追憶の探偵

兎束作哉

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第3章 音楽を捨てた探偵

case10 互い

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 隣で小さな寝息を立てて寝ている神津は、どことなく苦しそうだった。
 俺はそんな神津を見ているとどうにも寝付けず、絶えず彼の亜麻色の髪を撫でていた。そうすれば、幾分か彼の表情は柔らかくなる。
 神津は、ピアノを呪いと言った。俺が彼奴の音を好きだと言ったことで、彼は俺の為だけにその音を奏つづけた。そのせいで、俺を思わない大衆に向ける無償の音は空っぽで愛も何もなかった。


「無理させたんだな……」


 罪悪感というか、言われるまで忘れていたわけだし、気づかなかった神津の思い、抱えているもの。
 今でも昔のことは昨日のことのように思い出せるのに、それでも俺は自分にとって都合の悪い記憶は忘れているのかも知れない。だが、確かに俺は小さい頃いつだったかまでは正確には覚えていないが、神津の音を好きだと言った。神津の笑顔も覚えている。


「春ちゃん……」
「いい夢見てんのか?俺の名前なんて呼んで」


 寝言で、俺の名前を呼ぶ神津を見ていると何だか笑えてきてしまった。俺よりも背が高くて、俺が嫉妬するぐらい格好いいのに、こうして寝ていると、まだ背が低かった頃の神津を思い出す。あの頃は神津は格好いいというよりか可愛いだったから。今もその名残か、寝ていると子供のように見える。

 実際、そう見えるのは俺たちの時が止っているからだろう。

 空白の10年。それがあったために、俺たちは互いの過去の記憶に縋って、未来を視ようともしなかった。
止ったときの中で、永遠と過去を忍び、思い出し、その楽しかった記憶に身体を委ねていた。だからこそ、今触れられる距離にいてもどうしても足が浮いているように感じてしまう。地面に足がつけていなくて、ふわふわとしている。
 今でこそ、キスもセックスもそこに何かが感じられるようになってきたが、初めは恋人のまねごとのようなものから始まった。それをすれば、あの10年間が埋まるような気がしたから。でも、それは虚しいだけだった。

 まねごとは何処まで行ってもまねごとで、倦怠期に入ったり、口も顔も合わせない日だってあったりした。
 ここまでこれたのは、奇跡と言って良いだろう。お互いの気持ちがようやく分かってきた。あの10年を2年を掛けて。


「ふぁ……俺も眠くなってきた」


 大きな欠伸をしながら、神津を見る。彼もようやく落ち着いたのか、幸せそうに俺の腰に抱き付いて寝ていた。これなら心配ないだろうと、俺は神津の腕をどかしながら、もぞもぞと布団の中に入り込んだ。
 エアコンはついているものの暑い。それでも、神津の腕の中は落ち着くため俺は無理やり彼の腕の中に頭を突っ込んだ。


(恭の匂い……すげえ、いい、眠れそう……)


 彼の甘い匂いに包まれながら俺は目を閉じた。


――――
――――――――


「春ちゃん、可愛い……」


 明智が眠りについた後、狸寝入りをしていた神津は身体を起こし、自分の腕の中で眠っていた明智を起こさないようにと、彼の頭を優しく撫でた。くしゃくしゃになった癖のある髪は猫の毛のような触り心地で、神津は思わずクスリと笑いが漏れてしまう。
 自分の告白を聞いて、それを全て受け止めてくれた明智に、神津は感謝してもしきれなくて、その愛おしさがさらに増した。
 自分だけが、明智を思ってあの10年間を過ごしたのだと思っていたが、明智もまた神津を思って過ごしていたのだと神津は知ることが出来た。

 そして、自分を知りたいと言ってくれた明智に、思わず涙が出そうになった。


「春ちゃん、さっきの言葉本当だからね。ずっと、隣にいるし一緒にいるから」


 自分から何処かに行ったくせに、親の都合で海外に行ったのに、そんなことを言う資格はないと神津は思っているが、それでも明智の危なっかしさを考えると、先立たれてしまうような気がして神津はならなかった。

 そうならないためにも――――

 神津は、明智の頬を愛おしそうに撫でる。
 もう手放す気はない。


「春ちゃん、お休み」


 ようやく手に入れた幸せを、みすみす手放すようなことはしないと、その幸せを壊すものがいるのなら容赦はしないと、神津は目を細め、布団の中に潜り込み、先ほどのように明智を抱きしめた。


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