雲霧を被る

越知 学

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2話

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 小学5年生のとき、俺は出会った。
 自分では一生追いつけない、手の届かない存在。
 同じ空気を吸っていながら、違う世界にいる存在。
 何か歴史に名を残しているわけではない。ずば抜けた才能があるわけでもない。
 ただ……俺にないものを持っていた。俺がどんなに意識しても手に入らなかったもの。
 天矢という男。ひたむきに努力できる男。小さなことを積み重ねられる男。
 俺は彼に嫉妬した。
 もともとの能力は間違いなく大差ないはずだ。なのになぜかいつも俺の上に彼はいる。こんな不思議な感覚は今まで味わったことがなかった。だから妬むことしかできなかった。それで心の均衡を保つしか術がなかったのだ。

 ある日、国語の授業で先生が唐突に俺の名前を呼んだ。
「古雅君、ちょっとここに来なさい」
 俺が素直に応じると、先生は一枚の紙を突き出し、クラスみんなが見ている中で言い放った。
「この前の国語のテストの結果です。何ですかこの点数?ふざけているんですか?100点満点中の5点なんて点数、私は見たことがありませんよ?」
 クラスの一部で苦笑が生じる。俺は何も言い返せなかった。
 俺は文字を読むのがすごく苦手だ。集中が続かないことと、文字が頭に入ってこないことが重なって読み切れない。故に国語の問題はほとんど解けなかった。当時発達障害が広く認知されていなかったため、俺はただのバカな小学生だと思われていた。
 先生がさらに追い打ちをかける。
「こんなことは言いたくありませんが、将来馬鹿にされますよ?それでもいいんですか?」
 俺はやはり言い返せない。立ち尽くすのみだった。
 すると、大げさに音を立てながら椅子を引き、起立する一人の男がいた。それは天矢だった。
「先生はご存じですか?人間はこの全宇宙にある全ての物質、エネルギーの5%しかまだ知らないんですよ。つまり人間は未だ『5点』しか取れてないんです。人間ってバカですよね。先生は何ですか?人間がまだ発見できてないものを知ってるんですか?あっそれとも人間ではないのですか?」
 クラスは静まりかえる。全員が彼に視線を向けていた。
 ――その後、授業は自習となった。
 彼は先生から呼び出され、教室を出ていった。授業の終わりのチャイムが鳴り終わるまで、彼は帰ってこなかった。
 次の授業が始まる1分ほど前に、彼はようやく帰ってきた。泣くわけでもなければ笑うわけでもなく、非常に落ち着いた様子だった。
 俺はすぐさま彼のところへ駆け寄り、お礼を言った。すると、彼はほんの少し微笑んで、恥ずかしそうに言った。
「あんな人の事情や気持ちも考えずに言葉を発するやつなんか気にしなくていいよ。僕も少しすっきりしちゃった」
 そのとき、自分が心の底から高揚しているのが分かった。少しだけ世界が広がった気がした。この人といれば自分も違う世界に行けるかもしれないと感じた。
 それをきっかけに俺らは仲良くなったのだ――。

 そして今に至る。依然、俺は彼の世界に入ることはできていない。一度だけその世界に半歩踏み入れたが、長くは続かなかった。だが、彼のおかげでそういう景色があることを知ることができた。たとえ自分が入れなくとも、彼が見せてくれる。今はそれで十分だ。
 英単語を一通り唱え終えたのか、彼は珍しく話を振ってきた。
「今更だけど、彼女と学校行かなくていいの?」
「あー彩の家行くと学校通り過ぎちゃうもんなー。それに彼女と行ってるじゃん?」
「はっ?」
「ほら、目の前に」
「僕、女の子かよ」
「じゃあ、男の娘?」
「……彼女に報告してやりたいな。『彼、浮気してますよ。それも一方的な片思いなんです』って」
「連絡先教えてなくて良かった」
「入手したら終わりだと思ってね」
 彼はいつかフォローしてくれた日のように微笑んでいた。俺も大きく笑顔を作る。
 小刻みに打っている鼓動がアスファルトの細かな凹凸のように高鳴っていた。
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