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希求

030 海都

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姉の様子がおかしいのは何となく気付いた。
けれど理由が分からないまま──今の俺よりもハルの方が適任だし救い上げてくれると思っていた。

「吉舎さん──今日は──どうします?」

あれから紗希と何度が関係を重ねている。
紗希は何も言わない。
俺が好きなのが姉だとは思いもしないだろう。
だからか何度も何度も俺に同じ言葉を重ねる。
まるで呪いのように。

【好きな人と身体を重ねる以上の幸せなんてない】と。

だから自分は幸せだと、代替でもいいと──唇を重ねてくる。
その言葉を聞く度に姉を抱く妄想に耽ってしまう事を紗希は知ってか知らずか繰り返す。

「──ごめん。今日は早めに家に帰りたいから」

そっか、と素直で引く際も困らせない。
この子を大事にしてあげたいと、優しくしてあげたい欲求もある。
──姉さんがハルと結婚すれば自分の何かが諦めて前に進ませてくれるのだろうか?
そう期待して……姉の結婚を受け入れるようになりたい。



「ただいま」

部屋は暗く静まり返っている。
いつもならリビングの明かりと姉の微笑みが出迎えてくれるけれど今日は静まりかえりこの家に一人だと思わせる。
姉がいない。
それだけでこの家の価値がなくなる。
近い将来にはこれが当たり前になるなんて想像さえしたくない。

思考を戻し玄関の姉の靴があったのをを思い出す。
ゆっくりとリビングに行けば電気の付いてないリビングは薄暗くキッチン周りの間接照明だけが最小限の光を灯していた。

ソファには足を折り曲げるように丸くなった姉が寝ている。
その横には干したと思われる掛け布団が太陽を吸ってふわふわと空気を含み厚みをとりもどしている。更にアイロンの掛かったシーツカバーに納められていて、あとは二階まで運べばいい状態だ。
リビングを見回せばキッチンもピカピカだり
この調子だと庭掃除も結局しているだろうし下手すれば浴室もしていそうだ。
精力的に掃除をし、疲れて眠っているのだろう。
──姉はいつもキチンとしているが思い悩むとそれが更に加速する。
悩む時間をなくす為なのか、誰にも文句を言われないように完璧を目指すのか分からないけれど……この状態は姉に何か悩みがある事を示してる。

ソファを背もたれにして絨毯に座り込む。
寝息も聞こえない。
背中から感じる気配だけ。
それなのに全身の神経が姉に向いているのが分かる。
切ない気持ちが溢れてくる。
姉の悩みを聞くことも望まれていない。
俺は姉にとってどんな存在なのだろう。
姉の望む自分でありたい気持ちと、望まれなくても姉の一番になりたい気持ちが綯交ぜになる。
ハルになら話すのだろうか?
解決出来なくても癒されるのだろうか?
他の男の前でなら女の貴方を見せるのだろうか。

「……ハル──」

譫言うわごとに打ちのめされる。
寝ていても姉が望むのはハルだ。
姉の顔を見たくない。
否──見れない。
どんな表情でハルの名を呼ぶのか。
他の男の名を呼ぶ表情なんて知りたくもない。

「──ごめん……ハル……ごめ…ん」

泣き声の譫言に悪夢に苛まれているのがわかる。
その声に──言葉に──背を向けて座り込んでいた身体を姉側に向ける。
姉の瞳から涙が溢れ、唇は悲しみを食いしばるように震えている。
──ハルと何があった? 
──アイツは何をしているんだ?
ハルへの怒りを抑え涙を流す姉の髪に触れる。
撫であやすように──安眠出来るようにと願いを込める。
姉の指が俺の袖の掴む。
震えるように……覚束ないほどそっと掴む。

「ハル……ごめん」

まだ夢の中でアイツと対峙している。
俺の指をハルだと思っている。
何度も、ハルごめんと謝る。
アイツにこんなにも謝らなくてはならない状態なんてない筈だ。
姉がごめんねと謝る度に苛立ちが増す。
けれど──優しく背中を撫でる。

「ごめんハル──やっぱり…貴方と結婚出来ない」

その言葉に摩っていた手が止まる。
思考が止まり──再び乱雑に動き出す。

「──何で結婚出来ないの?」

溢れる涙を手で拭い、そう問いかけてしまう。
姉の泣き顔を初めて見た。
こんなにも弱く──そそる──
言葉に出来ないのか、ただ涙が溢れる。

「何で?姉さん。何で結婚しないの?」

静かに囁く。
神父が懺悔を聞くように──悪魔が誑かすかよ様に──

「──海都?──ごめんなさい」

俺にも謝りだした。
姉は夢の中の俺にも罪悪を感じているようだ。

「海都──好きになって──ごめんね……」

「───」

思考は──間違いだと一瞬で理解した。
聞き間違いだと。
俺の望む意味ではないと。
それでも、次の瞬間には心臓が一気に脈を打ち出した。
短距離を全力疾走したような熱さが心を覆う。
その言葉を発した姉の唇に魅入ってしまい目が──離せない。

もう無理だった。
我慢なんて出来ない。
好きな女に触れる欲望を抑えられるほど──強くなれなかった。

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