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第3章 一輪の赤いアネモネ
case07 初めての喧嘩
しおりを挟む「うわぁ、スーツビショビショじゃん。クリーニング出さなきゃ」
家に帰るとすぐにバスタオルを頭からかぶせられ、わしゃわしゃと乱暴に頭をふかれた。身長差があるため仕方ないのだろうが、空があまりにも一生懸命なため、乾いた笑いが漏れる。だが、きっと顔は笑えていない。
空はパタパタと忙しそうに替えの服やら下着やらをもってきて、今すぐ風呂に入るようにと俺に言う。俺は、小さくうなずいて言われたままに風呂に入った。その間も空が何かを準備してくれている音が風呂場まで聞こえてきた。壁が薄いせいだろうか。
湯船につかりながら、俺はぼぅと何も考えられなかった。天井に着いた水滴を眺めるぐらいしか体力は残っていない。暖かいはずの湯もやけに冷たく感じた。
(俺、最低だな……)
心配だと迎えに来てくれた空の顔を見て、ろくでなしだと一瞬思ってしまった。もう切り替えたのかと、お前にとって明智と神津はそんな存在だったのかと、あの場で胸ぐらをつかんでしまいそうだった。だが、それをしなかったのはそうしたところで意味がないと思ったからだ。
いいや、分かっていたんだろう。空は前を向けているわけじゃないと。俺以上に傷ついているんだと。どれだけ取り繕っても、あの暗闇の中でほんの少し見えた顔は、怯えたような暗闇を怖がる子供のようだったから。
(心配かけたのは、悪かったと思ってる……だが、そんな顔されたらまたどうにかなっちまうよ)
空の善意に感謝しつつも、俺まで死ぬんじゃないかと不安で仕方ない空の顔を見ているとイラけがさした。それはきっと、俺に対して。そんな顔を空にさせている俺に対しての怒りだった。不甲斐ない、最低だ、最低だ。
ポチャン……と湯船に水が跳ねる。波紋が広がり消えていく。目で追っていたものすら見たくなくて、俺は目を覆った。何も見えなければいいのに、何も感じなければこの辛さも苦しさからも解放されるだろうに。
そう思ってしまった自分にまた苛立ちを覚える。
「ミオミオ早かったね。どう?温まった?」
風呂から出れば、暖かいココアを用意して空が出向かてくれた。何度も確認するように俺の顔を覗き込んで、うんうん。と自分に言い聞かせるようにうなずいていた。俺が生きていることに安心でもしているのだろう。
そんな空を見ていると、今の空っぽな自分は何なのだろうと思った。
「ほら、ココア入れたから一緒に飲もう?」
「……んで、何でココアなんだよ」
「え?」
どうしようもなく、耐えられなかった。
普段なら何を出されても怒ることもしなかったのに、明智との思い出がフラッシュバックして思わず空の手をはじいてしまう。パシンという乾いた音とともに、静寂が訪れ、空は目を見開いた。青いビー玉の瞳がこれでもかというぐらい揺れている。そこに映っていた自分はもはや自分の知らない自分だった。
「え、えっと、ミオミオ……?」
「お前は、お前は何も感じないのかよ。神津も死んで、明智も死んで。2人もダチがなくなって、何で笑ってやれるんだよ。何で、彼奴らのこと忘れて前を向けるんだよ。笑うなよ!」
怒りに任せて叫んだ。
わかっている八つ当たりだと。それでも塞き止めていたものがちょっとした拍子に決壊してあふれ出した。
分かっている、空はそんな奴じゃないことぐらい。分かっている。
空は動揺し、俺にはじかれた手を握りしめ、俺を震える瞳で見つめた。恐ろしい者でも見るように。その瞳に涙がたまっていることに俺は気づかなかった。
「お前のほうが彼奴らと仲が良かっただろう。なのに、何でお前は笑っていられるんだ?俺のことなんてどうでもいいだろ。いつもそうだよな。自分は悲しくないとか強がってんじゃねえよ。それとも、本当に辛くないのかよ。お前は、お前は何で――――」
「ごめん、澪」
親友に名前を呼ばれスッと気持ちが落ち着いた気がした。自分が何を言ったのかも途端に流れ込んできて思い出す。サアァ……と血が引いていくのがわかった。
俺の方も体が震えだして、顔を上げ、わなわなと震える口で空を見る。
笑っているのだろうか、怒っているのだろうか、それとも泣いている? いろんな感情が混ざったような顔で空は俺を見つめていた。
「オレの配慮不足だった。もっと澪のこと考えて上げられれば良かった。ごめん、オレ空気読むの下手なんだ……でも、でもね、澪」
と、言い聞かせるように、それでいて震えた声で空が言う。
「オレなりに前を向こうとしてたんだよ。でも、考えれば考えるほど思い出して、苦しくなって辛くなって。悲しくないわけないじゃん!ユキユキが死んだのも、ハルハルが死んだのも、全部全部全部!」
痛みを訴えるように叫ぶ空の声が、心臓にまで届いた気がした。
空もため込んだものを吐き出すように、俺にぶつけてくる。だが、それは俺も空も一方通行で互いを分かろうともしなかった。言葉はぶつかってそこで霧散する。
「そんな、酷いこと言わないでよ……澪にそんなこと言われたら、オレ――」
そう言いかけた空は、耐え切れなくなったのかリビングから走って寝室に飛び込んでいった。ガチャリと鍵がかけられる音がする。
「……空」
俺は、空の配慮を心を全部否定してしまったんだと、取り返しのつかないことをしたと思考がうまく回らなかった。いつか、自分の口は余計なことを言うと思っていたが、ここで、それも一番大切な人に向けて棘を吐いてしまったのだと。
「クソッ」
マグカップが2つ置かれたテーブルを俺は思いっきり叩きつけた。その拍子にマグカップが倒れ、甘いにおいが広がっていく。その吐き気のする甘さに俺は頭が痛くなった。
人生で初めて、親友と喧嘩してしまった。それは、大切なダチが2人死んで5日目のことだった。
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