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第一話

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 ひと仕事終えると、すぐさまランニングウェアに着替えて外に出た。

 私は日頃の仕事で目と頭を酷使している。定期的に体を動かさないと健康に悪いことこの上ないから、仕事を終えた後は必ず走るようにしている。精神的ストレスを緩和するためにも体を動かすのが一番だ。

 ランニングコースは毎回適当だが、井の頭公園は必ず通るようにしている。某地方都市から上京して吉祥寺駅周辺に住居を定めた後、最初に立ち寄ったのがこの井の頭公園だった。それまで東京と言えばどこもごちゃごちゃしたビルが林立して騒がしいところしか無いのだろうとしか思っていなかったが、こんなに緑豊かで静かな場所が存在するとは思わず感激したものである。以来、井の頭恩賜公園は私のお気に入りスポットのトップに位置している。

 公園には老若男女様々な人たちがいる。私と同じくランニングをしている人。散歩をしている老夫婦。遊具で遊ぶ子どもたちとその様子を微笑ましく見守る親たち。池に向かってカメラを構える観光客。二人がけのベンチに座って語り合っているカップル。今日は大学のゼミ生たちが実習か何かでやってきているのに出くわした。なぜゼミ生と断定できたのかと言うと、引率の教授らしき初老の男性がご丁寧に「◯◯大学地理学教室」の腕章をつけていたからである。

 その集団とすれ違いざまだった。

「ああっ、あれ見て、あれ!」

 ゼミ生の一人が大声を出して池を指す。私も足を止めて顔を池の方に向けてみた。

 スワンボートが二艘並んで静かに泳いでいる。だがその真ん中を突っ切る格好で一艘のローボートが猛烈な勢いでスワンボートを追い抜いていったのである。ボート間の距離はそれ程空いておらず、下手したら衝突するところだった。

 ローボートには一人しか乗っていなかった。髪は短く刈り上げていたが、遠目でも若い女性の顔立ちだとわかった。その女性が、修羅か仁王のごとき形相で、左右のオールを激しくせわしなく動かし、右に左に蛇行したかと思いきや急にUターンしたり、とにかくめちゃくちゃに漕いでいて、水しぶきを撒き散らしている。

 おおおう、とゼミ生たちが声を漏らす。悲鳴か感心かはたまたバカにしているのかよくわからない声だが、私はこの静寂の緑の空間にふさわしくない、無粋なボートの乗り手に怒りを感じていた。

 私はランニングを再開し、その足でボート乗り場に行ってスタッフに苦情を入れてやった。

 *

 翌朝。この日は特にやることも無いので家事を済ませて、十時十分前に井の頭公園にランニングに出かけた。

「おおおう」

 昨日のゼミ生のような声を、私は出してしまった。池のほとりのベンチに、ローボートをめちゃくちゃに漕いでいた女が腰掛けていたからである。しかしその座り方は、例えが古すぎるが真っ白に燃え尽きた矢吹丈のようだ。

 彼女はきっと、自分がしでかしたことを反省しているのかもしれない。スタッフに苦情を入れたら、今後は出入り禁止にすると言ってくれたから、きついお叱りを受けたことは想像に難くない。

 そうやって落ち込んどけ、と心の中で冷たい追い打ちの言葉をかけて通り過ぎようとしたときだった。足音に反応したのか、女が身を起こして私の方へと振り向いた。

「イクヤくん!?」

 女はそう叫ぶなり立ち上がって、私の方に駆け寄ってきた。

「イクヤくん!」
「すみません、人違いじゃないですか」

 私は冷静に否定した。イクヤ「くん」と呼ぶからには私のことを知り合いの男性と勘違いしているらしい。確かに私は顔は中性的で髪型はベリーショート、背丈は一七〇センチを越えるし、男女兼用のランニングウェアを着ているから男性と間違えられてもおかしくはないのだが。

 しかし私の声を聞いた途端、相手は深々と頭を下げた。

「す、スンマセンっシタ!!」
「私は女ですよ」
「本当にスンマセンした……」

 そこはせめて「申し訳ありませんでした」まではいかなくてもちゃんと「すみませんでした」と砕けてない言い方をするべきだが、いちいち言葉尻を捕らえて腹を立てるのも小物臭いので放っておくことにした。

 仕切り直してランニングを再開しようとしたら、女は急に顔を歪めて、大粒の涙をこぼしだした。

「うっ、うえええ……」

 人違いした恥ずかしさや出禁を食らったぐらいでいい年した人が泣くものだろうか。周りにいる人たちはすれ違いざまに私たちをジロジロと見てくるし、これでは私が泣かせているみたいだ。

「まあ、まあ。とりあえずベンチに座りましょ?」

 周囲の冷たい視線に圧された私は、この女のケアをせざるを得なくなった。
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