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§ 揺蕩
四
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亜弥の父親は、小さな貿易会社を営んでいた。亜弥を出産後は専業主婦となった母親も語学は堪能で、父親に招かれて入れ替わり立ち替わり訪れる外国からの客を、自慢の料理でもてなしていたという。
「小さい頃は父の仕事なんてなんにもわかっていなかったから、遊んでくれるお客様が来るのが嬉しかっただけなんだけどね……」
父親に連れられ訪れた港で、巨大な貨物船からコンテナをクレーンで積み下ろす迫力。亜弥は夢中で眺めながら父親の偉大さを感じ、大きくなったら自分も父親の会社を手伝おうと幼心に決意を固めた。
父親と仕事をする自分を目標にして学業に励んだ亜弥の日常は、両親と亜弥の健康を奪ったあの事故により、大きく躓いてしまったのだ。
克巳が問うままに語られる亜弥の過ぎ去りし日々。肩にもたれかかる亜弥の髪を撫で時折頷いては次の言葉を促す。ぽつぽつと語られるその音を聞きながら、克巳は快活だった十七歳の亜弥の面影を追っていた。
「勉強はね、いっぱいしたのよ。おかげで短大も行けたから……」
「……頑張ったんだな」
「まあ……まあ、かな。勉強とリハビリ以外、他にすることもなかったし」
基本はベッドの住人だったからと屈託なく笑う亜弥に、克巳の胸が痛む。
「目指していた分野だし、仕事は楽しくて毎日充実してる」
最終的に就いたポジションは希望通りだったのかも知れない。運もよかったのだろう。それでもあの報告書を読めば、取り巻く職場環境はけっしてよいとはいえない。
羨望や嫉妬の視線に耐え、蔓延する醜い噂話をやり過ごし、淡々と仕事を熟し職場とアパートを往復するだけの日々を送る亜弥に、仕事の他には、との問いを、克巳は口にできなかった。
「……克巳くんが部長のお兄さんで……、思ってもみなかった。ほんと、びっくりした。世間って案外狭いのね。でも……」
「でも?」
会えてよかった。克巳が自分と同じ気持ちでいてくれて嬉しい。
長年のうちに積み重なったどろどろとした感情が薄れていくと同時に、克巳の中でやり場のない怒りが、湧き上がってくる。
「……亜弥、ごめん」
「どうして? 克巳くんは悪いことなんてなんにもしていないでしょう?」
突然離れ離れになってしまった相手を想う辛さは、自分も同じだったから。
理由のわからない克巳が、憶測でそれを埋め憎しみで隙間を満たすのは、不思議でもなんでもない。もしも自分がその立場なら、同じように詰め寄り暴言を吐いていたと思う。
それに——。
どんなきっかけであれ、ずっと想い続けていた克巳の顔を見て、ほんの僅かでも言葉を交わしてしまったら、気持ちを抑えられる自分はいなかった。だから。
中途半端な気持ちのまま、浅はかな考えで敦史の想いを受け入れた自分が、いまのこの状況を招いたのだ。迷いはしたけれど、と、亜弥は俯いた。
「悪いのはわたしだもん。わたしが自分で部長にはちゃんと話して謝る……わかってはもらえないかもしれないけれど、それでも……」
これはけじめだから。決意を滲ませて顔を上げた亜弥に、克巳は己の不甲斐なさをあらためて噛みしめる。
「亜弥の気持ちはわかった。でも、俺も一緒に話をしたい。席は俺が設ける。それでいいな?」
亜弥が言葉を尽くしたところで簡単に諦めが付くほど、敦史の想いは軽くないのを自分は知っている。
敦史はよく言えば素直で一途な性格だ。思い詰めた敦史がなにをするとは思わないが、万が一の危険もあることは頭に入れておくべきだ。
希薄な縁とはいえど自分を慕う敦史に対しては、弟とも友ともつかぬ情が多少はある。亜弥を譲るつもりは毛頭ないが、だからといってできるだけ傷つけたくもないのだが——最終的に決裂も已むなし。か。
やはり、自分が先に敦史とふたりだけで話をするべきなのだろうが、なにを何処まで話して聞かせるかは敦史次第になるだろう。
思考を巡らせる克巳に亜弥が「わかった」と、頷いた。
「小さい頃は父の仕事なんてなんにもわかっていなかったから、遊んでくれるお客様が来るのが嬉しかっただけなんだけどね……」
父親に連れられ訪れた港で、巨大な貨物船からコンテナをクレーンで積み下ろす迫力。亜弥は夢中で眺めながら父親の偉大さを感じ、大きくなったら自分も父親の会社を手伝おうと幼心に決意を固めた。
父親と仕事をする自分を目標にして学業に励んだ亜弥の日常は、両親と亜弥の健康を奪ったあの事故により、大きく躓いてしまったのだ。
克巳が問うままに語られる亜弥の過ぎ去りし日々。肩にもたれかかる亜弥の髪を撫で時折頷いては次の言葉を促す。ぽつぽつと語られるその音を聞きながら、克巳は快活だった十七歳の亜弥の面影を追っていた。
「勉強はね、いっぱいしたのよ。おかげで短大も行けたから……」
「……頑張ったんだな」
「まあ……まあ、かな。勉強とリハビリ以外、他にすることもなかったし」
基本はベッドの住人だったからと屈託なく笑う亜弥に、克巳の胸が痛む。
「目指していた分野だし、仕事は楽しくて毎日充実してる」
最終的に就いたポジションは希望通りだったのかも知れない。運もよかったのだろう。それでもあの報告書を読めば、取り巻く職場環境はけっしてよいとはいえない。
羨望や嫉妬の視線に耐え、蔓延する醜い噂話をやり過ごし、淡々と仕事を熟し職場とアパートを往復するだけの日々を送る亜弥に、仕事の他には、との問いを、克巳は口にできなかった。
「……克巳くんが部長のお兄さんで……、思ってもみなかった。ほんと、びっくりした。世間って案外狭いのね。でも……」
「でも?」
会えてよかった。克巳が自分と同じ気持ちでいてくれて嬉しい。
長年のうちに積み重なったどろどろとした感情が薄れていくと同時に、克巳の中でやり場のない怒りが、湧き上がってくる。
「……亜弥、ごめん」
「どうして? 克巳くんは悪いことなんてなんにもしていないでしょう?」
突然離れ離れになってしまった相手を想う辛さは、自分も同じだったから。
理由のわからない克巳が、憶測でそれを埋め憎しみで隙間を満たすのは、不思議でもなんでもない。もしも自分がその立場なら、同じように詰め寄り暴言を吐いていたと思う。
それに——。
どんなきっかけであれ、ずっと想い続けていた克巳の顔を見て、ほんの僅かでも言葉を交わしてしまったら、気持ちを抑えられる自分はいなかった。だから。
中途半端な気持ちのまま、浅はかな考えで敦史の想いを受け入れた自分が、いまのこの状況を招いたのだ。迷いはしたけれど、と、亜弥は俯いた。
「悪いのはわたしだもん。わたしが自分で部長にはちゃんと話して謝る……わかってはもらえないかもしれないけれど、それでも……」
これはけじめだから。決意を滲ませて顔を上げた亜弥に、克巳は己の不甲斐なさをあらためて噛みしめる。
「亜弥の気持ちはわかった。でも、俺も一緒に話をしたい。席は俺が設ける。それでいいな?」
亜弥が言葉を尽くしたところで簡単に諦めが付くほど、敦史の想いは軽くないのを自分は知っている。
敦史はよく言えば素直で一途な性格だ。思い詰めた敦史がなにをするとは思わないが、万が一の危険もあることは頭に入れておくべきだ。
希薄な縁とはいえど自分を慕う敦史に対しては、弟とも友ともつかぬ情が多少はある。亜弥を譲るつもりは毛頭ないが、だからといってできるだけ傷つけたくもないのだが——最終的に決裂も已むなし。か。
やはり、自分が先に敦史とふたりだけで話をするべきなのだろうが、なにを何処まで話して聞かせるかは敦史次第になるだろう。
思考を巡らせる克巳に亜弥が「わかった」と、頷いた。
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