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四話
我らが英雄、逃げ兎! 〜前日譚~
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「また、逃げてきたのかい?」
家の扉を音高く開けて駆け込んできた息子を見て、母はさして興味なさそうにそう尋ねた。
「うっ……」
アルノは母の言葉に何も言えなかった。
家のなかに入ったところで身動き取れなくなり、立ち尽くしているだけだった。その表情はなんともしょぼくれたものであり、一目見た誰もが『なんだ、その顔は! シャッキリしろ!』と怒鳴りつけたくなるようなものだった。
「さっさと扉を閉めな。熱が逃げるだろ」
これからまた巡回に向かうって言うなら別だけどね。
家畜の毛を梳いて織物をしている母は別段、皮肉と言った様子でもなくそう告げた。
アルノはうなだれたまま黙って扉を閉めた。
そして、何も言わないまま自分の部屋に向かった。
大陸北方の雄国オグル。
北の大地に広がる峻険な山々と厳しい寒さとは、大柄で体力に優れた強靱な民族を育んだ。オグル人は皆、大柄であり、筋骨たくましい。当然、剛力であり、疲れ知らずの体力を誇る。
――鬼部と素手で殴り合って勝てるのはオグル人だけだ。
そうとまで言われる民族である。
アルノもそのオグル人であるからにはその資質を受け継いでいるはずなのだが――。
たしかに、背は高い。同年代の少年たちより頭ひとつ抜き出ている。しかし、体型はヒョロヒョロしており、添え木なしでは立っていられない糸杉の苗木のよう。
山々を駆ける脚力はあるが、それが戦いに生かされたことはない。
逃げる。
とにかく、逃げる。
せっかくの脚力もそのためにしか使われることはなかった。
アルノは今年一二歳。
尚武の国オグルでは一二歳と言えば立派な戦士見習い。おとなたちに混じって家畜を脅かす野生の獣や魔物たちを狩りに行っていい年代である。
オグルは牧畜の国だ。
峻険で寒気の厳しい山岳地帯に位置するだけに農業にはまったく向かず、もっぱら『マヌサー』と呼ばれる家畜を飼って暮らしを立てている。
マヌサーは牛のように大柄な山羊の一種で、長く暖かい毛と豊富な乳、それに、臭みはあるが、たっぷりの肉を与えてくれる。
他にこれと言った産業があるわけでもなく、マヌサーから採れる毛と乳と肉で自給生活を営んでいる他、その強靱な肉体を生かして各国に傭兵や鉱夫として出稼ぎに行くことで生計を立てている。
そんなオグルにとってマヌサーの生育は死活問題。もし、マヌサーたちの成長が悪かったり、死に絶えてしまったりすれば次は自分たちが死ぬ番だ。
オグル人はそのことを知り尽くしている。
だから、マヌサーの保護には気を使う。自分の子供よりもマヌサーを大切にするぐらいだ。
そのマヌサーにとっての大敵が山々に住む肉食獣や魔物たち。
マヌサーは敵の気配に敏感であり、肉食獣や魔物が側にいるだけで生育が悪くなり、乳の出も悪くなる。そこで、どの村でも村人による狩猟団を組織し、周囲を巡回してマヌサーを脅かす肉食獣や魔物を狩る習慣になっている。そして、それは一〇代になった子供たちの大切な仕事なのだ。
子供たちにとってそれは大切な家畜を守るための任務であり、将来、立派な戦士になって国を守るための鍛錬でもある。とくに、対鬼部戦役におとなたちがとられ、どこの村でも人手不足になっている現在、子供たちによる家畜の保護は重要さをましていた。
アルノも当然、村のひとりとして巡回に参加している。しかし――。
戦えた試しは一度もない。
アルノはとにかく臆病だった。
肉食獣や魔物の気配を感じただけで縮みあがり、悲鳴をあげて逃げてしまうのだ。
付いたあだ名が『逃げ兎』。
兎のように臆病で、兎のように逃げ足が速いからだ。
他の子供たちからはなにかにつけ『逃げ兎、逃げ兎』とからかわれる。
そして、子供たちのそんな囃し立てる声を聞くと村のおとなたちは決まってこう言うのだ。
「馬鹿なことを言うな。兎はおれたちに大切な毛皮と肉を与えてくれる。あいつは何も与えてくれない」
アルノは血統としては申し分ない。
何しろ、かの人の父は国の将軍を務める立派な軍人であり、その兄、つまり、アルノの伯父は先代の筆頭将軍。そして、伯父の息子、つまり、アルノの歳の離れたいとこに当たるアルノスは若き烈将として知られる現筆頭将軍。
アルノスは幼い頃から体も大きく、体力にも優れ、武芸に秀でていた。一〇代の頃にはすでに国中に敵なしと言われるほどの逸材だった。アルノという名前もそのアルノスのように勇猛な戦士となるように、との願いを込めて名付けられたものだった。だが――。
アルノの性格はその親の願いとはまったくの反対だった。
とにかく、臆病。
とにかく、怖がり。
自分の後ろを猫が音を立てて通り過ぎただけでビクッと身をすくませる。
山鳥が草むらから飛び立てば、その物音に驚いて飛びあがる。
そんな有り様。
だから、他の子供たちと一緒に巡回していたところで役に立つはずもなかった。
ただし、アルノはひとつだけ奇妙な特技があった。
とにかく、敵の気配に敏感なのだ。
肉食獣なり、魔物なりが近づくととにかくすぐに察知する。
そして、悲鳴をあげる。
尻に帆をかけて逃げ出す。
他の誰も、敵の存在にすら気が付かないうちにアルノはその存在を察知して逃げ出すのだ。他の子供たちにしてみれば『アルノが逃げ出せば敵がいる』と言うことで、言わば警報としてアルノの存在は重宝されていた。もちろん、あとで『アルノの弱虫や~い』と囃し立てるがお定まりなのだが。
最初の頃はその臆病振りを叱っていた母も諦めたのか、いまではほとんど何も言わなくなった。アルノにとって母の沈黙はどんなにひどい罵声を浴びせられるよりも辛いものだった。
――僕だって……僕だっていつかきっと。
これで何度目だろう。
アルノはベッドのなかで歯がみしながらそう呟いていた。
翌日。
日の出と共に起き出したアルノは日課の水汲みと薪割りをすませると、薪割り用の手斧をもって振りまわしはじめた。
遊んでいるのではない。
れっきとした稽古である。
自分がひどい臆病者であることはもちろん、自覚している。そのことで両親が嗤いものにされていることも知っている。だからこそ、少しでも強くなりたい、いとこであるアルノス兄さんのような立派な戦士になって両親の誇れる息子になりたい。その一心で稽古に励んできた。
稽古を休んだことは一日たりとてないのだ。
実際、アルノの戦闘技術は決して低いものではない。
むしろ、秀でている。足捌きも、斧の振るい方も、この歳にしては見事と言っていいほどのものだ。いとこのアルノスから教えられた基本を忠実に、愚直に、毎日まいにち繰り返してきた結果だ。
おそらく、技量に限れば村のなかの同年代の子供たちのなかで随一だろう。その技量を生かすことさえ出来れば村のどんな子供にも打ち勝てるはずだった。
しかし、駄目なのだ。
どんに技量が優れていても、いざ試合となると相手の気迫に押されてしまう。肝の芯から縮みあがり、武器を捨てて逃げ出してしまう。
そして、嗤いものになる。
その繰り返し。
それでも――。
それでも、稽古だけはつづけてきた。
――僕だって、僕だって父さんの息子なんだ。アルノス兄さんのいとこなんだ。いつか、いつかきっと、それにふさわしい男になれる!
そう信じて手斧を振るいつづける。
ヒューと音を立てて一話の影が舞いおりた。
アルノが一息ついたその隙を狙って肩に舞いおりた。
「やあ、おはよう、ベルン」
アルノは笑顔で挨拶した。
ベルンと呼ばれた大鷲はアルノの肩でのどかに羽繕いをはじめた。
飼っている。というのではない。
れっきとした野性の大鷲である。
それが、なぜか数年前から妙に気に入られており、アルノがひとりで稽古しているとこうしてやってきてはアルノの肩で羽繕いをするようになった。そのついでにマヌサーの肉の切れっ端を少しばかりもらっていく。そのお返しのつもりか、ときおり、自分の狩った鼠やら狐やらを置いていくのだ。
『ベルン』と名付けたのはアルノである。
わざわざ『勇敢、強い』という意味をもつ『ベルンハルト』から名付けたのは、アルノ自身の『勇敢な男になりたい』という願望からだった。
大鷲のベルンは少年のそんな願望を知ってか知らずかのどかに羽繕いをしている。
「おはよう、アルノ」
明るく朗らかな声がした。その声に――。
アルノの頬がたちまち赤くなる。
「お、おはよう、メグ」
「今朝も早いのね。ベルンも相変わらず一緒なのね」
「う、うん……」
バスケットを手にした少女はにこやかな笑顔でそう言った。
近所の家に住む幼馴染みの少女である。本名は『マルグレーテ』と言うのだが、子供が呼ぶには長いので略して『メグ』と呼ばれている。
メグは手にしたバスケットを掲げながら言った。
「朝ご飯、作ってきたの。一緒にどう?」
「う、うん……!」
アルノははにかんだ、それでも、喜びに輝く笑顔を見せた。
アルノとメグは木の切り株に腰掛けてメグお手製の朝食に取りかかった。バスケットのなかにはマヌサーの燻製肉とチーズを挟んだサンドイッチがぎっしり詰まっている。
「うわあ、おいしそう。メグは料理が上手だなあ」
「よしてよ。サンドイッチなんて具材を切って、はさむだけなんだから」
メグの方も褒められて照れたらしい。はにかんだ笑顔で答えた。大鷲のベルンはと言えば、人間同士のぎこちないやり取りなと知らぬ顔でお裾分けの燻製肉をついばんでいる。
「ねえ、アルノ。今日は巡回はいいんでしょう? あとで森に行かない? アルノの描いた絵をまた見たいわ」
「う、うん、いいよ……!」
アルノは破顔した。
およそ、アルノにとって密かにでも自慢できるものがあるとはすればただひとつ、絵の腕前だけだった。木でも、草でも、花々でも、その場にあるものを実に生き生きと描き写すことが出来た。動物にいたっては一目見ただけで細かい特徴から動きまで覚え、絵として再現してしまう。
それはまさに天恵。
そう言っていいほどの才能だった。
しかし――。
尚武の国であるオグルにおいては、絵の腕前で評価されたりはしない。オグル人にとって人間の価値とはあくまでも『強くてなんぼ』なのだ。
そのなかでメグだけがアルノの絵の腕を評価してくれていた。
「あたしはアルノの描く絵が好きなの」
いつもそう言ってくれる。
およそ、この村のなかでアルノを馬鹿にしない子供と言えば、メグひとりきりだった。アルノがいくら村中から馬鹿にされてもメグだけはかばってくれた。
「アルノは臆病かも知れないけど、でも! あたしが危ないときにはきっと助けてくれるわ」
メグはいつだってそう言い張っていた。
幼い顔を真っ赤にして、そう叫んでいた。
――そうとも。
メグのそのときの表情を思い出しながらアルノは思った。
――僕だって、メグが危なくなったら勇敢な男になれる。メグをちゃんと守ってみせる。
アルノとメグは森に出かけ、並んで写生していた。
大鷲のベルンもちゃっかりその場にいて自慢の羽を手入れしている。
アルノの絵は実に見事なものだった。その場にある葉も、草も、その他のどんな細かいものも生き生きと映し出す。もし、その絵を例えばレオンハルト当たりの画商が見ればたちまち才能に魅せられ、絵師となるべく誘うに違いない。それほどのものだった。
「うわあ、アルノって本当に絵が上手ねえ。憧れちゃうわ」
「そ、そんなことないよ……。ただ、そこにあるものを描いているだけだし」
「そんなことない。もっと自慢していいよ。こんなに素敵な絵が描けるなんてすごいことだもの」
メグに熱心にそう言われ、アルノははにかんだ笑みをこぼした。
そのときだ。
アルノの全身をいつもの感覚が貫いた。
あれだ。
あの感覚。
危険な敵が間近に迫っているときのあの感覚。
そして、アルノは見た。森の木陰から自分たちを狙っている巨大な狼の姿を。
気が付いたとき――。
アルノはひとり、家に逃げ帰っていた。
メグの家には人だかりが出来ていた。
幸い、アルノのあげた悲鳴を聞きつけたおとなが駆けつけてくれたおかげでメグは殺されずにすんだ。それでも、その顔に牙を受け、傷を付けられていた。
「この傷は決して消えまい」
医師はそう宣告した。
「何だって、メグひとりで森のなかになんか出かけたんだ?」
「いや、アルノのやつが一緒だったらしい」
「アルノだって? あんなやつと一緒にいたってよけい危ないだけだろう」
「そうそう。どうせ、今回だってひとり、逃げ帰ったんだろう?」
「そうらしいな。アルノのお袋さんが謝りに来てたよ」
「本人はどうしたんだ?」
「さあな。合わす顔もなくて逃げ回ってるんじゃないのか?」
その通りだった。
アルノはメグに合わせる顔もないままに山のなかをさ迷っていた。
――あたしが危なくなったら、きっと助けてくれる!
メグはいつだってそう言って自分をかばってくれていた。そして、自分だって思っていたのだ。
――僕だってメグが危なくなれば勇敢な男になって守ってやれる!
根拠なんて何もなかったけれど、そう信じていた。
そう信じていたからこそ、他の子供たちにどんなに馬鹿にされようと耐えていられたのだ。
でも、もう駄目だ。
僕はメグをおいて逃げた。
大切な幼馴染みをおいてたったひとり、逃げ帰ったんだ。
メグが危なくなっても勇敢な男になんてなれなかった。僕は本当に臆病な、どうしようもないやつなんだ。
「僕なんて……僕んて、生きていたって仕方ないんだ!」
叫びと共にアルノは絵筆をへし折り、崖下へと投げ捨てた。
そして、次には自分の生命を投げ出そうとした。
生まれ付き臆病で、勇気の欠片もない少年。
その少年が生涯で最初に見せた勇気。
それは――。
自分の生命を捨てるための行為だった。
崖から身を投げ出そうとした。その瞬間――。
ガシッ! と、音を立ててアルノの頭はつかまれていた。
すごい力だった。その手は強引にアルノの体を引きずり戻し、自分の方を向かせた。そこには一際、大柄な、厳しい表情の男が立っていた。
「ア、アルノス兄さん……」
アルノは目を丸くして驚いた。
そこにいたのは歳の離れたいとこであり、オグル筆頭将軍アルノスだった。
アルノスはアルノに向かってボソリと言った。
「任務だ」
「に、任務……?」
「逃げ兎が人類の役に立つときがきたのだ」
我らが英雄、逃げ兎!
これは後にそう呼ばれることになる少年の物語。
完
家の扉を音高く開けて駆け込んできた息子を見て、母はさして興味なさそうにそう尋ねた。
「うっ……」
アルノは母の言葉に何も言えなかった。
家のなかに入ったところで身動き取れなくなり、立ち尽くしているだけだった。その表情はなんともしょぼくれたものであり、一目見た誰もが『なんだ、その顔は! シャッキリしろ!』と怒鳴りつけたくなるようなものだった。
「さっさと扉を閉めな。熱が逃げるだろ」
これからまた巡回に向かうって言うなら別だけどね。
家畜の毛を梳いて織物をしている母は別段、皮肉と言った様子でもなくそう告げた。
アルノはうなだれたまま黙って扉を閉めた。
そして、何も言わないまま自分の部屋に向かった。
大陸北方の雄国オグル。
北の大地に広がる峻険な山々と厳しい寒さとは、大柄で体力に優れた強靱な民族を育んだ。オグル人は皆、大柄であり、筋骨たくましい。当然、剛力であり、疲れ知らずの体力を誇る。
――鬼部と素手で殴り合って勝てるのはオグル人だけだ。
そうとまで言われる民族である。
アルノもそのオグル人であるからにはその資質を受け継いでいるはずなのだが――。
たしかに、背は高い。同年代の少年たちより頭ひとつ抜き出ている。しかし、体型はヒョロヒョロしており、添え木なしでは立っていられない糸杉の苗木のよう。
山々を駆ける脚力はあるが、それが戦いに生かされたことはない。
逃げる。
とにかく、逃げる。
せっかくの脚力もそのためにしか使われることはなかった。
アルノは今年一二歳。
尚武の国オグルでは一二歳と言えば立派な戦士見習い。おとなたちに混じって家畜を脅かす野生の獣や魔物たちを狩りに行っていい年代である。
オグルは牧畜の国だ。
峻険で寒気の厳しい山岳地帯に位置するだけに農業にはまったく向かず、もっぱら『マヌサー』と呼ばれる家畜を飼って暮らしを立てている。
マヌサーは牛のように大柄な山羊の一種で、長く暖かい毛と豊富な乳、それに、臭みはあるが、たっぷりの肉を与えてくれる。
他にこれと言った産業があるわけでもなく、マヌサーから採れる毛と乳と肉で自給生活を営んでいる他、その強靱な肉体を生かして各国に傭兵や鉱夫として出稼ぎに行くことで生計を立てている。
そんなオグルにとってマヌサーの生育は死活問題。もし、マヌサーたちの成長が悪かったり、死に絶えてしまったりすれば次は自分たちが死ぬ番だ。
オグル人はそのことを知り尽くしている。
だから、マヌサーの保護には気を使う。自分の子供よりもマヌサーを大切にするぐらいだ。
そのマヌサーにとっての大敵が山々に住む肉食獣や魔物たち。
マヌサーは敵の気配に敏感であり、肉食獣や魔物が側にいるだけで生育が悪くなり、乳の出も悪くなる。そこで、どの村でも村人による狩猟団を組織し、周囲を巡回してマヌサーを脅かす肉食獣や魔物を狩る習慣になっている。そして、それは一〇代になった子供たちの大切な仕事なのだ。
子供たちにとってそれは大切な家畜を守るための任務であり、将来、立派な戦士になって国を守るための鍛錬でもある。とくに、対鬼部戦役におとなたちがとられ、どこの村でも人手不足になっている現在、子供たちによる家畜の保護は重要さをましていた。
アルノも当然、村のひとりとして巡回に参加している。しかし――。
戦えた試しは一度もない。
アルノはとにかく臆病だった。
肉食獣や魔物の気配を感じただけで縮みあがり、悲鳴をあげて逃げてしまうのだ。
付いたあだ名が『逃げ兎』。
兎のように臆病で、兎のように逃げ足が速いからだ。
他の子供たちからはなにかにつけ『逃げ兎、逃げ兎』とからかわれる。
そして、子供たちのそんな囃し立てる声を聞くと村のおとなたちは決まってこう言うのだ。
「馬鹿なことを言うな。兎はおれたちに大切な毛皮と肉を与えてくれる。あいつは何も与えてくれない」
アルノは血統としては申し分ない。
何しろ、かの人の父は国の将軍を務める立派な軍人であり、その兄、つまり、アルノの伯父は先代の筆頭将軍。そして、伯父の息子、つまり、アルノの歳の離れたいとこに当たるアルノスは若き烈将として知られる現筆頭将軍。
アルノスは幼い頃から体も大きく、体力にも優れ、武芸に秀でていた。一〇代の頃にはすでに国中に敵なしと言われるほどの逸材だった。アルノという名前もそのアルノスのように勇猛な戦士となるように、との願いを込めて名付けられたものだった。だが――。
アルノの性格はその親の願いとはまったくの反対だった。
とにかく、臆病。
とにかく、怖がり。
自分の後ろを猫が音を立てて通り過ぎただけでビクッと身をすくませる。
山鳥が草むらから飛び立てば、その物音に驚いて飛びあがる。
そんな有り様。
だから、他の子供たちと一緒に巡回していたところで役に立つはずもなかった。
ただし、アルノはひとつだけ奇妙な特技があった。
とにかく、敵の気配に敏感なのだ。
肉食獣なり、魔物なりが近づくととにかくすぐに察知する。
そして、悲鳴をあげる。
尻に帆をかけて逃げ出す。
他の誰も、敵の存在にすら気が付かないうちにアルノはその存在を察知して逃げ出すのだ。他の子供たちにしてみれば『アルノが逃げ出せば敵がいる』と言うことで、言わば警報としてアルノの存在は重宝されていた。もちろん、あとで『アルノの弱虫や~い』と囃し立てるがお定まりなのだが。
最初の頃はその臆病振りを叱っていた母も諦めたのか、いまではほとんど何も言わなくなった。アルノにとって母の沈黙はどんなにひどい罵声を浴びせられるよりも辛いものだった。
――僕だって……僕だっていつかきっと。
これで何度目だろう。
アルノはベッドのなかで歯がみしながらそう呟いていた。
翌日。
日の出と共に起き出したアルノは日課の水汲みと薪割りをすませると、薪割り用の手斧をもって振りまわしはじめた。
遊んでいるのではない。
れっきとした稽古である。
自分がひどい臆病者であることはもちろん、自覚している。そのことで両親が嗤いものにされていることも知っている。だからこそ、少しでも強くなりたい、いとこであるアルノス兄さんのような立派な戦士になって両親の誇れる息子になりたい。その一心で稽古に励んできた。
稽古を休んだことは一日たりとてないのだ。
実際、アルノの戦闘技術は決して低いものではない。
むしろ、秀でている。足捌きも、斧の振るい方も、この歳にしては見事と言っていいほどのものだ。いとこのアルノスから教えられた基本を忠実に、愚直に、毎日まいにち繰り返してきた結果だ。
おそらく、技量に限れば村のなかの同年代の子供たちのなかで随一だろう。その技量を生かすことさえ出来れば村のどんな子供にも打ち勝てるはずだった。
しかし、駄目なのだ。
どんに技量が優れていても、いざ試合となると相手の気迫に押されてしまう。肝の芯から縮みあがり、武器を捨てて逃げ出してしまう。
そして、嗤いものになる。
その繰り返し。
それでも――。
それでも、稽古だけはつづけてきた。
――僕だって、僕だって父さんの息子なんだ。アルノス兄さんのいとこなんだ。いつか、いつかきっと、それにふさわしい男になれる!
そう信じて手斧を振るいつづける。
ヒューと音を立てて一話の影が舞いおりた。
アルノが一息ついたその隙を狙って肩に舞いおりた。
「やあ、おはよう、ベルン」
アルノは笑顔で挨拶した。
ベルンと呼ばれた大鷲はアルノの肩でのどかに羽繕いをはじめた。
飼っている。というのではない。
れっきとした野性の大鷲である。
それが、なぜか数年前から妙に気に入られており、アルノがひとりで稽古しているとこうしてやってきてはアルノの肩で羽繕いをするようになった。そのついでにマヌサーの肉の切れっ端を少しばかりもらっていく。そのお返しのつもりか、ときおり、自分の狩った鼠やら狐やらを置いていくのだ。
『ベルン』と名付けたのはアルノである。
わざわざ『勇敢、強い』という意味をもつ『ベルンハルト』から名付けたのは、アルノ自身の『勇敢な男になりたい』という願望からだった。
大鷲のベルンは少年のそんな願望を知ってか知らずかのどかに羽繕いをしている。
「おはよう、アルノ」
明るく朗らかな声がした。その声に――。
アルノの頬がたちまち赤くなる。
「お、おはよう、メグ」
「今朝も早いのね。ベルンも相変わらず一緒なのね」
「う、うん……」
バスケットを手にした少女はにこやかな笑顔でそう言った。
近所の家に住む幼馴染みの少女である。本名は『マルグレーテ』と言うのだが、子供が呼ぶには長いので略して『メグ』と呼ばれている。
メグは手にしたバスケットを掲げながら言った。
「朝ご飯、作ってきたの。一緒にどう?」
「う、うん……!」
アルノははにかんだ、それでも、喜びに輝く笑顔を見せた。
アルノとメグは木の切り株に腰掛けてメグお手製の朝食に取りかかった。バスケットのなかにはマヌサーの燻製肉とチーズを挟んだサンドイッチがぎっしり詰まっている。
「うわあ、おいしそう。メグは料理が上手だなあ」
「よしてよ。サンドイッチなんて具材を切って、はさむだけなんだから」
メグの方も褒められて照れたらしい。はにかんだ笑顔で答えた。大鷲のベルンはと言えば、人間同士のぎこちないやり取りなと知らぬ顔でお裾分けの燻製肉をついばんでいる。
「ねえ、アルノ。今日は巡回はいいんでしょう? あとで森に行かない? アルノの描いた絵をまた見たいわ」
「う、うん、いいよ……!」
アルノは破顔した。
およそ、アルノにとって密かにでも自慢できるものがあるとはすればただひとつ、絵の腕前だけだった。木でも、草でも、花々でも、その場にあるものを実に生き生きと描き写すことが出来た。動物にいたっては一目見ただけで細かい特徴から動きまで覚え、絵として再現してしまう。
それはまさに天恵。
そう言っていいほどの才能だった。
しかし――。
尚武の国であるオグルにおいては、絵の腕前で評価されたりはしない。オグル人にとって人間の価値とはあくまでも『強くてなんぼ』なのだ。
そのなかでメグだけがアルノの絵の腕を評価してくれていた。
「あたしはアルノの描く絵が好きなの」
いつもそう言ってくれる。
およそ、この村のなかでアルノを馬鹿にしない子供と言えば、メグひとりきりだった。アルノがいくら村中から馬鹿にされてもメグだけはかばってくれた。
「アルノは臆病かも知れないけど、でも! あたしが危ないときにはきっと助けてくれるわ」
メグはいつだってそう言い張っていた。
幼い顔を真っ赤にして、そう叫んでいた。
――そうとも。
メグのそのときの表情を思い出しながらアルノは思った。
――僕だって、メグが危なくなったら勇敢な男になれる。メグをちゃんと守ってみせる。
アルノとメグは森に出かけ、並んで写生していた。
大鷲のベルンもちゃっかりその場にいて自慢の羽を手入れしている。
アルノの絵は実に見事なものだった。その場にある葉も、草も、その他のどんな細かいものも生き生きと映し出す。もし、その絵を例えばレオンハルト当たりの画商が見ればたちまち才能に魅せられ、絵師となるべく誘うに違いない。それほどのものだった。
「うわあ、アルノって本当に絵が上手ねえ。憧れちゃうわ」
「そ、そんなことないよ……。ただ、そこにあるものを描いているだけだし」
「そんなことない。もっと自慢していいよ。こんなに素敵な絵が描けるなんてすごいことだもの」
メグに熱心にそう言われ、アルノははにかんだ笑みをこぼした。
そのときだ。
アルノの全身をいつもの感覚が貫いた。
あれだ。
あの感覚。
危険な敵が間近に迫っているときのあの感覚。
そして、アルノは見た。森の木陰から自分たちを狙っている巨大な狼の姿を。
気が付いたとき――。
アルノはひとり、家に逃げ帰っていた。
メグの家には人だかりが出来ていた。
幸い、アルノのあげた悲鳴を聞きつけたおとなが駆けつけてくれたおかげでメグは殺されずにすんだ。それでも、その顔に牙を受け、傷を付けられていた。
「この傷は決して消えまい」
医師はそう宣告した。
「何だって、メグひとりで森のなかになんか出かけたんだ?」
「いや、アルノのやつが一緒だったらしい」
「アルノだって? あんなやつと一緒にいたってよけい危ないだけだろう」
「そうそう。どうせ、今回だってひとり、逃げ帰ったんだろう?」
「そうらしいな。アルノのお袋さんが謝りに来てたよ」
「本人はどうしたんだ?」
「さあな。合わす顔もなくて逃げ回ってるんじゃないのか?」
その通りだった。
アルノはメグに合わせる顔もないままに山のなかをさ迷っていた。
――あたしが危なくなったら、きっと助けてくれる!
メグはいつだってそう言って自分をかばってくれていた。そして、自分だって思っていたのだ。
――僕だってメグが危なくなれば勇敢な男になって守ってやれる!
根拠なんて何もなかったけれど、そう信じていた。
そう信じていたからこそ、他の子供たちにどんなに馬鹿にされようと耐えていられたのだ。
でも、もう駄目だ。
僕はメグをおいて逃げた。
大切な幼馴染みをおいてたったひとり、逃げ帰ったんだ。
メグが危なくなっても勇敢な男になんてなれなかった。僕は本当に臆病な、どうしようもないやつなんだ。
「僕なんて……僕んて、生きていたって仕方ないんだ!」
叫びと共にアルノは絵筆をへし折り、崖下へと投げ捨てた。
そして、次には自分の生命を投げ出そうとした。
生まれ付き臆病で、勇気の欠片もない少年。
その少年が生涯で最初に見せた勇気。
それは――。
自分の生命を捨てるための行為だった。
崖から身を投げ出そうとした。その瞬間――。
ガシッ! と、音を立ててアルノの頭はつかまれていた。
すごい力だった。その手は強引にアルノの体を引きずり戻し、自分の方を向かせた。そこには一際、大柄な、厳しい表情の男が立っていた。
「ア、アルノス兄さん……」
アルノは目を丸くして驚いた。
そこにいたのは歳の離れたいとこであり、オグル筆頭将軍アルノスだった。
アルノスはアルノに向かってボソリと言った。
「任務だ」
「に、任務……?」
「逃げ兎が人類の役に立つときがきたのだ」
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これは後にそう呼ばれることになる少年の物語。
完
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主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
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