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第七話 ときにはこんな休日を

四一章 母と子のはじまり

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 「くう~、かわいいなあ。これがわたしの子かあ。よしよし、お前は必ずわたしが立派な騎士に育ててやるからな、アート」
 病院のベッドの上。アンドレアは産まれたばかりの我が子を抱きかかえながらそう語りかける。
 騎士として、常に引き締まっていた表情はいまや見る影もなく、デレデレのメロメロに崩れきっている。目尻などすっかりやに下がって締まらないことおびただしい。例えば、いつも説教ばかりされていたかつての婚約者、レオナルドあたりが見たら驚きのあまり目玉が飛び出しそうな有り様なのだった。
 アート。
 正式にはアート・アレクサンデル・アンドレアス。
 それが、アンドレアがはじめて産んだ我が子に付けた名前。
 『長い!』と、はじめて聞いた誰もが思うような名前だが、むろん、意味がある。
 アートは『熊』、『チャンピオン』。
 アレクサンデルは『戦士』、『人民を守る』。
 アンドレアスは『戦士』、『男らしい』。
 と、それぞれに意味をもっている。さらに、アンドレアの家名であるシュヴァリエはそのまま『騎士』の意味。同じ戦士系の名前を四つも重ねるあたりがいかにもアンドレアなのだが、とにもかくにも、子に対する親の願いを込めた名前であることにはちがいない。
 ちなみに『アンドレア』という名前はアンドレアスの女性形であり、やはり『男らしい』という意味を語源にもつ。
 レオンハルト王国でも五本の指に入る。
 そう言われるまでの騎士となったかの人には、誠にふさわしい名前だと言える。
 その大陸屈指の騎士はいまや、我が子を胸に抱いては相好を崩し、言葉など理解出来るはずもない赤子相手に語りかける日々。見る人によっては少々、アブなく感じるぐらいのものだった。病院の看護師も見るに見かねて忠告したが、別に『それじゃ、単なるアブない人です』などと言う忠告をしたわけではない。
 「アンドレアさん。何度も言っているでしょう。お子さんはまだ産まれたばかり。そんなに毎日、長い間、抱っこしていては負担になります。もっと、静かに寝かせてあげてください」
 看護士の忠告は心からのものだったが、アンドレアは振り合わない。
 「なんの。この子は、このアンドレアさまの子だ。この程度のことで根をあげたりするものか」
 その親馬鹿全開の言葉には看護士も溜め息をつくしかない。
 看護士の溜め息などあっさり無視して、アンドレアは我が子――そのイニシャルから後に『AAA』と呼ばれることになる男子――を高々と掲げ、得意満面に語りかけた。
 「いいか、アート。わたしは必ずお前をわたし以上の騎士に育ててやるからな。そして、いつか、母と共に鬼王を倒すのだ」
 「……言っていることが『お母さん』と言うより、『お父さん』なんですけど」
 と、再び、溜め息を付くしかない看護士だった。

 「一九八七七、一九八七八、一九八七九……!」
 渾身の気合いを込めて数えあげられる回数と共に、ヒュンヒュンと鋭い音を立てて剣が振るわれる。剣が振るわれるつど透明な汗が飛び散り、日の光を浴びてほんの一瞬、虹色に煌めき、消えていく。
 アンドレアだった。
 アンドレアが病院の屋上でひとり、剣の稽古に精を出しているのだった。
 アートを産んでから数日。ようやく、溺愛状態が一段落すると、今度はいままでできなかった分を取り返そうとするかのように稽古に励みはじめた。朝から晩まで屋上で剣を振るい、たらふく食べた。その食欲は同じく入院している出産直後の母親たちが唖然として見つめるほどのものだった。
 「二〇〇〇〇!」
 切りの良いところでいったん、手をとめ、流れる汗を大きめの布で拭く。浮かぶ笑顔は爽快そのもの。
 「いやあ、爽快、爽快! よく食べ、よく飲み、よく稽古する! これぞ、人生!」
 「ああ、アンドレアさん、また!」
 悲鳴にも似た看護士の叫びがあがった。
 「剣の稽古はいけないって先生から言われているでしょう! まだ出産直後で体調は戻っていないんです。ここで無理ないこなんかしたらすぐに体調を崩しますよ」
 いったん、言葉をとめて、さらにつづける。
 「それに、食事も食べ過ぎです! それも肉類ばっかり。もっと節制して、適切な食事を取らないと母乳の出にも影響が出ます。赤ちゃんの成長にも関わるんですよ」
 「いやあ、すまんすまん。出すものを出したらすっかり体も気分も軽くなってな。まるで、悪性の便秘が治ったようだ。ついつい体が動いてしまうのだ」
 頭の後ろに手を添えて『わっはっはっはっ!』と、高笑い。
 幼い頃から騎士志望だけあって、男たちに囲まれて育った。その分、立ち居振る舞いが少々、『お下品』になっているのは否めない。指摘されればムキになって否定するだろうが、こういうときのアンドレアは『女版ウォルター』そのままなのだった。
 「とにかく、この剣は没収です!」
 看護士は怒ったように言うと――実際、かなり怒っているのだろう――、アンドレアの長剣をむんずとつかみ、力任せにもぎ取った。さすがに看護士。見た目は華奢でも日々、力仕事に精を出しているおかげで力強い。さしものアンドレアが抵抗する暇もなく、剣をもぎ取られたほどだった。
 「さあ、ベッドに戻ってください! それから、今夜の食事は腹八分目。肉は控えめ、野菜をたっぷり。それは守ってくださいよ!」
 「わかった、わかった。言うとおりにするから押さないでくれ」
 そうは言ったものの――。
 アンドレアはその夜も大量の肉を腹いっぱい、平らげたのだった。

 そして、翌日。
 アンドレアの姿は病院のベッドの上にあった。熱を出して、めまいを起こし、ぶっ倒れた。
 「……うう、気持ちが悪い。天上がグルグル回っている。吐きそうだ」
 レオンハルトで五本の指に入る。
 そう称される屈強の騎士とも思えない弱々しい声で呻きつづける。
 そんなアンドレアを前に担当看護士は何度目かの溜め息をついた。
 「だから、何度も言ったでしょう。まだ出産直後で万全の体調ではないんだから稽古するのは早すぎる、食事も適切な量を食べるようにって。どっちも守らないからそんな目に遭うんですよ!」
 「……うう、面目ない」
 「子を産んだからにはあなたはもう、自分ひとりじゃないんですよ。赤ん坊は親の世話にならなくては生きていけないんです。まして、母親が体調不良に陥ってお乳をあげられなくなったらどうなると思いますか。赤ん坊にとって、母乳にかわる栄養なんてないんです。いいえ、栄養だけではありません。母親の胸に抱かれ、体温を感じ、心臓の鼓動を聞き、語りかけられる。その過程がとても大切なんです。そうすることで子供は『ひとりじゃない、ここは安心できる』と言うことを学ぶんです。その安心感を得られた子供と、得られなかった子供では、はっきりと成長に差が出ます。子を産んだからには、あなたには子を守る義務と責任があります。そのことを忘れないように』
 「わ、わかった。わかったからそうギャンギャン言わないでくれ。頭痛が痛い……」
 「自業自得です」
 「……ひとつ、頼みがあるのだが」
 「なんです?」
 「……迎え酒」
 「舐めてんのか!」

 担当看護士相手に漫才のようなやり取りをしながらではあったが、根が真面目なアンドレアであるからやることはやった。看護士の目を盗んでの剣の稽古や、産まれたばかりの我が子の世話をするかたわら、育児の仕方について学んだ。
 母乳の与え方、抱っこの仕方、おむつの替え方、風呂の入れ方、夜泣きの対処……。
 とにかく、赤ん坊の世話をする上で必要なことは一通り医師について学んだ。そういう、いわゆる『女性的』なことについては一切、無縁に生きてきたアンドレアだが、真面目で修行熱心な性格であるから、上達は早かった。生まれ付き頑健な体を鍛えあげてきた健康優良体のためか、乳の出もよかったから、その点でも安心だった。ただし、医師としてはどうにも心配な点があった。
 「あなたのように真面目で熱心な母親ほど陥りやすい育児の落とし穴、と言うものがあります」
 そう前置きしてから医師は話した。
 「ついつい、すべてを自分ひとりでこなそうとして、自分を追い詰めてしまうんです。育児はひとりでできることではありません。他人の世話になることは恥ではありません。誰だって必要なことなんです。縁者、親類、知人に友人、病院に至るまで、利用できるものはなんでも利用して他人の手を借りてください。なにかあったらいつでもこちらに来て頼ってください。お子さんのためにも。くれぐれも言っておきますが、決して自分ひとりでこなそうとして、なにもかもを背負ったりしないように……」
 「わかっている。心配は無用だ。このアンドレア、必ずや我が子を立派に育ってみせる」
 ふんぬ、とばかりに胸を張って宣言するアンドレアである。
 自分の言葉の意味をまったく理解していないアンドレアの態度に、医師は内心、溜め息をついた。
 ――こう言う自信満々な母親ほど危険なんだけど。
 自信があるだけに自分ひとりでこなせると思い込み、また、そうあるべきだと意地を張って他人に頼らず、破滅していく。そんな母親たちを何度も見ているだけに不安は尽きない。と言って、相手が助けを求めてこないのに勝手に押しかけて手伝うわけにもいかない。親類縁者とちがい、しょせん、他人である医師には出来ることへの限りがある。
 「とにかく、いいですね。自分ひとりで背負わないように。『助けて』と一言、言えば、助けてくれる人は必ずいるんです。そのことを忘れないように。他人に頼ることを恥と思ったりせず、頼るべきところはきちんと頼って……」
 「わかった、わかった。そうくどくど言うな。我が子はわたしのこの手で立派に育ててみせる」
 結局、医師の言うことをまったく理解していないアンドレアなのだった。

 そして、退院の日がやってきた。
 不安を隠せない医師や看護師に対し、アンドレアは自分ひとりだけ意気揚々と我が子を胸に抱えて帰って行く。
 それは、これから来る地獄への旅立ちだった。 
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