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第2部4章
09 彼の弱音
しおりを挟む「――アイン……」
ようやく、彼が本音をこぼしてくれた気がした。弱音を、不安だと、彼が口にしてくれた。
流れる涙は、冷たくて、いつも余裕で、ちょっぴり怖くて、ちょっと意地悪な、そんな殿下の顔はそこにはなかった。ただ愛しい人が自分の元から離れてしまうことに不安になり、恐怖で震える優しい人の顔がそこにある。
殿下の泣いている顔は、一度見たことがあるけれど、その時とは違う……安堵の涙ではなく、不安でおかしくなりそうなそんな涙だった。
「ハハッ、かっこ悪いな……最悪だ」
「アイン!」
私は、もう一度殿下を抱きしめ、首を横振った。
殿下は、行き場を失った手を、私を抱きしめるでもなく、下に落とすと、抱きしめる資格がないというように、私の肩に顔を埋める。
いうつもりはないと、まだ残っている理性が、完璧な皇太子の仮面をはがしてはくれなかった。でも、もういいんだと、私が抱きしめると、殿下はようやく、ぽつりとこぼした。
「こんな思い、二度とするつもりはなかった。一度目は……ロルベーアが好きだと気付いたあの日。ロルベーアが、俺の呪いによって死んだように眠った日の事。俺は、大切なものを失う恐怖を知った。気づくのが遅れたのもあって、お前が、ようやく見つけた大切なものが、愛しい人が自分の手からすり抜けてしまうんじゃないかって、不安になった」
「はい……覚えています」
「その日から、何度もロルベーアを失う夢を見た。これまでの番に殺されかける夢よりもよっぽど……」
殿下は、爪を立てるように砂利を手のひらに集めると、ぱらぱらとそれを手からこぼした。
「お前が俺の前からいなくなるくらいなら……前にも言ったが、本当に監禁したい欲にかられる。お前がいなくなるくらいなら、俺がしばりつけてやるって。俺の元から離れるのは、俺を捨てるのは、許さないって! 本当は、番契約だって、破棄したくなかった。俺の中から、お前が出ていってしまったみたいで、俺は、どうしようもない孤独を感じた」
「……」
「ロルベーアが、俺の孤独に触れたから……俺は一人で生きていけなくなった」
「私のせいにしないでください……いいですよ、しても」
「……一人でも生きていけると思っていた。俺に近づいてくる人間は、容姿か、その地位を求めて寄ってくるものばかりだと思っていた。それか、俺を暗殺するためか。幼いころから、そんな疑心暗鬼の気持ちを植え付けられ、誰も信じられず、信じられるものは己の強さのみだと。それ以外は何も信じられない。強くなければ、己さえ信じられず、守れないと。だから、他の物はすべて切り捨てた。そうでなければ、弱みに付け込まれると思って」
必要ないと思ったと、殿下はいう。
家族も、友人も、信頼できる人間も……いつかは裏切るから、切り捨てて、利害の一致関係で結ばれているのが、一番楽だと。本当に可愛そうな人だと思う。そう思わなければならないくらいにい、彼は幼いころから追い詰められていたと。戦争が彼を変えてしまったのだと。
私には、何も分からない。殿下が戦争で何を失って得たのか。彼はきっと、血なまぐさい話を私が嫌っていると、話してくれないだろう。汚い話は聞かせたくないと。彼は頑固にそういうだろう。
きっと、彼の側近であるマルティンさえも知らない殿下の孤独や、想い。殿下がマルティンを信じられるのは、マルティンが殿下に尽くししっかりとその功績を残したからだろう。もしかしたら、戦場で殿下をかばったのかもしれない。二人の間になにがあるかは知らないが、そこには確かな信頼がある。私と、殿下の間にあるものとは違って。
殿下の涙が、私の肩を濡らす。あふれてしまった涙は、殿下の意志ではとめられないのだろう。きっと、人生で一番泣いた日になるに違いない。殿下からしたら汚点になるのかもしれないが、私は人生でそれほど泣ける日なんてないんじゃないかと思うから、今日は思う存分、恥ずかしくても泣いてほしいと思った。
「でも、俺にも大切なものが出来た。それが、ロルベーアだ」
「はい……」
「お前は、俺のこと、初めは興味がなかっただろ? 運命の相手が現れるとかほざいて、預言者気取りかとも思った。初めはそれが興味をひかせるための嘘かとも思った。でも、違った。本当に、興味がなかったんだな、俺に」
「過去のことですよ……」
「でも、そんなお前が面白くて、おかしくて……可愛くて。俺は、いつの間にかロルベーアを目で追っていた。だが、大事なものになっていると気付かなかった。いや、気づいていたが、そんなもの必要ないと、認めれなかった」
「アインはそういう人ですもん」
「……そうして、お前と過ごしていくうちに、お前なしでは生きていけないと気付いてしまった。俺の弱さに、気づいて、どうしようもなくなった。不安で、不安で、不安で……自分が自分じゃなくなるみたいだった」
私がいなくなる不安と、自分が自分じゃなくなるような不安。今まで抱いたことのない感情に振り回される子供のようだった。大人になってようやく、彼の情緒が育ったのだと、遅い成長期、成長痛に彼は悩まされていたと。
「俺は強くなければいけない。帝国を導いていける、戦争のない世界を作るためにも、強者で、抑止力となって……だから、弱い自分が許せなかった。だからといって、自分の弱みでもあるロルベーアへの気持ちを切り捨てることもできない。切り捨てたくない。俺は、弱くなった」
「そんなふうに思いません。私は……」
「ロルベーア……俺を嫌いにならないでくれ」
「嫌いになりません。そんな、心配しないでください」
「俺のそばから離れないでくれ。隣で笑ってくれ。皮肉を言ってもいい、でも、もう、あの時のように拒絶しないでくれ」
「あの時はすみません。でも、もう私の中にも余裕が出来たので、貴方のそばにいます。それに、貴方がはなしてくれそうにないから」
嫌か? という殿下の質問に、私は、嬉しいです。と答え、殿下の髪にキスを落とす。少し血の味がして、それが舌に伝わってくると悲しい気持ちになったけれど、私は、それをぬぐうように、殿下を抱きしめ続ける。
「俺が不安になったら……今みたいに抱きしめてくれるか?」
「はい……でも、もうあなたを不安にさせません。貴方の不安は、私の不安でもありますから。だから、もう、不安にならないで……」
「ロルベーア」
殿下はゆっくりと顔を上げると、私の顔を見た。生きているのか、確かめるように私の頬を、鼻や、唇をなぞって、ああ、と安心したような声を漏らす。彼の顔は、涙で濡れ赤くなっていた。
「ロルベーアだ……」
「誰と勘違いしているんですか。それに、そんな幽霊でも見たような顔しないでください。勝手に殺さないでください」
「そうだな……済まない。ロルベーアは、こんな弱い俺でも、好きでいてくれるか? 愛してくれるか?」
「質問が多いですね。じゃあ、アインは私の事愛し続けてくれるんですか?」
「……? もちろんだろ。ずっと前にそう誓った。お前がいないと生きていけない」
「私もそうです。どんなアインも好きですよ。弱くても、強くても……それがアインじゃないですか。私が好きでたまらなくて、私が離れたら死にそうな顔をして監禁してしまいそうなのがアインです」
「……」
「監禁は嫌ですよ? だって、もっとこの世界をアインと一緒に見たいから。部屋の中にずっといるなんて寂しじゃないですか」
私はそういって、殿下の涙をぬぐった。
殿下はむすっとした顔をして「別にいいだろう」とどれに対しての反論なのか分からない言葉を投げてきた。
そうして、しばらくの間見つめ合っていれば、殿下が、何か言いたげに視線を泳がせ始めたので、私はいなんとなく彼のしたいことが分かってしまい、クスリと笑った。
「アイン」
「何だ、ロルベーア」
「キス、していいですか? したいんじゃないですか?」
「なぜわかった」
「ふふっ、私、アインのしたいことなら何でもわかりますよ。だめ?」
「……いいに決まっているだろう。聞くな」
「聞きます。貴方と同じ気持ちがいい」
「……分かると言ったり、分からないと言ったり、訳が分からないな」
と、殿下は呆れたような、でも嬉しそうに口角を上げると、私の頬に手を当てた。そうして、私の目をじっと見つめては、頬に触れていた手を唇へと動かした。指先で唇をなぞっては私の反応を確かめて……悪戯に微笑む殿下。とろんとした目が妙に色っぽいなとか考えていると、私は腕をつかまれ、引き寄せられる。そして、彼の唇が私の唇に重なった。
「んっ」
「……ロルベーア」
触れるだけの優しい口づけが何度も繰り返され、そのたびリップ音が耳に響く。
少し血の味がするキスに、私は思わず笑みがこぼれる。
(もう、二度と味わうことがないって思ってたのに……血の味のキスなんて)
これは契約でもそれらを破棄するための行為でもない。ただ、そこに愛があるから、愛しい人がいるからする行為なのだ――と、私は殿下の唇の感触に酔いしれながら、ふと考える。
「俺もお前のことなら何でもわかるぞ」
と、いつの間にかキスは終わっていたようで、殿下がしたり顔で私を見ていた。
「なんですか?」
「今笑っているから、機嫌がいいんだろ? それに照れているだろ。お前は分かりにくいふりして分かりやすいからな……お前がこの行為を嫌がらないのも分かっている」
「……あたりまえじゃないですか、今更」
私が恥ずかしさを誤魔化すようにそっぽを向いて答えると、殿下は私の背中を引き寄せて抱きしめた。
彼の心臓の音が、少し早くって笑えてしまったのはまた別の話だ。
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