあ」
「お兄ちゃんも手を振ってよ」
「ああ」こちらへ向かってくるテレビ局の車に手を振った。
今日は『教えてケローッ』の撮影だ。八重樫アナから取材の申し込みを受けたときは思わず腰が浮いたものだ。事業の成功をはじめて実感できた瞬間だったかもしれない。
「あ、天狗おるやん」
宮内さんが小声で袖を引く。たしかに少し離れた杉の天辺に天狗がいる。
「あいつ、山の神と多雨野をつなぐ役やねん」
「そうなんですか」
「ミズくんが多雨野に帰ってきた日からチェックしてたんやて。それからミズくんがやってきたことすべてを山の神に伝えてるみたい」
「ああ」
そうか。あんたはすべてを押し付けて知らんふりをしていたわけではないのか。一応って程度だけど。
「ついでにもうひとつ。君が帰った日に晴れたのは山の神が竜神に頼んだかららしいで」
「それは知っています。腐っても神だからきっと強いんでしょうね」
「神様同士の場合はバトるんやなくて交渉で決まるらしいで。山の神は持てる力のすべてとそれこそ薄汚い手段を駆使したんやて。そらもう、脅したり宥めすかしたり、最終的にはエロい本も何冊か渡したらしいわ。竜神は熟女もんが好みなんやて」
なんか、父親を見直しかけた自分を軽蔑した。あと竜神にも幻滅した。
「竜神が言うには、ミズくんはきっと一度外を見に出て力をつけたと確信できるまで帰らんやろう、って山の神が断言しとったらしいで。まあ、やっぱ親子やな」
「ふーん」
目を凝らして天狗を観察した。ファッションの細部まではわからぬが、黒地のTシャツに真っ赤な文字で一番とプリントしてある。
肩をすくめた私の目に、車体に描かれたイラストが目に入った。ザッシーキが私に笑いかけている気がした。
なぜだろうか。いつもの不敵なザッシーキスマイルではなく、どこか優しげな微笑みにみえる。手に持っているのはホヤボールだけどな。
柔かな雨音が多雨野を包んでいる。両手をかざして雨を手のひらに受けた。
この郷に降る雨は、いつだって愛おしい。
「おつかれさまです。こちらおにぎりもサイドも完売しました」
Q市で営業をしていた二号車の権現さんだ。このバスより小型な販売車を英太とふたりで切り盛りしている。
「おつかれさまでした。気をつけて帰ってきてください」
権現さんは火の元のチェックなども抜かりがないし、ほんとうにしっかりしていて安心できる。南部さんも英太には過ぎた嫁だといつも言っている。
このまま三号車、四号車と増やしてビジネスを拡大し、ゆくゆくは多雨野に社屋を構えたい。若葉が大学を卒業する前に準備を整え、手伝ってもらうのが理想だ。そして多雨野の若者が働ける場所になれたのなら、他に何も言うことはない。
「雨が気持ちええなぁ」
薄霧のように、目に見えぬほど細かく柔らかな雨が降りつづく。
「多雨野らしい雨です」
「ウチ、ここの雨は好きやで」
「私もです」
周囲の緑は色鮮やかで、山々は静けさに満ちている。まるで雨のなかに眠っているかのようだ。遠野物語に描かれた世界の多くは失われてしまった。だが、この多雨野には河童も、経立も、天狗も、神隠しも、マヨイガも、座敷わらしも、ゴンゲンサマも、オクナイサマも、なにもかもが存在している――山の神だけはいまどこをふらついているのかわからないが。多雨野の雨はすべてを受け入れてくれる。
追加のおにぎりを店先に運ぶと、二十人以上の行列ができていた。一番後ろに仏頂面さげたコータローの姿があった。目が合うとヤツはふいと横を向いて、手だけを振って返してくる。テンプレのツンデレだ。
「毎度ありがとうございます」
軽やかな声に、ふと我が家に妹がきた日のことが思い出された。
居間で寝転んでいた父が不意に顔をあげ、「お、きたようだ」と呟いた。外を見てこいと言われ、玄関を開けた。綿のような雪が降っていた。家のまえで、かわいらしい揺りかごのなかで赤子がおぎゃあおぎゃあと泣いていた。背中から「お前の妹だ」と父の声が聞こえた。
わけがわからぬ私はただ戸惑った。赤子が泣きながら小さな手を指し延ばす。私はすこし躊躇い、その手を両手で包んだ。握れば潰れてしまいそうな頼りなき存在。それでいて小さな掌は驚くほど温かく、柔らかかった。まるで私のほうが包み込まれているような錯覚があった。赤子はぴたりと泣き止み、私を見て笑った。この世のすべてがとろけるような笑顔だった――。
「あ、お兄ちゃん、あの車ってそうじゃない」
若葉の声に誘われ、我がオクナイサマも車の外にでてきた。
「お、ほんまや。きたきた」
「あらあらまあまあ」
「お兄ちゃんも手を振ってよ」
「ああ」こちらへ向かってくるテレビ局の車に手を振った。
今日は『教えてケローッ』の撮影だ。八重樫アナから取材の申し込みを受けたときは思わず腰が浮いたものだ。事業の成功をはじめて実感できた瞬間だったかもしれない。
「あ、天狗おるやん」
宮内さんが小声で袖を引く。たしかに少し離れた杉の天辺に天狗がいる。
「あいつ、山の神と多雨野をつなぐ役やねん」
「そうなんですか」
「ミズくんが多雨野に帰ってきた日からチェックしてたんやて。それからミズくんがやってきたことすべてを山の神に伝えてるみたい」
「ああ」
そうか。あんたはすべてを押し付けて知らんふりをしていたわけではないのか。一応って程度だけど。
「ついでにもうひとつ。君が帰った日に晴れたのは山の神が竜神に頼んだかららしいで」
「それは知っています。腐っても神だからきっと強いんでしょうね」
「神様同士の場合はバトるんやなくて交渉で決まるらしいで。山の神は持てる力のすべてとそれこそ薄汚い手段を駆使したんやて。そらもう、脅したり宥めすかしたり、最終的にはエロい本も何冊か渡したらしいわ。竜神は熟女もんが好みなんやて」
なんか、父親を見直しかけた自分を軽蔑した。あと竜神にも幻滅した。
「竜神が言うには、ミズくんはきっと一度外を見に出て力をつけたと確信できるまで帰らんやろう、って山の神が断言しとったらしいで。まあ、やっぱ親子やな」
「ふーん」
目を凝らして天狗を観察した。ファッションの細部まではわからぬが、黒地のTシャツに真っ赤な文字で一番とプリントしてある。
肩をすくめた私の目に、車体に描かれたイラストが目に入った。ザッシーキが私に笑いかけている気がした。
なぜだろうか。いつもの不敵なザッシーキスマイルではなく、どこか優しげな微笑みにみえる。手に持っているのはホヤボールだけどな。
柔かな雨音が多雨野を包んでいる。両手をかざして雨を手のひらに受けた。
この郷に降る雨は、いつだって愛おしい。
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