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二五章 ひびき、その哀
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無数の鬼たちがいっせいになだれ込んだ。
まっていたのだ、このときを。
待ち焦がれていたのだ、このときを。
この石の時代にあって奇跡のように希望と活気に満ちた場所、さいかいの杜。そのさいかいの杜を襲い、人々を殺し、怒りと憎しみにたぎらせ、無念の思いに凝り固まらせ、自分たちと同じ鬼へと堕とす。
それほど楽しいことがあろうか。
それほど面白いことがあろうか。
あるわけがない!
それこそまさに鬼の本懐。
喜喜喜、
喜喜喜、
鬼の笑いが夜空に満ちる。
我先にとさいかいの杜へ飛び込んでいく。
「くそっ!」
いのりは叫んだ。鬼斬りの太刀を抜いた。鬼たちを追って走った。
たいざは霊石を握り締めたまま踊るようにして走っていく。しかし、もうたいざにかまっている余裕はない。たとえ、たいざをとめて霊石を取り戻したところでいのりたちに新しく結界を張る力はない。
強力すぎる結界の弊害だ。杜ノ王の張った結界が崩されたあと、再び、結界を張りなおすためには杜ノ王と同じ力がいる。そんな力をもつものは杜ノ王本人しかいないのだ!
それになにより、鬼の群れはすでに祠の内側に入り込んでしまっている。いまさら結界を張りなおしたところで内側にもぐり込んでしまった鬼たちはどうしようもない。いまはとにかく、さいかいの杜に侵入した鬼たちを倒すのが最優先だった。
――くそっ、
――くそっ、
――くそっ!
いのりは腹のなかで叫びつづけた。
いのりにはわかっていた。これからなにが起こるのか。
結界を崩され、杜ノ王もいない。杜の人間たちでは鬼に対抗できない。自分としらべ、それに、やくもだけではあれだけの鬼を退治するのに時間がかかりすぎる。その間にさいかいの杜は、人々は……。
これから繰り広げられるだろう地獄絵図を想像していのりは涙を流して叫んだ。
――くそっ、またか、またもひびきに殺されるのか。あたしはいったい、なにをやってるんだ。ひびきを追う? ひびきをとめる? とめられた試しがないじゃないか、いつだって、ひびきの好きなようにされてるだけじゃないか。なにが斬鬼士だ、あたしなんてなんの役にも立たない、なんの役にも……。
はらわたをギリギリとつかみ出されるようなくやしさにさいなまれながら、それでもいのりはさいかいの杜を目差して走った。
たいざは踊っていた。
踊ったまま走っていた。
踊りながらひびきのもとへとやってきた。
「さあ、ひびき、霊石だ、霊石をもってきたぞ」
泡を吹くようにして言う。その目はもはや目の前の老婆を見てはいない。見ているものは幻想のなかの美しい女と豪奢な宮だけだ。
「さあ、早く、早くもとの美しい姿に戻ってくれ、またいままでどおり、おれをもてなしてくれ!」
ひびきは顔をあげた。そこにあったのは泣き崩れる老婆の顔ではなかった。まして、なまめかしい若い女の顔ではない。そこにあったのは憎悪にゆがんだ山姥の顔だった。
「この痴れものがあっ!」
ひびきの腕が夜風を裂いた。
力任せにぶん殴った。
たいざはもんどりうって倒れた。殴られた頬がボコリと陥没していた。
信じられない……。
そう訴える目でたいざはひびきを見た。
「な、なにをする、ひびき……おれはお前のために……」
「お前のためじゃと? 自分のためであろうが、自分の欲望を満たすためにみなを裏切ったのであろうが! 見よ! きさまのせいで結界は崩れた、もはや、鬼たちを阻むものはなにもない。さいかいの杜は滅びる。みんな、みんな、殺されるのじゃ。すべてはきさまの愚行のゆえよ!」
「な、なんだって? だって、だって、言ったじゃないか。『霊石のひとつぐらいとったって結界は崩れない』って。だましたのか⁉」
泣きそうになっていた。陥没した頬を手で押さえている。しかし、頬の痛みなど感じていない。感じているのは心の痛み。それだけだった。
「だまされたぬしが悪いのよ。ぬしの心に我欲があったからこそ、我が術に反応したのよ。ぬしの心に働かずに食いたいという思いが、みなを犠牲にしてでも自分ひとりいい目にあいたいという思いがあったからこそ、だまされたのよ」
「だましたんだな、おれを……」
「いいことを教えてやる、ぬしが遊んでいたのはみな、夢よ。幻よ、我が幻術によって幻のなかに浮かんだ幻よ。ぬしはひとりで酒を飲んだつもりになり、馳走を食った気になり、女と戯れている気になっていたのよ。見よ!」
ひびきは着物をはだけた。骨に皮を貼りつけたような無残な肉体が現れた。
「これがわしよ、わしの本当の姿よ。ぬしの見ていた若く、見目麗しい女の姿こそ幻想! ぬしがおぼれ、むしゃぶりついていたのは、この醜く老いさらばえた体よ!」
「だましていたんだな、ずっと……」
たいざは泣き出した。
ひびきはたいざを蹴った。
蹴った、
蹴った、
蹴りつづけた。
「愚か者が、裏切り者が、ぬしさえ、おぬしさえいなければわしは……!」
ひびきはたいざを見ているのではなかった。たいざを通じて別の誰かを見ていた。別の誰かへの怒りと憎悪をぶつけていた。
ドカ、
ドカ、
ドカ、
たいざを蹴る音が鳴り響く。
あまりにも強く、そして、何度もなんども蹴りつづけたので、たいざの体はあっという間にグチャグチャになっていた。踏み潰された肉と骨が流れた血と交じりあい、スープとなり、石の大地に吸い込まれていく。それでも、ひびきは蹴るのをやめない。
――ここまでするとはいったい、どんな恨みがあるのか。
見るものがあればそう思い、怖くなる。
そんな光景だった。
ようやく、ひびきが蹴るのをやめた。ざんばらの髪をさらに押し乱し、肩で息をしている。限界まで見開かれた目は真っ赤に血走り、乱食い歯ののぞく口がハアハアとあえいでいる。
たいざの肉体はすでにその姿さえとどめていなかった。
「ふふふ、ふははは、いのりよ、これから起こることを見て絶望に打ちひしがれるがいい。杜ノ王よ、変わり果てた己が杜を見て怒り狂うがいい。しょせん、すべては夢、はかなき夢よ。実現するなどありえんのだ」
かっかっかっ、
かっかっかっ、
ひびきのくぐもった笑いが夜の闇に満ち満ちた。
まっていたのだ、このときを。
待ち焦がれていたのだ、このときを。
この石の時代にあって奇跡のように希望と活気に満ちた場所、さいかいの杜。そのさいかいの杜を襲い、人々を殺し、怒りと憎しみにたぎらせ、無念の思いに凝り固まらせ、自分たちと同じ鬼へと堕とす。
それほど楽しいことがあろうか。
それほど面白いことがあろうか。
あるわけがない!
それこそまさに鬼の本懐。
喜喜喜、
喜喜喜、
鬼の笑いが夜空に満ちる。
我先にとさいかいの杜へ飛び込んでいく。
「くそっ!」
いのりは叫んだ。鬼斬りの太刀を抜いた。鬼たちを追って走った。
たいざは霊石を握り締めたまま踊るようにして走っていく。しかし、もうたいざにかまっている余裕はない。たとえ、たいざをとめて霊石を取り戻したところでいのりたちに新しく結界を張る力はない。
強力すぎる結界の弊害だ。杜ノ王の張った結界が崩されたあと、再び、結界を張りなおすためには杜ノ王と同じ力がいる。そんな力をもつものは杜ノ王本人しかいないのだ!
それになにより、鬼の群れはすでに祠の内側に入り込んでしまっている。いまさら結界を張りなおしたところで内側にもぐり込んでしまった鬼たちはどうしようもない。いまはとにかく、さいかいの杜に侵入した鬼たちを倒すのが最優先だった。
――くそっ、
――くそっ、
――くそっ!
いのりは腹のなかで叫びつづけた。
いのりにはわかっていた。これからなにが起こるのか。
結界を崩され、杜ノ王もいない。杜の人間たちでは鬼に対抗できない。自分としらべ、それに、やくもだけではあれだけの鬼を退治するのに時間がかかりすぎる。その間にさいかいの杜は、人々は……。
これから繰り広げられるだろう地獄絵図を想像していのりは涙を流して叫んだ。
――くそっ、またか、またもひびきに殺されるのか。あたしはいったい、なにをやってるんだ。ひびきを追う? ひびきをとめる? とめられた試しがないじゃないか、いつだって、ひびきの好きなようにされてるだけじゃないか。なにが斬鬼士だ、あたしなんてなんの役にも立たない、なんの役にも……。
はらわたをギリギリとつかみ出されるようなくやしさにさいなまれながら、それでもいのりはさいかいの杜を目差して走った。
たいざは踊っていた。
踊ったまま走っていた。
踊りながらひびきのもとへとやってきた。
「さあ、ひびき、霊石だ、霊石をもってきたぞ」
泡を吹くようにして言う。その目はもはや目の前の老婆を見てはいない。見ているものは幻想のなかの美しい女と豪奢な宮だけだ。
「さあ、早く、早くもとの美しい姿に戻ってくれ、またいままでどおり、おれをもてなしてくれ!」
ひびきは顔をあげた。そこにあったのは泣き崩れる老婆の顔ではなかった。まして、なまめかしい若い女の顔ではない。そこにあったのは憎悪にゆがんだ山姥の顔だった。
「この痴れものがあっ!」
ひびきの腕が夜風を裂いた。
力任せにぶん殴った。
たいざはもんどりうって倒れた。殴られた頬がボコリと陥没していた。
信じられない……。
そう訴える目でたいざはひびきを見た。
「な、なにをする、ひびき……おれはお前のために……」
「お前のためじゃと? 自分のためであろうが、自分の欲望を満たすためにみなを裏切ったのであろうが! 見よ! きさまのせいで結界は崩れた、もはや、鬼たちを阻むものはなにもない。さいかいの杜は滅びる。みんな、みんな、殺されるのじゃ。すべてはきさまの愚行のゆえよ!」
「な、なんだって? だって、だって、言ったじゃないか。『霊石のひとつぐらいとったって結界は崩れない』って。だましたのか⁉」
泣きそうになっていた。陥没した頬を手で押さえている。しかし、頬の痛みなど感じていない。感じているのは心の痛み。それだけだった。
「だまされたぬしが悪いのよ。ぬしの心に我欲があったからこそ、我が術に反応したのよ。ぬしの心に働かずに食いたいという思いが、みなを犠牲にしてでも自分ひとりいい目にあいたいという思いがあったからこそ、だまされたのよ」
「だましたんだな、おれを……」
「いいことを教えてやる、ぬしが遊んでいたのはみな、夢よ。幻よ、我が幻術によって幻のなかに浮かんだ幻よ。ぬしはひとりで酒を飲んだつもりになり、馳走を食った気になり、女と戯れている気になっていたのよ。見よ!」
ひびきは着物をはだけた。骨に皮を貼りつけたような無残な肉体が現れた。
「これがわしよ、わしの本当の姿よ。ぬしの見ていた若く、見目麗しい女の姿こそ幻想! ぬしがおぼれ、むしゃぶりついていたのは、この醜く老いさらばえた体よ!」
「だましていたんだな、ずっと……」
たいざは泣き出した。
ひびきはたいざを蹴った。
蹴った、
蹴った、
蹴りつづけた。
「愚か者が、裏切り者が、ぬしさえ、おぬしさえいなければわしは……!」
ひびきはたいざを見ているのではなかった。たいざを通じて別の誰かを見ていた。別の誰かへの怒りと憎悪をぶつけていた。
ドカ、
ドカ、
ドカ、
たいざを蹴る音が鳴り響く。
あまりにも強く、そして、何度もなんども蹴りつづけたので、たいざの体はあっという間にグチャグチャになっていた。踏み潰された肉と骨が流れた血と交じりあい、スープとなり、石の大地に吸い込まれていく。それでも、ひびきは蹴るのをやめない。
――ここまでするとはいったい、どんな恨みがあるのか。
見るものがあればそう思い、怖くなる。
そんな光景だった。
ようやく、ひびきが蹴るのをやめた。ざんばらの髪をさらに押し乱し、肩で息をしている。限界まで見開かれた目は真っ赤に血走り、乱食い歯ののぞく口がハアハアとあえいでいる。
たいざの肉体はすでにその姿さえとどめていなかった。
「ふふふ、ふははは、いのりよ、これから起こることを見て絶望に打ちひしがれるがいい。杜ノ王よ、変わり果てた己が杜を見て怒り狂うがいい。しょせん、すべては夢、はかなき夢よ。実現するなどありえんのだ」
かっかっかっ、
かっかっかっ、
ひびきのくぐもった笑いが夜の闇に満ち満ちた。
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