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第二話 エンカウン攻防戦とはじまりの刻

七章 エンカウンの攻防

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 風前の灯火。
 いまのエンカウンの町ほど、その言葉の見本としてふさわしい場所はなかっただろう。
 町を守る防壁の外には何千という人間の死体が転がり、その向こうには鬼部おにべの軍勢。いまにもエンカウンの町を呑み込み、住民すべてを食らおうと舌なめずりしながら向かってくる。
 町と町の人々を守るべく、鬼部の前に立ちはだかるのは傷つき、疲れはて、身を守る鎧もなければ、敵を倒すための武器も尽きてしまったボロボロの騎士団。いや、もはや『騎士団』などと呼ぶことすらおこがましい。傷つき、力尽きた傷病者の群れだった。
 絶望。
 まさに、その言葉をそのまま現実にしたかのような光景だった。
 エンカウンはすでに三日三晩にわたって鬼部の攻撃にさらされていた。昼もなく、夜もなく、間断なく繰り返される襲撃。人間より巨大な体。人間より強靱な皮膚。人間より圧倒的に力強い筋肉。そのすべてを併せ持つ鬼たちが群れを成し、襲ってくる。エンカウンの町はそのすべての攻撃を退けてきた。
 自分たちの町を守る。
 そのために。
 その姿は人間という生き物のもつ崇高さを示すものであったろう。エンカウンの住人たちは騎士と言わず、民間人と言わず、騎士団長ジェイのもとで団結し、一人ひとりが自分の成しうることを成し、役割を果たすことで鬼部の侵攻を阻んできた。
 剣をもって戦えるものは防壁の外に立って立ち向かい、
 体力はあっても戦う術を知らないものは傷つき、倒れた仲間たちの救出と治療のために奔走し、
 それすらできない年寄りや子供たちは町中から物資をかき集め、提供することで騎士たちを支えた。
 そうすることで、エンカウンの町は鬼部の猛攻を凌いできたのだ。
 それは、もし、どこかよその世界からその光景を覗いている人間がいれば、感動の涙なくしては見ていられない、そんな光景だった。しかし――。
 その必死の防戦も、もはや限界に近づきつつあった。
 撃退しても、撃退しても、鬼部の軍勢は後からあとから湧き出てくる。まるで、海に浮かぶ鬼界島には鬼たちを生み出す生命の木があって、そこから無限に鬼たちが生み出され、送り込まれてくるかのように。
 これほどの数の鬼部の軍勢が一時に襲ってくることは、記録上、例のないことだった。昼夜を問わず、繰り返される攻撃に町の人々は疲れ切っていた。
 ジェイは騎士団を三つにわけ、三交代で休ませつつ戦ってきたのだが、いくら休めと言われたところで町がいままさに攻められているという状況で、まともに休めるものではない。食事をしてもまともに喉には通らず、眠りについても気ばかり焦って満足に眠れない。
 疲労が溜まる。
 体力が落ちる。
 頭がほんやりして何も考えられなくなる。
 そして、戦えば被害は出る。撃退はしてもその都度、負傷者が出る.。死者も出る。エンカウンの町はここまでたしかに鬼部の軍勢に勝ち続けてきた。しかし、勝ち続けることで追い詰められていく。戦えるものの数は減り続け、刻一刻と町の防衛力は失われていく。
 いまでは満足に戦える騎士の数は全体の一割を切ってしまった。普通ならとっくに病院のベッドの上で安静にしていなければならない重傷の騎士たちが必死に気力を奮い起こして体を支え、槍を構えて鬼たちの攻撃を退けようとしているのだ。それは確かにひとの感動を呼ぶ姿ではあっただろう。しかし――。
 『無駄な抵抗』そのままの姿でもあった。
 勝つことで滅びに向かう。
 いまのエンカウンはまさにその状況だった。
 張り巡らされた堀や防壁に頼り、町に籠もって戦うことは出来なかった。
 堀があろうが、防壁があろうが、鬼たちはその身体能力にものをいわせて飛び越し、駆けあがり、あっという間に町中に侵入してしまう。
 そして、ひとたび町中に侵入されてしまえば疾風のごとく駆けまわる鬼部を退治する術はない。たった一体の鬼部の侵入を許してしまっただけで何十、何百という住人が殺されてしまうのだ。そのことはこれまでの戦いの経験でわかっていた。
 たった一体でもその始末。まして、何百という軍勢がいっせいに侵入したら……。
 住人という住人すべてが殺し尽くされ、町はたちまち滅び去ってしまう。
 それを避けるためにはこちらから打って出て、体を張って止めるしかないのだ。
 ――しかし、なぜだ? なぜそうなる?
 指揮を執るジェイの頭からその疑問が離れることはなかった。
 最前線の町エンカウン。鬼部から人の世を守る役割を与えられた人類最大の防衛都市。そこに張り巡らされた堀も、防壁も、前回の鬼部の襲撃の際に、それに対抗するために作られたもののはず。
 と言うことはつまり、鬼部の身体能力をもってしても超えられない広さに、高さに、設計され、作られているはずなのだ。それなのに、今回の戦いではいともたやすく突破されてしまう――。
 ――まさか、こいつら、前回の襲撃のときより強くなっているのか?
 まさか、鬼部は襲撃のたびに強くなると言うのだろうか?
 もし、そうだとすれば……。
 それは、ジェイにとってさえ、背筋の凍るような恐ろしい予想だった。
 防壁の上では何人もの女たちが青ざめ、恐怖に駆られた姿をさらしていた。若い娘たちのなかには自分の運命を呪って泣き崩れるものもいた。
 ファイブボウの発射係である。
 防壁に台座を取り付けられた巨大な弓で、数人がかりで弦を引き、強力なバネの力を利用して五本の槍を同時に撃ち出す。台座を固定されているから狙いを付ける必要もない。数人がかりで弦を引くから、非力な女たちでも数さえそろえれば放つことができる。
 五本の槍を広範囲にわたって撃ち出す仕組みだから、でたらめに撃ってもどれかは当たる。確実に相手を仕留めることはできないが、押し寄せてくる軍勢に向かって放ち、牽制することはできる。前線の騎士たちがさがったときに立てつづけに発射すれば、鬼部の進軍を防ぎ、騎士たちが体勢を立て直す時間を稼ぐことができるのだ。
 戦闘訓練を受けたことのない女たちでも後方支援として役に立てるように。
 その目的のために騎士団副団長のアステスが考案した武器だった。
 事実、女たちは自分たちにできる最大限の力を振るって弦を引き続け、騎士団の後方支援として尽力してきた。しかし、それももう終わりだ。弦を引きつづけた手は皮膚が裂け、血があふれている。手も、足も、まるで棒のよう。筋肉という筋肉が力を使い果たし、悲鳴をあげている。
 なによりも、肝心の槍が尽きてしまった。三日三晩にわたる防衛戦のなかですべて使い果たした。槍がなくなってからは石やレンガ、果ては各家庭にある鍋や釜など、重くて打撃を与えられそうなものはなんでもかき集めて槍のかわりに放ってきたが、それももう終わりだ。台座だけあっても発射するものがなければ役には立たない。間もなく防衛線は突破され、鬼たちが防壁を乗り越えてやってくる。そうなれば……。
 絶望のあまり、その前に自殺しようとするものが現れるのも無理はなかった。
 もっとも、自殺したところで逃げられるわけではない。その死体は鬼たちの食料としてむさぼり食われ、鬼たちの胃の腑に納まるだけなのだから。
 その状況にあってなお、騎士団長ジェイは前線にあって剣を振るい、戦いつづけていた。
 かの人の奮戦振りは万人に賞賛されてしかるべきものだった。民間人の指揮は副団長のアステスに任せ、自身はこの三日三晩というもの、ほとんど休憩らしい休憩も取らずに戦いつづけてきたのだ。
 ジェイのまわりには無数の鬼部の死体が転がっていた。ひとりの人間がここまでの数の鬼を倒せるものなのか。そう思わせる数だった。
 その奮戦振りはまさに『鬼神』。ジェイのその姿こそ、人間とは思えないものだった。
 しかし、それもさすがに終わりつつあった。何しろこの三日間、まともに寝てもいなければ、食事さえとっていないのだ。
 頭が睡眠という名の休息を求めガンガンと不平をがなり立てる。
 体中の細胞という細胞が滋養を求めて泣き叫ぶ。
 鬼部の攻撃を受けつづけた鎧はもはや見る影もなくなり、手にする剣はいったい何本目だろう。戦場に斃れた部下の騎士からもぎ取ったものだ。
 その剣もしかし、半ばから折れ、残された剣身もひび割れ、もはや使い物にならない。
 鬼の武器を奪う、と言うわけにはいかなかった。
 鬼たちは武器を使わないからだ。
 鎧もまとわなければ、盾も使わない。剣も、槍も、棍棒さえも使わない。鬼にとってその強靱な肉体こそが即ち鎧であり、盾。そして、その手足こそが何物にも勝る武器。
 徹底した非武装は、自らを強者と任ずる鬼たちの誇りの表れだった。
 だからこそ、身体能力で圧倒的に劣る人間も装備の差で鬼と戦うことができるのだ。しかし、相手の武器を奪って使うことができない、という点においては不利な条件となる。人間側が武器を使い果たしてしまえばそのあとにくるものはただひとつ、鬼部による一方的な虐殺でしかない。
 ジェイは必死に呼吸を繰り返し、丹田に気を溜める。滋養が欲しいと泣き叫ぶ細胞をなだめ、最後の一滴まで力を振り絞る。
 ――おれは騎士だ。エンカウンの町を、エンカウンの人々を守るのはおれの役目だ。
 その思いだけでジェイは鬼部たちの前に立ちつづける。剣を振るいつづける。その姿はまさに、エンカウンの町へと至る決して砕けぬ最後の防壁。この騎士がいる限り、エンカウンの町が外敵に侵されることは決してない。
 万人にそう確信させる姿だった。
 のそり、と、そのジェイの前にひときわ大きな体格を誇る鬼が立ちはだかった。
 ジェイが小さいわけではない。人間としてはかなりの長身だ。しかし、その鬼の前ではまるで子供のように見えた。鬼の作る影にジェイの全身がすっぽりと入ってしまうほどに。
 ニヤリ、と、鬼が笑った。牙だらけの口が半ばほど開いた。
 「我こそは殴殺将軍ナックルベア。王の命を受け、人間どもを狩りに来たものなり」
 ひときわ巨体の鬼はそう名乗った。それから、改めてジェイを見た。不思議なことにその視線には親しみさえこもっているようだった。
 殴殺将軍ナックルベアはジェイに向かって優しいと言っていいほどの口調で語りかけた。
 「大した奮戦振りだったぞ。人間とは思えんほどだ。人ながらあっぱれ、褒めてやるぞ」
 ジェイは疲れ切ったその顔に笑みを浮かべて見せた。『ふてぶてしい』とさえ言っていいその笑みは、ジェイの精神力の強靱さを示していた。
 「そいつは嬉しいね。何しろ、鬼に褒められるのはこれが最初で最後だからな」
 「最後?」
 「次からは憎まれるからな! 数え切れないほどの鬼を殺した怨敵としてな」
 その言葉に――。
 殴殺将軍ナックルベアは大地も揺れよとばかりに大笑いした。
 「わっはっはっはっはっ! 言うではないか、人間! ますます気に入ったぞ。いやいや、強がりとは言えんな。何しろ、きさまひとりでこれだけの数の我が部下を殺してくれたのだ。たしかに、憎んでも憎み足りない相手ではある。だが、それ以上に感銘を受けた。それも確かだ。どうだ? 我が部下とならんか?」
 「なに?」
 「我らは強きものには敬意を払う。たとえ、人であろうと、強きものには最大限の礼儀を払う。きさまはこの戦いにおける奮戦によって、生きるに値する強者であることを自ら証明した。その力に敬意を表し、最大限の礼儀をもってきさまを迎えよう。きさまなら我が片腕にしてやるぞ。どうだ? 我と共にこの世界の隅々までも駆けまわり、殺し、食らおうではないか。それこそ男の本懐というものであろう」
 「なるほど。世界の隅々まで駆けまわり、ね。たしかに浪漫があるな」
 「であろう?」
 「だが、答える前にひとつ聞かせろ」
 「なんだ?」
 「お前たちはなぜ人間を襲う? 人間がお前たちに何をしたと言うんだ?」
 「愚問」
 ジェイの問いをナックルベアは一蹴した。
 「人を食うから鬼だろうが」
 「それだけか?」
 「他に何がいる? 鬼は人を食うもの。故に人を襲い、その血肉を食らう。それだけのこと。そこに理由などいらん」
 「なるほど。よくわかった。では、先ほどの誘いへの答えだが……」
 「うむ?」
 「お断りだ! おれは人を守るために騎士となった。人を食らう鬼とはならん!」
 「ならば死ね!」
 殴殺将軍ナックルベア。
 その銘にふさわしい巨大な拳がジェイを目がけて振りおろされる。
 二階から投げ付けられる巨岩のような一撃だった。まともに食らえばジェイと言えど全身をバラバラにされてしまう。
 ジェイはとうに限界を迎えている肉体の力を振り絞り、その一撃を避けた。だが――。
 拳を避けたと思ったときには暴風のごとき回し蹴りが放たれていた。千年の齢を経た樫の大木さえ一撃でへし折れる蹴り。人間など、これを食らったら最後、やられと気付く間もなく体を潰され、死んでしまう。
 ジェイは後ろに跳んでその一撃をかわそうとした。しかし――。
 戦いつづけた体はもう限界だった。それだけの力は残されていなかった。足は言うことを聞かず、力が抜け、膝が崩れ落ちる。そこへ、ナックルベアのすさまじい回し蹴りが襲う。
 「団長!」
 若々しい叫びがした。ひとつの人影が飛び出し、ジェイの体を突き飛ばした。
 「うわっ!」
 人影が悲鳴をあげた。ジェイを突き飛ばした分、もろにナックルベアの蹴りを食らっていた。その体はあっという間に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、転がった。
 「アステス!」
 ジェイは叫んだ。
 それは、常にジェイと共にある副団長のアステスだった。
 「う、う……」
 アステスは生きていた。紅顔の美少年そのものの愛らしい顔立ちに苦悶の表情を浮かべ、なんとかして立ちあがろうとあがいていた。
 ――生きていたか。
 ジェイはホッとして胸をなで下ろした。
 ジェイの体を突き飛ばしたあと、まったくの無防備な状態で蹴りを受けたのが逆に良かったのだ。ナックルベアの足にちょうど乗っかる形で吹き飛ばされたために蹴りによるダメージを食らうことがなかった。とは言え、怒濤の勢いで吹き飛ばされ地面に叩きつけられたのだ。そのダメージはさすがに尋常なものではない。立ちあがろうとしても立ちあがれるものではない。地面の上でもがくのが精一杯だった。
 「チッ……」
 ジェイは折れた剣を杖がわりに地面に突き刺し、必死に立ちあがった。アステスとナックルベアの間に割って入った。ニヤリ、と、ナックルベアが笑って見せた。
 「ほう。まだやると言うのか?」
 「当たり前だ。おれは騎士だ。人々を守る騎士だ。おれの前で誰も殺させはしない」
 「気に入ったぞ! それでこそつわもの。その意気に敬意を払い、我が最大の技で屠ってくれよう!」
 ナックルベアの言葉に嘘はなかった。ナックルベアはその巨大な手を組むと、高々と振りかぶった。両手に組んだ一撃で一気に押しつぶそうというのだ。
 ――くそっ、目がかすみやがる。
 組み合わせた拳を振りかざすナックルベアの姿さえ、いまのジェイにはぼやけた影としか映らなかった。三日三晩に渡って戦いつづけた疲労はそれほどのものだったのだ。
 もし、疲労がなく、万全の状態であったなら。
 丈夫だが、機能的な鎧を身につけていたなら。
 よく研がれた、傷ひとつない剣をもっていたなら。
 将軍級の鬼部と言えど、充分に渡り合うことができただろう。だが、肉体はとうに限界を迎え、見る影もなくなった鎧と、へし折れ、ひび割れた剣しかもたないいまのジェイでは、どうやっても対抗などできるはずもなかった。
 ナックルベアが組み合わせた拳を振りおろした。
 風が巻き起こった。
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