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九章

恐怖がはじまる

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 それ以来、バネ足ジャック事件は鳴りをひそめました。五月になり、六月になっても新しい事件は起こらなかったのです。バネ足ジャックは去ったのか。もう人を脅かすのはやめたのか。さまざまな推測が飛びかい、ニュースとなりました。ところがです。
 その矢先の六月一〇日。事件は急展開を迎えたのでございます。
 イーストタウン六番街において死体が発見されたのです。被害者はジェーン・サリヴァン。犯行現場近くに住む一九歳の女子大生でした。
 いえ、それだけならめずらしくも何ともないことです。死刑権が『万人に解放された権利』として認められている霧と怪奇の都においてニュースになるのは『人が殺されたこと』ではなく、『人が殺されなかったこと』なのですから。
 ですが、その死体はあまりにも無残だったのです。体の各所がズタズタに引き裂かれ、解剖でもされたかのように切り刻まれ、何よりも恐ろしいことに――。
 右脚が付け根からもちさられていたのです!
 さしもの霧と怪奇の都においてもこれほど猟奇的な殺人はそうそうあるものではございません。むしろ、人前で堂々と殺し、死体にはよけいな傷をつけたりしないのが普通です。なぜなら、多くの市民は『死刑は殺人とはちがう』という誇りをもっているからです。堂々と殺し、自分の正当性を主張することこそ正義の証。神聖なる死刑権を悪用し、残虐趣味を満足させるようなことはしないのです。
 それだけに、この残虐かつ怪奇的な犯行は市民の怒りを誘いました。事件は連日報道され、都中の話題をさらいました。
 そして、いつの間にか『バネ足ジャック』の新たなる犯行と呼ばれるようになったのです。
 はい。その通りです。もちろん、証拠などありません。目撃者のひとりもいないのですから、誰がやったのかなどわかりはしません。
 ですが、なにぶん、バネ足ジャックの記憶のまだ新しい時期のことです。人々がこの事件と世間を騒がせた怪人とを結びつけて考えるのはごく自然なことだったのです。
 それにもうひとつ。犯行現場には加害者の足跡がなかったのです。正確には加害者とおぼしき足跡はありました。被害者のまわりのごくせまい範囲だけに。その場にあるだけで、やってきた足跡も、去っていった足跡もなかったのです。
 舗装されていない、土がむき出しの霧と怪奇の都の通り。足跡は簡単に残るはずなのに、そして実際に被害者のまわりには残っているのに、他の部分には同じ足跡がひとつもない。足跡を見るかぎり、どこからきて、どこへ去ったのか、まるでわからなかったのです。そう。まさに空を飛んで現われ、空を飛んで消えたとしか思えなかったのです。
 空から降ってきて女性を襲い、また空を飛んで消える。
 バネ足ジャック以外に誰がいるでしょう?
 それが常識となって語られました。新聞は連日、大きく見出しに書き立てました。
 『バネ足ジャック、新たなる犯行!』
 『飛び跳ねる恐怖、ついに殺人へ!』
 『右脚はなんのために? バネ足ジャックは食人鬼か?」
 『凶行バネ足ジャック! 気鋭の犯罪学者が次の犯行を予測する!』
 『立てよ、市民! これ以上の凶行を許すな! 死刑権解放同盟代表ブリアン・オニール氏、バネ足ジャックの首に賞金を懸ける!』
 センセーショナルな見出しが並び、警備会社は自社の優秀さを知らしめるチャンスとばかりにそれぞれ専門のハンター・チームを作り、バネ足ジャック狩りを開始しました。賞金稼ぎたちも絶好の稼ぎどきと色めき立ちました。都中のすべてが『バネ足ジャック憎し!』の色に染まっていたのです。
 えっ?
 それで結局、バネ足ジャックすなわちケネス・シーウァースの犯行だったのか? ですか。
 ふふ。それはどうでしょう。ここではそう思ったひとりの男がいた、とだけ申しておきましょう。
 そう。その人物、ジャック・ロウは怒りに燃えてケネス・シーヴァース宅を訪問することとなったのです。
 「てめえ! ついにやりやがったな」
 玄関を蹴破って住宅内に突入したジャックは線の細い芸術家タイプの青年の襟首をつかみあげ、唾を飛ばして怒鳴りました。
 「脅かすだけじゃ飽き足らず、ついに殺しまてしやがって! もう甘い顔はしねえぞ。言え! 切り取った脚はどこへやった!」
 そのときのジャックの形相ときたら百戦錬磨の荒事師でさえ恐怖にふるえ、失禁するほどのものだったと伝えられています。ところが、いかにも女装の似合いそうな美青年はたじろぐでもなく、平然と鼻を鳴らしただけでした。
 『あの野郎、ひ弱なのは見た目だけ、弱気なのは女に対してだけ、だったよ』
 とは、ジャックが後に、ケニーに関して懐かしげに語ったことでございます。
 ケニーはジャックの腕をつかむと、その細い腕からは想像もつかない力でジャックの腕を押しのけました。冷たい視線で言いました。
 「おれがこの殺人事件の犯人だと言うのか?」
 「他に誰がいる?」
 「どんな証拠があって言っている? 証拠もなしに決めつけているんだったら、覚悟しろよ。名誉毀損でこの場で撃ち殺してやる」
 「ふん。『証拠』、『証拠』と言いたてるのは犯罪者の自衛手段だぜ」
 「なんだと?」
 「いいか、ケニー。霧と怪奇の都警察署長、この暴れん坊ジャックを甘く見るなよ。この一月あまりの間、昼寝して過ごしていたわけじゃねえんだ。お前のことは調べさせてもらったぜ。てめえ、あのジェニーって幼なじみに惚れてたんだろ?」
 「………」
 「ところが、ジェニーはアランって男とくっついちまった。それがくやしくて憂さ晴らしに女を脅してまわっていた。そして、とうとうジェニーとアランは婚約した。聞いたぜ。この九月には挙式の予定だって言うじゃねえか。裏切られたと思ったんだろう? そして、無関係の女にその恨みをぶつけた……」
 ジャックのその一言にケニーはすさまじいまでの怒りを吹きあげました。
 『目は釣りあがり、眼球には稲妻がはじけ、ギロチンのような音をたてて歯と歯が噛み合った……』
 と、一連の事件を取材した書籍には記されております。
 ケニーの腕が伸び、ジャックの襟首をしめあげました。
 「きさま……このケネス・シーヴァースがそんなセコいクズ野郎だと思ってるのか?」
 「ちがうってのかよ?」
 ジャックも再びケニーの襟首をつかみました。ふたりの男は互いに相手の襟首をつかみあげ、額をぶつけ、睨み合いました。目を釣りあげ、歯を食いしばり、怒りに満ちた形相で。
 それはどれほど恐ろしい光景だったことでしょう。ジャックの横で展開を見守っていたビリーがさすがに息を呑みました。
 ふたりの男は身長ではほぼ互角。体の幅と厚みではジャックのほうがはるかに勝る。盛り上がった筋肉の量も比較になりません。おそらく、体重差は四〇㎏にもなることでしょう。格闘すればケニーは一撃でジャックに打ち倒されるはず。ですが、そのとき、そのふたりの男はともに怒りを吹き上げ、互角ににらみあっていたのです。
 ジャックは文字通り目の前にあるケニーの目をにらみながら言いました。
 「てめえはひとり暮らし。人付き合いもほとんどねえ。つまり、誰にも知られることなく好きなときに家を出て、好きなところに行けるってわけだ。殺人犯には理想的な環境だよな」
 「………」
 ふいに、ケニーの目から怒りが消えました。突然、ジャックに対する興味を失ったようだったと言います。お互いの手を振り払い、距離をとると、それまでとは打って変わって冷静な口調で言いました。
 「仮におれが殺人者だとして……それがなんだ?」
 「なんだと?」
 「この霧と怪奇の都では死刑権は『万人に解放された権利』だ。殺したのがおれだとしてもそれはただ、自分の権利を行使したにすぎない。警察の出る幕ではない」
 「ふざけんな! 市民の安全を守のは警察の仕事だ。人殺しを野放しにしておけるか」
 「死刑は殺人ではない」
 ケニーはきっぱりと言いました。
 「総市民選挙でそう認められた。一〇年に一度の更新選挙でも支持派が圧倒的勝利をおさめつづけている。きさまは民意に逆らうわけか?」
 「……おれは反対票を投じたんだ」
 「つまり、民主主義に参加したわけだ」
 ケニーは露骨なまでのあざけりの口調で言いました。
 「だったら、選挙結果には従わなければな。そうでなくてどうして、自分が勝ったときに他人に対して『選挙結果に従え』と言えるんだ? それともきさまは、いつでもどこでも自分が正しい、万人は自分に従うべきだと考える最低の独裁野郎か?」
 「ぐっ……」
 ジャックは言葉につまりました。
 ケニーはそんなジャックを見下しました。
 ジャックは歯軋りしました。顔中に脂汗が浮いたと言われています。
 『民主主義』を振りかざし、自分を正当化するケニーの態度をジャックは心から憎んだのです。右腕が懐に伸び、ホルスターにおさめられた銃をつかんでいました。それはすべて、無意識の動作だったと言います。銃のずしりとした感触がジャックに冷静さを取り戻させました。
 ――ここでこいつを殺すことはできる。だが、それじゃあ死刑権解放同盟と同じだ。やつらと同じことはできねえ。
 そう思ったそうです。ですが、すぐに、
 ――本当にそうか?
 そうささやき返す声が聞こえたのも事実。
 ――本当にそうなのか? 目の前に殺人者がいる。放っておけばまた人を殺すかも知れねえ。それがわかっているのに証拠がないからといって生かしておくのが正しいことなのか? 証拠なんぞ無視して撃ち殺して市民の安全を守るべきじゃないのか?
 その思いはすさまじい欲求となってジャックの体内を駆け巡りました。血液が沸騰し、高速で血管を走り抜け、心臓がドラムのように鳴り響くのがはっきり感じられたと言います。右腕が銃を引き抜こうとしました。それもまた無意識の動作。それだけに自分の意志で止めようのない行動。その寸前――。
 ――いや、やはりだめだ。
 ジャックは必死の思いで踏みとどまったのです。
 たしかに――。
 死刑権が解放されて以来、社会的な不正は減った。不正をすればいつ誰に殺されるかわからない。そんな情況で目先の利益に走る人間がどれだけいる? お行儀よくなって当然だ。その意味では死刑権解放同盟は正しかったと言える。
 だが、その代償はどうだ?
 五歳児でさえ銃を持ち歩き、小学校では殺人訓練が行なわれる。人々は要塞化した家に立てこもり、些細ないさかいから子供同士が殺しあい、他人が恐くて友だちもろくに作れない。
 おれはそんな世のなかなんざごめんだ。である以上、そんな世の中を作った死刑権解放同盟と同じ行動をとるわけには行かない。
 それがジャックの結論でした。
 ――おれは『警察』として、あくまでも『警察』として行動する。犯人を『殺す』ためではなく、証拠に基づいて『逮捕』するために行動するんだ。
 ジャックは必死に自分に言い聞かせたと言います。銃から手をはなしました。ケニーを睨みつけ、ゆっくりと告げたのです。
 「いいか。おれはかならず証拠をつかんでやる。そして、きさまをブタ箱にぶち込んでやる。忘れるなよ。おれは暴れん坊ジャックなんだからな」
 そのジャックの宣言に対して、ケニーは冷淡に鼻を鳴らしただけでした。
 「行くぞ、ビリー!」
 一声あげてジャックは身を翻しました。ビリーを従えてケニーの家を後にしました。外に出たところでビリーが話しかけました。
 「証拠をつかんで、それでどうする?」
 「………」
 「彼の言ったことは本当だ。死刑権が『万人に解放された権利』として認められている以上、何人殺しても『警察』は手を出せないぞ」
 「そんなこたあ、わかってる!」
 ジャックは怒鳴りました。それは明らかな八つ当りであって、ビリーにしてみれば迷惑この上ないものでした。ですが、その怒鳴り声にははかり知れないやりきれなさを感じたそうです。彼女はとてもジャックを責める気にはなれませんでした。
 ジャックは一言、一言、噛みしめるように言いました。
 「だが、市民の安全を守るのは警察の役目だ。そいつだけはゆずれねえ。たとえ、世界がどう変わろうともな」
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