神の物語

藍条森也

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第一部

《すべての鬼の母》(3)

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 祭囃子が聞こえる。
 笛や太鼓の音に交じって粗野なぐらい陽気な男たちの喚声やパチパチとという炭の爆ぜる音。空気のなかにはむっとするような酒の匂いが充満している。
 盗賊たちが宴会を開いているらしい。
 シュランドはいま、小さな天幕のなかにひとりで寝かし付けられていた。ぼろぼろに使い込まれ、擦り切れる寸前の、もう雑巾にでも縫い直すしかないような布だが、天幕の床にはきちんと布がしかれ、体の上にも一枚の布が掛けられているのは上等と言えた。
 不思議なことに――。
 シュランドの肉体はすっかり元通りになっていた。全身、痣だらけになり紫色にふくれあがっていた体はすっかりもとの姿を取り戻し、変形した顔面も治っている。一本残らず折られたはずの歯でさえ、いまやしっかりと並び、誰が見ても『折られた』などとは信じられない様子となっていた。
 テントの入り口がふわりと舞いあがった。風に吹かれただけのようなやわらかな動き。風の精霊を思わせる優美な仕草でひとりの人間が入ってきた。カグヤと呼ばれたあの少女だった。
 「だいじょうぶ?」
 カグヤが尋ねた。病気の家族を気遣うようなやさしい声だった。
 「なんともない」
 シュランドはぶっきらぼうにそう言い返した。実際に大丈夫かどうかを確認して言ったわけではない。敵の仲間に気遣われたのが気に入らず、反射的に意地を張っただけだった。本当に体が大丈夫なことに気がついたのは言い返したあとだった。
 カグヤはシュランドのそばにひざまづいた。淡い赤色の液体の入った小さなガラス性の水差しを取り出した。その先をシュランドの口もとに近付ける。
 「これを飲んで。よく効く薬よ」
 「誰が」
 シュランドは吐き捨てた。
 「あいつの仲間の助けなんていらない。さっさと出ていけ」
 「わたしは彼らの仲間じゃないわ」
 カグヤは答えた。
 「さらわれたのよ」
 その言葉にシュランドはおもわず、美しい少女を見つめていた。
 「それならいい?」
 カグヤは尋ねた。その言葉の内容よりもむしろ、そこに込められたシュランドの容体を気遣う心に打たれてシュランドはうなずいた。
 カグヤはあらためて水差しの先をシュランドの口に近づけた。シュランドは水差しの先をくわえた。カグヤが水差しを傾けた。一気に液体が流れ込まないよう気をつけて、ゆっくりと。淡い赤の液体が水差しの先を伝わり、シュランドの口へ流れ落ちた。シュランドは夢中になってその液体を飲み込んだ。
 するとどうだろう。驚いたことに液体を飲んだ瞬間、体中に活力が満ちあふれてきた。 「うそ……」
 シュランドが思わず目を見開いてそう呟いたほど、素早い効き目だった。
 「よく効く薬だって言ったでしょう?」
 カグヤがやさしく微笑みながらそう言った。
 「あ、ありがとう……」
 彼女に助けられたのは事実なので、とにかくシュランドはそう言った。
 ――『ありがとう』だなんて……誰かに言ったのははじめてだな。
 なにしろこの十年、誰からも助けられることなどなかったので。
 生まれてはじめて口にした感謝の言葉。それを思うとなんだか妙に照れくさいやら、妙な気持ちだった。
 「服を脱いで」
 「えっ?」
 突然、言われてシュランドは目をしぱたたかせた。
 「服を脱いで。拭いてあげる」
 「い、いいよ、そんなの」
 「だめ。ひどく汚れているわ。ちゃんと拭かないと体に悪いわ」
 カグヤは言いながらシュランドの服を脱がせはじめた。まるで、子供の服を洗濯するために脱がせる母親のようだった。シュランドもあまりに自然な流れに抵抗することもできず脱がせられるままになっていた。あっという間に上半身裸にされてしまった。シュランドにとってありがたいことにカグヤはズボンまでは脱がせようとはしなかった。
 水差しに満たした熱い湯に布をひたし、ぎゅっと絞って背中を拭きはじめる。湯で温められたやわらかな布の感触が心地いい。
 カグヤは慣れた手つきで布を上下に動かしていく。そのやさしい手つきがなんだかこそばゆかった。
 「傷はすっかり治っているわね」
 カグヤが言った。
 「体は小さいのに丈夫なのね」
 「当たり前だ。おれは小さい頃から狩人として生きてきたんだ。あんな傷、なんでもない」
 「そう。強いのね」
 カグヤは口元で軽く微笑んだようだった。カグヤはそれからだまってシュランドの体を拭いた。シュランドはどうにも落ち着かない気分だった。心臓がどきどきする。なにしろ、こんなふうにやさしく介抱されたことははじめてなので。
 村にいた頃は病気になろうと、怪我をしようと、誰も気にかけてさえくれなかった。ひとりで小屋の隅にうずくまり、じっとして治るのをまっているだけだったのだ。
 「はい。もういいわ」
 カグヤが言った。シュランドはあわてて服を着込んだ。カグヤはそんなシュランドを見て微笑ましそうに笑った。
 そうやって笑うカグヤのなんと美しかったことか。黒曜石のようにきらめく長い黒髪、澄み切った夜空を思わせる黒い瞳、抜けるような白い肌。粗末だが清潔な貫頭衣をまとった肢体は抱いただけで折れそうなほどに細く、それでいて胸のふくらみは世の男という男すべてを挑発するかのようにふっくらと盛りあがっている。服の裾から伸びた白くて長い脚は誘惑の禁断の果実そのものだった。
 シュランドはその姿に思わず見惚れた。こんなにも美しい少女を見たのは生まれてはじめてだった。いや、単に造形美というだけなら見たことはある。
 《姫》だ。
 《姫》も外見の美しさでは負けていない。だが、《姫》の美しさは生気を感じさせない作り物の美しさだ。彫像の美しさだ。カグヤはちがう。しっかりと血の通った、ぬくもりを感じさせる美貌だった。
 その暖かさに包まれて眠っていたい。
 そう思わせる少女だった。
 ――お姫さまだ。
 子供の頃のかすかな記憶。母に子守歌がわりに語ってもらった昔話し。そのなかに出てくる美しいお姫さまたち。
 ――彼女こそ、そのお姫さまだ。
 シュランドはそう確信した。それほどに目の前の少女は魅惑的だった。
 「わたしはカグヤ。あなたは?」
 「シュ……シュランド」
 「そう。シュランド。あなたはなぜ、ひとりきりでこんなところにきたの? あなたはまだそんなに小さいのに」
 「小さいとはなんだ!」
 シュランドは怒鳴った。カグヤが驚きのあまり目を見張り、後ずさるほどの剣幕だった。
 「おれはもう十五歳だぞ! そりゃ体は小さいほうだけど……子供扱いするな!」
 「……ごめんなさい」
 カグヤは申し分けなさそうに肩をすくめ、頭をさげた。こんなにも美しい少女にしおらしく謝られて今度はシュランドのほうがとまどってしまった。
 「あ、いや……こっちこそごめん。怒鳴ったりして……」
 バツの悪さに頭をぽりぽりとかいた。
 「それじゃ改めてお聞きするわ。十五歳の若者がこんなところでなにをしているの? 塵の山しかない廃墟なのに」
 「それは……その」
 「なに?」
 「そ、それより、君こそなんで連中と? さっき、『さらわれた』って言っていたけど……」
 とたんに美しい少女の顔は悲しみにおおわれた。
 「一緒に旅をしていた隊商が《すさまじきもの》に襲われたの。その混乱のさなかにさらわれて、占いができるからってそのまま……」
 「なんだってそんな連中と一緒にいるんだ!」
 シュランドの叫びにカグヤは哀しげに微笑んだだけだった。
 その表情を見てシュランドはあることに気がついた。唇を噛みしめ、うつむいた。
 「……ごめん」
 自分はなんて馬鹿なんだ!
 シュランドは思った。心のなかで自分を思いきりぶちのめした。こんなか弱い女の子がどうやったら屈強な盗賊の集団から逃れられるというのか。
 運よく逃げられたとしてもたったひとりで生きていけるわけがない。こんなにも美しい少女なのだ。どうせまた別の盗賊集団に捕まるのがオチだろう。彼女が生き残るためにはこの集団に居続けるしかないのだ。
 誰が好きこのんで盗賊などと一緒にいたいと思うものか。彼女こそが一番つらいにちがいない。なのに、そんなことにも気づかず怒鳴るなんて……自分は本当に馬鹿だ!
 「なら、おれが君を守る」
 「えっ?」
 「おれがあの男をぶちのめし、君を解放してやる。そうすれば、こんな暮らしをせずにすむ。誰に服従する必要もなく、自由に、豊かに暮らせるようになるんだ。おれがそうしてみせる。きっと、きっと……」
 シュランドにとってはなはだ残念なことに――。
 カグヤは喜びに目を輝かしたりはしなかった。ただ、静かに笑っただけだった。それは自分にできる以上のことをしようとしている幼い弟を見る姉の表情だった。
 「ありがとう。そう言ってくれたことは忘れないわ」
 期待はしない、というわけだ。
 シュランドはあきらめなかった。爪が食い込むほど強く拳を握り締め、心に誓った。
 ――そうさ。カグヤは絶対、おれが守るんだ。あの男をぶちのめし、おれが連れていくんだ。そして、いつか、きっと……。
 ふと、カグヤか言った。
 「ハヤトさまがあなたを呼んでいたわ。『今日は祭りだ。おれの前に面を出す度胸があるならいつでもこい』って」
 「……行く」
 シュランドは立ちあがった。
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