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二三章

教会は惨劇に

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 結婚式は市街地の外れ、森に囲まれた小さな教会で行なわれていました。ドームの上に広がる青い空のもと、教会の鐘が鳴り、白いハトが飛びかい、上品で清楚な服装に身を包んだ人々が穏やかな笑みを浮かべて集っています。
 教会のなかでは式はまさにクライマックス。純白のウエディング・ドレスを身にまとったジェニーと、やはり、白い正装に身を包んだアランとが、神父の前で永遠の愛を誓いあっている最中でした。
 人々がふたりに向ける視線は深い愛と穏やかな祝福。敬虔な眼差しに照らされたジェニーは純白のドレスをよりいっそう輝かせ、夜を照らす白銀の月のように清楚に、美しく、輝いておりました。
 このときばかりは世界は愛とやさしさと共感のみで作られているように見えました。悪意や敵意、憎悪、狭量などはどこにも存在しないように思われたのです。
 誓いの言葉が終わり、指輪が交換されました。誓いの口づけの番となりました。人々のやさしいまなざしに包まれながら、ジェニーは頬をうっすらと赤く染めて愛する男性と口づけをかわしました。
 教会内は拍手に包まれました。
 ジェニーの父親はおいおい泣いています。母親はその肩をそっと抱きかかえながら、やはり幸せそうに泣いていました。そこにはまぎれもない、人生でもっとも幸福な儀式があったのです。
 ふたりは手にてをとって歩き出しました。ウエディング・ロードの上を、新しい世界、ふたりで渡っていく世界に向けて。
 教会の外では集まった人々が新郎新婦の登場はいまか、いまかと子供のように胸をワクワクさせながら待ち焦がれています。いまばかりはどんな感情的なすれっからしも皮肉屋の心を忘れ、甘くて純粋な幸福観に芯までつかっていました。
 教会のドアが開きました。人々の表情が期待に輝きます。主役のふたりが姿を現わしました。歓喜が爆発しました。拍手が鳴り響き、祝福の言葉があちこちから降りそそぎます。熱狂的なその騒ぎにジェニーは身をまるめてくすぐったそうに、それでもとても幸福そうに笑いました。その笑顔はどんなにすぐれた画家でも決して再現できないだろう輝きに包まれておりました。
 その様子を少しはなれた建物の上から、ビリーを従えたジャックが双眼鏡で監視していました。丸いレンズのなかに浮かび上がるウエディング・ドレス姿のジェニーを見ながら、ジャックはくやしさいっぱいに歯軋りしておりました。
 「くっそー、きれいだなあ、美人だなあ、しかも、あんなに幸せそうに笑って……。くぅ~、おれにもあんな嫁さんが来てくれたらなあ……」
 思わず本音をもらすジャックに対し、ビリーが冷ややかに言いました。
 「なんだ。君は結婚に憧れがあるのか?」
 「憧れっていうか……なんだよ、お前はどうなんだ。普通、結婚式を見て『いいなあ』と思うのは女だろ」
 「あいにく、私は色恋沙汰には興味がなくてな」
 「つまんねえ女だな」
 「放っておいてもらおう。それより今日は仕事で来ているのだ。覗きにきているわけではないぞ。それを忘れないことだ」
 「わかってるよ、そんなこたあ」
 少々バツが悪そうに返事をしてジャックは携帯端末を取り出しました。各所に配置している新警官たちと連絡を取り合います。現在のところ、不審な人物は見かけられていませんでした。
 「ケニー……いや、バネ足ジャックらしき姿は見えないか? そうか。見当らないか。だが、油断するなよ。やつはかならず現われる。出たらすぐ、おれに知らせろ」
 通信機を切るとビリーがじっと見つめておりました。
 「なんだ?」
 「君はバネ足ジャックがかならずくると確信しているようだな」
 「当たり前だ。あいつあ惚れてる女を守らないような骨なしじゃねえ。かならずジェニーを守るためにやってくる」
 「ずいぶんと信頼しているな。喧嘩している間に友情が芽生えたか?」
 「バ、バカ野郎。そんなんじゃねえよ」
 ジャックはそう言ってそっぽを向きましたが、その頬にはしっかりと朱が差していたそうでございます。
 「……だいたい、あの野郎、水くせえってんだよ。目的は同じなんだから堂々と出てこいってんだ」
 ジャックがそう呟いたのは、まさか聞かれるとは思わなかったからでありましょう。ですが、ビリーはしっかりとその独り言を聞いていたのでございます。
 「ふむふむ。そういうわけか」
 「わあっ!」
 「友が自分を頼ってくれないことに拗ねているわけだ。君らしくてかわいいぞ」
 「バ、バカ野郎! そんなこと言ってる場合か、さっさと警備に戻れ!」
 ジャックは耳まで真っ赤にしてそう叫ぶと、結婚式場の監視を再開しました。
 ――いつでも来やがれ。
 精神のスイッチを猟犬モードに切り替えて、ジャックは心に呟きます。
 ――あんなきれいな花嫁には絶対に手出しはさせねえ。警察の手でとっ捕まえてやる。
 それは単に一連続殺人事件の解決ではなく、この都そのものを変える第一歩になるはずでした。
 ジェニーとアランは教会の階段を降りて人々の群れのなかに進みました。ジェニーが笑顔のまま人々に背を向けます。まわりを取り囲む女性たちから期待の声が上がりました。
 ジェニーの右手が高々と挙がりました。手にしたブーケが空高く投げられました。抜けるような青空を背景に、くるくると回転しながら花束が舞います。落ちてくるその花束を手にしようと、女性たちが競って腕を伸ばします。ですが――。
 そのブーケをつかんだのは女性たちではなかったのです。つかんだのはこの場にはあまりにも不似合いな手。不似合いな服装と不似合いな雰囲気をもつ人物。濃い口髭に顎髭、シャツに色の濃いジャケット、ベストにズボン、黒いスカーフに黒いフェルト帽。そして――。
 右手には陽光を浴びて白銀に輝く一本のメス。
 切り裂きジャック。
 教会は悲鳴に包まれました。幸せな笑顔が引きつった恐怖の表情に変わりました。暗黒の向こうから悪意と敵意、憎悪が押しよせてきて、愛や、やさしさや、共感のすべてを押しながし、ひとつの世界を争いに染めあげました。
 「出たな、切り裂きジャック!」
 「ジェニーに手は出させねえ!」
 大君ブリアンが、アラン・ヴォーンが口々に叫びました。アランは懐から巨大なマグナム銃を引きぬき、ジェニーをかばって前に立ちはだかりました。銃を両腕でかまえ、敵の眉間に狙いを定めました。
 大君ブリアンが配下の私兵たちに指示を飛ばしました。彼らは手にてにライフルをもち、逃げ出す人々に代わって教会前の広場に押しよせました。
 切り裂きジャックが笑いました。おかしそうに、うれしそうに。そして、少しだけ悲しそうに。
 私兵たちのライフルが一斉に向けられました。
 切り裂きジャックは速すぎました。ヒョウのように跳躍すると私兵たちのなかに躍り込んだのです。殴り、蹴り、投げ飛ばし、私兵たちを蹴散らしました。
 接近されてしまえばライフルなど役に立つはずもありません。へたに発砲すれば切り裂きジャックではなく、仲間を撃ち殺すことになる。彼らはそれをわきまえるだけの冷静さを失ってはいませんでした。ですから、誰ひとりとして発砲したりはしませんでした。その代わり、銃を逆さにもち、ライフルを殴打用の武器に変えて殴りかかりました。彼らは勇敢でした。勇敢で使命感に燃えていました。都の治安は市民自身の手で守る。その思いが心の底まで満ちみちていました。その思いをエネルギーに切り裂きジャックに挑みかかります。ですが――。
 切り裂きジャックは強すぎました。
 殺到する私兵たちを殴り飛ばし、蹴り飛ばし、無人の野を行くがごとく行進する。神聖たるべき広場は私兵たちの血で染まり、鐘の音は骨の折れる音にかき消されました。ちぎれた手足が飛びかい、地面に叩きつけられて首の曲がった死体が転がりました。
 「ええい、なにをしておる! 死刑権解放同盟の名誉にかけてそやつを殺せ!」
 大君ブリアンが叫びます。
 その眼前に切り裂きジャックが現われました。ブリアンの顔が驚愕に強ばりました。その顔面を切り裂きジャックが殴りつけました。
 霧と怪奇の都を支配する影響力も、数千の私兵を従える権力も、死刑権解放に対する揺らぐことなき信念も、この怪人の前にはまったくの無力でした。皇帝髭を生やし、山高帽をかぶった顔が熟れすぎたトマトのようにつぶれました。真っ赤な血が吹き出し、顔が破裂しました。首から上を失った体が地面に倒れました。大君ブリアンは死にました。
 再び――。
 切り裂きジャックが笑いました。
 高らかに、誇り高く、己れの正義を遂行するものだけがもつ独特の高揚感を込めた笑い。その笑声に私兵たちの動きがとまりました。彼らにはわかったのです。切り裂きジャックが揺らぐことなき正義の念をもって行動していることが。同じく正義のために戦う戦士だからこそ、はっきりとそのことを感じ取ったのです。
 力なき正義は無力。
 正義なき力は暴力。
 そして――。
 正義ある力は殺戮。
 その現実を思い知らされ、私兵たちは自分の正義が崩れていくのを感じていました。正義に対する信仰が崩れたとき、この恐怖の殺人鬼に対抗する勇気は失われていたのです。
 切り裂きジャックがジェニーを見ました。笑いました。誰もがそう思いました。濃い髭と目深にかぶった帽子に隠された顔の奥で、切り裂きジャックはたしかに笑っていたのです。
 いまなお、ライフルを手にした数百の私兵たちに囲まれながら、切り裂きジャックは無人の野を行くがごとく、花嫁に近づいていきました。
 ゆっくりと、一歩いっぽ。あわてはしない。駆けもしない。堂々と歩いていきます。まるで『自分こそが真の花婿である』と言わんばかりに。
 誰も動けませんでした。凍りついたように立ち尽くしていました。恐怖に怯えた表情で目の前を怪人が通り過ぎるのを見つめていたのです。
 ただひとり、動き得たものがいました。アランです。アランはマグナム銃を両手に構え、切り裂きジャックめがけて走りました。ジェニーが叫びました。
 「やめて! もういい、もういいの、そいつの狙いはあたしよ、あたしさえついていけば……!」
 「馬鹿野郎、とっとと逃げろ!」
 アランは叫びました。切り裂きジャックめがけて駆けていきます。ジェニーはとめるために追い掛けようとしました。純白のウエディング・ドレスに包まれた花嫁の体を両親が抱きとめ、教会のなかに連れ込もうとします。ジェニーは腕を伸ばし、『やめて! やめて!』と叫びつづけました。
 アランは切り裂きジャックの眼前に飛び出しました。立ちどまりました。必死の形相で銃を構えました。切り裂きジャックが走りました。アランめがけて。その頭めがけてアランが発砲しました。凶猛な殺傷力を秘めたマグナム弾が大気を裂いて飛んでいきます。切り裂きジャックは身を屈めました。銃弾は怪人の頭の上を飛んで後ろにいた私兵を撃ち抜きました。
 切り裂きジャックは低い姿勢のまま砲弾のようにアランに襲いかかりました。懐に飛び込み、斜め上に向かって繰り出された拳がアランの腹をえぐりました。アランの体が『へ』の字に曲がりました。後方に投げ飛ばされ、一回転して地面に叩きつけられました。
 切り裂きジャックが跳びました。高く、高く、空高く。放物線を描いて教会の扉を打ち破り、飛び散った木片を従えながらなかに侵入しました。
 参列者の顔が恐怖に歪みました。
 ジェニーの父親が娘を守ろうと両腕を広げて怪人の前に立ちはだかりました。いまにも心臓発作を起こしそうなその形相は、死を覚悟してのものというより、死を忘れるほどの必死さゆえのものでした。
 切り裂きジャックが着地しました。散らばった木片が音を立てて散乱しました。ふいに、切り裂きジャックの全身がふくらみました。内側から風が吹いたように服が舞い上がったのです。周囲を漂う木粉が気流の流れに乗って飛びました。
 次々と参列者が倒れていきました。ジェニーもまた。彼女にはわかっていました。昨夜、襲われたときと同じ。無色無臭の麻酔ガスが使われたのだと。意識が遠のき、体が倒れていくのを感じながら、ジェニーはむしろホ ッとしていたと言います。
 『「これでいい」。そう思ったわ。自分はこのまま殺されるだろう。でも、目的さえ達すればいくら殺戮の怪物でも他の人にまで手は出さないはず。自分の大切な人たち、アランや両親、同僚、友人たちは殺されずにすむ。彼らの犠牲の上に生き延びるなんて耐えられない。そんなことになったら自分は一生、残された生命を呪われたものと感じ、限りない罰を受けることだけを望むようになるでしょう。それぐらいなら……』
 ――神よ、あなたのもとに……。
 意識を失う寸前、むしろ、満ち足りた幸福観すら感じていたとジェニーは後に語っています。
 ――ケニーがここにいなくてよかった。
 最後にそう思いながら。
 純白のウエディング・ドレスに包まれたままくずおれたその肢体に、切り裂きジャックが近づきました。身を屈めました。ジェニーの体を両手で抱き上げました。きびすを返しました。教会の扉をゆっくりとくぐりました。新婦をいだいて行進する新郎の姿そのままに。そして――。
 高々と飛び上がりました。
 わずか五分の惨劇でした。
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