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第7部3章 対話を目指して
10 失ったもの
しおりを挟む「――ハッ、こりゃすげえな」
「……皇太子妃殿下」
彼女の鋼鉄の剛腕と剣がぶつかるたび、激しく火花が散る。まるで、二本の大剣を相手にしているような感覚だった。重量のある攻撃はセシルに似ているし、二本同時の攻撃はあの男に似ている。でも、そこには殺意はなく、楽しんでいるような感情も感じ取れたから不思議だった。しかし、容赦のない攻撃は続き、俺は身体の限界を感じていた。
確かに、いつもよりも身体がよく動くが、その分体力の消耗が激しかった。五感を研ぎ澄ませているからか、それともほかに理由があってか。少しの音も俺は聞き逃さず、少しの隙も与えない攻撃を繰り出せていた。だが、何かが足りないし、弾かれる。かといって、ウヴリの攻撃も俺に当たってはいなかった。だから、互角の戦いが繰り広げられている。
「あははっ、あははっ、おもしろいっ!!」
「……楽しそうだね」
「たのしい? うん、たのしい。ウヴリ久しぶりなの。叩いても壊れない相手!」
「……っ!?」
彼女の顔は笑顔だった。俺に拳を振るうたび、彼女の顔が狂気的なまでに歪み、そして笑みが広がる。その歪な笑みに俺は恐怖を感じたが、彼女が初めて見せた怒り以外の感情。何かのカギになるのではないか、と剣を振るいながら俺は考えていた。
彼女は右、左と剛腕をものすごいスピードで振り下ろし、俺の身体の骨という骨を粉砕すべく拳を振り下ろす。
スピードは一定であり、不規則的でないものの、一撃一撃が重く、重点を一度でもミスれば俺は彼女の攻撃を弾くことは敵わなくなるだろう。単純な攻撃でありつつも、技量と体力がなければそれらをしのぐことは困難だ。
「ウヴリの攻撃をうけとめられるって、やっぱりあなたすごいひとっ」
「すごくないよっ!! セシルだって!!」
「あの人間はなにかちがうの」
「……違うわけない。俺は、俺はセシルの剣が好きだ!」
キンッ!! と、彼女の攻撃を弾く。
しかし、自分でも想像以上に力を込めて剣を振るってしまったため、次の瞬間隙が生まれてしまう。
しまったと思ったときには遅く、後ろへ吹き飛んだ彼女が、豪速球のようにこちらに向かって突っ込んできた。大きな手はやはり華奢な身体に似つかわしくない。いつの間にか、彼女の白い頬には黒い竜のうろこらしきものが現れ、戦闘の高揚から、彼女が人の姿を保てなくなっているのではないかと思った。
(いや、もともと彼女は竜だ。竜が人の形をとっているのは、人と――)
人と何をするために、彼女たちは人間の姿をとるのだろうか。
生まれた疑問に反応が遅れてしまう。
一瞬の隙、一瞬の思考の停止や乱れは戦闘において致命的なミスだ。
もうすぐそこまでウヴリの腕が迫っており、俺の顔面に影ができる。彼女の大きな拳の影が。反応はできずとも、剣を手放すことはできなかった。一か八かと、俺は魔法を発動しようとした。しかし、その前に、誰かが彼女の腕を弾く。
「……っ、邪魔しないで!」
「邪魔じゃねえよ。俺は、こいつの騎士だからな」
「ゼラフ……っ」
「割り込みはしねえって思ってたが……今のはちと危なかったな」
「う、うん……ありがとう」
ウヴリは彼に攻撃を弾かれたことに怒りをあらわにした。その愛らしい顔に似つかわしくないしわが寄る。
ゼラフは、剣をブンと振るとその剣先を見た。
「あいつの攻撃かなり重いな」
「そうだね……とくにあの腕が厄介かも」
「見りゃわかる。しかも、かなりのフィジカルで傷さえつかない鋼鉄の腕ときたらそりゃ、こっちはなすすべねえよな」
「なすすべないって」
「……でも、一番あいつと戦えてたのはお前だぞ。ニル」
ゼラフはよどむことなくそう言って、俺を見た。
ウヴリは、二対一だと分が悪いのか、こちらの出を窺っているのか先ほどのように突っ込んでこなかった。あるいは、俺たちの戦いに邪魔が入ったと思っているのか。どちらかは分からなかったが、彼女なりのマイルールがあるのかもしれない。
ゼラフの言葉を受けて、俺は首を横に振る。
ウヴリは、セシルより俺が強いと言った。それはみんなが言ってくれることだし、買いかぶりすぎているわけでもない。その言葉を俺が受け止めきれないだけで、ポテンシャルはあるのかもしれない。
しかし、彼らのように親身一体のような強さは俺になかった。
優しさを捨てれば反応速度も、切り込むスピードもすべてが上がる。だが、技術力はそれまでで、心まで伴っていない。むしろ、心が足かせになり捨てなければ俺は真価を発揮できないのだ。
俺はもう一度首を横に振った。
「そんなことないよ。初見じゃないから……でも、セシルは違った。初見で、ウヴリに突っ込んでいって、彼女と途中まで互角の戦いをしていた。俺にはできない芸当だよ」
「だからって、目で盗んだからできる動作じゃねえっての。俺だって、もうろうとする意識の中で、皇太子の野郎の戦い方を見ていた。似たようなフィジカル勝負だったな。そう思うと、お前は、スピードに対応できていて、フィジカルがなくともそれを受け流せるだけの技量がある」
「買いかぶりすぎ。みんなそれぞれだよ。戦い方なんて」
「そりゃそうだ……んで、参戦していいか?」
「どうぞ。俺は、君のこと足枷だって思わないから」
「思われたらどうしようと思ったぜ」
「思わないって」
二人で剣を構えると、ますます彼女の顔が歪む。
二対一は卑怯だろうか。
だが、彼女たちは一人で軍を壊滅させるほどの力を持っているのだ。こうでもしなきゃ勝てない。
「ウヴリ、あなたには用がないの」
「分かってんだよ。そんなことは……けど、言っただろ? 俺は、こいつの騎士だぜ? ただ見守るだけが仕事じゃねえっての!」
「……っ、魔法っ!!」
「剣技は劣るが、魔法を駆使しりゃあ、少しぐらいはニルたちと同じレベルまで持ってけんだよ!」
先ほどの俺よりもウヴリよりも早く、彼は地面を蹴った。すると、一瞬にして間合いを詰め、彼女に切りかかる。
ウヴリは珍しく反応が遅れ、両手で彼の剣を受け止めた。ギチギチと金属が擦れる音がする。やはり、彼の攻撃でも、彼女の腕に傷をつけることは敵わないか。
それでも、彼は自らに風魔法を付与して身体を身軽にし、俺たちと同じステージにまで無理やり身体能力を上げた。
それは、魔法を上手く扱えるゼラフだからできる芸当だった。
彼は、ウヴリがその攻撃を弾かないようにと力で押さえつけている。ウヴリは今すぐにでも彼の攻撃を振りほどきたいようだったが、魔法で身体能力を向上させたゼラフ相手では少し分が悪いようだった。
両手を使っても、彼の剣を振り払うことはできていない。
「ニル!」
「分かってる!」
「……っ、チッ!!」
俺は、彼が作った隙を見逃さなかった。
ウヴリは、舌打ちをしながら、腕の力を弱めわざとゼラフの攻撃から免れようとした。だが、こちらのほうが早い。
俺の剣は、彼女の腕を切り裂く勢いで振り下ろされる。しかし、これも簡単にはいかなかった。彼女が無理やり体をねじり、攻撃を避けようとしたせいもあって、彼女の長い黒髪が宙を舞う。
そして、ようやく彼女の剛腕に一つの傷がついた。傷口から赤黒い血が流れ、これもまた宙に玉のように浮かぶ。
(感触があった、切った感触が……)
初めて、彼女に決定的な攻撃を与えられたと思った。
二人で息を合わせれば、彼女を倒すことができるかもしれない。そう思ったが、次の瞬間、俺は激しい動悸と眩暈に襲われた。
「……ニル? かはっ」
「は……っ……っ、ぁう……っ」
心臓が嫌な脈打ち方をする。
頭に何かしめ縄でもまかれているような頭痛が走る。心臓が握りつぶされそうな痛みに、吐き気がこみあげてきた。
俺はたまらず剣を地面に突き刺し、その場に膝をついた。
俺を心配したゼラフがこちらを振り向いたが、その瞬間、ウヴリの剛腕によって横方向に吹き飛ばされていった。そして、彼は大木に打ち付けられ、そのままつるつると身体の力が抜けていく。
「ぜら……っ」
一体、何が起きた?
俺は、目玉が飛び出しそうなほど熱くなっているこの状況が理解できなかった。視界がかすみ、ものが、二重にも三重にも見えてしまう。
口の端からはよだれが垂れ、絶えず耳鳴りがする。
何かが拒絶反応を起こしているようだった。
柄を握る手も震えており、満足に力を籠めることができない。
そのうえ、ゼラフが吹き飛ばされたことも心配で、今すぐにでも立ち上がってウヴリを止めなければならないのに――
形勢逆転と思われた状況は、一気に反転する。
ひたひたと小さな足が地面を踏みしめる音が聞こえた。俺は、大量の汗を垂らしながらどうにか頭を上げる。髪が左右非対称になったウヴリがこちらに歩いてくるのが見えた。
「ウヴリがあなたを何で攻撃しなかったと思う?」
「攻撃……してたじゃないか……」
「違う。致命的な……傷を与える攻撃。あなたの身体に直接ウヴリは触れなかった。何でかわかる?」
「……なんで」
ウヴリは、うずくまる俺の前で立ち止まり冷たい瞳で見下ろした。
圧倒的な恐怖が頭上にあり、俺はヒュッと喉の奥が鳴る。
このまま殺されてしまうのではないかと、断頭台に立っているような気分にさえなった。
だが、ウヴリは俺を凍てつくような目で見下ろすばかりで俺に触れようともしなかった。
この時間はなんの時間なのだろうか。処刑を待つ時間にしては長すぎるような気もする。いや、長くないのか――
頭は変に冴えていたが、頭痛と吐き気、耳鳴りは収まってくれなかった。
「ウヴリ、聞いてるんだけど」
「だから……っ! なんで、だよ……わかんない……」
「竜は竜を殺せないの」
「……ぁ」
「分かるでしょ。だから、あなたは家族なの。ウヴリの家族なの、分かった?」
彼女は、言い聞かせるようにそういって、俺の頭を撫でた。その瞬間、俺の頭の痛みは嘘のようにスッと抜けていき、目の前が明るくなった。キーンと聞こえていた耳鳴りは収まり、動悸も吐き気も全部なかったようにすっきりしたのだ。
それは、彼女が――『家族』が俺の頭を撫でたからか。
彼女の小さな手は俺の頭を撫でていた。まるで、小さい子をあやすような手で撫でるものだから、俺はどんな感情を抱けばいいかわからなくなる。
彼女は初めから俺を殺すつもりなどなかった。むしろ、戦いを楽しんでいた。でも、思えば彼女は俺に致命的な攻撃は与えなかったのだ。それが、彼女の言う竜は竜を殺せない『家族』を殺せないということにつながるのだろうが、俺には理解できなかった。その感覚も、感情も、俺は共有できないものだ。
だって俺は自分のことを竜ではなく人間だと思っているから。
「何で……」
「まだ分からないの?」
「だから、俺は人間だ。竜の血が入っているかもしれない。それでも、人間で」
「あなたが生きる意味を全部殺したらあなたはウヴリと家族になってくれるの?」
「……っ」
「違うの?」
「違う、そんなことしても家族になれない。君の家族に、そんなふうになりたくない」
「人間ってわからない生き物……あなたの大切な人の記憶は完全に消したはずなのに。どうしてあなたは笑っているの? 苦しくないの? あなただけ、あなたの大切な人の世界にいないの」
ウヴリは続けた。少し伸びた爪が俺の頭皮に食い込む。
彼女の声には抑揚がなかった。まるでロボットのような無機質な声。その声はたぶん少女の声であると認識できるくらいの声だった。
ウヴリには分からないのだろう。
でも、彼女は、セシルは俺の大切な人であることは認識していたわけで。セシルの記憶を消去した。忘却竜ウヴリというその名に恥じない力で。
「どうやって、セシルの記憶を消したの」
「どうって、それがウヴリの力」
「だから、どうやって! セシルの記憶は戻――」
「戻らない」
「え……」
「ウヴリは消すことしかできない。ああ、でも、うん……戻らない。ウヴリの妹ならできるかもだけど、ウヴリはただ消すだけ」
「そん、な……」
「絶望した?」
また彼女は感情のない声で俺に問いかけてきた。
絶望したか。
そんな問いに対し、俺は口を開くことができなかった。片膝しかついていなかったのに、崩れるように両膝をつく。
ウヴリは、自分の力がどのように発動しているのか理解していないのかもしれない。彼女の情緒はオセアーンの熟年した青年というようなものでもなく、幼い少女そのものだ。
忘却――消去の力は絶大だろう。だが、もしかしたらと希望は胸に抱いていた。でも、本人が言うならそうなのかもしれない。
(あ、ああ、俺はなんで……)
彼の記憶が戻らずとも、セシルのそばにいたかった。いつか思い出してくれるっていう希望を捨てたわけじゃなかった。
けれど、ここで否定されてしまえば、一生本当に戻らないかもしれない。彼が今愛してくれたとしても、昔の彼はいなくなったわけで。俺が前世を取り戻してからの数年。そして、一緒に暮らした二十一年は消えたことになるのだ。
それでもいいと思えればよかった。でも、俺は簡単に彼との記憶を捨てられなかった。
「何でそんなことした」
「じゃなきゃ、あなたはずっと人間でい続けるだろうと思ったから。実際にそうだったでしょ?」
「だからって! やっていいことと、だめなことくらい分かるだろ。何で、何で、俺から大切な人を奪ったんだよ。どうして……セシルを、返してよ」
相棒の剣に縋るように俺はギュッと指に力を込めた。
ウヴリは理解できないというように、今度は子供をあやすように俺の頭を撫でた。
きっと彼女には理解できない感情だ。そして、他の誰も、今の俺と感情を教諭できる人間はいない。
何のために頑張っていたのか。
竜との共存、共生は夢のある話だ。理想的な世界だ。でも、その世界をつくるには足りないことが多すぎる。
俺は、静かに涙を流した。ウヴリはその匂いを感じ取って一瞬だけ手を緩める。しかし、その刹那――耳にあの音が聞こえてきたのだ。
(何……竜の、伊吹……)
先ほどまでは風の音も人の声もしなかった。
だが、今になってその音が強く鮮明に聞こえてきたのだ。そしてそれを聞いたのは俺だけじゃなかった。
「おじいちゃん……っ!!」
「え……っ」
ピキ、ピキピキピキピキピキ――ッ!!
地面が大きく揺れ、俺たちの足元に亀裂が入る。何が起こったのか頭で理解できず、俺は剣を地面から引き抜く。だが、ひび割れは次第に大きくなり、逃げる前に足場が消えた。否、大きな歪ができその黒い地の底の上に俺とウヴリはいたのだ。
足場がない。
足場が消えた。捕まるものも支えるものもなくただただ重力に引っ張られて落ちていくからだ。
俺は、剣を片手で握りしめながら地上を見上げた。まだ明るい。真昼の空に雲がかかっているのが見えた。
だが、最後伸ばした手を誰かが掴もうとひび割れた地上から腕を伸ばしているようにも見えた。銀色に輝く、夜空を閉じ込めた――
◇◆◇◆
「――ル、ニル!!」
誰かが俺を読んでいる声で目を覚ます。
身体が少しいたかも。どこかにぶつけたような、痣ができているような痛みだった。
俺は、その痛みにしわを寄せながら目を覚ます。
「よかった、ニル……っ」
「セシル?」
起きたばかりなのに、自分でも驚くほど透き通った声が出た。いつも起きたばかりはガラガラで水が欲しくなるくらい口の中が乾燥していたのに、何故か彼の名前だけは口からパッと出たのだ。
そして、俺が名前を呼んだ相手――セシルは、安心したようにひしっと俺を抱きしめた。
俺は彼の心臓の音や体温を感じながら、あたりを見渡した。
先ほど俺は、ウヴリと共にいきなり怒った地震によって空いた穴の下に落ちたはずだった。その深さはいかほどか分からなかったし、手を伸ばしてくれた誰かがいたが、全然間に合わなかったと思う。谷の底に堕ちれば落下による衝撃で四肢がはじけ飛んでいただろう。臓物をまき散らしながら死んでいた可能性だってあったわけだ。
でも、俺の身体は五体満足で生存している。
確かに痛みもなかったし、落ちた途中で俺の意識は途切れた気がする。
(ウヴリは……?)
もう一度目を凝らしてあたりを見渡した。元凶……ではなく、一緒に落ちたはずの彼女の姿が見当たらなかった。彼女とは、先ほどまで戦闘していたのに。それに、セシルもまた元男爵領のほうに行ったはずなのに。あちらは、俺の魔法で飛竜を眠らせたわけじゃないから戦闘は厳しかったことだろうと予想ができる。
なのになぜ、ここにセシルがいるのだろうか。
まだ理解が追い付かなかった。
まあ、ウヴリだったら元が竜なのだから姿を戻して飛ぶことはできるだろうが俺はそうはいかない。
ウヴリの姿が見えないからと言って、彼女が倒れたとも谷底に堕ちたとも考えにくかった。彼女がそんな簡単に倒れるようなやわな少女じゃないことは剣を交えたから知っている。
「ニル、俺が分かるか?」
「わ、分かるよ。セシル・プログレス……皇太子殿下」
「あ、ああ。だが、やけに硬いな」
「だって、セシルは皇太子だし……セシルは、セシルだけど………………?」
彼は、混乱している俺をよそに「よかった」と上ずった声で俺を抱きしめて何度も何度も俺の名前を呼んでいた。まるで記憶が戻ったように、俺のことを愛おしい、もしくは大切な人と認識しているように彼は俺の名前を呼んだのだ。
でも、俺はそこでようやく違和感に気づいた。
彼に名前を呼ばれたときの高揚がないこと、そして抱きしめられているのに俺は彼の背中に腕を回さない……抱きしめ返さないこと。否、抱きしめ返す理由が浮かばなかった。
彼に抱きしめられていつもはドキドキと跳ねるはずの心臓が今は静かだった。
彼がこれほどまでに俺が生きていたことを喜んでくれているのに、俺は同じレベルで喜べなかった。
それどころか、彼の存在が遠く感じる。他人のように感じているのだ。
(え……なんで、そんなことって……)
ありえるのだろうか。
頭をよぎった最悪の現実に俺は首を振る。
だってそんなことありえない。
(俺、セシルのこと、好きじゃない……?)
俺の中から、彼への恋心が消えた。愛が消えた。
セシルという人間を大切だと思う心が消えていた。
それは、彼女が俺から奪った消したもの――そう考えるが必然的だ。
「ニル……ニル、よかった……」
「せし……ぁ、あ、ああああ……っ!!」
泣きたいのに、泣けない。
いつもならいの一番に抱きしめ返している体が動かない。
俺の中からセシルが消えた。セシルの中から俺が消えたように。俺もまた、彼を俺の中から消してしまったのだ。
たった一度だけ、彼が記憶を失った直後だったか、彼が思い出してくれないことへの絶望だったか思ったこと。
彼を愛する気持ちが消えればいいのに――というバカみたいな、願っちゃいけなかったものが最悪の形で俺に降り注いだ。
俺の中にセシルがいない。
空っぽな心に、彼の上擦った声も、彼の口で言葉で『ニル』と俺の名前を呼ぶ声も、俺の心をまったく動かさなかった。
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