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四章

怪奇との遭遇

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 「あっー、くそ! また空振りかよ」
 ジャックは見るからに苛々した様子で端末を操作して科学者のリストを確認しながら、吐き捨てました。
 「これで三〇人以上当たったが手がかりなしか。まあいい。科学者はまだまだいるからな。片っ端から当たるまでだ。おい、ビリー……」
 言いながら振り返ったジャックの見たものは、長い髪に大きなメガネをかけ、小柄な体を白衣ですっぽりおおった少女――に見える女性――が、両手を膝についてうなだれ、肩で息をしている光景でした。
 「おい、どうし……」
 言いかけたジャックの声が途中でとまりました。
 ビリーが顔をあげ、ジャックをにらみつけたのです。顔は汗にまみれ、前髪が額に張りつき、顎からはポタポタと汗がたれています。ジャックをにらみつけるメガネの奥の目にはほとんど怨念が込められておりました。
 さすがの暴れん坊ジャックが気圧されて後ずさったほどです。ビリーは上司をキッとにらみつけると怒鳴りました。
 「なんのつもりだ、人を一日でこんなに歩かせて! 私は君のような体力馬鹿とはちがうのなだぞ。ついていけるわけがないだろう!」
 冷静な科学者であるはずのビリー。その彼女が本気で怒っていたのです。少しでもジャックの顔に近づけようと小柄な体を精一杯伸ばし、唾を吐きながらどやしつけたものです。
 「一日中イーストタウンをめぐり歩き、六人の科学者との面会につき合わされる! しかも、東に行き、西に行き、五番街から八番街に行って二番街に戻り、それからまた一三番街! おかげで歩く距離が無駄に長くなる! おかげで足がパンパンだ! なぜ、もっと効率的なルートを設定しようとしない⁉」
 「……だ、だってよ、仕方ねえじゃねえか。バネ足ジャックと関係ありそうな科学者のことを聞き出したら、そこに向かう。どこの誰を知らされるかわからねえんだから、ルート設定なんざしようが……」
 「それが無駄だと言うんだ! 君のやり方はあまりにも古くさくて非効率だ! どうしてこんなめくらめっぽうに当たる前にきちんと情報を調べ、目星をつけようとしないのだ。そうしていれば必要な場所まで馬車で移動すればいいし、よけいに歩きまわる必要もない。君のやり方は時間と体力の浪費以外のなにものでもない。エコではないぞ!」
 「そ、そんなら……お前、誰がそれっぽい科学者でも知ってるってのかよ?」
 「バネ足ジャックの心当たりなら私にある!」
 「なっ……」
 想像を絶する一言にジャックは声を失いました。大きな目を怒らせたままの部下に向かって怒りの声を上げました。
 「なんだとっ! だったらなんで、もっと早く言わなかったんだ」
 「ふざけるな! 何度も言おうとしたのにそのたびに勝手に動きまわって耳を貸そうとしなかったのは君ではないか。それなのに私のせいにする気か」
 ジャックの怒りはそれに倍する白衣の娘の怒りにぶつかって霧消してしまいました。言われてみればビリーがなにやら話しかけようとしていた気もします。さすがに自分の独断専行ぶりを反省して、帽子をとって詫びたものです。
 「す、すまん。どうも頭に血が昇っていたようだ」
 「君は頭に血が昇っていないことなどあるまい」
 ビリーは冷厳に事実を指摘しました。
 「だがまあ、そのことに気がついただけでもいまはよしとしよう。今後はもう少し、自分の行動を客観視することだ」
 「……そうする」
 ジャックはついついそう答えましたが、内心では『なんで署長のおれが部下に説教されなきゃならんのだ?』と思っておりました。
 「それで、ビリー……」
 「なんだ?」
 「バネ足ジャックに心当たりがあるってのはたしかなんだろうな?」
 「正確に言うと、バネ足ジャックの能力と外見について心当たりがある、ということだ。正体に関してはまた別だ」
 「それで充分だ! それだけわかればそこから正体だって知れるだろう。さっそく教えてくれ」
 「では……」
 ビリーが答えようとしたそのときです。
 「きゃああああっ!」
 文字通り、絹を裂くような女性の声が響いたのです。
 それは、都市のなかに霧の立ちこめる明け方のことでありました。甲高い女性の悲鳴、しかも、それは、ただの悲鳴ではありませんでした。この世のものとも思えぬ恐怖に遭遇した人間だけが放つ、狂気との境目にある声だったのです。
 「出やがったか!」
 そう叫ぶジャックの声はさぞ喜びに満ちていたことでしょう。刑事としての勘がその悲鳴の原因を正確に告げていたのです。あんな声は普通の事件や事故で起こせるものではない。それができるのはこの世ならざる異様なるもの――バネ足ジャック以外にいない!
 追い掛けていた怪人、その正体を探っている途中、当の怪人自らが現われるとは何たる幸運! ジャックの刑事魂に火がつき、胸のなかで爆発しました。帽子を片手で押さえ、ジャックは走り出しました。
 「あ、おいこら、まて! だから、勝手に行くなと……!」
 ビリーも必死に後を追いました。
 ドームにはめられた強化ガラスの窓の向こうに朝日が昇りつつある時刻。立ちこめる霧に朝の光が乱反射し、新しいヴィクトリア朝の町並みを幻想的な雰囲気に包むなか、人の姿のハウンド・ドックが駆け抜けます。
 細かな露地がいくつも入り組んだ複雑な町並み、しかも、目印となる悲鳴が起きたのはただ一度。現場に直行するのは至難の業のはず。しかし、ジャックは迷うことなく駆け抜けます。生まれついての猟犬は獲物の居場所をまちがえたりはしないのです。
 いくつかの角を曲がり、露地を通り抜け、ふたつ向こうの通りに出たジャックの見たもの、それは道端に倒れた若い女性と、彼女におおいかぶさるようにして立っている異様な怪人――。
 バネ足ジャックの姿でした。
 ジャックはこれまでこのいたずら者の姿を見たことはありません。ですが、見間違えではない。見間違えるはずがありませんでした。
 三メートルに達するやけに細長い体。ひときわ高いトップハット。爛々と輝く真ん丸い目。鋼鉄の爪。全身を包む漆黒のロング・コート。体のあちこちから人魂のように吹きあがる青白い炎。
 そんな風体の怪人がこの世にふたりといるはずがありませんでした。それはバネ足ジャック。それ以外にありえなかったのです。
 「野郎! やっと会えたぜ」
 ジャックは叫びました。立ちどまり、スーツを翻して銃を抜き放ちました。両手でもって構えました。
 「動くな、バネ足ジャック! 動くと……」
 ジャックが叫び終えるよりも早く、その場にひとつの人影が飛び出した。それはやわらかな金髪の、若い女性でした。
 その女性は倒れている女性とバネ足ジャックの間に飛び込むと、両手を広げて跳躍する怪人をさえぎりました。この女性は勇敢にもバネ足ジャックから倒れている女性を守ろうと飛び出してきたのです!
 ジャックはその勇気に感動しました。ですが、感動してばかりはいられません。警察は市民に危険を冒させてはならない。それがジャック・ロウの信念でした。
 「よせ、逃げろ! ここは警察に……」
 『任せろ!』
 走り出しながらそう叫ぼうとしました。その声が途中でとまりました。ジャックの目に映ったのは意外な光景だったのです。
 バネ足ジャックが後ずさったのです。やけに細長いその長身を後ろにそらせ。おとなにいたずらを見られた子供が怯えて逃げ出そうとするかのように。
 鋼鉄のその仮面に表情の変化などあろうはずがありません。にもかかわらず、ジャックの刑事としての目はそこに明らかなたじろぎの色を見ていました。
 わかるのです。表情は変わらなくても。かすかな顔の動き、手の形、足の運び。そんなもので。
 バネ足ジャックは明らかにひるんでいました。
 霧と怪奇の都を跳躍し、人々を恐怖におとしいれている無敵の怪人がいま、たったひとりのごく普通の女性に気圧されている。それは、身長三メートルに達する怪人以上に非現実的な光景でした。
 バネ足ジャックの長身がより一層反り返りました。ロング・コートに包まれた体が三日月にしなりました。右手を額に当てました。哄笑が響きました。

  ふぃー!
  ふぃーひゃっひゃっひゃっひゃっ!

 それはけたたましい笑声のはずでした。それなのに――、
 ――泣いている?
 ジャックはそう思ったのです。
 身をそらせ、右手を額に当てて高笑うバネ足ジャックの姿は、ジャックには泣き叫んでいるように見えたのです。
 バネ足ジャックが飛びました。空高く。月を目掛けて飛び上がる。ニュースで聞いたままの跳躍力を発揮して、バネ足ジャックは家々の屋根の向こうへと消え去りました。
 ジャックは銃をホルスターにしまい、勇敢な金髪の女性に駆けよりました。その女性は美しい顔をかすかに青ざめさせ、バネ足ジャックの消えた空を見つめていました。
 「ええと……」
 ジャックが声をかけたそのときです。女性はバネ足ジャックの消えた空を見つめたまま小さく、しかし、はっきりと呟きました。
 「ケニー」
 「えっ?」
 「署長! 勝手に突っ走るなといつも言っているだろう。私は君のような脳味噌筋肉とはちがうのだぞ」
 ようやく追いついたビリーが息を切らしながら駆けよってきたところでした。
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