神の物語

藍条森也

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第二部

《スサノオ》(7)

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 ようやくヤチホコの祈りが終わった。岩戸の中央に白い光が走った。岩戸は音もなく左右に開いた。
 「タマモ姫!」
 なかの様子をたしかめることすらなく、シュランドはなかに飛び込んだ。勇敢だが無鉄砲な少年がそこで見たものは、ふたつの顔に二本の腕と二本の脚、下の腕に弓をもち、上の腕に太刀を構える宿儺人。そして……祭壇の上で正座したまま宿儺人と対峙しているタマモの姿だった。
 少年と少女は互いの姿を認めた。少年の顔に喜びがはじけ、少女の顔を『信じられない』という思いが占めた。ふたりは同時に叫んだ。
 「タマモ!」
 「シュランド!」
 シュランドはタマモに駆けよろうとした。それより早く、宿儺人が弓を構え、シュランドめがけて矢を放った。
 「危ない!」
 その叫びが誰のものだったのかシュランドにはわからなかった。飛んでくる矢を確認するよりも早く、彼の視界を大きな壁がふさいだ。
 ヤチホコだった。過去の世界からやってきた侍はシュランドの前に立ちはだかると、太刀を振るい、飛んでくる矢を切り払った。矢の勢いはすさまじいものだった。狩りに使えば巨熊の体をつらぬき、二十尺も後ろの大木に縫い付けたことだろう。それほどの剛弓もしかし、ヤチホコの一太刀によって両断され、切り落とされた。
 「タマモを連れて逃げろ!」
 ヤチホコが振り向きざま、叫んだ。それが彼がシュランドたちを見た最後だった。
 「で、でも……」
 シュランドはヤチホコと宿儺人を交互に見ながらためらった。あの怪人との戦いをヤチホコひとりに任せて逃げ出すのは彼の男としての誇りが許さなかった。及ばずともせめてなにかひとつぐらい手伝いたい。そう思った。
 「かあぁぁぁっ-!」
 突然、ヤチホコが叫んだ。恐ろしく巨大な殺気に満ちた叫び。いや、轟き。その雄叫びは祭壇の間を揺るがせ、シュランドたちの小柄な体を震わせた。
 ヤチホコの体が爆発したように見えた。ただでさえ魁偉な肉体が十倍もふくれあがったように感じられた。もちろん、錯覚だ。そんな錯覚を起こすぐらい、ヤチホコの放った気はすさまじいものだった。
 闘気を吹き出す侍の背中を見たとき、シュランドは悟った。そこにいるのはもう、いままでのヤチホコではなかった。魁偉な肉体をもちながらも人なつこい笑みを浮かべる、おだやかで心やさしい男ではなかった。
 そこにいるのは血に飢え、怒りに狂い、猛り立ち、戦場を疾駆する阿修羅だった。
 ヤチホコはもう、自分たちを見ていない。ヤチホコが見ているのは宿儺人だけ。かつて、仲間たちを殺し、『武神』とまで讃えられた身に敗走を強いた相手だけ。
 シュランドは自分のまちがいを知った。思い知らさざるを得なかった。
 阿修羅と怪人。
 その両者の戦いは彼などがわずかでも入り込めるものではない。そんな生ぬるいものではなかった。シュランドごときが関わろうとすれば指一本ふれる前に肉体を粉々にされてしまうにちがいない。
 ――逃げよう!
 シュランドは思った。
 ――おれにできることはそれしかない。戦いはヤチホコさまに任せ、いますぐタマモを連れて逃げるんだ!
 心にそう叫んだ。だが……。
 体が動かなかった。
 シュランドだけではない。冷静なカグヤも、武門の姫も、指一本動かせずにヤチホコの姿を注視していた。ヤチホコの放った闘気はあまりにもすさまじすぎて少年少女には耐えられなかった。彼らの肉体は完全な金縛りにあっていた。
 過去からきた侍はそんなことはもはや失念していた。彼の頭のなかにシュランドたちのことはない。あるのはただ、自分のせいで殺されたかつての仲間の姿と、逃げ帰るはめになった屈辱だけ。そして、自分がすでに時の流れからはみ出し、帰るべき場所をもたない存在になってしまったという思いだけ。
 「決着をつけてやる!」
 叫んだ。
 自分の判断のせいで多くの仲間を死なせ、自ら作りあげた町である出雲の人々を苦しめたことへの自責の念。その償いをしなくてはならないという苛烈な思い。そして、なによりも、かつて一度も敗けたことのない自分が尻尾をまいて逃げたことへの怒り。その屈辱を晴らし、侍の誇りを取り戻す。そのためなら生命などいつでもくれてやる!
 そのすべての思いがないまぜになった叫びだった。
 ヤチホコの巨体が走った。シュランドたちの目には写らないほどの速い動き。その力のすべてを込めて、大太刀を大上段に振りおろす。一般人ならば気づく間もなく真っ二つにされていた。侍でさえ気づくことはできても防ぐことはできなかっただろう。盾をかかげれば盾ごと、太刀で受けようとすれば太刀ごと、真っ二つに両断され、粉砕される。それほどの一撃だった。
 しかし、相手は一般人ではなく、侍でさえなかった。永いながい間、出雲の民から守り神として崇められてきた存在。怒りに狂う阿修羅以上の怪物だった。
 宿儺人の下の二本の腕が動いた。弓をかかげた。火花とともにすさまじい音がした。ヤチホコの振りおろした太刀は宿儺人の弓に受けとめられていた。
 ――信じられない。
 ヤチホコの目がそう叫んでいた。
 動きが一瞬、止まった。
 それが命取りだった。
 宿儺人の上の二本の腕、太刀を構えた腕が同時に動いた。剣光一閃。二本の太刀はヤチホコの両腕を肩から切断していた。
 洪水のように血があふれた。少女たちの胴体より太い腕が紙のように宙に舞った。シュランドが、カグヤが、タマモが、目を見開き、声にならない悲鳴をあげた。ヤチホコの目が限界まで見開いた。口が大きく開いた。
 悲鳴をあげるためではなかった。ヤチホコの歯が牙と化して輝いた。宿儺人の首筋に食らいついた。シュランドたちは息を呑んだ。宿儺人の首から血が流れた。ヤチホコはこの怪人の首を食いちぎろうというのだ!
 それに気づいてか、剣をもつ宿儺人の腕が再び動いた。ヤチホコの両脇腹を深々と刺しつらぬいた。
 それでもなお、宿儺人の首に食らいつくヤチホコの力はいささかも衰えなかった。両肩から滝のように血をほとばしらせ、両脇腹を貫かれ、それでもその目にはぎらぎらとした闘気が満ちていた。
 ヤチホコの口が細かに動いていた。そのたびに少しずつ、すこしずつ、宿儺人の首の傷は深くなっていった。ヤチホコはいま、残されたすべての力をかたむけて宿儺人の首を食いちぎろうとしていた。葉を噛み切るカミキリムシのように。
 あまりにすさまじい光景にカグヤは両手を口もとにあてた。タマモの体が小刻みに震え出した。シュランドもまたその光景にとりつかれていた。目をそむけたい。しかし、そむけることができない。それほどに凄惨な姿だった。
 宿儺人が剣をもつ両腕に力を込めた。筋肉がふくれあがり、ぶるぶると震えた。しかし、剣はぴくりとも動かない。ヤチホコが鍛えぬいた腹筋を引きしめ、剣を縛りあげているのだ。
 宿儺人が手にした弓をヤチホコの首筋にあてた。二本の剣で胴を切り落とそうとしながら、弓で押してヤチホコの体をのけようとする。宿儺人の四本の腕がそれぞれ震えていた。この怪人にしてそれほどの力を込めなくてはならないほど、ヤチホコの力はすさまじいものだった。
 ヤチホコの顔が真っ赤に染まり、宿儺人の体が小刻みに震える。
 ヤチホコが宿儺人の首を食いちぎるのが先か。
 宿儺人がヤチホコの体を破壊するのが先か。
 その勝負だった。
 時がとまったようだった。
 シュランドたちは指一本動かせなかった。 絡み合ったふたつの巨体はわずかも動いていないように見えた。
 流れる血が地面をたたく音だけが祭壇の間に響いていた。
 悪夢のようなその光景もついに終わるときがきた。
 ごとり、と音がして宿儺人の首が傾いた。ヤチホコの歯がついに宿儺人の首の骨を切断したのだ。宿儺人の五体から急速に力が抜けた。目の輝きが失われた。太刀から、弓から、宿儺人の手がはなれた。宿儺人はゆっくりと後に倒れ出した。轟音をたてて宿儺人は倒れた。かつて、出雲の守り神とされた怪人の最後のときだった。
 ヤチホコは立ち尽くしていた。もはや傷口から流れるだけの血も残ってはいず、両脇腹に太刀を突き刺したまま。それでもなお、ヤチホコはその場に立っていた。
 ヤチホコが振り向いた。最後のさいごにシュランドたちを思い出したように。失われた時の侍は少年たちを見てにやりと笑った。シュランドたちはその表情に吸いつけられた。
 顔中を深紅の血に染め、食いちぎった骨をくわえたままのすさまじい形相。しかし、少年たちを引き付けたのはその形相ではなかった。ふたつの目だった。そのすさまじさのなかにありながらヤチホコの目はまるで無垢な少年のように穏やかだった。
 ――わしは勝った。
 侍としての純粋な誇り。その思いだけが両の目に満たされていた。
 ヤチホコの体がくず折れた。最初は前に。だが、すぐに後ろに。重々しい音を立ててヤチホコの巨体が仰向けに倒れた。顔を地面に突っ伏して死ぬなどこの男の流儀ではなかった。この男はいつでも空を見上げていたかったのだ。
 しばしの間、動くものはなにもなかった。シュランドたちはただ、ふたつの死骸に視線を注いでいた。
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