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二章
その名は『バネ足ジャック』
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その事件はさっそく、翌朝のニュースを飾り立てました。新聞にはアニーのインタビュー記事と犯人像に対する推測が書き立てられました。犯行現場がいずれもイーストタウンであること、夜間の犯行であること、狙われるのが若い女性ばかり、しかも、金品を奪うでもなく、レイプするでもなく、ただ恐がらせて去るだけ。さらに登場するのは三日ごと。
これらの特徴から犯人はイーストタウンに住む人物で、極度のマザーコンプレックスに支配された幼稚な精神構造の持ち主であり、さらに反復癖をもつ変質狂であるとされました。
「したがってこの怪人は女性全般に対する強い嫌悪感をもっており、それを発散したいという欲求に支配されている。また、極度の反復癖の持ち主でもあり、同じパターンを繰り返すことを好む。したがって、この怪人は三日後の二一日によたび、現れるであろう。
しかし、善良なる市民諸君、恐れることはない。しょせん、この怪人は見てくれだけの臆病者であり、実際に人を傷つけるほどの度胸は持ち合わせてはいない。か弱い女性を驚かせるだけがせいぜいで、屈強な男を襲うことなど恐くてできはしないのだ。だから、女性たちよ。恐れることはない。あなたたちは安全だ。ただ、頼りになる男と一緒にいればいい。ただそれだけのことであなたの身の安全は保障されるのだ」
ですが――。
自信満々に書き立てられたその推測を嘲笑うかのように、謎の怪人はその日さっそく、四度目の登場を果たしたのです。
しかも、場所はイーストタウンではありませんでした。都市を囲む森林地帯だったのです。
その日、ハンナ・リリエンタールはボーイフレンドのダンとともに、久々の休暇を日帰りのバック・パッキンクで過ごしておりました。縦長のザックを背負い、森を散策し、小鳥のさえずりを楽しんでいたのです。
なるほど、ハンナは身長一六〇センチに満たない小柄で華奢な女性でした。謎の怪人がニュースで流された推測どおりの気弱な人物だったとしても襲うことができたでしょう。ですが、ボーイフレンドのダンはちがいました。彼女の小柄な分をカバーするかのように背の高さも、体の厚みも普通以上にありました。身長は一九〇センチを越え、体重は一四二キロ。全身を分厚い筋肉の鎧で包み、しかも、格闘技を趣味としておりました。
空手二段、柔道は三段の腕前であり、とくにレスリングを好んでおりました。外の世界での大会に出場し、優勝したこともあります。こと素手での殴りあいに限れば霧と怪奇の都でも一〇指に入る猛者であったでしょう。新聞の推測した犯人像が正しければこんな男の前には決して、謎の怪人は現れるはずはなかったのです。
ところが、怪人はこのふたりの前に現れたのです!
ニュース・キャスターであるハンナは、このできごとを自身の番組のなかで興奮しつつ語ったものです。
「私と彼とはおしゃべりしながら森のなかをのんびりと散策していたのです。もうすぐお昼であり、近くの池のほとりに座ってランチにしようと話し合っていました。そのとき突然、その怪人は現れたのです。音高く梢を揺らして、木の上から飛び降りて、目の前に降ってきたのです。
ああ、あんな恐ろしいことはありませんでした。平和で穏やかな昼日中、暖かい日ざしに包まれたひとときに突然、真ん丸い目を爛々と輝かせ、体のあちこちから青白い炎を吹きあげた幽鬼のような怪人が姿を現したのですから。
私は突然、別世界にさ迷い込んでしまった気分になりました。人間が決して踏み入ってはいけないもののけたちの世界へと。
怪人は私に向かって左手を伸ばしました。ぞっとするほど冷たい爪が私の胸をつかみ、シャツを引き裂きました。私は悲鳴を上げました。ダンは激昂し、私を守ろうと怪人に突撃しました。彼はとても勇敢でした。そして、とても強かったのです。
ああ、でも、相手が悪すぎました。その怪人は決して人間が歯向かってはいけない相手だったのです。
怪人の右手が伸びてダンの顔をつかみました。信じられますか、皆さん? 身長一九二センチ、体重一四二キロを誇る格闘家が渾身の力を込めて放ったタックルを、その怪人は腕一本でとめてしまったのです!
怪人は腕を振るいました。ダンは軽々と、それこそプロレスラーに抱えられた子供のように吹き飛ばされました。頭を木にぶつけ、気を失いました。そして、その怪人はこの世のものとは思えない笑い声を響かせると高く、高く、跳び上がり、空のかなたへと消えたのです。
ああ、なんと恐ろしい怪人! あれこそヴィクトリア朝ロンドンを恐怖におとしいれた怪人、『バネ足ジャック』の再来にちがいありません。しかも、もっとずっと強く、ずっと危険なのです!
勇敢なダンは頭の骨を折り、入院してしまいました。皆さん、あの怪人に注意しなくてはなりません。この都に現れたバネ足ジャックは恐ろしく危険な存在なのです……」
『バネ足ジャックの再来にちがいありません』
ハンナのその一言によってついにこの怪人に『パネ足ジャック』の名が与えられました。
新聞やニュースはこぞってその名を連呼し、本家バネ足ジャックを紹介し、新しいバネ足ジャックとの類似点を指摘しました。人々はむさぼるようにその記事を読みふけりました。
『バネ足ジャックふたたび! いま蘇るヴィクトリア朝の悪夢!』
『二〇〇年の眠りから覚めた怪人! 再び現れる跳躍する恐怖!』
『地獄よりの哄笑! 飛び跳ねる怪人の目的はなにか?』
センセーショナルな見出しが紙面を飾り、新聞は飛ぶように売れました。人々の間ではこの怪人の噂で持ちきりになりました。女性たちが怯える一方、警備会社には警備依頼が殺到し、自警団によるパトロールがはじめられました。タフを売り物にする男たちはこの怪人を捕まえ、自分の強さを証明しようと意気込み、愛用の銃を町中で自慢げに見せびらかしました。
霧と怪奇の都はバネ足ジャック一色に染まったのです。そして、そんな風潮がひとりの男の怒りをかきたてることとなったのです。
これらの特徴から犯人はイーストタウンに住む人物で、極度のマザーコンプレックスに支配された幼稚な精神構造の持ち主であり、さらに反復癖をもつ変質狂であるとされました。
「したがってこの怪人は女性全般に対する強い嫌悪感をもっており、それを発散したいという欲求に支配されている。また、極度の反復癖の持ち主でもあり、同じパターンを繰り返すことを好む。したがって、この怪人は三日後の二一日によたび、現れるであろう。
しかし、善良なる市民諸君、恐れることはない。しょせん、この怪人は見てくれだけの臆病者であり、実際に人を傷つけるほどの度胸は持ち合わせてはいない。か弱い女性を驚かせるだけがせいぜいで、屈強な男を襲うことなど恐くてできはしないのだ。だから、女性たちよ。恐れることはない。あなたたちは安全だ。ただ、頼りになる男と一緒にいればいい。ただそれだけのことであなたの身の安全は保障されるのだ」
ですが――。
自信満々に書き立てられたその推測を嘲笑うかのように、謎の怪人はその日さっそく、四度目の登場を果たしたのです。
しかも、場所はイーストタウンではありませんでした。都市を囲む森林地帯だったのです。
その日、ハンナ・リリエンタールはボーイフレンドのダンとともに、久々の休暇を日帰りのバック・パッキンクで過ごしておりました。縦長のザックを背負い、森を散策し、小鳥のさえずりを楽しんでいたのです。
なるほど、ハンナは身長一六〇センチに満たない小柄で華奢な女性でした。謎の怪人がニュースで流された推測どおりの気弱な人物だったとしても襲うことができたでしょう。ですが、ボーイフレンドのダンはちがいました。彼女の小柄な分をカバーするかのように背の高さも、体の厚みも普通以上にありました。身長は一九〇センチを越え、体重は一四二キロ。全身を分厚い筋肉の鎧で包み、しかも、格闘技を趣味としておりました。
空手二段、柔道は三段の腕前であり、とくにレスリングを好んでおりました。外の世界での大会に出場し、優勝したこともあります。こと素手での殴りあいに限れば霧と怪奇の都でも一〇指に入る猛者であったでしょう。新聞の推測した犯人像が正しければこんな男の前には決して、謎の怪人は現れるはずはなかったのです。
ところが、怪人はこのふたりの前に現れたのです!
ニュース・キャスターであるハンナは、このできごとを自身の番組のなかで興奮しつつ語ったものです。
「私と彼とはおしゃべりしながら森のなかをのんびりと散策していたのです。もうすぐお昼であり、近くの池のほとりに座ってランチにしようと話し合っていました。そのとき突然、その怪人は現れたのです。音高く梢を揺らして、木の上から飛び降りて、目の前に降ってきたのです。
ああ、あんな恐ろしいことはありませんでした。平和で穏やかな昼日中、暖かい日ざしに包まれたひとときに突然、真ん丸い目を爛々と輝かせ、体のあちこちから青白い炎を吹きあげた幽鬼のような怪人が姿を現したのですから。
私は突然、別世界にさ迷い込んでしまった気分になりました。人間が決して踏み入ってはいけないもののけたちの世界へと。
怪人は私に向かって左手を伸ばしました。ぞっとするほど冷たい爪が私の胸をつかみ、シャツを引き裂きました。私は悲鳴を上げました。ダンは激昂し、私を守ろうと怪人に突撃しました。彼はとても勇敢でした。そして、とても強かったのです。
ああ、でも、相手が悪すぎました。その怪人は決して人間が歯向かってはいけない相手だったのです。
怪人の右手が伸びてダンの顔をつかみました。信じられますか、皆さん? 身長一九二センチ、体重一四二キロを誇る格闘家が渾身の力を込めて放ったタックルを、その怪人は腕一本でとめてしまったのです!
怪人は腕を振るいました。ダンは軽々と、それこそプロレスラーに抱えられた子供のように吹き飛ばされました。頭を木にぶつけ、気を失いました。そして、その怪人はこの世のものとは思えない笑い声を響かせると高く、高く、跳び上がり、空のかなたへと消えたのです。
ああ、なんと恐ろしい怪人! あれこそヴィクトリア朝ロンドンを恐怖におとしいれた怪人、『バネ足ジャック』の再来にちがいありません。しかも、もっとずっと強く、ずっと危険なのです!
勇敢なダンは頭の骨を折り、入院してしまいました。皆さん、あの怪人に注意しなくてはなりません。この都に現れたバネ足ジャックは恐ろしく危険な存在なのです……」
『バネ足ジャックの再来にちがいありません』
ハンナのその一言によってついにこの怪人に『パネ足ジャック』の名が与えられました。
新聞やニュースはこぞってその名を連呼し、本家バネ足ジャックを紹介し、新しいバネ足ジャックとの類似点を指摘しました。人々はむさぼるようにその記事を読みふけりました。
『バネ足ジャックふたたび! いま蘇るヴィクトリア朝の悪夢!』
『二〇〇年の眠りから覚めた怪人! 再び現れる跳躍する恐怖!』
『地獄よりの哄笑! 飛び跳ねる怪人の目的はなにか?』
センセーショナルな見出しが紙面を飾り、新聞は飛ぶように売れました。人々の間ではこの怪人の噂で持ちきりになりました。女性たちが怯える一方、警備会社には警備依頼が殺到し、自警団によるパトロールがはじめられました。タフを売り物にする男たちはこの怪人を捕まえ、自分の強さを証明しようと意気込み、愛用の銃を町中で自慢げに見せびらかしました。
霧と怪奇の都はバネ足ジャック一色に染まったのです。そして、そんな風潮がひとりの男の怒りをかきたてることとなったのです。
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