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第二部 絆ぐ伝説

第一話二一章 支援者たち

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 落ちる。
 落ちていく。
 自分の体が。
 洞窟のなかに広がる湖の水面めがけて。
 そのことがやけにゆっくりに感じられた。自分を吹き飛ばしたうみ雌牛めうしの巨大な体も、波に揺れる『輝きは消えず』号も、まるで絵画のようにとまって見えた。世界のすべてがゆっくりと動いていた。
 ――ああ。死ぬ前に見る光景ってこんな感じなのかな。
 ロウワンはなぜか、そんなことを思った。
 もちろん、実際にはロウワンの体は吹き飛ばされた勢いで、すさまじい速さで水面に叩きつけられていた。
 激突した。
 湖の水面とロウワンの体が。
 その衝撃で水面が押しつぶされた。噴火した。そうとしか言いようのない勢いで水柱が立ち、王冠を思わせる巨大な飛沫が飛んだ。まるで、変形する岩に叩きつけられたようだった。
 「おふっ!」
 口から大量の息がもれた。
 一瞬、呼吸がとまった。
 それだけですんだのはまったく、騎士マークスの船長服のおかげだった。船長服の加護かごがなければあばらの二、三本ではとうていすまない。全身を破壊され、衝撃で死んでいてもおかしくなかった。その意味で――。
 ――死ぬ前に見る光景ってこんな感じなのかな?
 そう思ったロウワンの感想はまちがってはいなかった。
 「ゴホッ、ゲホッ!」
 むせた。
 吐いた。
 口と鼻から大量の水が流れ込んだ。
 その衝撃でロウワンはようやく我に返った。必死に足を動かし、立ち泳ぎする。頭を水面の上に出して飲み込んだ水を吐き出した。それでようやく、頭がすっきりした。
 うみ雌牛めうしを見た。自分を振り飛ばしたその巨体を。
 ドレッドヘアを思わせる絡まりあった長い体毛。その奥からのぞきふたつの目。その輝きが自分を見つめていた。その巨体に比べればあまりにもちっぽけな人間の子どもに過ぎない自分を。
 ――いいぞ。
 ロウワンは思った。
 ほくそ笑んだ。
 感じていたのだ。うみ雌牛めうしは必ず、船よりも自分に注意を向けると。
 なぜ、そう思ったのか。そんなことを聞かれても説明は出来ない。とにかく、そう思った。ひとつには、うみ雌牛めうしの子どもが自分を追ってきたと言うことがある。子どもが自分を追ってくるなら親の方も。
 そう思ったのがひとつの理由なのは確かだった。
 轟ッ!
 波を蹴立ててうみ雌牛めうしが動いた。
 その巨体をちっぽけな人間の子どもめがけて動かした。
 それだけで広大な湖の水という水すべてが揺らいでいるように感じられた。
 「ビーブ、頼んだぞ!」
 ロウワンはそう叫ぶと、力の限りに泳ぎだした。
 湖の奥、岸に向かって。
 自分がうみ雌牛めうしの注意を引き、湖から引き離す。その間にビーブが『輝きは消えず』号に指示して水路を進ませ、海に出させる。
 それが、ロウワンがビーブに語った計画だった。
 ここまでは成功だった。思った通り、うみ雌牛めうしは船よりも自分に注意を向けた。『輝きは消えず』号を放り出して自分を追ってきた。このまま引きつけてやればその間に『輝きは消えず』号は海に出られる。
 『人間の』指示に従うよう作られている天命てんめいせんがサルであるビーブの指示に従うかどうかは微妙なところだったが……それでも、
 ――ビーブならやってくれる!
 ロウワンはそう信じていた。
 この一年、きょうだいのように過ごした相棒のことをロウワンはそれだけ信頼していた。
 泳ぐ、泳ぐ、力の限り。
 その後ろからは波を蹴立てて巨体が迫る。
 必死に逃げるちっぽけな人間と、それを追う巨大な怪物。
 それはまったく、世界中の画家が自分自身の渾身こんしんの力作として残したいと思うような驚異の光景だった。本来であれば――。
 ロウワンが逃げ切れるはずがなかった。自分の体には大きすぎる服を着ている上に、手には自分とそうかわらない重さの大刀たいとうまでもっているのだ。
 泳いで逃げ切れるわけがない。
 と言うより、そもそも泳げるはずがない。大刀たいとうの重さに引きずられ、湖の底に沈んでいるところだ。しかし、服も、大刀たいとうも、ただの服や大刀たいとうではない。
 服には騎士マークスの加護かごが宿っている。
 大刀たいとうには〝鬼〟の力が込められている。
 服はロウワンの体を浮かせ、大刀たいとうはロウワンの体を引っ張る。そのふたつの加護かごに支えられ、ロウワンは必死に泳ぐ。
 ――やっぱりだ。
 ロウワンは泳ぎながら思った。
 ――マークスの服も、〝鬼〟の大刀たいとうも、僕を守ってくれる。力を貸してくれる。でも、無条件でじゃない。僕の決意が強ければつよいほど、マークスの服も、〝鬼〟の大刀たいとうも僕に力を貸してくれる。
 この一年の修行の間、そのことはうすうす感じていた。そして、いま、はっきりと認識した。マークスの船長服も、〝鬼〟の大刀たいとうも、ロウワンの決意と覚悟が強ければつよいほどそれに応じて力を発揮するのだ。
 ロウワンはいま、決死の覚悟で泳いでいる。うみ雌牛めうしを引きつけている。すべてはこの島を出て人の世に戻るため。人と人の争いを収め、亡道もうどう世界せかいとの戦いを終わらせ、天命てんめい巫女みこを人間に戻す、そのために。
 その思いに呼応してマークスの船長服と〝鬼〟の大刀たいとうは込められた力を発揮している。
 もし、ロウワンにそれだけの覚悟がなければどちらも力など貸してくれない。単なるおもりと化してロウワンの体を湖の底深く引きずり込んでいた。
 ――そうとも。僕にはやらなきゃならないことがあるんだ。なんとしてもやり遂げなきゃならないことが。
 その思いでロウワンは泳ぐ。
 泳ぎつづける。
 岸に向かって。
 ――ハルキス先生は洞窟のなかで襲われた。でも、洞窟の外までは追いかけてこなかった。だったら、今回も……。
 洞窟の外に出ればもう追いかけてこないかも知れない!
 その間にきっとビーブが『輝きは消えず』号を海に出してくれる。
 一年前、ロウワンが漂着ひょうちゃくした浜辺へと回してくれる。
 そうなれば、そのまま『輝きは消えず』号に乗り込んで船出できる。人の世に向かって。
 ――そうとも。ビーブなら必ずやってくれる!
 『輝きは消えず』号がいま、どうなっているのか。
 そんなことはいまのロウワンにはわからない。泳ぐことだけに全力を尽くしており、それ以外のことを確認している余力などない。それでも――。
 ロウワンはそう信じていた。
 うみ雌牛めうしの蹴立てる波が全身を襲う。
 水をひとかきするごとに体が上下に運ばれる。まるで、間欠泉によって吹きあげられては地面に落ちるかのように。
 背中からは大量の水が落ちてくる。それはもはや『水』ではなく『水になった石』とでも呼んだ方がいいものだった。
 それぐらいのすさまじい密度で大量の水が降りかかる。普通ならそれだけで水中に叩き込まれ、溺れているところだ。それでも、ロウワンは泳ぎつづける。ふたつの加護かごと、その加護かごを引き出す自分自身の覚悟によって。
 必死に水をかくロウワンの指先。そこに固いものが当たった。
 ――岸だ!
 ロウワンは心に叫んだ。
 ついに、湖の岸にたどり着いたのだ。
 指先に力を込め、全力で水中から体を引きあげる。全身を包む服からどっと水が流れ落ちる。それほどまでに大量の水を吸っていた。
 濡れた服はずっしりと重い。それでも――。
 ロウワンは全力で駆けた。洞窟の出口目指して。
 ザザザァッ!
 なにか巨大なものが水を割って現れる音がした。
 それから、まるで天から落ちる瀑布ばくふのようなすさまじい音。
 水を割る音はうみ雌牛めうしがその巨体を水中から引きあげ、岸に登ったときの音。
 巨大な瀑布ばくふのような音は、絡まりあった長い体毛から水がこぼれ落ちる音。
 うみ雌牛めうしもまた、ロウワンを追って岸にあがったのだ。
 瀑布ばくふの音がする。
 巨大なつちが大地を打つような音がする。
 そして、大地がグラグラ揺れる。
 うみ雌牛めうしの巨体とその重量は、ただ走るだけで地震を引き起こすほどのものだった。
 ――くそっ! あのデカい体で陸上を走ることも出来るのか⁉
 さすがにうみ雌牛めうしは伝説の怪物だった。この相手に通常の生物の常識など通用しない。
 ――追いつかれてたまるか!
 ロウワンは走る。必死に走る。本来の体力は湖を泳いだことですでに使い果たしている。それでも、ロウワンは休むことなく走りつづける。自分の身を、骨を、筋肉を、内臓までも走るための力にかえて自分自身で食うようにして。
 行く先に真っ白な空間が見えた。
 まるで、そこを堺に世界が絶ちきられ、異世界へと通じているかのような場所。
 ――出口だ!
 ロウワンは歓喜かんきした。
 真っ白な空間目指して走りつづける。洞窟の出口に向かって。
 ロウワンは出口を飛び出した。その瞬間――。
 ロウワンの視界は真っ白な光に包まれた。
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