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Chap.5

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 エミルはスティーブンが四コマ目の講義へ向かったすぐ後に帰ってきた。竜はソファにぐったりと腰を下ろして、テーブルの上の蝋燭を眺めていた。
「お帰りなさい…」
「ただいま」
 まさに疲労困憊といった様子の竜を見て、エミルは意外だというように眉を上げた。
「どうした?」
「蝋燭に、火を灯せないんです…」
 言った途端竜は泣きそうになった。もうくたくただった。休憩もろくに取らずに3時間以上もやっているのにできない。やっぱり魔法は難しい。基礎的なことはあんなに簡単にできるようになったのに、一つレベルが上がっただけで、もう壁にぶつかってしまった。天才だなんて言ってもらっていい気になっていた自分が恥ずかしい。スティーブンは、すぐにはできなくて当たり前だと慰めてくれたけど、でもこんな調子では9日間で一体何ができるというのだろう。
 エミルは蝋燭のそばに置いてあるマッチの箱に目をやった。
「マッチを使ってはできたんだろ」
「はい。でもその後今度はマッチを使わずにって言われたら…」
 エミルは苦笑した。
「教科書通りの進め方だな。そういう風にやると、かえって余計難しくなっちまうこともあるんだ。まあスティーブンだからな」
「え?」
「おっと。いや、スティーブンはいい先生だけどね。ちょっと真面目で杓子定規すぎるところがあるっていうのが、僕の個人的な意見。スティーブンには内緒だぜ」
 いたずらっぽく片目をつぶって見せると、エミルは続けた。
「竜みたいな場合は、実際の空間じゃなくて意識の空間からやる方が簡単だ」
「意識の空間?」
「光の球のある空間。そこに戻ってごらん。意識を集中して」
 竜は、言われた通りに意識を集中し、しばらく使っていなかった薄青い空間に戻った。光のボールは前と変わらず様々な色に煌きながらそこに浮いている。竜はなんだかほっとした。自分の部屋に帰ってきたような気分だった。
「その光の球の中に火を作るんだ」
「火を作る?」
「火のイメージを球の中に映す、とでもいうかな」
「火のイメージ…」
 竜はやってみようとしたが、そもそも火というものがどんな姿かたちをしているか、思い出せない。今まで火というものをよく見たことがなかったことに竜は気がついた。
「モデルがいるか」
 エミルが言うと、微かな音と共に空中に炎が現れた。
「よく見て。これを光の球の中にコピーする感じ」
 竜はやってみた。すると拍子抜けするほど簡単に、光のボールの中に生き生きと燃える炎が現れた。
「よし。で、今度はそれを実際の空間にあるこの蝋燭の上にコピーする」
 竜はガラスのテーブルの上にある憎らしい蝋燭を見据えた。
「…あっ」
 音もなく炎が現れ、蝋燭はずっとこうして燃えていましたよと言わんばかりに静かにそこに立っていた。
「……できた」
 竜はへなへなとソファの背もたれに崩れ込んだ。
「簡単だろ」
 バタークッキーをつまみながらエミルがにこりと笑った。
「……よかった…」
 竜は安堵のあまり涙が出そうになった。これでもっと魔法が学べる。
「気負いすぎだよ。もっと気楽に…」
「どうしてわかるんですか!」
 竜はエミルを見上げた。
「光のボールのこととか、あの空間のこととか」
 エミルは微笑んだ。
「そりゃ、見えるからね」
「見えるんですか?!あの空間が?」
 クッキーをかじりながらエミルが頷く。
「でも…あれって僕の頭の中のことでしょう。スティーブンには見えてないみたいだし、コールにも見えてなかったのに」
「魔法のやり方も、人によって違うからね。僕も竜と同じやり方をするから、見えるんだよ」
「同じやり方?」
「ああいう空間を使ってるってこと。自分の意識の空間」
 竜はエミルの頭のあたりに目を凝らした。薄青い空間が、漫画の吹き出しか何かのように浮かんで見えるのかと思ったのだ。
「…僕には見えません」
「使ってたのは随分昔の話。子供の頃だよ。竜もそのうち自然と使わないようになる」
「そうなんですか」
 言った後、思わず大きなため息が出てしまった。疲れて頭がクラクラする。
「外に出よう」
 エミルがきっぱりと言った。
「ちゃんと休まなきゃだめだ。ほら立って。行くぞ」
「でもスティーブンに…」
「講義の終わる前に帰ってくればいい」

 大きな噴水のある庭園の木陰のベンチに腰を下ろして、竜は深呼吸した。目を閉じると、頬を額を気持ちのいいそよ風がなでていく。噴水の水音が微かに聞こえる。
「気持ちいい…」
 隣に座ったエミルが苦笑する。
「まったく。根を詰めすぎだ。ランチは食べたんだろうな?」
「僕が練習を続けたいって言ったので、スティーブンがサンドイッチを作ってくれました」 
「じゃ、ずっとあの部屋に篭りっきりだったのか?呆れたな!」
 竜は少し恨みがましくエミルを見上げた。
「最初からエミルさんが教えてくれてれば、簡単にできてたのに…」
「エミルでいいよ。でも、そうだな。僕が教える方がいいかもしれないな」
「教えてくれるんですか?!」
 飛び立たんばかりに身を乗り出した竜の肩を叩いてエミルは笑った。
「今じゃないぞ。今は休憩時間。何か飲もう。待ってろ」
 エミルは立ち上がると、噴水の向こう側の木陰にある小さな売店らしきところへ足早に歩いていった。竜は目を閉じてベンチの背もたれに寄りかかった。ああ、本当に疲れた…。
「竜」
 突然耳元で名前を呼ばれて、竜は跳ね起きた。
「はいっ」
 そばには誰もいない。耳元でエミルの笑いを含んだ声が聞こえた。
「そんな大声出すな。ジュースでいいか」
 見ると、売店のところでエミルがこちらを見ている。
「はい」
「オレンジとりんごとペアと苺とメロンとどれがいい」
「ペアをお願いします」
「了解」
 見ているとエミルはお金を払い、やがて大きなガラスのゴブレットを二つ手にして戻ってきた。淡いグリーンのジュースの入った方を竜に手渡してくれる。
「ありがとうございます」
「ペアが好きなのか?」
「いえ、飲んだことがないので試してみようと思って」
「チャレンジャーだな」
 エミルはそう言って笑うと、りんごジュースらしいゴブレットをちょっと上げて、
「竜の魔法のさらなる上達を願って」
「ありがとうございます」
 分厚いガラスのゴブレットをカチンとぶつけ合ってから、竜はペアのジュースを一口飲んだ。
「美味しい!」
「そりゃよかった」
 ペアのジュースは本当に美味しかった。甘すぎず、爽やかで、ひんやりと喉を滑り落ちていく。ごくごくと飲みながら、竜は疲れがどんどん癒されていくように感じた。魔法のさらなる上達!頑張るぞ!
「さっきの魔法は難しいんですか?離れていても声が届く魔法」
「いや、そうでもないね。練習がちょっと厄介だけど、相手が見えるところにいれば簡単だ。遠ければ遠いほど難しい。コツさえ掴めば海の向こうにいる相手にでも声が届くようになる。聴く方が難しいかな」
「…あ、じゃあ、さっきのは僕が無意識のうちに魔法で声を届かせたんじゃなくて」
「残念ながら。僕が魔法で聴いたから会話ができた」
「なるほど。じゃあ話す相手が魔法を使えない人でもいいわけですね」
「そう。まあ便利は便利だけど、でも普段は電話を使えばいいわけだからね」
「そういえば、」
 と竜は改めて辺りを見回した。
「魔法大学なのに、みんな魔法を使わないんですね。誰も飛んでないし、売店にだってみんな普通に歩いて行って、お金を払って…。公共の場所では魔法を使っちゃいけないっていう規則でもあるんですか?」
 エミルはおかしそうに笑った。
「いくらソンダースでもそんな規則はないと思うけど。でも普通は公共の場所で魔法を使ったりしないね」
「どうしてですか?」
「格好悪いからさ」
 竜は驚いた。
「格好悪い?」
「自分ができることを見せびらかすのはクールじゃないだろう。例えばヴァイオリンが弾けるからって、公共の場所で弾きながら歩くか?」
「…なるほど」
 竜は納得して頷いた。確かにそうだ。
「まあここは魔法大学の敷地内だから、たまに魔法の練習をしている学生を見ることはあるかもしれないけどね。でも、大抵はあまり人に見られないようにするだろうな」
 さあっと気持ちのいい風が吹いて、頭上の木々がざわざわと揺れた。木漏れ日がきらきらとこぼれ落ちてくる。
 二人はしばらく黙って美しい緑の梢を仰いでいた。竜は幸せな気持ちで深く息をついた。魔法のある世界で魔法を習っているなんて、なんという幸運だろう。まだ信じられない。
「真は元気にしてるか」
 上を向いたままエミルが言った。
「はい…」
 答えかけて、竜はゴブレットを落としそうになった。
「えっ…?」
 エミルを見る。
「…ど、どうして?真を…知ってるんですか?真は…真はここに来たことがあるんですか?!」 
「ああ」
 竜はエミルの端正な横顔を呆然と見つめた。
「…だって…いつ?」
「真にとっては1年前。僕にはもう24年前になる」
「1年前…?1年前は…夏休みで、キャンプの後、真はカナダのサマースクールに参加して…」
「そう言ってた」
「じゃ、カナダからここに来たんですか?」
「ああ。…竜、」
 エミルが竜の方に向き直った。真剣な眼差しだった。
「真に何か変わったことはなかったか」
「変わったこと?」
「カナダからは無事に、何事もなく戻ったのか?」
「はい」
「そのあとは?」
「そのあと…?そのあとはええと、普通に学校に行って…、卒業して中学生になって…、水泳もピアノも続けてて…、部活は水泳部に入って…、それだけです」
「じゃあ何も変わったことはないんだな?」
「特に何も…。でも、そう言われればカナダから帰ってきた辺りくらいから、ちょっと…なんていうか大人っぽくなったような気はします。僕と喧嘩する回数もずいぶん減ったし、母さんの言いなりにならなくなったし」
 エミルは険しい表情を解いて、安堵したように笑った。
「それはまあ、成長してるってことだろうな。…そうか。よかった…」
 緑の梢を見上げて目を細める。遠い目をしていた。物思いの邪魔をするのは悪いと思ったけれど、竜は訊かずにはいられなかった。
「…どうして、真に何か変わったことがあったかもしれないって思ったんですか」
 竜の問いに、エミルは大きく息をつくと、
「それは…」
 言いかけて辺りを見回した。
「竜、意識の空間に入ってみて」
「?…はい」
 竜が意識の空間に入ると、そこは淡いブルーと淡いグリーンが入り混じっていて、エミルがいた。
「えっ」
「僕も今自分の意識の空間を使ってるんだ。これで他の誰にも聞かれずにお互いの意識の中で会話ができる。もちろん、他に自分の意識の空間を使う人、例えば真なんかがここに来て会話に混ざりたいと思えば、混ざることができるけど、でも盗み聞きはできない」
「真も意識の空間を使ってたんですか」
「ああ。よくこうやって会話したよ」
 エミルは懐かしそうに辺りを見回した。
「真の空間はピンクだった」
「ピンク?」
 竜は思わず吹き出した。エミルも笑った。
「意外だろ?日が昇る前の空に浮かんでる雲みたいな、柔らかいピンクだった」
「ピンクは嫌いなのに…。ピンクの服とか絶対着ませんよ」
「そうそう、そう言ってたよ。なのにどうして自分の空間はピンクなんだ、この色は変えられないのか、ってずいぶん怒ってた…最初の頃はね」
 エミルはそう言ってまた懐かしそうにため息をつくと、真面目な顔で竜を見た。
「どうして真に何か変わったことがあったかもしれないと思ったか。それは…」
 エミルは少し言葉を探すようにして、ゆっくりと話しだした。
「真は、普通とは違う魔法でそっちの世界に帰ってたんだ。その魔法を使ったことのある人は他にいない。真だけだ。いつもはうまくいってたんだけど、最後の時に事故があって…僕のせいで事故があって…、それっきり真の消息を知ることができなかった。今日までずっと」
 エミルは唐突に言葉を切って、片手で両眼を覆った。エミルの周りに、竜には名前のわからない激しい感情が渦巻いているのが感じられる。竜の胸の奥がぎゅっとなった。
「…真は元気です。怪我も病気もなくピンピンしてるし…大丈夫ですよ」
 そっと言うと、エミルは微笑んだ。
「…ありがとう。安心したよ」
 目が涙で光っていた。竜はその目をじっと見て口を開いた。
「いつもはうまくいっていた、って…、いつもはってどういうことですか。真は…何度も向こうに帰ったことがある、つまり何度もこっちに来たことがあるっていうことですか」
 エミルはうなずいた。
「そう。カナダにいる間、ベッドに入っているはずの時間をこっちに来て過ごしていた。だから大体8日間をこっちで過ごして、向こうに帰って、16日間くらい経つとまたやって来る、っていう感じだった」
 竜は息をのんだ。
「だって…確かあのサマースクールは1ヶ月くらいだったから、っていうことは、こっちの時間で24カ月間、つまり2年間くらいも行ったり来たりしてたってことですか?!」
「そっちの時間で4週間、つまり28日間のサマースクールだった。こっちの時間で1年10ヶ月くらいだね。もちろん真が実際にこっちで過ごした時間はもっと少ないわけだけど」
「すごい!」
 竜は飛び上がった。
「僕も、僕もその魔法で行き来したいです!」
 エミルは首を振った。
「あの魔法は失われてしまった」
「えっ」
 竜は落胆で目を見張った。一気に大きく膨らんだ虹色のシャボン玉が、次の瞬間に音も立てずに割れてしまったようだった。
「魔法が失われるなんて、そんなことがあるんですか」
「ある種の魔法は、道具を使う。その道具が失われてしまっては魔法も使えない。最後に真が帰った時の事故で、その道具が破壊されてしまったんだ」
「その道具は手に入らないんですか?作るとか?」
「魔法と道具は対になっている。発明したのは僕の父。魔法発明学の頂点にいた人だ。父ならまたその道具を作ることは可能なはずだけど、あの事故の後、父は魔法発明学からきっぱりと引退してしまった。それに道具の要となる、まあ部品と言えばいいのかな、それが消えてしまったらしいんだ。真と一緒にそっちの世界へ行ったのか、それとも二つの世界の狭間に消えてしまったのかはわからない」
「その部品じゃなきゃだめなんですか。他のもので代用はできないんですか」
 エミルは首を振った。
「僕にはわからない。父に詳しいことを教えて欲しいと何度も頼んだけど、自分は引退したの一点張りで、何も教えてくれなかった」
 竜は絶望的な気持ちになったが、次の瞬間思い出した。
「さっき、スティーブンの部屋で、場合による、って…。壁に耳あり、って…」
 エミルはうなずいた。
「そう。僕はこことそっちの世界を行き来するための魔法の研究をしてるんだ。非公式にね」
「非公式に?」
「その研究はタブーってことになってるんだよ。禁止されてるんだ。だから大きな声じゃ言えないし、スティーブン以外には教えていない。竜も他言しないようにお願いするよ」
「もちろんです。それで…?」
「最初は父の魔法を復元してみようとしたんだけど、どうしてもだめだった。それで全く違う魔法を発明することにした。父の魔法だと、使えるのは向こうの人で尚且つ魔法を使える人だけなんだけど、僕の魔法はこっちの人間も使える。つまり、それを使えば、僕がそっちの世界に竜を迎えにいくことができるというわけだ。残念ながら完成にはまだまだ時間がかかるけど、かなりいい具合に進行してるんだよ」
「そうなんですか。すごいですね」
 明るい口調で言おうと努めたけれど、竜は内心とてもがっかりしていた。まだまだ時間がかかるってどれくらいだろう。エミルには竜の気持ちがわかったらしい。
「そんながっかりするな。遅くてもあと2年以内には完成すると思う。つまりそっちの1ヶ月だ。大した待ち時間じゃないだろ」
 そんなにすぐ!竜は嬉しさに頬が一気に緩むのがわかった。本当に、それくらいの待ち時間なら全然大したことない。
「完成したらすぐ迎えに行くよ。成功を祈っててくれ」
 エミルが片目をつぶった。竜はその言葉にふと不安を覚えた。
「成功…しないこともあるんですか?」
「そりゃあね。発明っていうのはそういうものだ」
「成功しないと…どうなるんですか」
「それはその発明によって色々だ」
 エミルは軽く答えただけで目を逸らしたが、竜は訊かずにいられなかった。
「危なくないんですか。命の危険はないんですか」
 エミルはちょっと笑った。
「…そう、まあ残念ながら危なくないとは言えないかな。でもこういう研究をしていれば仕方がない。実験の失敗が死につながる可能性もある。でも冒す価値のあるリスクだと思ってるよ」
「そんな…」
「心配するな。成功してみせるよ。こう見えても結構優秀なんだぜ」
 竜はスティーブンの言ったことを思い出した。
「スティーブンが、エミルは魔法発明学界で五本の指に入る、非常に優秀な研究者だって言ってました」
「それはありがたいお言葉だな」
 エミルは照れたように笑うと、また懐かしむような遠い目をして
「真も優秀だったよ。天才だった。僕もあの頃は周りから天才だなんて言われていい気になってたんだけど、強力なライバル出現に、負けてられないって練習に熱が入った。同い年だったしね。二人で毎日競い合って練習したよ。真は、そっちに帰らなきゃいけないだろ?16日間くらいこっちには来られない。当然その間に僕の方がレベルを上げる。そうすると悔しがってね。こっちに帰ってくるやいなや僕がどの魔法を習得したのか訊き出して、寝る間も惜しんで練習するんだ。そしてあっという間に追いついてくる。すごかったよ」
「真らしい。すごい負けず嫌いだから」
 そう言って笑った後で竜はため息をついて俯いた。
「どうした?」
「…いえ。なんだか…。そんな、魔法のある世界に来て魔法を習うなんていうすごい経験をしていたのに、僕には何も話してくれなかったなんて…。僕たち二人とも、小さい頃から魔法の出てくる物語とかが大好きで、魔法のある世界に行ってみたいね、魔法を学んでみたいね、ってよく話してたんです。魔法の真似事して遊んだり…。僕たち、お互いのこととか色々話し合うし、結構仲のいい姉弟だと思ってたのに…」
 そう言って竜はまたため息をついた。どうして真は話してくれなかったんだろう。
 エミルはしばらく黙って竜を見つめていたが、つっと視線を落として言った。
「真が竜に何も話さなかったのは、…何も覚えていないからかもしれない」
「えっ」
 竜は驚いて顔を上げた。
「…どういうことですか」
「ここにはそっちの世界からの客人が結構来る。もうずっとずっと昔、何百年も前からだ。一番新しい統計では確か年間大体五百人くらいだったと思う。それなのにそっちの世界ではこの世界の噂すら立ったことがないらしい。なぜだろう?」
 竜は顔が強張るのを感じた。
「向こうに帰ったら、この世界のことを忘れてしまうんですか?!」
「それが通説だ。ずっと昔に一度だけ、同じ人が二度こっちの世界にやってきたことがある。後にも先にもそんなことはその一例だけしかない。その一例だけのデータしかないから、確実にそうとは言い切れないけど、少なくともその人は以前にここを訪れたときのことを何一つ覚えていなかった。そっちの時間で1ヶ月ほどしか経っていなかったのにだ」
「そんな…」
 頭の中が真っ白になりかかって、はっとした。
「でも!でも真は覚えていたんでしょう。だから何度も戻ってこれた」
「真は特別だ。普通とは違う魔法を使って行き来していたんだから。父の魔法によっていつも真の記憶は守られていたんだろう。でも最後にそっちに戻った時にその魔法は壊れてしまった」
「…それで忘れてしまった?」
「もしかしたらね」
「……」
「もちろん、これはただの推測だよ。もしかしたら、覚えているけれど何か理由があって竜に何も話していないのかもしれないし」
「何か理由があって…?」
 一体どんな理由があるというんだろう。自分だけの秘密にしておきたいから?自分だけそんな素晴らしい経験をして僕に悪いと思うから?竜は首を振った。
「そんなの真らしくありません」
「僕もそう思う。でも…」
 エミルはため息をついた。
「…忘れてしまったんじゃないといいなと思うよ」
「そうですね」
 呟いて、竜もため息をついた。
 エミルの発明はまだ完成していない。ということは、今回は竜も普通の魔法で向こうに戻らなくてはいけない。つまり、この世界のことを忘れてしまうということだ。魔法のこともエミルのことも。
「…僕も忘れたくありません」
 真は、エミルの父の魔法を使っていたから忘れずにいられた。
 竜は拳を握りしめた。
「エミル。お父さんは、今どこにいらっしゃるんですか?」
「僕の父?フリアの家にいるよ。引退後はフリアの音楽大学でヴァイオリンを教えてる…」
 そこまで言ってエミルは眉を上げた。
「…父に頼むつもりか」
「はい。お会いできないでしょうか。フリアに連れていってもらえませんか」
 エミルは考え込むような目をした。竜は祈るような気持ちで言った。
「だめかもしれないけど、でもお願いするだけでも…」
 エミルが竜を見た。
「父があの魔法をもう一度作る気になってくれるかどうかはわからない。作る気になってくれたとしても、作り上げるには時間がかかるだろう。竜が帰るまでに間に合うかどうか。それでも行きたいか」
「はい!」
「よし。行こう」
 きっぱり言って立ち上がると、エミルは足元に置いてあったグレイのリュックサックを肩にかけた。
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