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第二部 絆ぐ伝説
第一話六章 新しい名を
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少年が目を覚ましたとき、真っ先に飛び込んできたのは〝詩姫〟の顔だった。
船室のベッドに寝かされている少年の顔を、非の打ち所のない美しい顔に心配そうな表情を浮かべてのぞき込んでいた。
「よかった。目を覚ましたのね」
そう言う顔がわずかにほころんだ。
そう言えば、どんにわずかであっても〝詩姫〟が笑うところを見たのはいまがはじめてだった。
「あなたは三日も気を失っていたのよ」
「三日も……」
〝詩姫〟にそう言われて――。
少年は反射的に身を起こそうとした。
駄目だった。体が動かない、と言うより、体そのものがなくなっているような感覚だった。まるで、魂だけが肉体からはなれてしまっているような、そんな感覚だったのだ。
「まだ無理よ。あれだけ痛めつけられたんだもの。動けるはずがないわ」
そう言ったあと、ふいに〝詩姫〟の表情と口調が責めるようなものにかわった。
「どうして、あんな無茶をしたの? よりによって〝鬼〟に挑むなんて。勝てるはずがないことぐらい、わかっていたはずでしょう?」
「〝鬼〟だから、挑みたかったんだ」
「〝鬼〟だから?」
「そう。〝鬼〟に挑むことが出来ればきっと、この世のどんなことにも挑みことができる。そう思ったんだ。だから……どうしても、挑みたかった」
「………」
「そう言えば、あの客船はどうなったの?」
「だいじょうぶ。〝鬼〟が助けたわ」
「〝鬼〟が助けた?」
少年の言葉に――。
〝詩姫〟は力強くうなずいた。
「ええ。覚えていない? あなたがいくら殴られても、何度倒されても向かっていくものだから、とうとう〝鬼〟が根負けしたのよ」
「根負け……」
少年の意識のなかに記憶が蘇ってきた。
――そうだ。あのとき、僕は〝鬼〟に挑みつづけたんだ。そして……。
おぼろげながらその光景が浮かんでくる。
〝鬼〟は困ったように頭などをかきながら、それでもたしかにこう言ったのだ。
「チッ、わかったよ。おれの負けだ。助けてやるよ」
〝鬼〟はそう言って、いかにも『仕方がない』といった様子で海賊たちのもとに向かっていった……。
「あなたはそれを見て気絶したのよ。〝鬼〟はさすがだったわ。あっという間に海賊たちを退治して客船を助けた。生き残りの船員と乗客たちは皆、この船に移っている。いまは、皆を国に帰すために港に向かっているところよ。もちろん、被害は出たわけだけど……あなたが〝鬼〟を負かさなかったら多分、ひとりも生き残れなかった。あなたは大勢の人の生命を救った。うんと自慢していいわよ」
いつだって無慈悲なまでに冷静な〝詩姫〟にはめずらしく、その声には嬉しそうな響きがあった。
「僕は……僕は〝鬼〟に勝ったの?」
「そう。あなたは勝ったのよ」
――勝った。僕は〝鬼〟に勝ったんだ。
ギュ、と、少年は拳を握りしめようとした。
それすらできなかった。いくら意思を込めてみても体がまったく反応しない。散々にぶちのめされ、痛めつけられていることはわかっていた。それなのに、痛みはまったく感じない。理由はすぐにわかった。あまりにも痛めつけられたせいで、体という体の感覚が麻痺しているのだ。
体をまったく動かせないのもそのせい。思えば、〝鬼〟と戦ってすぐに痛みなど感じなくなっていた。それぐらい、〝鬼〟の一撃いちげきは重く、激しいものだった。拳一発で相手の神経を麻痺させてしまうほどに。
――それでも僕はあのときたしかに、〝鬼〟を従えたんだ。
〝詩姫〟が顔を近づけた。少年の視界いっぱいにその美しい顔が映った。ふいに――。
〝詩姫〟は少年の唇に口づけした。
年端もいかない少年にとってはじめての体験。体の、いや、魂の奥底に熱いものが生まれ、渦巻くのを感じた瞬間だった。
歌姫は顔をはなした。静かに言った。
「おめでとう。立派だったわ。わたしの知る限り、あなたは〝鬼〟を従えたただひとりの人間よ」
少年が全身を切り刻まれるような痛みに襲われたのは翌日からのことだった。神経の麻痺が治ったことで痛覚が戻ってきたのだ。
一歩、歩けば手足がちぎれ、
二歩、歩けば全身がさいの目に切り刻まれる。
そんな痛み。
〝詩姫〟は少年が気を失っている間、必死に治療してくれていたのだが三日や四日で治るほど〝鬼〟の痛めつけ方は半端なものではなかった。
それでも、少年は船での自分の仕事をこなした。全身を襲う痛みに歯を食いしばって耐えながら掃除をし、洗濯をし、食事の用意をした。
誰に言われたわけでもない。
強制されているわけでもない。
自分自身に対する意地として行った。
海賊から助けられた人々は、巨大な船のなかで生きて帰れる喜びを噛みしめながら思いおもいに過ごしていた。
〝鬼〟は相変わらず気ままに過ごし、夜な夜な自分の悪行を唄う〝詩姫〟の歌を聞きながら肉を食い、酒を飲んでいた。
いくらかの時が過ぎて、少年の体もようやく痛みが引いた。その頃には乗り移っていた人々も全員、国に帰ることができていた。
――もう、この船でやるべきことは終わった。
少年はそう思った。
その日。
いつものように〝鬼〟は甲板で焚き火を焚いて肉を食い、酒を飲んでいた。〝詩姫〟は〝鬼〟の悪行を唄いあげていた。少年は甲板の端にちょこんと座り込み、その光景を眺めていた。そして、〝詩姫〟の歌が終わり、〝鬼〟が高いびきをかいて寝転んだ頃、少年は〝詩姫〟に言った。
「いままでありがとう。僕はこの船を降りる」
「船を降りる?」
いぶかしげにそう繰り返す〝詩姫〟に向かい、少年はコクンと頷いた。それは決して揺らぐことのない決意を込めた仕種だった。
「降りるって……どこに降りるの? この船はいま、陸から遠くはなれている。まわりは海だらけなのよ?」
「だから、海に飛び込む。海に飛び込んで、どこかの陸に着くまで泳ぎつづける」
「正気なの⁉ そんなこと、できるわけがないじゃない」
「大丈夫。僕にはこのマークスの服がある」
少年はマークスの船長服の襟をギュッとつかんでそう言った。
「マークス?」
「そう。この服は伝説の海賊王、騎士マークスの服だ。この服は僕を守ってくれている。〝鬼〟と戦ったときにはっきりとそう感じたんだ。〝鬼〟にあれだけ痛めつけられても生きていられたのはこの服のおかげだよ。だから、大丈夫。このまま海に飛び込んでもきっと、この服が僕を陸地まで運んでくれる」
そう言ってから少年は自分の体験を語った。
マークスの幽霊船。
千年の時を超えてハープを奏でつづける天命の巫女。
そして、亡道の司と亡道の世界。
「そんなことが……」
〝詩姫〟は目を丸くして少年の話を聞いていた。ちょっと前なら決して信じはしなかっただろう。しかし、いまなら、〝鬼〟に向かってあくまでも挑みつづけた少年の姿を見たいまなら信じる気になれた。
――こんな、自分を偉く見せようとするような嘘をつくわけがない。
そう信じられた。
「僕は過去の戦いを見て誓った。マークスやその他の大勢の人たち。その人たちがすべてを懸けて守ったこの世界を今度は僕が守るって。天命の巫女さまを人間に戻してみせるって。そのために、僕はマークスⅡを名乗ることにした……」
そう言った後、少年の顔には歳に似合わない痛切な後悔の念が滲み出た。
「……できると思っていたんだ。あの戦いを見ていたから。まるで、自分が実際にその戦いを経験した歴戦の勇士みたいに思っていた。でも、ちがった。現実の僕は戦場に出たら怖くなってなにもできないただの子供だった。
なんで、マークスは僕を助けてくれなかったんだ。
そう思っていた。でも、もうわかる。いまの僕はマークスⅡを名乗る資格も、マークスに助けてもらう資格もない。だから、その資格を手に入れる。そのために、この船を降りる。今度はどこかの海賊の手下なんかじゃない。この腕で、この足で、この海を渡る。そして、海賊王になる」
「海賊王?」
少年は力強くうなずいた。
「そうだ。〝詩姫〟。君は亡道の司との戦いを聞いたことがあるかい?」
「……いいえ。聞いたこともないし、本で読んだこともない」
「僕もだ。おかしいと思わないかい? 全人類の総力を結集した、生き残るための戦い。いくら千年の時がたっているからと言って、そんな出来事が忘れ去られているなんて」
「たしかに……変だと思うけど」
「きっと、こういうことだと思うんだ。人と人の争いがつづくなかで、かつてはたしかにすべての人間がひとつになって戦った過去がある。そんな事実が知られるのは都合が悪い。だから、どの国もその記憶を消し去ったんだって。
だから、僕たちは、僕たちの世界の誰も、亡道の世界のことも、亡道の司との戦いのことも覚えていない。でも……」
少年はキッ、と、目に力を込めた。
「二度目の千年紀は近づいてきている。このままでは人類は亡道の司との戦いを忘れたまま、新しい戦いに突入することになる。そんなことになれば勝ち目なんてない。せっかく、騎士マークスが、一千万にも及ぶ兵士たちが、すべてを懸けて守ったこの世界が失われてしまう。
人と人の争いのせいで。
僕はそんなのはいやだ。あの人たちの守ったこの世界を今度は僕が守っていく。そう誓ったんだ。だから、僕は海賊王になる。すべての海賊を束ね、国と国の戦いを終わらせ、亡道の司との戦いに備える。
そのために世界を旅し、自分を鍛え、仲間を見つける。それができたとき……きっと、マークスはもう一度、僕の前に現れてくれる。きっと、力を貸してくれるようになる。そのときこそ……僕は本当にマークスⅡを名乗るんだ」
そう言い切る少年を前に――。
〝詩姫〟はなんと言っていいかわからなかった。
声をかけることができなかった。少年の名前を知らなかったからだ。名前を知らない相手になにをどう声をかければいいというのだろう?
〝詩姫〟が戸惑っていると少年はニコリと微笑んだ。
それから、〝詩姫〟に言った。
「それで、君に頼みがあるんだ」
「頼み?」
「そう。僕に名前をつけてほしい」
「名前を?」
「そう。マークスⅡを名乗る資格を手に入れるまで、僕が名乗るべき名前を」
「あなたの名前を……わたしがつけていいの?」
「君だからつけてほしいんだ」
その言葉に――。
〝詩姫〟は静かに目を閉じた。
再び目を開いたとき、そこには静かな、しかし、確固たる決意が宿っていた。
「わかったわ。ロウワン。あなたの名前はロウワン」
「ロウワン……」
「わたしの好きだった物語の主人公の名前よ。あなたと同じようになんの変哲もない普通の少年。その普通の少年が勇気と知恵を武器に苦難を乗り越え、自分の国を守っていく。あなたにぴったりの名前だと思うわ」
少年は破顔した。
「ありがとう、〝詩姫〟! ロウワン、僕はいまからロウワンだ! マークスⅡを名乗れるようになるその日まで!」
少年――ロウワンは船縁に近づいた。飛び込もうとした。その寸前で振り返った。〝詩姫〟に語りかけた。
「君は僕が助ける……とは、言わないよ。僕は僕の戦いを貫く。だから、君も君の戦いを貫いて」
その言葉に――。
〝詩姫〟はロウワンの知る限りはじめて、満面の笑みを浮かべた。
「ええ。わかっているわ。必ず、やり遂げる。必ず、わたしの歌で〝鬼〟に良心を植えつけ、自分のしてきたことを後悔させ、苦しませてみせる」
「うん、その意気だ!」
その言葉を残し――。
ロウワンは夜の海に飛び込んだ。
船縁に立ち、ロウワンの飛び込んだあとを見つめる〝詩姫〟。その〝詩姫〟の横にノッソリと巨大な影が立った。
〝鬼〟だった。
「起きていたの」
とは〝詩姫〟は尋ねたりはしなかった。〝鬼〟が本当の意味で眠ったりするような生き物ではないことを〝詩姫〟はとうに知っていた。
「ふふん。ちょっとの間にずいぶんとデッカくなりやがったじゃねえか。行かせてよかったのか? あの姿、けっこう、惚れたんじゃねえのか?」
「わたしの生涯は決まっている。あなたに良心を植えつけ、苦しませる。わたしの人生はそのためにある」
「ふふん、やってみな」
〝鬼〟は本心から期待していると言わんばかりにそう答えた。
「それより、あなたこそ、かの人を行かせてよかったの? 海賊王になってすべての海賊を従えると言うのなら……あなたもそのうちのひとりになる。ロウワンはいつかきっと、あなたの前に立ちはだかる存在になる」
「ふふん。おもしれえじゃねえか。このおれを従えることが出来るかどうか。お手並み拝見ってところだ」
〝鬼〟はそう言って一歩、進み出た。
その唇に野太い笑みを浮かべた。
「餞別だ、くれてやらあっ!」
〝鬼〟は愛用の大刀を思いきり海に向かって放り投げた。
「あばよお~、またあ~なあ~!」
船室のベッドに寝かされている少年の顔を、非の打ち所のない美しい顔に心配そうな表情を浮かべてのぞき込んでいた。
「よかった。目を覚ましたのね」
そう言う顔がわずかにほころんだ。
そう言えば、どんにわずかであっても〝詩姫〟が笑うところを見たのはいまがはじめてだった。
「あなたは三日も気を失っていたのよ」
「三日も……」
〝詩姫〟にそう言われて――。
少年は反射的に身を起こそうとした。
駄目だった。体が動かない、と言うより、体そのものがなくなっているような感覚だった。まるで、魂だけが肉体からはなれてしまっているような、そんな感覚だったのだ。
「まだ無理よ。あれだけ痛めつけられたんだもの。動けるはずがないわ」
そう言ったあと、ふいに〝詩姫〟の表情と口調が責めるようなものにかわった。
「どうして、あんな無茶をしたの? よりによって〝鬼〟に挑むなんて。勝てるはずがないことぐらい、わかっていたはずでしょう?」
「〝鬼〟だから、挑みたかったんだ」
「〝鬼〟だから?」
「そう。〝鬼〟に挑むことが出来ればきっと、この世のどんなことにも挑みことができる。そう思ったんだ。だから……どうしても、挑みたかった」
「………」
「そう言えば、あの客船はどうなったの?」
「だいじょうぶ。〝鬼〟が助けたわ」
「〝鬼〟が助けた?」
少年の言葉に――。
〝詩姫〟は力強くうなずいた。
「ええ。覚えていない? あなたがいくら殴られても、何度倒されても向かっていくものだから、とうとう〝鬼〟が根負けしたのよ」
「根負け……」
少年の意識のなかに記憶が蘇ってきた。
――そうだ。あのとき、僕は〝鬼〟に挑みつづけたんだ。そして……。
おぼろげながらその光景が浮かんでくる。
〝鬼〟は困ったように頭などをかきながら、それでもたしかにこう言ったのだ。
「チッ、わかったよ。おれの負けだ。助けてやるよ」
〝鬼〟はそう言って、いかにも『仕方がない』といった様子で海賊たちのもとに向かっていった……。
「あなたはそれを見て気絶したのよ。〝鬼〟はさすがだったわ。あっという間に海賊たちを退治して客船を助けた。生き残りの船員と乗客たちは皆、この船に移っている。いまは、皆を国に帰すために港に向かっているところよ。もちろん、被害は出たわけだけど……あなたが〝鬼〟を負かさなかったら多分、ひとりも生き残れなかった。あなたは大勢の人の生命を救った。うんと自慢していいわよ」
いつだって無慈悲なまでに冷静な〝詩姫〟にはめずらしく、その声には嬉しそうな響きがあった。
「僕は……僕は〝鬼〟に勝ったの?」
「そう。あなたは勝ったのよ」
――勝った。僕は〝鬼〟に勝ったんだ。
ギュ、と、少年は拳を握りしめようとした。
それすらできなかった。いくら意思を込めてみても体がまったく反応しない。散々にぶちのめされ、痛めつけられていることはわかっていた。それなのに、痛みはまったく感じない。理由はすぐにわかった。あまりにも痛めつけられたせいで、体という体の感覚が麻痺しているのだ。
体をまったく動かせないのもそのせい。思えば、〝鬼〟と戦ってすぐに痛みなど感じなくなっていた。それぐらい、〝鬼〟の一撃いちげきは重く、激しいものだった。拳一発で相手の神経を麻痺させてしまうほどに。
――それでも僕はあのときたしかに、〝鬼〟を従えたんだ。
〝詩姫〟が顔を近づけた。少年の視界いっぱいにその美しい顔が映った。ふいに――。
〝詩姫〟は少年の唇に口づけした。
年端もいかない少年にとってはじめての体験。体の、いや、魂の奥底に熱いものが生まれ、渦巻くのを感じた瞬間だった。
歌姫は顔をはなした。静かに言った。
「おめでとう。立派だったわ。わたしの知る限り、あなたは〝鬼〟を従えたただひとりの人間よ」
少年が全身を切り刻まれるような痛みに襲われたのは翌日からのことだった。神経の麻痺が治ったことで痛覚が戻ってきたのだ。
一歩、歩けば手足がちぎれ、
二歩、歩けば全身がさいの目に切り刻まれる。
そんな痛み。
〝詩姫〟は少年が気を失っている間、必死に治療してくれていたのだが三日や四日で治るほど〝鬼〟の痛めつけ方は半端なものではなかった。
それでも、少年は船での自分の仕事をこなした。全身を襲う痛みに歯を食いしばって耐えながら掃除をし、洗濯をし、食事の用意をした。
誰に言われたわけでもない。
強制されているわけでもない。
自分自身に対する意地として行った。
海賊から助けられた人々は、巨大な船のなかで生きて帰れる喜びを噛みしめながら思いおもいに過ごしていた。
〝鬼〟は相変わらず気ままに過ごし、夜な夜な自分の悪行を唄う〝詩姫〟の歌を聞きながら肉を食い、酒を飲んでいた。
いくらかの時が過ぎて、少年の体もようやく痛みが引いた。その頃には乗り移っていた人々も全員、国に帰ることができていた。
――もう、この船でやるべきことは終わった。
少年はそう思った。
その日。
いつものように〝鬼〟は甲板で焚き火を焚いて肉を食い、酒を飲んでいた。〝詩姫〟は〝鬼〟の悪行を唄いあげていた。少年は甲板の端にちょこんと座り込み、その光景を眺めていた。そして、〝詩姫〟の歌が終わり、〝鬼〟が高いびきをかいて寝転んだ頃、少年は〝詩姫〟に言った。
「いままでありがとう。僕はこの船を降りる」
「船を降りる?」
いぶかしげにそう繰り返す〝詩姫〟に向かい、少年はコクンと頷いた。それは決して揺らぐことのない決意を込めた仕種だった。
「降りるって……どこに降りるの? この船はいま、陸から遠くはなれている。まわりは海だらけなのよ?」
「だから、海に飛び込む。海に飛び込んで、どこかの陸に着くまで泳ぎつづける」
「正気なの⁉ そんなこと、できるわけがないじゃない」
「大丈夫。僕にはこのマークスの服がある」
少年はマークスの船長服の襟をギュッとつかんでそう言った。
「マークス?」
「そう。この服は伝説の海賊王、騎士マークスの服だ。この服は僕を守ってくれている。〝鬼〟と戦ったときにはっきりとそう感じたんだ。〝鬼〟にあれだけ痛めつけられても生きていられたのはこの服のおかげだよ。だから、大丈夫。このまま海に飛び込んでもきっと、この服が僕を陸地まで運んでくれる」
そう言ってから少年は自分の体験を語った。
マークスの幽霊船。
千年の時を超えてハープを奏でつづける天命の巫女。
そして、亡道の司と亡道の世界。
「そんなことが……」
〝詩姫〟は目を丸くして少年の話を聞いていた。ちょっと前なら決して信じはしなかっただろう。しかし、いまなら、〝鬼〟に向かってあくまでも挑みつづけた少年の姿を見たいまなら信じる気になれた。
――こんな、自分を偉く見せようとするような嘘をつくわけがない。
そう信じられた。
「僕は過去の戦いを見て誓った。マークスやその他の大勢の人たち。その人たちがすべてを懸けて守ったこの世界を今度は僕が守るって。天命の巫女さまを人間に戻してみせるって。そのために、僕はマークスⅡを名乗ることにした……」
そう言った後、少年の顔には歳に似合わない痛切な後悔の念が滲み出た。
「……できると思っていたんだ。あの戦いを見ていたから。まるで、自分が実際にその戦いを経験した歴戦の勇士みたいに思っていた。でも、ちがった。現実の僕は戦場に出たら怖くなってなにもできないただの子供だった。
なんで、マークスは僕を助けてくれなかったんだ。
そう思っていた。でも、もうわかる。いまの僕はマークスⅡを名乗る資格も、マークスに助けてもらう資格もない。だから、その資格を手に入れる。そのために、この船を降りる。今度はどこかの海賊の手下なんかじゃない。この腕で、この足で、この海を渡る。そして、海賊王になる」
「海賊王?」
少年は力強くうなずいた。
「そうだ。〝詩姫〟。君は亡道の司との戦いを聞いたことがあるかい?」
「……いいえ。聞いたこともないし、本で読んだこともない」
「僕もだ。おかしいと思わないかい? 全人類の総力を結集した、生き残るための戦い。いくら千年の時がたっているからと言って、そんな出来事が忘れ去られているなんて」
「たしかに……変だと思うけど」
「きっと、こういうことだと思うんだ。人と人の争いがつづくなかで、かつてはたしかにすべての人間がひとつになって戦った過去がある。そんな事実が知られるのは都合が悪い。だから、どの国もその記憶を消し去ったんだって。
だから、僕たちは、僕たちの世界の誰も、亡道の世界のことも、亡道の司との戦いのことも覚えていない。でも……」
少年はキッ、と、目に力を込めた。
「二度目の千年紀は近づいてきている。このままでは人類は亡道の司との戦いを忘れたまま、新しい戦いに突入することになる。そんなことになれば勝ち目なんてない。せっかく、騎士マークスが、一千万にも及ぶ兵士たちが、すべてを懸けて守ったこの世界が失われてしまう。
人と人の争いのせいで。
僕はそんなのはいやだ。あの人たちの守ったこの世界を今度は僕が守っていく。そう誓ったんだ。だから、僕は海賊王になる。すべての海賊を束ね、国と国の戦いを終わらせ、亡道の司との戦いに備える。
そのために世界を旅し、自分を鍛え、仲間を見つける。それができたとき……きっと、マークスはもう一度、僕の前に現れてくれる。きっと、力を貸してくれるようになる。そのときこそ……僕は本当にマークスⅡを名乗るんだ」
そう言い切る少年を前に――。
〝詩姫〟はなんと言っていいかわからなかった。
声をかけることができなかった。少年の名前を知らなかったからだ。名前を知らない相手になにをどう声をかければいいというのだろう?
〝詩姫〟が戸惑っていると少年はニコリと微笑んだ。
それから、〝詩姫〟に言った。
「それで、君に頼みがあるんだ」
「頼み?」
「そう。僕に名前をつけてほしい」
「名前を?」
「そう。マークスⅡを名乗る資格を手に入れるまで、僕が名乗るべき名前を」
「あなたの名前を……わたしがつけていいの?」
「君だからつけてほしいんだ」
その言葉に――。
〝詩姫〟は静かに目を閉じた。
再び目を開いたとき、そこには静かな、しかし、確固たる決意が宿っていた。
「わかったわ。ロウワン。あなたの名前はロウワン」
「ロウワン……」
「わたしの好きだった物語の主人公の名前よ。あなたと同じようになんの変哲もない普通の少年。その普通の少年が勇気と知恵を武器に苦難を乗り越え、自分の国を守っていく。あなたにぴったりの名前だと思うわ」
少年は破顔した。
「ありがとう、〝詩姫〟! ロウワン、僕はいまからロウワンだ! マークスⅡを名乗れるようになるその日まで!」
少年――ロウワンは船縁に近づいた。飛び込もうとした。その寸前で振り返った。〝詩姫〟に語りかけた。
「君は僕が助ける……とは、言わないよ。僕は僕の戦いを貫く。だから、君も君の戦いを貫いて」
その言葉に――。
〝詩姫〟はロウワンの知る限りはじめて、満面の笑みを浮かべた。
「ええ。わかっているわ。必ず、やり遂げる。必ず、わたしの歌で〝鬼〟に良心を植えつけ、自分のしてきたことを後悔させ、苦しませてみせる」
「うん、その意気だ!」
その言葉を残し――。
ロウワンは夜の海に飛び込んだ。
船縁に立ち、ロウワンの飛び込んだあとを見つめる〝詩姫〟。その〝詩姫〟の横にノッソリと巨大な影が立った。
〝鬼〟だった。
「起きていたの」
とは〝詩姫〟は尋ねたりはしなかった。〝鬼〟が本当の意味で眠ったりするような生き物ではないことを〝詩姫〟はとうに知っていた。
「ふふん。ちょっとの間にずいぶんとデッカくなりやがったじゃねえか。行かせてよかったのか? あの姿、けっこう、惚れたんじゃねえのか?」
「わたしの生涯は決まっている。あなたに良心を植えつけ、苦しませる。わたしの人生はそのためにある」
「ふふん、やってみな」
〝鬼〟は本心から期待していると言わんばかりにそう答えた。
「それより、あなたこそ、かの人を行かせてよかったの? 海賊王になってすべての海賊を従えると言うのなら……あなたもそのうちのひとりになる。ロウワンはいつかきっと、あなたの前に立ちはだかる存在になる」
「ふふん。おもしれえじゃねえか。このおれを従えることが出来るかどうか。お手並み拝見ってところだ」
〝鬼〟はそう言って一歩、進み出た。
その唇に野太い笑みを浮かべた。
「餞別だ、くれてやらあっ!」
〝鬼〟は愛用の大刀を思いきり海に向かって放り投げた。
「あばよお~、またあ~なあ~!」
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