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Chap.3

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 ドクター・キーティングの車は、コマドリの卵のようなブルーで、いかにもガタピシいいそうな古い小さな車なのに、すうーっと滑るように静かに走り出した。エンジン音の代わりに、何かを茹でているような微かなコポコポという音が聞こえる。
 角を曲がって、ケーキ店の前で手を振っていたアメリアとマーサが見えなくなると、健太は真剣な顔でバックミラーに映るドクター・キーティングを見つめた。
「僕たち、元の世界に帰れるんですよね?」
 ドクター・キーティングはしっかりと頷いてみせた。
「大丈夫。それは保証しますよ。いつでも帰りたい時に帰れます。まあ、今すぐこの車の中からというわけにはちょっといきませんが」
「ドアがないのに、どうやって帰るんですか?」
「ああ、『ドア』の話は聞いたんですね。そう、こっちには残念ながら『ドア』はないけれど、その代わり魔法がありますからね。魔法を使って帰るんです」
 竜と健太は顔を見合わせた。魔法?
「魔法って、じゃあ魔法使いがいるんですか?ここは魔法の世界なんですか?」
「ハリーポッターみたいな?魔法学校もありますか?」
 頰を紅潮させて質問する二人の様子にドクター・キーティングはおかしそうに笑った。
「やっぱり。お二人がそう言うと思いました。最近の隣の世界からのお客さんたちは、魔法と聞くとほとんど皆さんがハリーポッターと言うんですよ。そう、ここには魔法を使える人もいます。特に魔法使い、というような呼び方はしませんがね。魔法使いという特別な人種がいるわけじゃないんです。魔法を使える人もいれば使えない人もいる。ヴァイオリンを弾ける人もいれば弾けない人もいるのと全く同じです。弾ける人の中にも、プロの演奏家になる程素晴らしい才能の持ち主もいれば、簡単な曲ならいくつか弾けるという程度の人もいるでしょう。それと同じです。魔法に長けていて魔法を使う職業についている人もいれば、趣味程度にしている人もいる」 
 二人はなるほどと頷いた。この世界では、魔法は習得する技術なのだ。
「魔法学校というのはありませんが、魔法大学はありますよ」
「ドクター・キーティング…」
「スティーブンと呼んでください」
「スティーブン、あなたは魔法を使うんですか」
「ええ。魔法大学では魔法医学を専攻しました。職業は医者ですが、ソンダースの魔法大学でも教えているんです。隣の世界との交流委員もやっているので、アメリアさんが連絡をくれたというわけなんですよ。そこで、本題なんですが」
 スティーブンはバックミラーの中で改まった顔をして二人を見た。
「お二人がドアを通った時の状況を聞かせてくれませんか」
「ええと、」
 竜は健太と目を見合わせながら話し始めた。
「僕たち、サマーキャンプに来ていて…」
 竜が簡単に説明し終わると、スティーブンは頷いた。
「なるほど。それではお二人が『ドア』を通ったところを見た人はいないわけですね」
「少なくとも、近くには誰もいませんでした」
「それは良かった。誰かが見ていたら今頃大騒ぎになっているところですからね」
 健太が心配そうに言う。
「でも、僕たちが気がつかなかっただけで、もしかしたら誰かが見ていたかもしれません」
「そうでなかったことを祈りましょう。で、お二人は、その後誰かと会う約束などがありましたか。ミーティングとか」
 二人は顔を見合わせた。
「いいえ。もう自由時間でしたから、後はキャビンへ行ってすぐに寝ようが、外のベンチに座って夜通しおしゃべりしていようが、個人の自由です。あんまりそういうことには厳しくないキャンプなんです。寝る前の点呼とかもないし」
 竜が言うと、健太がまた心配そうに眉をひそめて低い声で言う。
「でもママたちが様子を見に来たりするかもしれない」
「うーん、うちの母さんは絶対来ないと思うけど、確かに、ケンタくんのお母さんはどうかわからないよね。初めてだし…」
「さあ、着きました」
 スティーブンの声に竜は窓の外に目をやった。
 車はオレンジ色のつるバラの絡んだアーチの下を通り抜けたところだった。小さな家庭菜園の横を通り過ぎて、白塗りのポーチの前にすっと停まる。
 綺麗なブルーグレイに塗られたドアが勢いよく開いて、背の高い高校生くらいの男の子と中学生くらいの男の子が飛び出してきた。
「お帰りなさい、お父さん!」
「ただいま。おや、ジーナはどこだい」
 竜たちと同い年くらいの女の子が、ドアの陰からおずおずと顔を出した。
「恥ずかしがらないで、出ておいで。ご挨拶しなくちゃ。さ、ケンタ君、つかまって。よいしょっと」
 スティーブンが健太を抱き上げている間に、ジーナも兄たちの横に並んだ。
「ケンタ君、リョウ君、こちらがコール、レイ、それからジーナです。みんな、こちらがケンタ君とリョウ君。隣の世界からのお客様だ」
 五人はそれぞれ「初めまして」とか「よろしく」とか言いながら、握手を交わした。
 スティーブンの子供達は、二人を珍しそうにじろじろ見たり、興奮した様子を見せたりせず、礼儀正しくにこやかに挨拶をした。
 スティーブンが交流委員だから、隣の世界からのお客に慣れているのかもしれないなと竜は思った。
「さあ、では僕の書斎へ行きましょう。みんな、また後で」

 スティーブンは健太を抱えたまま、庭の芝生を横切って、白塗りにブルーグレイの屋根の離れに二人を案内した。
 やはりブルーグレイに塗られたドアを開けると、図書館のような匂いがして、図書館の好きな竜はとてもくつろいだ気持ちになった。大きな本棚がいくつもあり、本がぎっしり詰まっている。
 スティーブンは、窓の近くの大きな机の前に置いてあった一人がけのソファに健太を座らせ、もう一つのソファを竜に勧めると、机の反対側においてある背もたれの高い椅子に腰を下ろした。
「さて、と。まずお話ししなければならないのは、時間のことです。お隣の世界の1時間はこちらの世界の1日に当たります。お二人がこちらで丸1日過ごしても、向こうの世界では1時間しか経ちません。お二人がこちらに来てから、こちらではまだ1時間経っていない。ということは、向こうでは2分半も経っていないということです。先程のお二人の説明では、お二人がこちらへ来たのを見ていた人は誰もいなかったようですし、この後誰と会う予定もなかったということですから、今すぐ向こうへ帰れば騒ぎになることは避けられますし、誰を心配させることもないでしょう」
「ええっ。そんな、もったいない!」
 竜は思わず大きな声を上げていた。スティーブンと健太が目を丸くして竜を見る。
「せっかく来たのに!だって、向こうはまだ夜の10時少し前くらいでしょ。っていうことは、明日の朝ごはんの集合時間まで、11、12、1、2、3、4、5、6、7、って9時間あるんだから、ここに9日間いられるってことでしょ?すごいや!」
「でも、僕たちがどこにもいないってみんなが気づいたら、大騒ぎになるよ。行方不明になったとかいって、警察沙汰になるかもしれないよ」
「そんなの!朝になって僕たちが見つかれば一件落着だよ。ちょっと怒られるくらい、なんてことない。それに、一度向こうに帰ってしまったら、もうこっちに戻って来られないんでしょう?意図的に来られるものじゃないって、アメリアさんが言ってました」
「そうですね、残念ながら、来ようと思って来られるというわけではありません」
「ほら!これは二度とないチャンスなんだ!スティーブン、僕、ここにいたいです。9日間!いてもいいですか?」
 スティーブンはにっこりした。
「もちろんですよ、リョウ君。大歓迎です。何かしてみたいこととか、行ってみたいところ、食べてみたいもの、なんでも言ってくだ…」
「僕っ、魔法を習ってみたいです!」
「あ、僕も!」
 心配顔だった健太も身を乗り出した。
「いいですとも。でも、最初に言っておかなくてはなりませんが、魔法は誰でもすぐに習得できるものではありません」
 スティーブンは真面目な顔で言い聞かせるように言った。
「もちろん個人差がありますが、9日間というと、普通はようやく初歩の初歩を習得できるかどうかというところです。はじめは基礎的な訓練からで、これはほとんどの人にとって非常に退屈なものです。大抵のお客様たちが魔法を習いたいと言い、すぐに音をあげます。お二人も、もし途中でやめたくなったらいつでもやめていいんですよ。無理して退屈なことを続けて他のことができないと、時間がもったいないですからね。せっかく別の世界に来ているのですから」
 二人は神妙な顔で頷いたが、竜は心の中で、絶対に諦めないぞと拳を握りしめた。 
 もしあるならば魔法というものを習ってみたいというのは、物心ついた時からの竜の夢だった。
 絶対に魔法を使えるようになってみせる!
「ケンタ君はどうしますか?やはりリョウ君と一緒に9日間?」
 健太は少し迷うような素振りを見せ口ごもった。
「ん…僕もできることなら9日間いたいですけど、でももう少し早めに帰る方がいいような気がするんです。僕がいなくなったってわかったら、ママ、いや、母がすごく心配しますから。だから多分2日間か3日間くらい…」
 スティーブンは優しい目をして頷いた。
「わかりました。何も今何日間とはっきり決めなくてはいけないわけではありませんから、大丈夫ですよ。ただ、できればお帰りになりたい日の前日に私に教えてください。仕事のスケジュールの調整をしなくてはなりませんから」
「はい、わかりました」
 健太は頷いてから、竜の方を見て小さく笑った。
「僕が先に帰って、リョウ君の不在をうまく説明しといてあげるよ。怒られたりしないように」
「頼んだよ」
 おどけて言いながら、竜は少し落ち着かない気持ちになった。
 母さんも心配するだろうか…。
 でも、やっぱり出来るだけ長くここにいたい。魔法の勉強がしたい。
「お二人はアメリアさんのお客様ということになります。この世界では、隣の世界から自分の家にお客様がいらっしゃるというのは、大変名誉あることですから、このままアメリアさんのお家に滞在なされば、アメリアさんは大喜びでしょう。もちろん、ホテルや宿屋もご紹介できますし、自炊なさりたければ快適なアパートや一軒家をお探しします。いかがですか?」
 二人は顔を見合わせて、頷き合った。
「アメリアさんのところで…」
「うん、いいよね。お願いします」
「わかりました。さて、」
 スティーブンが立ち上がった。
「まだいくつかお話しすることはありますが、それは後でもいいでしょう。ケンタ君、脚を診せてごらんなさい」
 三人を見送る時、アメリアが、健太の脚の怪我を治療してあげてくれとスティーブンに念を押していたのだ。  
「あ、いえ、これはいいんです」
 健太は苦笑した。
「怪我じゃありませんから」
 スティーブンは健太の傍に跪くと、にっこりした。
「治してあげられると思いますよ」
「えっ」
「でも、魔法の効き目はこの世界にいる間しか続きません。まあ、厳密に言えば、そう断言はできないのですが。我々はあなたたちの世界へは行かれませんから、こちらでかけた魔法が向こうに行っても続くのかを実際に見届けた者はいません。でも理論上は、この種の魔法は世界と世界の境目を超えられないことになっています。それでもよければ、」
「構いません!」
 健太の声は上ずっていた。
「ぜひ、お願いします!」 
「わかりました」
 スティーブンは両手を健太の脚の上に置いた。竜は何一つ見逃すまいと固唾をのんで見守った。
 スティーブンの強い集中力が感じられた。辺りの空気がすうっと変わった。
 健太が、あっと息を飲んだ。
「…脚」
 かすれ声で言って、健太は震える手で脚に触った。
「…感じる」
「僕の手につかまって。ゆっくり立ってごらんなさい」
 ごくりと喉を鳴らすと、健太はスティーブンに両手を預けて腰を浮かそうとした。ライトグレイのスウェットパンツに包まれた脚が震えている。やがてゆっくりと、しかし信じられないくらい滑らかに、健太の脚が伸びていき、綺麗に立った。
「そのまま歩いてごらんなさい」
 スティーブンが健太の手を取ったまま、導くように一歩踏み出した。健太の強張った顔とは裏腹に、脚はごく自然に滑らかに前へ出た。左。右。左。右。スティーブンが手を離した。健太は一人で歩き続けた。部屋の反対側の窓際のソファまで行き、くるりとターンしてまた机のところまで戻ってきた健太の顔は、驚きと嬉しさで上気していた。
「…歩いてる。僕、歩いてる!」
 スティーブンがにっこり笑って頷いた。
「大丈夫なようですね」
「すごい!すごいや!ありがとう、スティーブン!ありがとうございます!ああ、すごいや!」
 健太はスティーブンに抱きついたかと思うと、今度はその場でぴょんぴょん小さく跳ね出した。
「跳べる!あの、走っても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。でもできれば最初はゆっくりとね。それから迷子になると困るから、今はうちの庭だけにしておいてください」
 笑いながら言うと、スティーブンは健太のために書斎のドアを開けた。夏の午後の光がまぶしい緑の芝生に、健太は抑えきれないように飛び出していった。
「…すごいですね」
 竜は大きく息をついて言った。初めて本物の魔法を見たことに、心の底から感動していた。
「リハビリとかもいらないんですね。あんなすぐに歩けるようになるなんて。いや、それどころか、もう走ってる…」
 健太は夢中になって走ったり、スキップしてみたり、跳んだり跳ねたりして、広い庭をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていた。
「あれが、本来あるべき脚の状態なわけですからね。今のはそういう魔法です。あるべきようになれ、という。ごく自然な魔法ですよ」
「呪文を唱えたりとかはしないんですね」
「そうですね。そういう類の魔法は僕は知りません」
「さっき、魔法をかけた時、部屋の中の空気が変わったのがわかりました」
 スティーブンは、ほう、と言うように眉を上げて竜を見た。
「どんな風に変わりました?」
「強い集中力を感じました。空気中の何かが、すうっとあなたの手元に集まってきて、そこだけ何かが濃くなったような感じがしました」
 スティーブンは嬉しそうに頷いた。
「これはすごい。そういうことを感じられるというのは、魔法を学ぶ上でとても大切なことなんですよ」
「僕、小さいときからずっと、もしあるなら魔法というものを学んでみたいと思っていたんです。魔法が使えるようになりたい、って。9日間だけしかないのは残念だけど、でも精一杯頑張ります」
 そのとき、健太が息急き切って駆け込んできた。顔中が笑顔と汗でピカピカしている。
「スティーブン、もしかしてこの世界にもバスケットボールがあるんですか?庭の向こうの方にゴールが…」
「ええ、バスケットボールは子供達の間で人気ですよ。ずいぶん前に、お隣の世界から入ってきたんです。うちのレイもチームに入っていますよ」 
「わお!あの、もしボールがあったらお借りできますか?ちょっとやってみたいんです」
「ボールなら、家の裏口の隣にある物置に入っているはずですよ。鍵はかかっていませんから…」
「ありがとうございます!」
 みなまで聞かず飛び出した健太の背中に、スティーブンは慌てて叫んだ。
「もしそこになかったら、そこらの茂みに転がっているでしょうから、探してみてください!」
「はーい!」
 竜は嬉しくなって笑った。健太のはち切れんばかりの幸せな気持ちが辺りの空気を満たしていた。
「ケンタ君は、車椅子でやるバスケットボールチームのキャプテンなんだそうです」
「そうでしたか。それでは、どうやら魔法の授業はリョウ君一人ということになりそうですね」
 スティーブンも楽しそうに笑った。

 その後、レイも出てきて、健太と二人でバスケットボールに興じた。健太は初めのうちこそ車椅子でやるバスケットボールと立ったままやるバスケットボールとの動きの違いに苦労していたが、レイの適切な指導のおかげで、みるみる上手くなって、レイを感心させた。
「上手いね!もしよかったら、チームのみんなに紹介するけど、どう?明日から一緒に練習してみない?」
「うん!ぜひ!」
 今度はフリースローの練習を始めた二人を見ながら、竜はスティーブンとコールと木陰のテーブルで話をした。コールはこの秋ソンダース魔法大学に入学することになっていて、魔法発明学を専攻するのだと話してくれた。
「でも、最初は他の分野も勉強しなくちゃいけないんだけどね。魔法歴史学や、魔法哲学、魔法数学、魔法物理学、魔法量子力学、魔法化学、魔法実験学、魔法医学…」
 竜はため息をついた。
「そんなに色々…。いいなあ、羨ましいです。やっぱりそれくらい色々勉強しないと、魔法は身につかないですよね、きっと。9日間じゃやっぱりだめか…」
 スティーブンと同じように細い銀縁の眼鏡をかけたコールは、笑って首を振った。
「そんなことないよ。リョウ君は、何か楽器弾く?」
「ピアノを弾きます」
「音楽だって、学問として色々学ぶことがあるだろ。歴史とか方法論とか作曲法とか和声学とか。そんなのやってなくても弾けるじゃない?それと同じだよ」
 スティーブンもにっこりと頷いた。
「リョウ君はいい感性を持っていますよ。9日間あればかなりのところまで学べると思います。僕も楽しみですよ。明日からと言わずに、今から始めてみましょうか」
「はい!お願いします!」
 椅子から飛び上がらんばかりにして言った竜を落ち着かせるように、スティーブンは静かにゆっくりと言った。
「まずは自分の意識の動きを把握し、コントロールするところからです。魔法とは関係ないように思えるかもしれませんが、実は一番大事なことです。その第一歩が、意識を集中させる練習。
 普段、私たちの意識というものは自分で感じている以上に拡散しています。動物としては身の回りの危険を察知するために、人間としては心配事とか、今日の晩ご飯は何かなあとか、きれいな花だなあとか、そういうたくさんのことに意識が拡がっている。それを集中させるわけです。
 これはレベルが上がってくると本当に周囲で起こっていることに気がつかなくなって危険なので、安全なところで必ず誰かとペアになって練習しなければならないのですが、初めのうちはいつでもどこででもトレーニングできますから、できるだけ頻繁にやってみるといいでしょう。
 さあ、意識を集中させてごらんなさい」
 竜は頷いて、頭の中ではっきりと自分に言った。
 ——拡散している意識を、
 ——集中させる。
 すると、不意に、薄青い空間の中に浮かんでいる自分の身体から、様々な色をした光線のようなものがあちらこちらに向かって伸びているイメージが見えた。
 ——これらを、
 ——一つにまとめる。
 くっと頭の中で力を入れると、光線たちが滑らかに動き出し、徐々にまとまって、やがて胸のあたりから前方に向かって伸びる白く輝く一本の光線になった。
「これは感覚的なことなので、何をどうしろと教えられないのですが、例えば空中にある一点を定めて…」
 遠くから聞こえていたスティーブンの声が、聞こえなくなった。竜は薄青い空間の中に浮かんだまま、自分の胸のあたりから真っ直ぐ前に伸びている白く輝く光線を、そっと両手で掬うようにしてみた。白い光線は、竜の手元に集まり、ありとあらゆる色に煌く光のボールのようになった。その美しさに竜が見惚れていると、突然、肩をぐいと掴まれた。
「リョウ君!」
 はっとなった次の瞬間、薄青い不思議な空間は消え、竜は明るい夏の午後の日の輝く庭に戻っていた。目の前には驚愕の表情を浮かべたスティーブンと、信じられないというように首を振っているコールがいた。
「リョウ君…君って人は、一体…」
 スティーブンは竜の肩から手を離すと、どさりと自分の椅子に落ちるように座った。
「どうやったんだい」
 コールがテーブルに身を乗り出して訊いた。竜はまだ少しぼうっとしながら、薄青い空間と光線たちのことを話した。
「天才出現、かな」
 コールは心底感心したというように言って、にこりと笑った。
「まったくだ。驚いたな」
 スティーブンはまだ驚愕の表情を拭えないまま、顎を撫でた。
「あとは周囲の状況を把握できるように意識をコントロールするだけです。リョウ君ならきっとすぐにできるでしょう。やってごらんなさい。意識の大部分はさっきやったように集中したまま、わずかな意識を周囲の様子を見、聞き、感じる役割に当てるんです」
 竜はやってみた。初めから意識を分割しようとしたがうまくできなかったので、まずさっきの薄青い空間に戻り、意識の光線を加減しながら動かしていると、やがて手元に光のボールを持ったまま、周囲が見え、物音が聞こえ、座っている椅子の感触を感じることができるようになった。
「どうですか」
 スティーブンが訊く。
「…なんとか。でも、ただ意識を集中させるよりも、難しいです。時間がかかるし、結構疲れます」
「それは当然です。慣れればずっと簡単にできるようになりますよ。しかしそれにしても、驚いたな。こんなことは初めてだ」
 スティーブンはため息をついて首を振った。 
「意識の集中とコントロールを1日で習得とは」
「1日というより、1時間だよね。いや、半時間かな」
 コールが笑って訂正する。
「まったくだ。いやはや」
 スティーブンも笑うと、
「でも今日はこれくらいにしておきましょう。あまり急激に進みすぎるのもよくありません。頭も体も疲れてしまいますからね。実際の魔法は明日からにしましょう」
 竜は少し残念に思ったが、それならせめて意識のコントロールを明日までに難なくできるようになるぞ、と決心した。それを見透かしたように、スティーブンが言った。
「意識のコントロールの練習をするのは構いませんが、出来るだけ誰かに見ていてもらいながらやってください。まあ、リョウ君の場合は、もうほぼできていますからそう危険でもありませんが、念のためにね」
「はい、わかりました」
「それから、やりすぎは禁物です。続けて何度もやらないようにしてください。きちんと合間に休憩をとって」
「はい」
 そこへジーナがやってきた。
「お父さん、アメリアさんから電話よ」
「やあ、忘れていた」
 スティーブンは慌てて立ち上がった。
「後で電話をすると言ったんだった。ちょっと失礼」
 急いで家の方へ走っていくスティーブンを見送ってから、コールはおかしそうに笑った。
「アメリアさん、待ちきれなかったんだね。きっとすぐに山ほどケーキを持ってやって来るよ。ついでに歌も披露してくれるんじゃないかな」
「歌?」
「アメリアさんは、有名な声楽家だったんだよ。数年前、パティシエだったご主人が病気になってね。それできっぱり引退して、ご主人の看病に専念していた。ご主人は昨年亡くなったけど、アメリアさんはパティシエを雇って、ご主人のお店を引き継いだんだ」
「そうだったんですか…」
 竜はちょっとしんみりした。あんなに明るくて賑やかなアメリアさんが、ご主人を昨年亡くしたばかりだったなんて。
「うちの母がアメリアさんの妹さんと大学時代に一緒に研究をしていて、今も同じ研究所で働いてるから、うちとは昔からよく行き来があってね。いい人だよ、アメリアさん。ちょっと世話焼き過ぎるようなところもあるけど」
 コールは笑って続けた。
「毎日ケーキ攻めにあうだろうから、魔法の練習ばかりじゃなくて少し運動もした方がいいと思うよ。じゃないと服のサイズをあげなきゃいけなくなる」
 果たして10分後には、アメリアとマーサが車にいっぱいのケーキと共に到着した。スティーブンが声をかけた近所の人たちも集まって、竜と健太のささやかな歓迎パーティとなったのであった。

 「アメリアさんって、プロの歌手か何かなのかな。さっきの歌、すごく上手だったよね」
 その夜、アメリアの客用寝室のベッドに腰掛けて、健太が言った。
「うん、有名な声楽家だったんだって」
 竜は心持ち声を潜めて、コールに聞いた話をした。パーティの間も、アメリアの家に戻ってからも、今まで二人で話をする暇がなかったのだ。
「そうだったんだ…」
 健太は沈痛な面持ちで呟いた。
「そんな成功した音楽家だったのに、旦那さんの看病のために辞めちゃったのか。よっぽど旦那さんのことが好きだったんだね」
「そうだね。だから旦那さんのお店も続けていこうって思ったんだろうな。そうそう、コールがね、毎日ケーキ攻めにあうだろうから、ちゃんと運動した方がいいよって言ってた」
 健太は楽しそうに笑った。
「するよ、運動!ああ、まだ夢を見てるみたいだ!走れるんだよ!」
 ぱんぱん、とアメリアが用意してくれた淡いグリーンのパジャマに包まれた両脚を叩いた健太を見て、竜は改めて感動に打たれた。
「すごいよね。本当によかった。おめでとう、ケンタ君」
「ありがとう、リョウ君。そうだ、僕、明日からレイとバスケの練習に参加するんだ。だからリョウ君と一緒に魔法の授業は受けられないと思う。ごめんね」
 すまなそうにいう健太に、竜は笑って首をふった。
「いいんだよ。実はもう、ちょっとだけだけど、魔法の授業を受けたんだ。ケンタ君がバスケをしている間に」
「えっ。どんな授業?」
 竜は、あの薄青い空間と様々な色の意識の光線のことを思い出しながら、意識のコントロールのことをゆっくりと詳しく説明していったが、ふと見ると、隣のベッドの上で健太は寝息を立てていた。竜はくすりと笑うと、座ったまま横に倒れたように寝てしまっている健太の上に掛け布団をかけ、ベッドの脇に垂れたままになっていた両脚をそっと持ち上げて、掛け布団の下に押し込んだ。魔法のかかった脚…。ああ、僕も早く魔法が使えるようになりたい!
 自分のベッドに戻ると、竜は背筋を伸ばしてあぐらをかき、修行する僧になったようなつもりで目を閉じた。意識のコントロールを自在にできるようになるまで、眠らないぞ。
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