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each mask
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ーー仮面。
それは無数に存在し、自分を繕うための道具。
相手に受け入れてもらうための手段。
無意識に自分を護るための方法。
これは僕が、仮面を被った自分を受け入れるまでの物語。
しとしとと人の心を蝕む梅雨が明け、じっとりとした暑さから灼けつくような暑さに変わろうとしている頃。僕は大勢の人込みをかいくぐり、やっとの思いで僕の背丈の2倍以上はある掲示板の前に辿り着いた。そして一つの模造紙を上からなぞるように目を落としていく。
「…3位か」
夏の実力テストの結果をあっけなく見終えてしまい、僕は複雑な心境に陥る。
「これだけ頑張ってまだ上に2人いるのか」
僕はこの実力テストのために毎日学校以外で4時間は勉強に費やした。食べる、風呂に入る、寝る以外の時間は全て勉強にあてた。範囲の定められていないテストになぜここまで力を入れるのか、正直僕にもわからない。
「実力テストは実力で受けるもんでしょ。もうあんたのは努力テストじゃん」
姉は大笑いしながらこれでもかと馬鹿にして言った。彼女はその天才的な頭の回転の速さでのらりくらりとトップの成績を修め、主席で高校を卒業していった。入れ替わるように僕は同じ高校に入学し、姉がいかにすごい人なのかを思い知らされた。
自分にないものを持っている彼女は、僕の憧れでもあった。
「…届かないなぁ」
自分の実力不足に肩を落としていると、突然後ろから背中を叩かれた。
お化けと突然の出来事に弱い僕はたたらを踏み、豪快におでこを掲示板に打ち付けた。先ほどまでのざわめきが一瞬にして消え、周りの視線が僕に集中した。しかしほどなくして、またガヤガヤと元の喧騒を取り戻した。
赤くなったおでこと頬に手をやりながら振り返ると、くすくすと必死に笑いをこらえる少年が腹を押さえながら立っていた。
「やっぱりいい反応すんなー。やりがいがあるってもんよ」
彼は古雅。僕の親友であり、小学生からの付き合いだ。
ひと通り笑ったと思うと、彼は掲示板に目をやり、場をわきまえず大声で言った。
「お前3位かよ!すげー!」
…落ち着きのない奴だな。
僕は彼の首に手を回して、足早にその場から離れた。
彼は「ちょいちょい」と抵抗しつつも、嬉しそうに笑った。僕もそれにつられて、少し微笑んだ。
彼と大方のやり取りをした後、教室の前で別れる。彼との会話で少し浮かれた気持ちのまま中に入ると、待ってましたと言わんばかりに一人の少年が近づいて来た。
彼は牛島君。特段仲が良いわけではないが、学力でいつも競っているいわばライバルだ。
「3位だったね。さすがだよ」
ーーさすが。
それはどちらの仮面を被った僕に対して言っているのだろう。
努力した僕か。
それともライバルとしての僕か。
さっきまでの愉しい時間が嘘のように氷解し、僕はどちらの仮面に自分を委ねるべきか迷った。
「今回は君の勝ちだけど、次は負けないからな」
負けフラグのような言葉を言い残し、彼はさっさと自分の席に戻った。
僕の行き場のないこの感情を置き去りにして…。
実力テストの結果発表から数日後の昼休み。僕は担任の先生によって職員室に召喚されていた。
…なにかしたっけな。
不安が胸の内に澱のようにたまる。そんな気持ちに負けないように、僕は先生がこちらを向くのを見計らって、先手を打つように問いかけた。
「僕、何かしました?」
すると先生は「いやいや」と軽く笑いながら、机の上に散乱した書類を漁り始めた。そしてようやくある原稿用紙を見つけると「あぁ~よかったぁ。あったあった」とはたきながら僕に手渡してきた。
「ほら。6月の頭にみんなに作文を書かせたじゃない?それをあたしの独断と偏見で評価した結果、クラス代表は、おめでとう、あなたに選ばれました。とてもあなたらしい良い作文だったと思うわよ」
ーー僕らしい?
……なんだそれ。
僕は、僕自身が理解できていない部分を勝手に決めつけて固定化されていることに苛立ちを覚えた。
たった数か月の付き合いで僕を理解したつもりでいるのか?
安易に僕という存在を、先生自身の理想の型に嵌め込んでいるだけではないのか?
「まさか選ばれるとは思っていませんでした。とても嬉しいです」
僕は憤りを必死に堪えるように笑顔でそう言った。
職員室のドアをぴしゃりと閉め、歩きながら自分の原稿用紙を見直してみる。するとある文字が僕の目に飛び込んできた。
「……ずるい…か」
その言葉は僕の記憶を蘇らせるーーそう、あれは小学生の時のことだ。
小学生のころ、僕は先生の言うことは絶対だと思っていた時期がある。そんな神様のような存在である先生から、道徳の時間に言われたことを今でも鮮明に覚えている。
「人によって態度を変えるのはずるい人間がすることです」
ーー人によって態度を変える。
あの先生は今の僕を見てどう思うのだろう?
やはりずるい人間だと罵るだろうか?
それとも呆れられ、見向きもしてくれないだろうか?
……考えるだけ無駄か。
僕は無数の仮面を持っている。
巷で言われているカメレオン俳優や猫を被るといった、そんな大層なものではない。なぜなら僕は演じてさえいないからだ。
相手が思う僕に対する理想を、仮面として無意識に創りあげ、被る。
それらの仮面は、僕という存在をじわじわと曖昧なものにしていく…。
少し憂鬱な気持ちをため息に込めて外に吐き出すと、教室の前で古雅が「よっ」と優雅に歩きながら近づいてきた。
そして僕の持っている作文を見るや否や、気味の悪い笑みを浮かべた。
「優等生は大変ですな」
「はいはい」
僕がそうあしらうと、彼は何の前触れもなく
「ところで彼女できた?」
彼はリア充に二階級特進してから、隙あらばこの言葉を僕に投げかけてくる。
「いや?」
その問いに僕は間髪入れずに答えた。
「勉強できて、スポーツもできて、それでいて優しい。お前がその気になれば告白を断る女子なんていないと思うぞ。あーあ、俺が女子だったらなー」
「僕は愛したい派より愛されたい派だからね。自分から好きになる努力なんてしないよ」
「はっ。何様だよ」
ここまでが一連の流れ。漫才コンビのようにテンポよく進む。
おかげでさっきまでの憂鬱な気分が少しだけ晴れた気がする。
彼にはそういう力があった。何気ない会話から相手の懐に入り込み、抱いていた不安を和らげてくれる。それで問題が解決するわけではないが、何とかなりそうな気持ちになることがある。これは自分の周りの他の誰にもできることではない。
彼が親友で良かったと思う。
「次は美術だから」
僕はそう言い、目の前のドアレールをまたいだ。
「んじゃ」
彼は満足そうにそう言い、自分の教室へ向かった。
「ありがとう」
僕は彼の背中を見ながら、彼に聞こえないようポツリと言った。
5限目の美術の時間は、男女ペアで肖像画を描く授業だった。そのペアの割り振りは先生が決め、僕の相手は千秋さんとなった。
千秋さん。これは僕も初めて見た苗字である。
彼女は僕にとって異質な存在だった。容姿が整っており、真面目で何事にも真剣に取り組んでいる。そして何よりも、僕は彼女の笑顔を一度たりとも見たことがない。誰かの機嫌を伺うわけでもなく、凛々しい佇まいの彼女は、僕の姉とはまた違った意味で、憧れの存在だった。
普段人に対して自分から話しかけることは少ない僕だが、その時は雰囲気を和らげるつもりで彼女に話しかけた。
「千秋さんってすごくかっこいいよね」
「そう?」
彼女は照れる素振りも見せずに澄ました顔でそう言った。
「うん。僕は結構なよなよしてるから、羨ましいよ」
「あまり言われないから、嬉しいわ」
嬉しそうにはとても思えない表情で彼女は返す。
確かに彼女はどこか話しかけづらい雰囲気があるので、もしかしたら言われること自体が少ないかもしれない。
…なんか口説いて振られたみたいになっちゃったな。
それ以上の会話は続かなかった。僕は自分のナマケモノ以下の会話力にがっかりした。しかしそれと同時に、話せば彼女は反応してくれるという事実に少し嬉しくなった。
ざわざわとしゃべり声が飛び交う中、ただ黙々とお互いの肖像画を描く僕らは浮いていた。しかし、僕は無理に気を遣わなくてもいいと言ってくれているような彼女の雰囲気に、居心地の良さを感じていた。
彼女の真剣な眼差しは、清夏のように美しかった。
入道雲と太陽が熱いレースを繰り広げ、光と影が不定期に入れ替わる中、僕は古雅との待ち合わせ場所に10分前に着いた。全く乗り気でなかった僕は、人の多さに圧倒されながら、昨日の古雅との通話を思い出していた。
「明日暇?暇だよな。新しくできたショッピングモールに行こうぜ」
彼は通話口でも変わらず、自分のペースで話しかけてきた。
「もしかして来週の金曜にあるテスト忘れたわけじゃないよね?あれ評価に入れますって先生言ってたよ」
「小テストを5日も前から勉強する奴なんていないだろ。遊ぶぞ。」
…ここに一人いるだろ。
僕は結局、押し切られるようにその約束を受け入れた。
不意に気付く。
ーー僕は古雅にさえ仮面を被って接しているのか。
断ろうと思えば、渋ったり適当に理由をつけたりして断ればいい。しかし、僕にはそれができない。
…嫌われたくないから。
よくある友情ドラマや恋愛ドラマはこう言っている。
「親友だから、恋人だから、全てをさらけ出すのは至極当然である」
しかし僕は疑問に思う。
親友だから全てをさらけ出さないといけないというのは違うのではないだろうか?
少なくとも僕は、古雅の前でさえ仮面を被り、偽りの思いを口にすることがある。
……相手の気に入る自分でいるために。
僕が自分自身をを卑下しているのをよそに、彼は予定を決め始めた。
「じゃあ12時に入り口の前に集合な」
「あそこのショッピングモールはそれこそできて間もないから、朝一に行かないとゆっくり見れなくなるよ」
「休みの日に10時前に起きるとかどうかしてるだろ。12時で大丈夫だって」
彼は朝が弱いうえに時間にルーズである。時間通りに来た例がない。
「じゃあまた明日な」
彼はそう言うと、ぷつりと電話を切った。
…やっぱり人多いじゃん。
僕は何度か見知らぬ人に肩をぶつけられながら、お店の入り口の前で彼を待っていた。
待つのは全く苦にならないが、さすがに一人でこの場所に立っているのは場違いだと感じた。
それまで雲と太陽の位置は均衡を保っており、辺りに淀んだ灰色を演出していたが、太陽が一歩前に出た。
日射しが一帯に広がる。
その眩しい光に僕は少し目を細めた。しかし次の瞬間、僕は目を見開くことになる。
「あれって……千秋さん?」
僕は衝撃を受けた。大勢の人がいる中、彼女の姿に全ての光が集中した。
彼女は僕の知らない女性と一緒に歩いていた。そして見たこともない満面の笑みで笑っている。それは陽に照らされたカルミアを彷彿とさせる笑顔だった。
…笑わない彼女。
僕が抱いていた彼女像が一気に崩れ落ちた。
ーー彼女も仮面を持っている。
しかし、僕のそれとはわけが違う。
彼女のそれは嫌われたくないがために作っているものじゃない。
僕とは違う仮面……。
僕の視線に気づいたのか、彼女はこちらに顔を向けた。
一瞬目が合った僕は、我に返り慌てて目をそらす。
そのあと彼女がどんな表情でどんなことを思ったのかは知る由もない。
程なくして、遅れてきた古雅が悪びれる様子もなく手を振って歩いてきた。
「お待たせー」
きっと彼は「お待たせ」の意味を理解していない。
お待たせという言葉は、もう少し申し訳なさそうに言うものだ。
「ちょっと考え事してたから丁度よかったよ」
「えっなに?綺麗なお姉さんにでも見惚れてたん?」
…見てたのかよ。
「あまりにも熱烈な視線だったから、てっきり付き合ってる彼女かと思った」
「もしも彼女だったら、古雅となんかと遊んでられないよ」
「何それ。ひどくない?」
相変わらずのテンポで僕らは言葉を交わす。
しかしそんなたわいもない会話をしながらも、僕は上の空だった。
空は再び灰色だった。
「そうだった」
次の日、朝のホームルームが終わる間際に担任は思い出したようにそう言った。
「今日の『放課後掃除隊』の子が一人欠席だから、誰か代わってあげられないかな?」
放課後の掃除。それは彼女が独自に制定した月始めに一回訪れる、自己満足のような行事。二人で居残りして1時間程度、普段の掃除では行き届かない部分をきれいにしようというものだった。そして今回の二人のうち一人は僕だった。
…それにしても『放課後掃除隊』って。
昭和みたいなネーミングだな。僕らは平成の高校生だぞ。
放課後に好きでもない相手と1時間教室に拘束されるという行事を、進んで引き受けてくれる人なんている筈もないだろうに。
しかし僕の予想は外れ、一人の女子生徒が手を挙げた。
「私します」
僕は息を呑んだ。なぜならその女子生徒は千秋さんだったからだ。
普段決して自分から発言しない彼女が、クラスの目も気にせずに手を挙げていた。
驚いたのは僕だけではなかったらしく、クラスの視線が一気に彼女に注がれた。
「千秋さんありがとう。じゃあよろしくね」
その空間の中で一人だけ浮いていた担任がそう言うと、徐ろに教室を後にした。
僕は再び彼女に視線を向けた。その横顔は、僕が見た笑顔が幻だったのかと思わせるぐらい無機質なものだった。
僕の脳内に昨日の彼女の笑顔が映し出される。
…見てはいけないものを見てしまったのだろうか。
蒼ざめている僕に見向きもせず、彼女は1限目の授業の準備を始めた。
時間を追う毎に緊張の糸を張り詰めていく僕を尻目に、その時間は容赦なくやってきた。
僕は黒板の前に椅子を置き、上履きを脱いでその上に立つ。そして使い古した雑巾を精一杯黒板の上縁に伸ばし、埃が落ちてこないようゆっくりと拭く。彼女も、きれいに折りたたんだ雑巾を何度も往復させ、窓の枠に溜まった汚れを丁寧に拭いていた。
お互いに一言もしゃべらない。いつかの美術室で感じた居心地の良さは皆無だった。
…きっと僕の心がざわついているからだろう。
何か話題を振らなければとおろおろしている僕に、彼女は視線を窓枠に固定したまま、ひとり言のように呟いた。
「あなたは、私の過去そのもの…」
「えっ?」
僕は、聞こえた言葉を確認するように聞き返す。すると彼女は、先ほどよりも少し大きな声で、断言するように言った。
「あなたは、昔の私のようだわ」
僕は言葉に詰まる。それは彼女が僕の心の全てを見抜き、仮面の話を、僕が自分を偽っていることを糾弾するのかと思ったからだ。
しかし彼女はこう続けた。
「…あなたはそのままでいいのよ」
……ん?
次の展開が分かったつもりでいた僕は、その言葉が理解できなかった。
そのままでいい?
彼女は確かにそう言った。
僕は動揺を隠し切れず、少し口籠りながら言った。
「ど、どういう、こと?」
「昨日の私がもう一人の私…」
彼女は僕の問いには答えずに脈絡なくそう言った。
……分からない。こんなにも会話が嚙み合わないのは初めてだ。
何も言えずに黙っていると、彼女は子どもをなだめるような声で
「あなたも仮面……持ってるんでしょ?」
と問いかけ、始めてこちらに顔を向けた。
「あなたもってことは…千秋さんも持ってるの?」
救いを求めるような声で、自分で既に分かりきっていたことを口にする。
「だから言ったでしょ。昨日の私がもう一人の私」
さっきよりもはっきりした口調で彼女は言った。
そして、それまでひと言ふた言しか口に出さなかった彼女は語り始めた。
「私…中学の時に、そこそこ仲の良いと思ってた子から『八方美人』って言われたの。それも直接じゃなく陰口として…。そのとき私の中で何かが驟雨のように零れ落ちた。自分を蓋ってきた大切なものが奪われる感覚……。そして何よりその言葉を否定できない自分が赦せなかった。ずっと一緒だった幼馴染は『千秋は千秋だよ』って言ってくれたわ。だけどその言葉の真意に気付くのが遅かった。当時の私には、その言葉は自分を縛り付けるものでしかなかったの」
僕は、返す言葉が見つからなかった。
大切なものが零れ落ち、奪われた喪失感。
友人の言葉に縛り付けられた息苦しさ。
それらがカッターナイフの切れ味を試そうと指先に一本、線を引いたかのような鮮明な痛みを伴って伝わってきたからだ。
少し静寂に包まれたのち、彼女はまた口を開いた。
「その後は迷いに迷った結果、私は寡黙を選んだ。いや、正確には選ばされた、かな?……必死に自分を演じたわ。寡黙でいれば人は寄って来なくなるし、無駄な気も遣わなくて済む。でも何度もこれでいいのか悩んだ。だけど周りはそんな無口な『私』を受け入れたわ。その時気づいたの。その人たちは「私」のことなんて見てなかったんだって。私が「私」である必要なんてなかったんだって」
その言葉は僕の心に突き刺さった。
……僕も担任と同じじゃないか。
勝手にレッテルを貼っておいて罪悪感さえ覚えない。
自分の理想を相手に押し付け、それとは違うと失望する。
自分が嫌だと感じていたことを無意識にしていたことにやるせなくなる。
「…ごめん」
僕が俯きながらそう言うと、彼女は身体ごと僕の方を向いて優しく言った。
「謝ることないわ。多かれ少なかれ人は気に入った相手に自分の理想を描く。そして相手の気に入った『自分』を演じる。誰だって嫌われたくはないもの。ただあなたはそれを無意識にしていて、範囲が他の人より広いだけ。それ以外は何も変わらないわ」
彼女が僕の心に散乱した仮面を一枚ずつ拾っていく。
だから。
と、彼女は言う。
「いろんな人が思う『相手像』で「自分」が形成されていって、どの『自分』であっても自分であることに変わりはないと思うの。だからどれが本当の自分かなんて決める必要もないの。
気丈に振る舞う自分、おどけてみせる自分、弱い部分を見せる自分。
その全てがジグソーパズルみたいに組み合わさって一人の自分ができているから……どの自分も、大切で、欠け替えのない『仮面』だと思う。
…だからあなたは、そのままでいいのよ」
彼女が僕の仮面を両手いっぱいに持って僕に渡してくる。
彼女は初めて、僕に向かって微笑んだ。それは、嘘偽りのない彼女自身の「笑顔」だった。
ーー僕のまま。
誰にでも当たり障りなく接する自分。
親友にさえ気を遣う自分。
常に相手の好きな自分でありたいと願う自分。
僕は彼女が拾ってくれた仮面を、一枚ずつ、丁寧に、壁に飾る。
仮面の中に僕がいるんじゃない。
ーー仮面そのものが僕だったんだ。
「……気づいてもらえてよかったわ」
彼女は満足げに言うと、また黙々と掃除を再開した。
僕もそれに合わせて、目線を黒板に戻す。
窓から差し込む夕陽は、いつか見た彼女の笑顔のように眩しかった。
次の日の朝、僕はいつものように眠そうな古雅と登校する。
「なんで朝からそんなバシッとできるかねー」
「眠そうな君を見ていると、こうはなりたくないって思うんだよね。反面教師ってやつ?」
「相変わらず言ってくれるなー」
僕たちは今日も何気ない会話をする。
僕はいつも通り、彼が言ってほしい言葉、欲している雰囲気、求めている態度を探りながら話す。
彼の気に入る僕でいるために。
でも不思議と、今までの、罪悪感に苛まれる感覚は、はっきりと薄まっていた。
きっと彼女の言葉が、赦しが、僕の心の暗雲に一筋の光をもたらしてくれたのだろう。
僕は心の中で。
ありがとう。
ーーと、やはりポツリと言った。
あの日、僕に向き合い、僕のままでいいと伝えてくれた「彼女たち」に宛ててーー。
それは無数に存在し、自分を繕うための道具。
相手に受け入れてもらうための手段。
無意識に自分を護るための方法。
これは僕が、仮面を被った自分を受け入れるまでの物語。
しとしとと人の心を蝕む梅雨が明け、じっとりとした暑さから灼けつくような暑さに変わろうとしている頃。僕は大勢の人込みをかいくぐり、やっとの思いで僕の背丈の2倍以上はある掲示板の前に辿り着いた。そして一つの模造紙を上からなぞるように目を落としていく。
「…3位か」
夏の実力テストの結果をあっけなく見終えてしまい、僕は複雑な心境に陥る。
「これだけ頑張ってまだ上に2人いるのか」
僕はこの実力テストのために毎日学校以外で4時間は勉強に費やした。食べる、風呂に入る、寝る以外の時間は全て勉強にあてた。範囲の定められていないテストになぜここまで力を入れるのか、正直僕にもわからない。
「実力テストは実力で受けるもんでしょ。もうあんたのは努力テストじゃん」
姉は大笑いしながらこれでもかと馬鹿にして言った。彼女はその天才的な頭の回転の速さでのらりくらりとトップの成績を修め、主席で高校を卒業していった。入れ替わるように僕は同じ高校に入学し、姉がいかにすごい人なのかを思い知らされた。
自分にないものを持っている彼女は、僕の憧れでもあった。
「…届かないなぁ」
自分の実力不足に肩を落としていると、突然後ろから背中を叩かれた。
お化けと突然の出来事に弱い僕はたたらを踏み、豪快におでこを掲示板に打ち付けた。先ほどまでのざわめきが一瞬にして消え、周りの視線が僕に集中した。しかしほどなくして、またガヤガヤと元の喧騒を取り戻した。
赤くなったおでこと頬に手をやりながら振り返ると、くすくすと必死に笑いをこらえる少年が腹を押さえながら立っていた。
「やっぱりいい反応すんなー。やりがいがあるってもんよ」
彼は古雅。僕の親友であり、小学生からの付き合いだ。
ひと通り笑ったと思うと、彼は掲示板に目をやり、場をわきまえず大声で言った。
「お前3位かよ!すげー!」
…落ち着きのない奴だな。
僕は彼の首に手を回して、足早にその場から離れた。
彼は「ちょいちょい」と抵抗しつつも、嬉しそうに笑った。僕もそれにつられて、少し微笑んだ。
彼と大方のやり取りをした後、教室の前で別れる。彼との会話で少し浮かれた気持ちのまま中に入ると、待ってましたと言わんばかりに一人の少年が近づいて来た。
彼は牛島君。特段仲が良いわけではないが、学力でいつも競っているいわばライバルだ。
「3位だったね。さすがだよ」
ーーさすが。
それはどちらの仮面を被った僕に対して言っているのだろう。
努力した僕か。
それともライバルとしての僕か。
さっきまでの愉しい時間が嘘のように氷解し、僕はどちらの仮面に自分を委ねるべきか迷った。
「今回は君の勝ちだけど、次は負けないからな」
負けフラグのような言葉を言い残し、彼はさっさと自分の席に戻った。
僕の行き場のないこの感情を置き去りにして…。
実力テストの結果発表から数日後の昼休み。僕は担任の先生によって職員室に召喚されていた。
…なにかしたっけな。
不安が胸の内に澱のようにたまる。そんな気持ちに負けないように、僕は先生がこちらを向くのを見計らって、先手を打つように問いかけた。
「僕、何かしました?」
すると先生は「いやいや」と軽く笑いながら、机の上に散乱した書類を漁り始めた。そしてようやくある原稿用紙を見つけると「あぁ~よかったぁ。あったあった」とはたきながら僕に手渡してきた。
「ほら。6月の頭にみんなに作文を書かせたじゃない?それをあたしの独断と偏見で評価した結果、クラス代表は、おめでとう、あなたに選ばれました。とてもあなたらしい良い作文だったと思うわよ」
ーー僕らしい?
……なんだそれ。
僕は、僕自身が理解できていない部分を勝手に決めつけて固定化されていることに苛立ちを覚えた。
たった数か月の付き合いで僕を理解したつもりでいるのか?
安易に僕という存在を、先生自身の理想の型に嵌め込んでいるだけではないのか?
「まさか選ばれるとは思っていませんでした。とても嬉しいです」
僕は憤りを必死に堪えるように笑顔でそう言った。
職員室のドアをぴしゃりと閉め、歩きながら自分の原稿用紙を見直してみる。するとある文字が僕の目に飛び込んできた。
「……ずるい…か」
その言葉は僕の記憶を蘇らせるーーそう、あれは小学生の時のことだ。
小学生のころ、僕は先生の言うことは絶対だと思っていた時期がある。そんな神様のような存在である先生から、道徳の時間に言われたことを今でも鮮明に覚えている。
「人によって態度を変えるのはずるい人間がすることです」
ーー人によって態度を変える。
あの先生は今の僕を見てどう思うのだろう?
やはりずるい人間だと罵るだろうか?
それとも呆れられ、見向きもしてくれないだろうか?
……考えるだけ無駄か。
僕は無数の仮面を持っている。
巷で言われているカメレオン俳優や猫を被るといった、そんな大層なものではない。なぜなら僕は演じてさえいないからだ。
相手が思う僕に対する理想を、仮面として無意識に創りあげ、被る。
それらの仮面は、僕という存在をじわじわと曖昧なものにしていく…。
少し憂鬱な気持ちをため息に込めて外に吐き出すと、教室の前で古雅が「よっ」と優雅に歩きながら近づいてきた。
そして僕の持っている作文を見るや否や、気味の悪い笑みを浮かべた。
「優等生は大変ですな」
「はいはい」
僕がそうあしらうと、彼は何の前触れもなく
「ところで彼女できた?」
彼はリア充に二階級特進してから、隙あらばこの言葉を僕に投げかけてくる。
「いや?」
その問いに僕は間髪入れずに答えた。
「勉強できて、スポーツもできて、それでいて優しい。お前がその気になれば告白を断る女子なんていないと思うぞ。あーあ、俺が女子だったらなー」
「僕は愛したい派より愛されたい派だからね。自分から好きになる努力なんてしないよ」
「はっ。何様だよ」
ここまでが一連の流れ。漫才コンビのようにテンポよく進む。
おかげでさっきまでの憂鬱な気分が少しだけ晴れた気がする。
彼にはそういう力があった。何気ない会話から相手の懐に入り込み、抱いていた不安を和らげてくれる。それで問題が解決するわけではないが、何とかなりそうな気持ちになることがある。これは自分の周りの他の誰にもできることではない。
彼が親友で良かったと思う。
「次は美術だから」
僕はそう言い、目の前のドアレールをまたいだ。
「んじゃ」
彼は満足そうにそう言い、自分の教室へ向かった。
「ありがとう」
僕は彼の背中を見ながら、彼に聞こえないようポツリと言った。
5限目の美術の時間は、男女ペアで肖像画を描く授業だった。そのペアの割り振りは先生が決め、僕の相手は千秋さんとなった。
千秋さん。これは僕も初めて見た苗字である。
彼女は僕にとって異質な存在だった。容姿が整っており、真面目で何事にも真剣に取り組んでいる。そして何よりも、僕は彼女の笑顔を一度たりとも見たことがない。誰かの機嫌を伺うわけでもなく、凛々しい佇まいの彼女は、僕の姉とはまた違った意味で、憧れの存在だった。
普段人に対して自分から話しかけることは少ない僕だが、その時は雰囲気を和らげるつもりで彼女に話しかけた。
「千秋さんってすごくかっこいいよね」
「そう?」
彼女は照れる素振りも見せずに澄ました顔でそう言った。
「うん。僕は結構なよなよしてるから、羨ましいよ」
「あまり言われないから、嬉しいわ」
嬉しそうにはとても思えない表情で彼女は返す。
確かに彼女はどこか話しかけづらい雰囲気があるので、もしかしたら言われること自体が少ないかもしれない。
…なんか口説いて振られたみたいになっちゃったな。
それ以上の会話は続かなかった。僕は自分のナマケモノ以下の会話力にがっかりした。しかしそれと同時に、話せば彼女は反応してくれるという事実に少し嬉しくなった。
ざわざわとしゃべり声が飛び交う中、ただ黙々とお互いの肖像画を描く僕らは浮いていた。しかし、僕は無理に気を遣わなくてもいいと言ってくれているような彼女の雰囲気に、居心地の良さを感じていた。
彼女の真剣な眼差しは、清夏のように美しかった。
入道雲と太陽が熱いレースを繰り広げ、光と影が不定期に入れ替わる中、僕は古雅との待ち合わせ場所に10分前に着いた。全く乗り気でなかった僕は、人の多さに圧倒されながら、昨日の古雅との通話を思い出していた。
「明日暇?暇だよな。新しくできたショッピングモールに行こうぜ」
彼は通話口でも変わらず、自分のペースで話しかけてきた。
「もしかして来週の金曜にあるテスト忘れたわけじゃないよね?あれ評価に入れますって先生言ってたよ」
「小テストを5日も前から勉強する奴なんていないだろ。遊ぶぞ。」
…ここに一人いるだろ。
僕は結局、押し切られるようにその約束を受け入れた。
不意に気付く。
ーー僕は古雅にさえ仮面を被って接しているのか。
断ろうと思えば、渋ったり適当に理由をつけたりして断ればいい。しかし、僕にはそれができない。
…嫌われたくないから。
よくある友情ドラマや恋愛ドラマはこう言っている。
「親友だから、恋人だから、全てをさらけ出すのは至極当然である」
しかし僕は疑問に思う。
親友だから全てをさらけ出さないといけないというのは違うのではないだろうか?
少なくとも僕は、古雅の前でさえ仮面を被り、偽りの思いを口にすることがある。
……相手の気に入る自分でいるために。
僕が自分自身をを卑下しているのをよそに、彼は予定を決め始めた。
「じゃあ12時に入り口の前に集合な」
「あそこのショッピングモールはそれこそできて間もないから、朝一に行かないとゆっくり見れなくなるよ」
「休みの日に10時前に起きるとかどうかしてるだろ。12時で大丈夫だって」
彼は朝が弱いうえに時間にルーズである。時間通りに来た例がない。
「じゃあまた明日な」
彼はそう言うと、ぷつりと電話を切った。
…やっぱり人多いじゃん。
僕は何度か見知らぬ人に肩をぶつけられながら、お店の入り口の前で彼を待っていた。
待つのは全く苦にならないが、さすがに一人でこの場所に立っているのは場違いだと感じた。
それまで雲と太陽の位置は均衡を保っており、辺りに淀んだ灰色を演出していたが、太陽が一歩前に出た。
日射しが一帯に広がる。
その眩しい光に僕は少し目を細めた。しかし次の瞬間、僕は目を見開くことになる。
「あれって……千秋さん?」
僕は衝撃を受けた。大勢の人がいる中、彼女の姿に全ての光が集中した。
彼女は僕の知らない女性と一緒に歩いていた。そして見たこともない満面の笑みで笑っている。それは陽に照らされたカルミアを彷彿とさせる笑顔だった。
…笑わない彼女。
僕が抱いていた彼女像が一気に崩れ落ちた。
ーー彼女も仮面を持っている。
しかし、僕のそれとはわけが違う。
彼女のそれは嫌われたくないがために作っているものじゃない。
僕とは違う仮面……。
僕の視線に気づいたのか、彼女はこちらに顔を向けた。
一瞬目が合った僕は、我に返り慌てて目をそらす。
そのあと彼女がどんな表情でどんなことを思ったのかは知る由もない。
程なくして、遅れてきた古雅が悪びれる様子もなく手を振って歩いてきた。
「お待たせー」
きっと彼は「お待たせ」の意味を理解していない。
お待たせという言葉は、もう少し申し訳なさそうに言うものだ。
「ちょっと考え事してたから丁度よかったよ」
「えっなに?綺麗なお姉さんにでも見惚れてたん?」
…見てたのかよ。
「あまりにも熱烈な視線だったから、てっきり付き合ってる彼女かと思った」
「もしも彼女だったら、古雅となんかと遊んでられないよ」
「何それ。ひどくない?」
相変わらずのテンポで僕らは言葉を交わす。
しかしそんなたわいもない会話をしながらも、僕は上の空だった。
空は再び灰色だった。
「そうだった」
次の日、朝のホームルームが終わる間際に担任は思い出したようにそう言った。
「今日の『放課後掃除隊』の子が一人欠席だから、誰か代わってあげられないかな?」
放課後の掃除。それは彼女が独自に制定した月始めに一回訪れる、自己満足のような行事。二人で居残りして1時間程度、普段の掃除では行き届かない部分をきれいにしようというものだった。そして今回の二人のうち一人は僕だった。
…それにしても『放課後掃除隊』って。
昭和みたいなネーミングだな。僕らは平成の高校生だぞ。
放課後に好きでもない相手と1時間教室に拘束されるという行事を、進んで引き受けてくれる人なんている筈もないだろうに。
しかし僕の予想は外れ、一人の女子生徒が手を挙げた。
「私します」
僕は息を呑んだ。なぜならその女子生徒は千秋さんだったからだ。
普段決して自分から発言しない彼女が、クラスの目も気にせずに手を挙げていた。
驚いたのは僕だけではなかったらしく、クラスの視線が一気に彼女に注がれた。
「千秋さんありがとう。じゃあよろしくね」
その空間の中で一人だけ浮いていた担任がそう言うと、徐ろに教室を後にした。
僕は再び彼女に視線を向けた。その横顔は、僕が見た笑顔が幻だったのかと思わせるぐらい無機質なものだった。
僕の脳内に昨日の彼女の笑顔が映し出される。
…見てはいけないものを見てしまったのだろうか。
蒼ざめている僕に見向きもせず、彼女は1限目の授業の準備を始めた。
時間を追う毎に緊張の糸を張り詰めていく僕を尻目に、その時間は容赦なくやってきた。
僕は黒板の前に椅子を置き、上履きを脱いでその上に立つ。そして使い古した雑巾を精一杯黒板の上縁に伸ばし、埃が落ちてこないようゆっくりと拭く。彼女も、きれいに折りたたんだ雑巾を何度も往復させ、窓の枠に溜まった汚れを丁寧に拭いていた。
お互いに一言もしゃべらない。いつかの美術室で感じた居心地の良さは皆無だった。
…きっと僕の心がざわついているからだろう。
何か話題を振らなければとおろおろしている僕に、彼女は視線を窓枠に固定したまま、ひとり言のように呟いた。
「あなたは、私の過去そのもの…」
「えっ?」
僕は、聞こえた言葉を確認するように聞き返す。すると彼女は、先ほどよりも少し大きな声で、断言するように言った。
「あなたは、昔の私のようだわ」
僕は言葉に詰まる。それは彼女が僕の心の全てを見抜き、仮面の話を、僕が自分を偽っていることを糾弾するのかと思ったからだ。
しかし彼女はこう続けた。
「…あなたはそのままでいいのよ」
……ん?
次の展開が分かったつもりでいた僕は、その言葉が理解できなかった。
そのままでいい?
彼女は確かにそう言った。
僕は動揺を隠し切れず、少し口籠りながら言った。
「ど、どういう、こと?」
「昨日の私がもう一人の私…」
彼女は僕の問いには答えずに脈絡なくそう言った。
……分からない。こんなにも会話が嚙み合わないのは初めてだ。
何も言えずに黙っていると、彼女は子どもをなだめるような声で
「あなたも仮面……持ってるんでしょ?」
と問いかけ、始めてこちらに顔を向けた。
「あなたもってことは…千秋さんも持ってるの?」
救いを求めるような声で、自分で既に分かりきっていたことを口にする。
「だから言ったでしょ。昨日の私がもう一人の私」
さっきよりもはっきりした口調で彼女は言った。
そして、それまでひと言ふた言しか口に出さなかった彼女は語り始めた。
「私…中学の時に、そこそこ仲の良いと思ってた子から『八方美人』って言われたの。それも直接じゃなく陰口として…。そのとき私の中で何かが驟雨のように零れ落ちた。自分を蓋ってきた大切なものが奪われる感覚……。そして何よりその言葉を否定できない自分が赦せなかった。ずっと一緒だった幼馴染は『千秋は千秋だよ』って言ってくれたわ。だけどその言葉の真意に気付くのが遅かった。当時の私には、その言葉は自分を縛り付けるものでしかなかったの」
僕は、返す言葉が見つからなかった。
大切なものが零れ落ち、奪われた喪失感。
友人の言葉に縛り付けられた息苦しさ。
それらがカッターナイフの切れ味を試そうと指先に一本、線を引いたかのような鮮明な痛みを伴って伝わってきたからだ。
少し静寂に包まれたのち、彼女はまた口を開いた。
「その後は迷いに迷った結果、私は寡黙を選んだ。いや、正確には選ばされた、かな?……必死に自分を演じたわ。寡黙でいれば人は寄って来なくなるし、無駄な気も遣わなくて済む。でも何度もこれでいいのか悩んだ。だけど周りはそんな無口な『私』を受け入れたわ。その時気づいたの。その人たちは「私」のことなんて見てなかったんだって。私が「私」である必要なんてなかったんだって」
その言葉は僕の心に突き刺さった。
……僕も担任と同じじゃないか。
勝手にレッテルを貼っておいて罪悪感さえ覚えない。
自分の理想を相手に押し付け、それとは違うと失望する。
自分が嫌だと感じていたことを無意識にしていたことにやるせなくなる。
「…ごめん」
僕が俯きながらそう言うと、彼女は身体ごと僕の方を向いて優しく言った。
「謝ることないわ。多かれ少なかれ人は気に入った相手に自分の理想を描く。そして相手の気に入った『自分』を演じる。誰だって嫌われたくはないもの。ただあなたはそれを無意識にしていて、範囲が他の人より広いだけ。それ以外は何も変わらないわ」
彼女が僕の心に散乱した仮面を一枚ずつ拾っていく。
だから。
と、彼女は言う。
「いろんな人が思う『相手像』で「自分」が形成されていって、どの『自分』であっても自分であることに変わりはないと思うの。だからどれが本当の自分かなんて決める必要もないの。
気丈に振る舞う自分、おどけてみせる自分、弱い部分を見せる自分。
その全てがジグソーパズルみたいに組み合わさって一人の自分ができているから……どの自分も、大切で、欠け替えのない『仮面』だと思う。
…だからあなたは、そのままでいいのよ」
彼女が僕の仮面を両手いっぱいに持って僕に渡してくる。
彼女は初めて、僕に向かって微笑んだ。それは、嘘偽りのない彼女自身の「笑顔」だった。
ーー僕のまま。
誰にでも当たり障りなく接する自分。
親友にさえ気を遣う自分。
常に相手の好きな自分でありたいと願う自分。
僕は彼女が拾ってくれた仮面を、一枚ずつ、丁寧に、壁に飾る。
仮面の中に僕がいるんじゃない。
ーー仮面そのものが僕だったんだ。
「……気づいてもらえてよかったわ」
彼女は満足げに言うと、また黙々と掃除を再開した。
僕もそれに合わせて、目線を黒板に戻す。
窓から差し込む夕陽は、いつか見た彼女の笑顔のように眩しかった。
次の日の朝、僕はいつものように眠そうな古雅と登校する。
「なんで朝からそんなバシッとできるかねー」
「眠そうな君を見ていると、こうはなりたくないって思うんだよね。反面教師ってやつ?」
「相変わらず言ってくれるなー」
僕たちは今日も何気ない会話をする。
僕はいつも通り、彼が言ってほしい言葉、欲している雰囲気、求めている態度を探りながら話す。
彼の気に入る僕でいるために。
でも不思議と、今までの、罪悪感に苛まれる感覚は、はっきりと薄まっていた。
きっと彼女の言葉が、赦しが、僕の心の暗雲に一筋の光をもたらしてくれたのだろう。
僕は心の中で。
ありがとう。
ーーと、やはりポツリと言った。
あの日、僕に向き合い、僕のままでいいと伝えてくれた「彼女たち」に宛ててーー。
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