一年後に死ぬ予定の悪役令嬢は、呪われた皇太子と番になる

兎束作哉

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第1部3章

05 名前を呼ぶ、ただそれだけ

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(今、何ていったの?)


 確かにロルベーアと、殿下が私の名前を呼んだ気がする。聞き間違えでなければ、いや、聞き間違うはずがない。だって、こんなにも静かなのに、誰かが喋ればその音も、息づかいさえも聞えてくるはずだから。
 だから、今、殿下が私の名前を呼んで――


(私の名前を呼んだの?)


 理解が追いついたはずなのに、今度は、その事実を受け止めきれていない自分がいた。
 マルティンも、イーリスも口を開けたまま私と殿下を見ているし、心なしか部屋の温度が何度か上がった気がする。依然殿下は、怒ったような、恥ずかしそうな顔をして、耳を赤く染め私を見ている。
 私が殿下に声をかけようとすれば、また「ロルベーア」と名前を呼ばれる。彼を見れば真っ赤な顔で私を見つめていて――いや、見つめてはいなくてただ気まずくて目を合わせられないだけのように見えるが、再度私の名前を呼ぶので顔を上げざるを得なかった。


「な……なんですか殿下?」


 動揺から言葉を詰まらせてしまったものの、何とか声を出すことに成功する。


「殿下何か言って下さい」
「名前を呼んだ」
「はい、そうですね」
「それだけだ」
「は、はい!?」


 いきなり名前を呼んだかと思えば、それだけだ、と殿下は答えると顔を逸らしてしまった。何をしたかったのか分からないまま、殿下がそれ以上何も言うなといわんばかりのオーラを放つので、私は黙ることにした。
 名前を呼んだ、それだけだ、以上だ、といわれて納得する人間が何処にいるというのだろうか。全く理解できなかったが、今のは少しだけ可愛いと思った。


(か、可愛いって何!? 殿下が!? あの殿下を私は今、可愛いと思ったの!?)


 殿下にそんな感情を抱く日が来るなんて思いもしなかった。それだけではなく、殿下に名前を呼ばれるたというその事実に喜びを覚えている自分がいたのも驚きだった。どうかしている。
 殿下の行動はいつも不明だ。
 番だから、という理由を私はつけるけど、彼は番のために動くような男じゃない。なら、何で私に構うのだろうかと。彼の行動原理が分からなかった。
 でも、彼に名前を呼んでもらえたその事実に舞い上がってしまった私は、頬を緩ませながら殿下の方を見る。すっかり熱が冷めてしまったような顔をした殿下は、私の視線に気づくと、こめかみをピクリと動かした。私に馬鹿にされていると勘違いしたのだろう。大方あっているが、合っていない。


「殿下」
「何だ、公女」


 既に、公女呼びに戻っていた殿下は、私が何を言おうとしているのか理解していないようで身構えているようだった。あんなにも余裕の殿下が珍しい。


「殿下は、見返りを求めるタイプでしょうか」
「見返り? いきなり質問とは、公女も隅に置けないな」
「それで、どうなんですか」
「……ッチ。見返りは求めない。だが、それ相応の意思は示して貰いたいとは思うがな」


(それを、見返りを求めるっていうんじゃないの?)


 あいかわらず、めちゃくちゃだ、と思いつつも、殿下らしくて笑えてきてしまう。
 ということは、殿下が言うに、殿下は名前を呼んで欲しい……という解釈であっているのだろうか。それ相応の意思……行動……であるなら、私がとるべき行動は一つしかないのではないかと。


「私も、殿下の事名前で呼んでみてもよろしいでしょうか」
「何故だ?」
「殿下がそうしたからです。見返りは求めるタイプでしょう? 殿下は。では――」
「待て、いいといっていないだろう」
「ダメなのですか? それとも、そういう意味じゃなかったと」
「心の準備が……ッチ。そういう意味で言ったわけじゃない」
「今、何か言いましたか?」
「いいや、何も言っていない。公女の空耳だろう」
「……では――アインザーム殿下」
「……」
「アインザーム様……アイン」
「公女」
「は、はいっ」


 もしかして、愛称を呼んだのは不味かったか、と顔を上げれば先ほどまで離れていた殿下が私の目の前まで来ており、肩に掛かった髪をすくい上げると、銀色の輝く私の髪に優しく口づけをした。あまりにも流れるようなその仕草に、心臓が飛び出してしまいそうになった。私はこのままではいけないと、一歩引こうとしたが、腰を抱かれ逃げることは敵わなくなった。


「悪くないな。公女、もう一度呼んでみろ」
「嫌です。殿下は、何を考えているのか分からないので」


 私は彼を睨むが、殿下は笑ってみせた。これまでにみたことがないくらいの満面の笑みだった。親に誉められたときの子供のような、邪気のない笑顔がそこにはあった。綻んだ笑顔を、見ていると、母性がくすぐられる。そんなふうに笑えるのかと。でも、何が嬉しいのかさっぱり分からなかった。一般人とはツボが違うのかも知れない。
 けれど、この笑顔に惑わされてしまうのだ。その顔の良さで、大抵の事は許されるような気がしてくる。今回はそうはいかないけれど……本当は少し、怖いけど、殿下の顔がタイプであることを最近自覚した。こんなの自覚したくなかったけれど。
 また何かしてくるのではないかと警戒していたものの、一向にそんな様子はないし、もう満足したのか私の側から離れてしまったのでホッと胸を撫で下ろした。
 だが、安心した、その時だった――「いいな」という消えるような儚い声が聞えてきたのは。


「せ、聖女様?」
「いいな……殿下、私も名前を呼んでいただけないでしょうか」
「え?」


 イーリスも、いきなり可笑しなことをいいだした。彼女の顔を見ていると、黒真珠の瞳を輝かせて、手を顔の前でキュッと握りながら殿下を見つめている。殿下は私を庇うように前に立つと、イーリスの方を見た。ここからじゃ顔が見えないと移動しようとしたが、殿下に腕を捕まれ、移動することができなかった。顔を見られたくないのだろうか。


(な、何、いきなり……)


 こんなの小説にはなかった。互いに興味を持つ、というのはあり得たけれど、イーリスは今のやりとりからどんな興味を持ったというのだろうか。彼女の心が読めたら苦労しないが、そうもいかないし……
 後ろから彼らの動向を見守ることしか出来なくなり、私の心にはまた不安が渦巻き始める。


「何故だ、聖女。俺達は、番同士だが、聖女は全くの部外者だろう。それに、何の意味がある」
「意味というか……その羨ましいなと思いまして。皆さんが、私のこと聖女様、聖女、と呼ぶので、『聖女』と呼ばれるのは慣れてきてはいるんですけど……でも、やっぱり、何か自分の中ではしっくりこなくて。聖女なんて言われるほどたいした存在じゃないですし、それに、私にだって名前があるのに……だから」


と、イーリスはいいにくそうに言うと潤んだ瞳を殿下に向けた。女の私でも可愛い、と思うその笑顔を見てさすがの殿下も心を動かされたのではないかと、ツバを飲み込む。だって本来そういう物語。大分ズレてしまったけれど、ここで軌道修正するのだろうと。
 でも、ただそれだけで――


(なんで、こんなに焦っているの?)


 自分の心臓が、煩いほど脈打っているのが分かった。それも、嫌な脈打ち方。まるで、その言葉を、先をいわないでと言っているようでならなかった。
 そして、恐れていたじたいが次の瞬間には起こってしまった。


「確かにそうだな。別に俺も、聖女のことを聖女と思っていないからな。聖女というのはおかしいかも知れないな」
「殿下! なりません、聖女様は聖女様ですよ! いくら殿下でも聖女様のことは丁重に扱わなければ」


と、マルティンが横から口を挟む。しかし、殿下はそんな言葉を気にする様子もなく、イーリスの名前を口にした。


「イーリス――これでいいのか?」
「は、はいっ。アインザーム様っ」
「……」
「そうか、ではこれからそう呼ぶとしよう。イーリス」
「ありがとうございます。アインザーム様」
「ハッ、たかが名前を呼んだだけだろう。そこまで喜ぶ理由が分からないな」


 花が咲くような笑顔がそこにある。パッと光を浴びたようなそのヒロインの笑顔を見て、私はフッと顔を逸らした。殿下が、イーリスに対して名前を呼ぶことを許可したということは、そういうことなのではないか。さっきは、嫌がっていたくせに、この数秒でどんな心境の変化があったというのだろうか。でも、おかしくない……だって、ヒロインとヒーローなのだから。

 これでいい――これでいいはずなのだ。
 緩んだ殿下の手を払って、私は彼に背を向ける。


「公女?」
「少し疲れたので、部屋に戻らせて頂きます。殿下は、聖女様ともう少しお話し下さい。では」


 その場で止ったらまた腕を捕まれそうな気がした。だから、私は慣れないヒールで廊下を走った。何だか女々しいなと自分でも思う。
 分かっていたことなのに、雲行きが怪しくなり始めた頃からそうじゃないかと思っていたけれど、目の前であれをみせられるのは辛かった。甘い雰囲気じゃなかったかも知れない。ただ、名前を呼んだ、呼ばれた、ただそれだけ。でも、私にはそう見えた。イーリスと、アインザーム様と、そう呼び合う彼らを見て、鈍器で殴られたようなそんな痛みを頭に受けた。

 ――何で?

 何でこんなに胸が痛いんだろうか。たかだか、名前を呼び合っただけ。彼らのその後なんて知らないし、考えたくもないけれど。あれから恋が始まるとか馬鹿馬鹿しいのに、始まってしまいそうな気がして。


「はあ……はあっ……」


 部屋に飛び込んで鍵をかける。ずるずると、扉にもたれ掛りながら顔を手で覆うようにしてふさぎ込む。
 痛い、痛かった。張り裂けそうだ。


「……何でよ。馬鹿」


 何でこんなに痛むのか。認めたくない、きっと私が彼を意識してしまっているからだ。それが、好き、とか、恋、とか名前を付けてしまったら終わりの感情を、きっと彼に――

 いつから? 

 そんなことを思いながら、膝を抱え、さらにそこに顔を埋めた。どこか、期待していた自分がいた。それが恥ずかしかったからか。違う……そうじゃなくて。


「名前……呼んでもらえたのに…………」


 ロルベーアって。本当は、びっくりしたけど、嬉しくもあった。公女じゃなくて、ただ一人の人間としてみられて気がして。でも、全てヒロインが持っていってしまった。当然だ。それが、そうなる物語だから。
 まだ私の脳内で、私の名前を呼ぶ殿下と、イーリスの名前を呼ぶ殿下の顔が、あの真紅の彼がちらついていた。


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