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第二部 絆ぐ伝説
第四話三章 アッバスの滅び
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そして、災厄は海のなかから這いあがってきた。
アッバスの港へと。
関節部分を皮でつなげられた金属の小手に包まれた手を埠頭にかけて、海水に濡れた鎧を日の光に煌めかせながら。
そのありさまに、その場にいた誰もが驚愕し、迷信的な恐怖に襲われた。
もし、ここに現れたのがヌラヌラしたいやらしい鱗を全身に生やし、指と指の間に水かきをもった半魚人、と言うならむしろ、納得できた。それならば、海のなかから現れるのもわかるし、船乗りの間ではそのような『海の怪物』の話は普通に交わされている。言わば、半魚人とは船乗りたちにとっての『常識の範囲内』の存在だった。
それならば、突然の来襲に怖れながらも、武器をもって立ち向かうこともできた。しかし、海のなかから現れたのは半魚人ではなかった。全身を金属の鎧に包んだ鎧騎士の一団だった。
いったい、どこの誰が、海のなかから鎧騎士が現れるなどと考えるというのか。
そんなことを考える人間がいるはずない!
考えたこともない出来事が現実に起こっている。そのことが『命のやり取りなど当たり前』の海の漢たちをさえ恐怖させ、無知と蒙昧に支配された迷信の世界へと追いやった。
そこにはいたのはもはや、意思と理性をもった人間などではなかった。
恐怖に支配された動物の群れだった。
もちろん、事態はすぐにアッバス港の防衛責任者であるヴォウジェに伝えられた。常に戦いの現場で生きてきた歴戦の海賊であるヴォウジェは、報告に来た部下にいちいち確認して時間を無駄にするような真似はしなかった。報告を聞いたその瞬間、船団本部を飛び出し、自分の目で事態を確かめた。
そして、たしかに見た。
鎧騎士の一団が人々を襲っている様を。そして――。
その鎧騎士の胸に、たしかにパンゲアの紋章が描かれていることを。
「パンゲアの襲撃だと⁉ 馬鹿な! これだけの兵を運んでくるからにはそれなりの船が必要だ。なぜ、接近してくることに気がつかなかった⁉ 見張りはなにをしていた⁉ 哨戒に出ていた船は⁉」
「そ、それが……あたりにパンゲアの船は一隻も見当たりません。そもそも、パンゲアに長海を渡る船などないわけですし……」
「では、やつらはどこから現れた⁉」
「そ、それは……泳いで渡ってきたとしか……」
そう意見を述べたのは大した勇気だったと言えるだろう。しかし、一瞬後には自分の勇気を呪ったかも知れない。ヴォウジェに血走った目で睨みつけられたからだ。
「ひっ」
と、半端な勇気の持ち主は首をすくめて小さく悲鳴をあげた。
ヴォウジェはそれ以上、部下を睨んで時間を無駄にするようなことはしなかった。視線を戻し、目の前で起きている事態を改めて確認した。
そこではやはり、鎧の騎士たちが人々を襲っている。
八つ裂きにしようとさ迷っている。
人々は情けないほどの悲鳴をあげて逃げ惑っている。
立ち向かおうとするものはひとりもいない。
すべては、迷信的な恐怖に取り憑かれた故だった。
「馬鹿な……」
ヴォウジェは呻いた。
ギリッ、と、奥歯を噛みしめる音がした。
「全身を金属の鎧で包んだ騎士たちが長海を泳いで渡り、襲撃をかけてきたと言うのか?」
あり得ない。
あり得るはずがなかった。しかし――。
パンゲアの船がこの場にいないという事実。そして、海水に濡れた騎士たちの鎧。それを見れば答えはひとつしかなかった。
「……本当に泳いできたと言うのか。全身鎧を着けたままで。馬鹿な。そんなことが人間にできるわけがない」
――ならば、やつらは人間ではない!
歴戦の海賊らしく、ヴォウジェは一瞬でその結論に達した。
「やつらは人間ではない。ならば、人ならざるものを相手にする方法をとるまでだ! 総員、戦闘配置! 漁業用の網をありったけ持ち出せ! やつらに投げ付け、かぶせるんだ。とにかく、やつらの動きを封じるのが最優先だ!」
「は、はい……!」
「それと、『海原の火』をもってこい!」
海原の火。
その名称を聞いた部下の顔から血の気が引いた。
それは、古くから海戦に使われてきた火炎兵器。松脂と硫黄とタール、それに、生石灰。さらに、数種類の秘密の原料を混ぜあわせたもので、袋や小さな金属の用器につめて弓やクロスボウで相手の船に向かって撃ち出す。袋や容器には導火線がつけられており、導火線の火が内部に届くと内容物に一気に火が点き、爆発する。炎が破裂し、あたり一面に火を燃えひろがらせる。
松脂の混じった炎は粘着質でベッタリ張りつき、はなれることがない。硫黄やタールの炎は水をかけても容易には消せず、生石灰は水をかけることで激しく燃える。
「いかなる液体をもってしても消すことは出来ず、消すためには大量の砂をかけて空気を遮断するしかない」
そう言われる兵器である。
そして、海の上に『大量の砂』などあるはずもなく、事実上、消火不可能な『悪魔の火』である。そのあまりの威力と残虐さから、幾度となく国家間で使用禁止の条約が交わされてきた。もちろん、実際の現場ではそんな取り決めなど『知ったこっちゃない』とばかりに、使われてきたのだが。
取り扱いの難しさ――生石灰を使っているために、水に濡れただけで燃えだしてしまう。保管中に自然発火することも多く一度、火が点けば消しようがない――と、銃や大砲の発達によって主要武器ではなくなったとは言え、いまも海戦における効果的な武器として使われている。
だから、言われるのだ。
『海原の火』と。
その悪魔の火の使用を命令されて、部下はうろたえた。
「し、しかし、あんなものを使ったら、この港自体が燃えてしまいます。使いものにならなくなりますよ!」
「港など、あとで復旧すればよい! それより、いまは一刻も早く、あの怪物どもをとめることだ。でないと、このアッバスの港と町にいるもの全員、殺されるぞ」
もちろん、お前も含めてな。
厳しい視線でそう言われ――。
その部下は『ひいっ!』と、悲鳴をあげた。
「それから、信号弾を打ちあげろ。近隣の船すべてに退避指示を出せ! 埠頭につけてある船も、出帆できる船はすべて出帆させるんだ!」
「は、はい……!」
「それと、町にも避難命令を出せ。ローラシアでも、ゴンドワナでも、どこでもいい。とにかく、身ひとつでさっさと逃げろと!」
即座にそれだけのことを指示してのけたのはまぎれもなく、ヴォウジェの指揮官としての有能さを示すものだった。
ヴォウジェは『指示はこれで終わりだ』と、腕を振るった。部下はその動作にはじかれたように走り出していった。
アッバスの町はかつてない混乱に包まれた。
いきなり、港と町を守る傭兵たちが駆け込んできたかと思ったら、
「怪物どもが現れた! 命が惜しかったらさっさと逃げ出せ!」
と、叫んでまわったのだ。戸惑わない方がおかしい。
それでも、港の方からいくつもの悲鳴が聞こえ、逃げ出して来た人間たちが青い顔で怪物の存在を告げると、いぶかしんでいる場合ではないと理解した。家族を集め、逃げ出そうとした。とは言え、そこは商魂たくましいゴンドワナ商人のこと。いくら『身ひとつでさっさと』逃げろ、と言われたからといって、従ったりはしない。
「命と引き替えに、せっかくの稼ぎをふいにできるか!」
と、身のまわりの財産やら契約書やらをかき集める。
もとより、抜け目のない商人たち。いざというときには素早く財産をもって逃げられるよう、大事なものは一まとめにして保管してある。
荷物を背負って町の外めがけて走り出す。
馬車という馬車が動員され、定員をはるかに超える人数が飛び乗っていく。あまりの重さに悲鳴をあげて抗議するウマを鞭で叩いて走り出す。
馬車に乗り遅れた人たちは自らの足で内陸を目指した。重量過多でウマが苦しみ、なかなか進めない馬車に乗るよりも、その方がよほど速かったかも知れない。
一方、ヴォウジェの部下たちはアッバスを守る船団として賞賛に値するだけの働きを見せていた。信号弾を撃ちだし、付近の船に退避を呼びかけ、漁業用の巨大な網を持ち出し、鎧の怪物たちに投げつける。
自然発火を防止するために砂のなかに埋めてある海原の火を掘りだし、クロスボウの矢につがえる。
瞬時の間にそれだけのことが出来たのは、日頃の訓練の賜だった。その一点だけでもヴォウジェの指揮官としての優秀さははっきりしていた。
漁業用の大きくて丈夫な網を幾重にもかけらて、さしもの怪物たちも動きが鈍い。しかし、それも一瞬。鎧の騎士たちは『怪物』にふさわしい、人間にはとうてい不可能な力を発揮して網を引きちぎると、そのままかわることのない歩調で町へと進み出した。
「撃てッ!」
ヴォウジェの命令が飛んだ。
射手たちが一斉に海原の火を結えた矢を打ち出した。狙いはあやまたず、進みくる鎧騎士の一団を直撃した。たちまちのうちに火が吹きあがり、苛烈な炎で包み込んだ。
いかな、海原の火と言えど、金属の鎧を溶かすほどの高熱はない。しかし、松脂を交えた粘着質の炎は鎧に張りついたままはなれようとしない。その場で燃えつづけ、鎧の内部に熱を伝え、なかの人間を蒸し焼きにする。鎧の隙間から侵入し、なかの衣服に火を移して肉を焼く。
しかも、硫黄が燃えるときに出る煙は有毒であり、大量に吸い込めば死に至る。この煙ばかりはどんな名工が作りあげた至高の鎧であろうと防ぐことは出来ない。
炎で敵を焼き尽くすと同時に、毒の煙を発して敵を死に至らしめる。
海原の火を射掛けられた兵士たちは消すに消せぬ火に包まれ、猛毒の煙に包まれ、悲鳴をあげて地面を転がりながらもだえ、苦しみ、死んでいくのだ。
それが、海原の火。
その威力と残虐性から使用禁止の条約が交わされる所以である。
港はたちまちのうちに全体が燃えあがった。
火山の噴火のような猛火と煙とに包まれた。
部下の言ったとおり、これではもはや港は使いものにならない。復旧のためには長い日数と多額の費用がかかることだろう。しかし、その分、鎧騎士の一団も炎の海に呑み込まれている。その姿はもはや、見えはしない。
――これで、倒せねば生き物ではない。
ヴォウジェは酢に浸した布で口と鼻を押さえながら心に呟いた。
酢は昔から火の害や煙を防ぐ効果があるとして広く使われてきた。過酷な戦場に身をおくものたちの知恵である。
ヴォウジェのみならず、アッバスを守る傭兵たちも鎧騎士の一団が火に包まれたのを見てホッとしたことだろう。そこには『火はすべての邪悪を浄化する』という信仰染みた思いもあったにちがいない。まったく、海から現れ、人を殺してまわる鎧の騎士など、この世の邪悪以外のなんだと言うのか。だが――。
傭兵たちが安堵の息をつけたとしても、ほんの一瞬だった。
燃えさかる炎のなかから姿を現わしたもの。
それは、鎧騎士の一団。
いや、ちがう。
『炎のなかから』現れたのではない。
『炎をまとって』現れたのだ。
松脂を交えた粘着質の炎はたしかに燃えている。鎧に張りついたまま燃え盛っている。それなのに――。
鎧騎士たちは何事もないかのように進んでくる。
ゆっくりした歩調で歩んでくる。
その現実とは思えない事実に――。
傭兵たちのなかで恐怖が炸裂した。
悲鳴をあげた。
武器をすてて逃げ出した。
それを責めるわけにはいかないだろう。こんな怪物たちと戦うことなど、かの人たちの契約には入っていないのだから。
ヴォウジェも逃げようと思えば逃げることはできた。部下たちを犠牲にして自分ひとり、逃げることは出来たのだ。指揮官として、この出来事を生きて報告しなくてはならないという言い訳もある。
チンクなら迷わずそうしていた。誰よりも早く、逃げ出していた。しかし、ヴォウジェはチンクとはちがった。『世のため、人のため』に尽くす、などという思いがあるわけではない。しかし、ヴォウジェは自分の役割には誠実な人間だった。
自分の役割はアッバスの港と町を、そこにいる人々を守ること。
この戦いに勝ちはない。こんな怪物どもを相手に人間が勝てるわけがない。ならば、人々を守るためにできることはひとつしかない。一分、一秒でも長く怪物たちの前に立ちはだかり、人々が逃げる時間を稼ぐこと。
――それが、おれの役目だ。
役目は果たす。
それが、自分の誇り。
世のため、人のために死ぬ気などない。だが――。
自分の誇りに命を懸けずして、なにに懸けろと言うのか。
ヴォウジェとはそういう人間だった。
ヴォウジェは愛用の戦斧を手に怪物たちの前に立ちはだかった。腕力にものを言わせた強烈な一撃を放った。その一撃はたしかに怪物たちのまとう鎧を断ち割った。相手が人間であれば、そのまま肉を裂かれ、骨を砕かれ、悶絶している。それほどの一撃。だが――。
鎧の怪物は何事もなかったかのように進んでくる。未だ、炎がついたままの腕を伸ばす。その指がヴォウジェの喉元に食い込んだ。
すさまじい力だった。
筋力では人後に落ちないヴォウジェが、その指を引きはがすことも出来ない。
「ちっ。このおれが時間稼ぎもろくにできねえか。パンゲアの連中、なにをしでかしやがった。だが……」
ギラリ、と、ヴォウジェの目が光った。
残された最後の生命力を振り絞った輝きだった。
戦斧をすて、怪物の兜を両手でつかんだ。
「最後に、きさまらの正体ぐらいは見せてもらうぞ!」
叫んだ。
力任せに怪物の兜を引っこ抜いた。
それと同時に怪物の指がヴォウジェの喉を握りつぶした。
死の寸前、ヴォウジェの思ったこと。それは――。
――見るんじゃなかった。
その一言だった。
この日――。
経済と軍事の要衝として隆盛を誇ったアッバスは、一日にして滅び去った。
鎧の怪物たちの手によって。
アッバスの港へと。
関節部分を皮でつなげられた金属の小手に包まれた手を埠頭にかけて、海水に濡れた鎧を日の光に煌めかせながら。
そのありさまに、その場にいた誰もが驚愕し、迷信的な恐怖に襲われた。
もし、ここに現れたのがヌラヌラしたいやらしい鱗を全身に生やし、指と指の間に水かきをもった半魚人、と言うならむしろ、納得できた。それならば、海のなかから現れるのもわかるし、船乗りの間ではそのような『海の怪物』の話は普通に交わされている。言わば、半魚人とは船乗りたちにとっての『常識の範囲内』の存在だった。
それならば、突然の来襲に怖れながらも、武器をもって立ち向かうこともできた。しかし、海のなかから現れたのは半魚人ではなかった。全身を金属の鎧に包んだ鎧騎士の一団だった。
いったい、どこの誰が、海のなかから鎧騎士が現れるなどと考えるというのか。
そんなことを考える人間がいるはずない!
考えたこともない出来事が現実に起こっている。そのことが『命のやり取りなど当たり前』の海の漢たちをさえ恐怖させ、無知と蒙昧に支配された迷信の世界へと追いやった。
そこにはいたのはもはや、意思と理性をもった人間などではなかった。
恐怖に支配された動物の群れだった。
もちろん、事態はすぐにアッバス港の防衛責任者であるヴォウジェに伝えられた。常に戦いの現場で生きてきた歴戦の海賊であるヴォウジェは、報告に来た部下にいちいち確認して時間を無駄にするような真似はしなかった。報告を聞いたその瞬間、船団本部を飛び出し、自分の目で事態を確かめた。
そして、たしかに見た。
鎧騎士の一団が人々を襲っている様を。そして――。
その鎧騎士の胸に、たしかにパンゲアの紋章が描かれていることを。
「パンゲアの襲撃だと⁉ 馬鹿な! これだけの兵を運んでくるからにはそれなりの船が必要だ。なぜ、接近してくることに気がつかなかった⁉ 見張りはなにをしていた⁉ 哨戒に出ていた船は⁉」
「そ、それが……あたりにパンゲアの船は一隻も見当たりません。そもそも、パンゲアに長海を渡る船などないわけですし……」
「では、やつらはどこから現れた⁉」
「そ、それは……泳いで渡ってきたとしか……」
そう意見を述べたのは大した勇気だったと言えるだろう。しかし、一瞬後には自分の勇気を呪ったかも知れない。ヴォウジェに血走った目で睨みつけられたからだ。
「ひっ」
と、半端な勇気の持ち主は首をすくめて小さく悲鳴をあげた。
ヴォウジェはそれ以上、部下を睨んで時間を無駄にするようなことはしなかった。視線を戻し、目の前で起きている事態を改めて確認した。
そこではやはり、鎧の騎士たちが人々を襲っている。
八つ裂きにしようとさ迷っている。
人々は情けないほどの悲鳴をあげて逃げ惑っている。
立ち向かおうとするものはひとりもいない。
すべては、迷信的な恐怖に取り憑かれた故だった。
「馬鹿な……」
ヴォウジェは呻いた。
ギリッ、と、奥歯を噛みしめる音がした。
「全身を金属の鎧で包んだ騎士たちが長海を泳いで渡り、襲撃をかけてきたと言うのか?」
あり得ない。
あり得るはずがなかった。しかし――。
パンゲアの船がこの場にいないという事実。そして、海水に濡れた騎士たちの鎧。それを見れば答えはひとつしかなかった。
「……本当に泳いできたと言うのか。全身鎧を着けたままで。馬鹿な。そんなことが人間にできるわけがない」
――ならば、やつらは人間ではない!
歴戦の海賊らしく、ヴォウジェは一瞬でその結論に達した。
「やつらは人間ではない。ならば、人ならざるものを相手にする方法をとるまでだ! 総員、戦闘配置! 漁業用の網をありったけ持ち出せ! やつらに投げ付け、かぶせるんだ。とにかく、やつらの動きを封じるのが最優先だ!」
「は、はい……!」
「それと、『海原の火』をもってこい!」
海原の火。
その名称を聞いた部下の顔から血の気が引いた。
それは、古くから海戦に使われてきた火炎兵器。松脂と硫黄とタール、それに、生石灰。さらに、数種類の秘密の原料を混ぜあわせたもので、袋や小さな金属の用器につめて弓やクロスボウで相手の船に向かって撃ち出す。袋や容器には導火線がつけられており、導火線の火が内部に届くと内容物に一気に火が点き、爆発する。炎が破裂し、あたり一面に火を燃えひろがらせる。
松脂の混じった炎は粘着質でベッタリ張りつき、はなれることがない。硫黄やタールの炎は水をかけても容易には消せず、生石灰は水をかけることで激しく燃える。
「いかなる液体をもってしても消すことは出来ず、消すためには大量の砂をかけて空気を遮断するしかない」
そう言われる兵器である。
そして、海の上に『大量の砂』などあるはずもなく、事実上、消火不可能な『悪魔の火』である。そのあまりの威力と残虐さから、幾度となく国家間で使用禁止の条約が交わされてきた。もちろん、実際の現場ではそんな取り決めなど『知ったこっちゃない』とばかりに、使われてきたのだが。
取り扱いの難しさ――生石灰を使っているために、水に濡れただけで燃えだしてしまう。保管中に自然発火することも多く一度、火が点けば消しようがない――と、銃や大砲の発達によって主要武器ではなくなったとは言え、いまも海戦における効果的な武器として使われている。
だから、言われるのだ。
『海原の火』と。
その悪魔の火の使用を命令されて、部下はうろたえた。
「し、しかし、あんなものを使ったら、この港自体が燃えてしまいます。使いものにならなくなりますよ!」
「港など、あとで復旧すればよい! それより、いまは一刻も早く、あの怪物どもをとめることだ。でないと、このアッバスの港と町にいるもの全員、殺されるぞ」
もちろん、お前も含めてな。
厳しい視線でそう言われ――。
その部下は『ひいっ!』と、悲鳴をあげた。
「それから、信号弾を打ちあげろ。近隣の船すべてに退避指示を出せ! 埠頭につけてある船も、出帆できる船はすべて出帆させるんだ!」
「は、はい……!」
「それと、町にも避難命令を出せ。ローラシアでも、ゴンドワナでも、どこでもいい。とにかく、身ひとつでさっさと逃げろと!」
即座にそれだけのことを指示してのけたのはまぎれもなく、ヴォウジェの指揮官としての有能さを示すものだった。
ヴォウジェは『指示はこれで終わりだ』と、腕を振るった。部下はその動作にはじかれたように走り出していった。
アッバスの町はかつてない混乱に包まれた。
いきなり、港と町を守る傭兵たちが駆け込んできたかと思ったら、
「怪物どもが現れた! 命が惜しかったらさっさと逃げ出せ!」
と、叫んでまわったのだ。戸惑わない方がおかしい。
それでも、港の方からいくつもの悲鳴が聞こえ、逃げ出して来た人間たちが青い顔で怪物の存在を告げると、いぶかしんでいる場合ではないと理解した。家族を集め、逃げ出そうとした。とは言え、そこは商魂たくましいゴンドワナ商人のこと。いくら『身ひとつでさっさと』逃げろ、と言われたからといって、従ったりはしない。
「命と引き替えに、せっかくの稼ぎをふいにできるか!」
と、身のまわりの財産やら契約書やらをかき集める。
もとより、抜け目のない商人たち。いざというときには素早く財産をもって逃げられるよう、大事なものは一まとめにして保管してある。
荷物を背負って町の外めがけて走り出す。
馬車という馬車が動員され、定員をはるかに超える人数が飛び乗っていく。あまりの重さに悲鳴をあげて抗議するウマを鞭で叩いて走り出す。
馬車に乗り遅れた人たちは自らの足で内陸を目指した。重量過多でウマが苦しみ、なかなか進めない馬車に乗るよりも、その方がよほど速かったかも知れない。
一方、ヴォウジェの部下たちはアッバスを守る船団として賞賛に値するだけの働きを見せていた。信号弾を撃ちだし、付近の船に退避を呼びかけ、漁業用の巨大な網を持ち出し、鎧の怪物たちに投げつける。
自然発火を防止するために砂のなかに埋めてある海原の火を掘りだし、クロスボウの矢につがえる。
瞬時の間にそれだけのことが出来たのは、日頃の訓練の賜だった。その一点だけでもヴォウジェの指揮官としての優秀さははっきりしていた。
漁業用の大きくて丈夫な網を幾重にもかけらて、さしもの怪物たちも動きが鈍い。しかし、それも一瞬。鎧の騎士たちは『怪物』にふさわしい、人間にはとうてい不可能な力を発揮して網を引きちぎると、そのままかわることのない歩調で町へと進み出した。
「撃てッ!」
ヴォウジェの命令が飛んだ。
射手たちが一斉に海原の火を結えた矢を打ち出した。狙いはあやまたず、進みくる鎧騎士の一団を直撃した。たちまちのうちに火が吹きあがり、苛烈な炎で包み込んだ。
いかな、海原の火と言えど、金属の鎧を溶かすほどの高熱はない。しかし、松脂を交えた粘着質の炎は鎧に張りついたままはなれようとしない。その場で燃えつづけ、鎧の内部に熱を伝え、なかの人間を蒸し焼きにする。鎧の隙間から侵入し、なかの衣服に火を移して肉を焼く。
しかも、硫黄が燃えるときに出る煙は有毒であり、大量に吸い込めば死に至る。この煙ばかりはどんな名工が作りあげた至高の鎧であろうと防ぐことは出来ない。
炎で敵を焼き尽くすと同時に、毒の煙を発して敵を死に至らしめる。
海原の火を射掛けられた兵士たちは消すに消せぬ火に包まれ、猛毒の煙に包まれ、悲鳴をあげて地面を転がりながらもだえ、苦しみ、死んでいくのだ。
それが、海原の火。
その威力と残虐性から使用禁止の条約が交わされる所以である。
港はたちまちのうちに全体が燃えあがった。
火山の噴火のような猛火と煙とに包まれた。
部下の言ったとおり、これではもはや港は使いものにならない。復旧のためには長い日数と多額の費用がかかることだろう。しかし、その分、鎧騎士の一団も炎の海に呑み込まれている。その姿はもはや、見えはしない。
――これで、倒せねば生き物ではない。
ヴォウジェは酢に浸した布で口と鼻を押さえながら心に呟いた。
酢は昔から火の害や煙を防ぐ効果があるとして広く使われてきた。過酷な戦場に身をおくものたちの知恵である。
ヴォウジェのみならず、アッバスを守る傭兵たちも鎧騎士の一団が火に包まれたのを見てホッとしたことだろう。そこには『火はすべての邪悪を浄化する』という信仰染みた思いもあったにちがいない。まったく、海から現れ、人を殺してまわる鎧の騎士など、この世の邪悪以外のなんだと言うのか。だが――。
傭兵たちが安堵の息をつけたとしても、ほんの一瞬だった。
燃えさかる炎のなかから姿を現わしたもの。
それは、鎧騎士の一団。
いや、ちがう。
『炎のなかから』現れたのではない。
『炎をまとって』現れたのだ。
松脂を交えた粘着質の炎はたしかに燃えている。鎧に張りついたまま燃え盛っている。それなのに――。
鎧騎士たちは何事もないかのように進んでくる。
ゆっくりした歩調で歩んでくる。
その現実とは思えない事実に――。
傭兵たちのなかで恐怖が炸裂した。
悲鳴をあげた。
武器をすてて逃げ出した。
それを責めるわけにはいかないだろう。こんな怪物たちと戦うことなど、かの人たちの契約には入っていないのだから。
ヴォウジェも逃げようと思えば逃げることはできた。部下たちを犠牲にして自分ひとり、逃げることは出来たのだ。指揮官として、この出来事を生きて報告しなくてはならないという言い訳もある。
チンクなら迷わずそうしていた。誰よりも早く、逃げ出していた。しかし、ヴォウジェはチンクとはちがった。『世のため、人のため』に尽くす、などという思いがあるわけではない。しかし、ヴォウジェは自分の役割には誠実な人間だった。
自分の役割はアッバスの港と町を、そこにいる人々を守ること。
この戦いに勝ちはない。こんな怪物どもを相手に人間が勝てるわけがない。ならば、人々を守るためにできることはひとつしかない。一分、一秒でも長く怪物たちの前に立ちはだかり、人々が逃げる時間を稼ぐこと。
――それが、おれの役目だ。
役目は果たす。
それが、自分の誇り。
世のため、人のために死ぬ気などない。だが――。
自分の誇りに命を懸けずして、なにに懸けろと言うのか。
ヴォウジェとはそういう人間だった。
ヴォウジェは愛用の戦斧を手に怪物たちの前に立ちはだかった。腕力にものを言わせた強烈な一撃を放った。その一撃はたしかに怪物たちのまとう鎧を断ち割った。相手が人間であれば、そのまま肉を裂かれ、骨を砕かれ、悶絶している。それほどの一撃。だが――。
鎧の怪物は何事もなかったかのように進んでくる。未だ、炎がついたままの腕を伸ばす。その指がヴォウジェの喉元に食い込んだ。
すさまじい力だった。
筋力では人後に落ちないヴォウジェが、その指を引きはがすことも出来ない。
「ちっ。このおれが時間稼ぎもろくにできねえか。パンゲアの連中、なにをしでかしやがった。だが……」
ギラリ、と、ヴォウジェの目が光った。
残された最後の生命力を振り絞った輝きだった。
戦斧をすて、怪物の兜を両手でつかんだ。
「最後に、きさまらの正体ぐらいは見せてもらうぞ!」
叫んだ。
力任せに怪物の兜を引っこ抜いた。
それと同時に怪物の指がヴォウジェの喉を握りつぶした。
死の寸前、ヴォウジェの思ったこと。それは――。
――見るんじゃなかった。
その一言だった。
この日――。
経済と軍事の要衝として隆盛を誇ったアッバスは、一日にして滅び去った。
鎧の怪物たちの手によって。
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