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第9章 ブリュートナー家
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「ただいま、お母さん」
ドアを開けながらエミルが声をかけると、向こうのほうの流しで食器を洗っていた長い茶色の髪の女の人が振り返った。
「お帰り、エミル」
そして竜を見て、
「まあ、いらっしゃい!」
と微笑むと、タオルで手を拭きながらこちらへやってきた。どちらかというと小柄な美しい人で、優しげな深い茶色の目をしている。
「竜、僕の母のマリーだ。お母さん、こちらは早川竜くん。隣からのお客様で、」
とエミルが言いかけたのを遮って、
「まあ!」
とマリーが声をあげた。大きな目を見開いている。
「…まさか」
エプロンのポケットから取り出した赤い縁の眼鏡を急いでかけて、竜をまじまじと見つめた。
「…まあ…」
エミルが笑いを含んだ声で静かに言う。
「真の弟ですよ」
「まあ!」
マリーの目が見る見るうちに涙でいっぱいになり、顔がくしゃくしゃと歪んだ。震える両手で、そっと竜の手を取る。
「真に…よく似てること。信じられないわ、こんな…こんなことが起こるなんて…」
「お母さん。真は無事に向こうに戻ったんです」
マリーの動きの全てが、ぴったりと止まった。次の瞬間すごい勢いでエミルの方に振り向いたので、後ろで束ねた長い茶色の髪がびゅっとばかりに竜の鼻先をかすめた。
「な、何ですって?!」
「真は、無事だったんですよ。ちゃんと向こうに戻ったんです」
マリーは口を開けたまま言葉もなくエミルを見つめていたが、確かめるように竜の方に向き直った。竜は急いでうなずいてみせた。
「本当です。ちゃんと生きてます」
呆然と竜を見つめていたマリーの顔がまたくしゃくしゃと歪み、今度はわあっと泣き出した。泣きながら、どうしていいかわからず立ち尽くしている竜をぎゅうっと抱きしめたかと思うと、肩を掴んだまま体を離し、
「真は元気?」
「は、はい。元気です」
「ああ、どうしましょう!嬉しいわ!奇跡だわ!」
両手を打ち合わせ、握りしめると、泣き笑いを始めた。
「お母さん、落ち着いて…」
エミルが半分苦笑、半分心配顔でマリーの肩に手を置く。マリーは涙を流し、しゃくり上げながらも笑いが止まらず、何か言おうとするのだが、言葉がちゃんと出てこない。
「ちょっと座って落ち着かなきゃだめだな。居間に行きましょう」
エミルが半ば強制的にマリーを歩かせながら苦笑して竜を振り返った。
「ごめん。落ち着かせたらすぐ戻るよ。そうしたら食事にしよう」
「はい」
竜はほっと胸を撫で下ろして、キッチンを出ていく二人の後ろ姿を見送った。大人があんなに泣くのを見たのは生まれて初めてだった。よっぽど真のことを可愛く思っていたんだろうなあと竜が考えていると、勝手口のすぐ外に足音が聞こえ、
「何だい、なんだか随分賑やかだな」
と言いながら、背の高い男の人がドアを開けて入ってきた。銀髪に髭に眼鏡。手にはブリーフケース。肩からヴァイオリンケース。この人がカールに違いない。竜は思わず姿勢を正した。
「おや、お客様かな…」
ブリーフケースとヴァイオリンケースを椅子に置きながら竜ににっこりしかけたその人は、はっと顔をこわばらせた。
「…君は…」
向こうの方から、まだ泣き笑いをしているマリーと何か言ってなだめているエミルの声が聞こえてくる。戻ってくる様子はない。自己紹介しなくちゃ。竜は息を吸い込んだ。
「はじめまして。早川竜といいます。早川真の弟です。姉がお世話になりました。姉は無事に向こうの世界に戻って、ちゃんと暮らしています。僕も姉のように魔法をたくさん学びたいんです。それで、あなたの魔法の道具をもう一度作って、僕に使わせていただけないかと思ってお願いに来ました。お願いします!もう一度あの魔法の道具を作ってください!」
一気に言って、竜は頭を下げた。
「……」
頭の上から、何か喉につかえたような音が聞こえて、竜は慌てて顔をあげた。
カールが竜を凝視したまま、片手を胸に当てている。
竜ははっと思い出した。スティーブンが、もう若くないんだから驚かせちゃだめだと言っていたじゃないか!
「エミル!エミル!」
大声で呼ぶと、エミルがとんできた。そして状況を見てとると、苦笑しながら大袈裟にため息をついてみせて、
「物事は計画通りにはいかないっていう見本みたいな夜だな」
と言うと、
「お父さん、大丈夫ですか」
落ち着いた口調で言ってカールに近寄った。
「…大丈夫だ。驚いただけだよ」
カールは大きく息をついてエミルの肩を叩くと、竜ににこりと微笑んだ。
「怖がらせてしまったようだね。申し訳ない」
竜は安堵のため息をついた。
「…こちらこそ、すみません。驚かせてしまって」
「いやいや」
カールはじっと竜を見つめたまま、
「ところでエミル、これは夢かい。それとも現実かな」
「現実です」
「じゃ、この子は本当に真の弟の、あの竜なんだね」
「そうです」
「しかしこんな偶然が起こったなどという話は聞いたことがない」
「何事にも初めてということがあります」
「確かに。それで…真は本当に無事に向こうの世界に戻ったというんだね」
「はい」
「しかしあの状況でそんなことが可能なはずがない」
「でも事実です」
竜もカールの目をしっかり見つめ返して熱心に頷いた。
「本当です。ちゃんと戻ってきて、中学校に通っています」
カールが目を細めた。
「今でも青いリボンをしている?」
また青いリボンの話だ。一体何なんだろうあのリボンは?
「はい。家ではいつも青いリボンをしています」
「そうか…」
嬉しそうに頷いたカールの目から涙が溢れて、シワのよった目の下を濡らした。
「エミル」
カールは視線を竜からエミルに向けると、エミルの手を握りしめ、次いで抱きしめた。
「…すまなかった。本当にすまなかった。許してくれ。お前がどんなに辛い思いをしたか…」
「お父さん」
「あの時お前はまだ子供だったのに…ここにいる竜と同じくらいの子供だったのに…私はお前に優しい言葉一つかけなかった…慰めることもしなかった…自分の魔法が真の命を奪ってしまったということに向き合うのに精一杯で、お前の父親であることを放棄してしまった…」
「そんな、お父さん。僕の方こそ、勝手なことをして本当にすみませんでした。お父さんのキャリアをあんな形で終わらせることになってしまって…許してください」
「カール!」
まだかなり興奮している様子のマリーが駆け込んできた。
「カール!真は無事だったのよ!ちゃんと向こうに戻れたのよ!生きてるのよ!」
「今聞いたところだよ」
カールは片手で涙を拭きながら、エミルを離し、飛びついてきたマリーを受け止めた。
「やれやれ」
エミルが竜の隣で苦笑した。抱き合って泣き笑いをしている両親を眺めているその目にも、涙が光っていた。竜も涙で辺りがぼやけてきて、慌てて目をぱちぱちさせた。
「…で、お母さん、そろそろ何か食べさせていただけると、腹ぺこの我々としては大変ありがたいんですが」
エミルが茶目っ気たっぷりに言うと、マリーが「まあ!」とカールから跳び離れた。
「そうだったわ、ごめんなさいね。もうすっかりできてるのよ。スープを温め直せばすぐ食べられるわ」
「じゃ、僕たちでしよう。お母さんはもうちょっと座って休んだ方がいいですよ。そうだ、ライラは?」
「お友達を連れてくるっていうから、サンルームに入れておいたのよ。出してあげて大丈夫かしら?」
マリーが竜に訊く。
「はい!犬は大好きですから」
「でもライラはかなり大きいよ」
マリーがサンルームに向かった後、カールが心配そうに言った。
「大丈夫ですよ、お父さん。僕がちゃんと見てますから。さて、竜、手を洗って食事にしよう」
「はい」
竜が勝手口のすぐ脇にある洗面台のような小さな流しで手を洗っていると、タッタッタッタッという速い足音が聞こえてきた。
タオルで手を拭きながら急いで振り返ると、キッチンの入り口から大きな犬が入ってきたところだった。
毛は長めで、白にライトグレイの斑がある。竜が大好きなバーニーズマウンテンドッグをもう少し大きくして、毛の色を白とグレイにしたような犬だ。真っ黒な目と真っ黒な鼻が濡れたように光っている。
ライラはキッチンに入ったところで立ち止まると、誰かいつもと違う人の匂いがする、とばかりにキッチンを見廻し、竜を見つけた。
ふたりの目が合った。
その瞬間から、竜はもうライラが大好きになった。
竜が床に片膝をつくと、ライラは嬉しそうな顔で一目散にやって来て、竜の匂いを嗅いで、顔を舐め回し、喜んで竜に撫で回され、床にひっくり返ってもっと撫でてと催促した。
「要らぬ心配だったね」
戯れ合っているふたりを眺めながらカールが楽しそうに笑った。
そのままキッチンのテーブルで遅い夕食となった(竜はもう一度手を洗い、マリーに言われてライラに舐めまわされた顔も洗った)。すでに夕食を済ませていたマリーとカールは、お茶を飲みながら会話に加わった。ライラは竜の脚に寄りかかって満足そうに横たわっていた。
竜は足元にライラの温かい体を感じながら、幸せのあまり顔がひとりでにほころんでしまうのをどうすることもできなかった。ご飯を食べている足元に犬がいるなんて!
「ねえ、竜」
一通り竜がこの世界にきた顛末とその後の話が語られてしまうと、マリーがテーブルに身を乗り出した。
「真は、今も青いリボンをしているかしら」
エミルとカールが笑いながら頷き、竜も頷きながら、
「はい。でも、あのリボンって何か特別なんですか?」
「あのリボンはね、真が初めて物を作り出す魔法に成功した時のものなんだ」
エミルが言った。
「物を作り出す魔法?」
「そう。竜が今日やった、蝋燭に火を灯す魔法の上級編というところかな。結構難しいんだ」
「あの時は大変だったねえ」
カールが懐かしそうに目を細める。
「あんまり根を詰めすぎて、体を壊してしまうんじゃないかと心配したよ。まだちょっと難しすぎると言ったんだけど、真は絶対に諦めようとしなかった」
カールは笑顔でちらりとエミルを見て、
「…エミルにはもうできるんだから、自分にもできるはずだ、って言ってね。同い年なんだから、って。寝る間も食べる間も惜しんで練習した。ああいうのを、石にかじりついても、というんだ」
「ついに成功してあの青いリボンを作り出した時、真が言ったの。これから、生きている間は毎日このリボンをするんだって。その通りにしていたわ。眠る時もしていたわね」
マリーが懐かしそうに微笑んで言った。
じゃあ、やっぱり真はこっちの世界のことを覚えているんだ、と竜は改めて確信した。
真は学校とスイミングの時以外はいつもあのリボンをしている。卒業式の時だって、ピアノの発表会の時だって、着ている服と色が合わないとかなんとか母さんに小言を言われながらも、あのリボンをつけて出た。
ただあのリボンが気に入っているというだけでそこまでするとは思えない。
「もしかしてあのリボンが真を守ってくれたのかもしれないわね」
マリーが言うと、カールとエミルが同時に呆れた顔をした。
「お母さん…」
「そういうことは起こらない」
同じような表情をして同時に言った二人を見て、竜はくすっと笑った。エミルとカールはよく似ている。
そこへチリンチリン、と優しい音でベルが鳴った。勝手口近くの壁にかかっている電話のベルだ。竜の足元で、ライラの大きな耳がぴくりと動いたのがわかった。電話に一番近いところに座っていたカールが立っていって電話に出る。
「ブリュートナーです。ああ、スティーブン!久しぶりだね」
エミルが軽く額を叩いた。
「しまった。着いたらすぐ電話しようと思ってたのに」
「スティーブンは元気?」
みんなのカップにお茶を注ぎながらマリーが訊く。
「うん。サラがまたクリオリに調査に行ってるんで、子供たちと楽しくやってるみたいだよ」
「…うん。いや、ははは、大丈夫。仰天したけどね。心臓が止まるかと思ったよ。…え?大袈裟じゃないよ。一目見てはっとしたもの。でもまさか真の弟が来るなんてねえ。こんな偶然が起こったことは未だかつて…、真だよ、覚えてるだろう?24年前にうちに来た女の子…えっ?…聞いてないのかい?」
カールがエミルの方を振り返って眉を上げた。
「ああ、しまった!」
エミルが慌てて立ち上がり、電話のところへとんでいった。
「スティーブン?ごめん、話すのを忘れてたんだけど、…そうなんだ。うん、そう、あの女の子。あの事故の時の。竜はあの真の弟なんだよ。ごめんごめん。駅から電話した時に言おうと思ってて、忘れちゃったんだ。まだちょっと夢を見てるみたいで混乱してて…。僕もまだ信じられないくらいだよ。…そりゃそうだよ。…うん。無理ないよ、だってスティーブンは真には二、三回会っただけだったもの。…え?…そうなんだよ、真は無事だったんだ!」
エミルがそう言って嬉しそうに笑った時、マリーとカールも溢れんばかりの笑顔で顔を見合わせ、テーブルの上で手を取り合った。
「なんだか、まだ信じられないわ」
マリーの目が涙で潤んでいる。竜を見てにっこり笑った。
「うちは女の子がいないでしょう。真を娘みたいに思ってたの」
「やっと女の子の服が買えるって喜んでいたっけね」
カールが笑って言った。
「変なことを喜ぶんだなあと思ったから、よく覚えているよ」
「ちっとも変なことじゃないわ。男の人にはわからないのかしらねえ、こういう気持ち」
「わからないねえ。真にピンクは着ないって言われて、しきりに残念がっていただろう。ピンクの服を買ってみたかったのに、って。あれも、なんて変なことを言うんだと思ったからよく覚えている」
「変じゃないわ。男の子四人の青だの緑だの黒だのって素っ気ない色ばかりの後で…」
「竜、」
エミルが電話のところで手招きした。
「スティーブンが話したいって」
「はい」
竜はライラを起こさないようにそっと立ち上がったけれど、もちろんライラは気がついて、どこ行くの、と黒いつぶらな瞳で竜を見上げた。可愛い。顔がふにゃふにゃになってしまう。
「ちょっと待ってて」
幸せな気持ちでライラの大きな顔をそっと撫でて電話のところに行くと、エミルがくすくす笑っていた。
「とろけた顔してるぞ」
照れ笑いをして、竜は受話器を受け取った。
「替わりました。竜です」
「ああ、竜君!なんと言っていいか、びっくりしましたよ!竜君が、あの24年前の真さんの弟さんだなんて!それに真さんが無事に向こうに帰っていたなんて!僕は残念なことに真さんとは三回ほどしかお会いしなかったんですが、僕の伯父が真さんはまれに見る魔法の才能の持ち主だと言っていたのを、よく覚えていますよ!」
スティーブンは興奮気味に話した。
「竜君の才能も素晴らしいものです。カールの例の魔法がまた使えるようになるといいのですが!そうすれば真さんのように、たくさん魔法を学ぶことができる。まだカールとはそのことについて話していないのですって?」
「まだなんです。お願いはしてみたんですけど」
「そうですか。大丈夫、きっと真さんのように行き来ができるようになりますよ。それで、話したかったことなんですが、健太君が竜君に手紙を書くそうなんです。こちらの郵便制度を面白がってね、電話よりもまず手紙を出したいっていうことで…。で、返事を書く時に、カールの魔法のことや、真さんがこちらに来たことがあるということは書かないように、くれぐれも気をつけてほしいんです」
竜はしっかり頷いた。
「はい、わかっています」
「少しでも変だな、と思われるようなことがないように気をつけてください」
「はい、大丈夫です。気をつけます」
「ありがとう。お願いします。きっと明日には健太君から手紙が届くでしょうけど、今、何か言伝はありますか?」
「はい!」
竜はこちらを見ているライラと目を合わせて、満面の笑みで言った。
「僕も犬と暮らすことになったって伝えてください!」
食後のお茶を飲み終わると、もう22時半を過ぎていた。
「竜はもう寝たほうがいいのじゃないかしら…」
と言いかけたマリーを遮って、カールが竜に言った。
「その前にちょっとだけ話そう。書斎で」
そして立ち上がりながら、
「エミル、お前も」
と言った。エミルはちょっと戸惑ったように、でも嬉しそうに頷いた。
「書斎で、か…」
カールの後について行きながら、エミルは低い声で竜に言った。
「書斎に入るのはあの事故以来なんだ」
「…そうなんですか」
竜はなんだか胸がいっぱいになった。
22年間の悲しみの後の喜び。それは11年間しか生きていない竜には、想像もつかないことだった。でも、ただの手放しの喜びだけではない、もっと深く強い様々な思いがたくさんあたりに漂っていることは感じられた。
カールの書斎は、壁中が本棚や戸棚で埋め尽くされている天井の高い大きな部屋だった。一つだけある大きな窓の周りも本棚になっている。
部屋に足を踏み入れた途端、あれっとエミルが声を上げた。
「黒板はどうしたんですか」
「片付けてしまったよ。用がなくなったからね」
エミルはちょっと辛そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔を作って、
「昔はね、この部屋は黒板だらけだったんだ。三脚に乗ってる黒板が所狭しと置いてあって、あの夜に忍び込んだときは苦労したよ。暗い中、三脚を足に引っ掛けないようにね。ライラなんかが入ってこようものなら大惨事になってただろうな」
と冗談めかして竜に言った。
竜について入ってきたライラが、嬉しそうに大きな尻尾をぶんぶんと振ったのを見て、竜は思わず吹き出した。ライラの立派な尻尾が、ガチャン、バタン、と三脚に乗った黒板をなぎ倒すのが目に見えるようだった。
「さて、」
三人で部屋の中央にある低いテーブルを囲んだソファに座ると、前屈みになってカールが話し出した。
「竜、エミルから聞いているかもしれないけれど、真が最後に向こうに戻った時に、あの道具はばらばらに壊れてしまった。破片を集めてみてわかったんだが、道具を構成していた重要な部分が消失していた」
竜は緊張して頷いた。
「道具の外側は、新たにもう一度作ったものがある。微調整のために数日必要だがね。しかし、道具の中にはめ込む、その消失した重要な部分、これはそう簡単に作り直せるものではない。全く同じものをもう一度作ることはほぼ不可能に近い。たとえ成功したとしても、少なくとも数年はかかるだろう」
数年。竜は目の前が真っ暗になったような気がした。
「それは…?」
真剣な顔でエミルが問う。
「ジリスとフュリスの混合だ」
「混合…」
エミルが驚愕の表情で呻いた。
「…よく作れましたね」
カールがちらりと微笑んだ。
「あれに一番時間がかかった」
真顔になって竜を見る。
「不可能に近い、ということは不可能だということではない。非常に難しいことではあるけれど、時間さえかければもう一度できるはずだと私は思っているよ。しかし…その消失した部分の行方なんだが…、真が無事に戻ったということを聞いてからずっと考えていたんだ」
エミルを見る。エミルも頷く。
「ジリスとフュリスの混合なら」
「ジリスとフュリスというのは、この世界に存在する金属の中でも非常に特殊な金属なんだが、まあうんと簡単に言ってしまえば、ものすごく丈夫なものなんだ。破壊するのは、それこそほぼ不可能に近い」
「ましてその二つを合わせたものだからね。この二つを混合するのはすごく難しい。でも混合できたら、それを破壊するのは不可能と言い切れるんだ」
エミルが口を出す。カールがにやりとする。
「ジリスとフュリスを混合したのには理由がある。わかっているんだろうな、エミル?」
エミルが笑ってわざとらしくうんざりした顔をしてみせた。
「久しぶりですね、この会話のパターンは。もう子供じゃありませんよ」
そして竜を見て、
「子供の頃、よくこうやって問題を出されたんだ。わかっているんだろうな、と言われて、わかっていると答えると、では説明してみろ、とくる。そこで不完全な説明をしようものなら、嫌味たっぷりに、『わかっていると言ったと思ったがねえ。私の耳がどうかしていたらしい』とくるんだよ」
「悪かったよ。よくない父親だった」
カールはちょっと笑ってから続けた。
「竜、うんと簡単に言うと、このジリスとフュリスの混合物というのは、なんと言えばいいかな、周りの空間にシールドを発生させることができる。いかなる物質も通さない、目に見えない壁を作ることができるんだ。その壁をあの道具を使う人間の周囲に作るということが、このジリスとフュリスの混合物を道具に組み込む目的の一つだったわけだが、真があの状況で向こうの世界に無事に帰れたということは、シールドの存在が実証されたということだ。理論上だけでなくね。そして、真が無事に向こうに帰りついたということは、このジリスとフュリスの混合物は、途中で紛失されたのではなく、真と一緒に向こうの世界へ行った可能性が高い。もちろん、壊れずにね」
「そして、もし真がそれを今も持っていたら、」
エミルが抑え切れないというように続けた。竜は息を呑んだ。
「…そうしたら、僕が道具を向こうに持って帰って、そのジリスとフュリスの混合物を道具に組み込んで、それを使ってこっちに戻ってこられるっていうことですか?」
カールが頷く。
「組み込むのは簡単だ。竜でも真でもできる」
竜は嬉しさのあまり飛び上がりかけたが、
「…でも、でも真がそれを持っていなかったら…。カナダに置いてきてしまったとか…」
「その時は、僕が迎えに行く」
「なんだって」
カールが驚いた顔をしてエミルを見た。エミルがにこりとした。
「やっと話せますね」
「聞かせてくれ」
最初は竜も一所懸命二人の話に耳を澄ませていたのだが、専門用語が多くてすぐについていけなくなったので、足元に横たわっているライラを撫でながら、熱心に話しこんでいる二人の顔を眺めていた。
エミルは少年のように頬を紅潮させて、身振り手振りを交え、低いテーブルの上に置いた紙に図やグラフや数式などを書きながら、夢中になって話していた。目がきらきらしている。
昨日歩けるようになった健太がはしゃいでいた時のように、あたりに幸せな気持ちと興奮がいっぱい漂っているのを感じてひとり微笑んだ竜は、上気したエミルの顔を見てあれっと思った。
前にどこかで、これに似た顔を見たことがあるような気がする。どこでだっただろう。
ドアを開けながらエミルが声をかけると、向こうのほうの流しで食器を洗っていた長い茶色の髪の女の人が振り返った。
「お帰り、エミル」
そして竜を見て、
「まあ、いらっしゃい!」
と微笑むと、タオルで手を拭きながらこちらへやってきた。どちらかというと小柄な美しい人で、優しげな深い茶色の目をしている。
「竜、僕の母のマリーだ。お母さん、こちらは早川竜くん。隣からのお客様で、」
とエミルが言いかけたのを遮って、
「まあ!」
とマリーが声をあげた。大きな目を見開いている。
「…まさか」
エプロンのポケットから取り出した赤い縁の眼鏡を急いでかけて、竜をまじまじと見つめた。
「…まあ…」
エミルが笑いを含んだ声で静かに言う。
「真の弟ですよ」
「まあ!」
マリーの目が見る見るうちに涙でいっぱいになり、顔がくしゃくしゃと歪んだ。震える両手で、そっと竜の手を取る。
「真に…よく似てること。信じられないわ、こんな…こんなことが起こるなんて…」
「お母さん。真は無事に向こうに戻ったんです」
マリーの動きの全てが、ぴったりと止まった。次の瞬間すごい勢いでエミルの方に振り向いたので、後ろで束ねた長い茶色の髪がびゅっとばかりに竜の鼻先をかすめた。
「な、何ですって?!」
「真は、無事だったんですよ。ちゃんと向こうに戻ったんです」
マリーは口を開けたまま言葉もなくエミルを見つめていたが、確かめるように竜の方に向き直った。竜は急いでうなずいてみせた。
「本当です。ちゃんと生きてます」
呆然と竜を見つめていたマリーの顔がまたくしゃくしゃと歪み、今度はわあっと泣き出した。泣きながら、どうしていいかわからず立ち尽くしている竜をぎゅうっと抱きしめたかと思うと、肩を掴んだまま体を離し、
「真は元気?」
「は、はい。元気です」
「ああ、どうしましょう!嬉しいわ!奇跡だわ!」
両手を打ち合わせ、握りしめると、泣き笑いを始めた。
「お母さん、落ち着いて…」
エミルが半分苦笑、半分心配顔でマリーの肩に手を置く。マリーは涙を流し、しゃくり上げながらも笑いが止まらず、何か言おうとするのだが、言葉がちゃんと出てこない。
「ちょっと座って落ち着かなきゃだめだな。居間に行きましょう」
エミルが半ば強制的にマリーを歩かせながら苦笑して竜を振り返った。
「ごめん。落ち着かせたらすぐ戻るよ。そうしたら食事にしよう」
「はい」
竜はほっと胸を撫で下ろして、キッチンを出ていく二人の後ろ姿を見送った。大人があんなに泣くのを見たのは生まれて初めてだった。よっぽど真のことを可愛く思っていたんだろうなあと竜が考えていると、勝手口のすぐ外に足音が聞こえ、
「何だい、なんだか随分賑やかだな」
と言いながら、背の高い男の人がドアを開けて入ってきた。銀髪に髭に眼鏡。手にはブリーフケース。肩からヴァイオリンケース。この人がカールに違いない。竜は思わず姿勢を正した。
「おや、お客様かな…」
ブリーフケースとヴァイオリンケースを椅子に置きながら竜ににっこりしかけたその人は、はっと顔をこわばらせた。
「…君は…」
向こうの方から、まだ泣き笑いをしているマリーと何か言ってなだめているエミルの声が聞こえてくる。戻ってくる様子はない。自己紹介しなくちゃ。竜は息を吸い込んだ。
「はじめまして。早川竜といいます。早川真の弟です。姉がお世話になりました。姉は無事に向こうの世界に戻って、ちゃんと暮らしています。僕も姉のように魔法をたくさん学びたいんです。それで、あなたの魔法の道具をもう一度作って、僕に使わせていただけないかと思ってお願いに来ました。お願いします!もう一度あの魔法の道具を作ってください!」
一気に言って、竜は頭を下げた。
「……」
頭の上から、何か喉につかえたような音が聞こえて、竜は慌てて顔をあげた。
カールが竜を凝視したまま、片手を胸に当てている。
竜ははっと思い出した。スティーブンが、もう若くないんだから驚かせちゃだめだと言っていたじゃないか!
「エミル!エミル!」
大声で呼ぶと、エミルがとんできた。そして状況を見てとると、苦笑しながら大袈裟にため息をついてみせて、
「物事は計画通りにはいかないっていう見本みたいな夜だな」
と言うと、
「お父さん、大丈夫ですか」
落ち着いた口調で言ってカールに近寄った。
「…大丈夫だ。驚いただけだよ」
カールは大きく息をついてエミルの肩を叩くと、竜ににこりと微笑んだ。
「怖がらせてしまったようだね。申し訳ない」
竜は安堵のため息をついた。
「…こちらこそ、すみません。驚かせてしまって」
「いやいや」
カールはじっと竜を見つめたまま、
「ところでエミル、これは夢かい。それとも現実かな」
「現実です」
「じゃ、この子は本当に真の弟の、あの竜なんだね」
「そうです」
「しかしこんな偶然が起こったなどという話は聞いたことがない」
「何事にも初めてということがあります」
「確かに。それで…真は本当に無事に向こうの世界に戻ったというんだね」
「はい」
「しかしあの状況でそんなことが可能なはずがない」
「でも事実です」
竜もカールの目をしっかり見つめ返して熱心に頷いた。
「本当です。ちゃんと戻ってきて、中学校に通っています」
カールが目を細めた。
「今でも青いリボンをしている?」
また青いリボンの話だ。一体何なんだろうあのリボンは?
「はい。家ではいつも青いリボンをしています」
「そうか…」
嬉しそうに頷いたカールの目から涙が溢れて、シワのよった目の下を濡らした。
「エミル」
カールは視線を竜からエミルに向けると、エミルの手を握りしめ、次いで抱きしめた。
「…すまなかった。本当にすまなかった。許してくれ。お前がどんなに辛い思いをしたか…」
「お父さん」
「あの時お前はまだ子供だったのに…ここにいる竜と同じくらいの子供だったのに…私はお前に優しい言葉一つかけなかった…慰めることもしなかった…自分の魔法が真の命を奪ってしまったということに向き合うのに精一杯で、お前の父親であることを放棄してしまった…」
「そんな、お父さん。僕の方こそ、勝手なことをして本当にすみませんでした。お父さんのキャリアをあんな形で終わらせることになってしまって…許してください」
「カール!」
まだかなり興奮している様子のマリーが駆け込んできた。
「カール!真は無事だったのよ!ちゃんと向こうに戻れたのよ!生きてるのよ!」
「今聞いたところだよ」
カールは片手で涙を拭きながら、エミルを離し、飛びついてきたマリーを受け止めた。
「やれやれ」
エミルが竜の隣で苦笑した。抱き合って泣き笑いをしている両親を眺めているその目にも、涙が光っていた。竜も涙で辺りがぼやけてきて、慌てて目をぱちぱちさせた。
「…で、お母さん、そろそろ何か食べさせていただけると、腹ぺこの我々としては大変ありがたいんですが」
エミルが茶目っ気たっぷりに言うと、マリーが「まあ!」とカールから跳び離れた。
「そうだったわ、ごめんなさいね。もうすっかりできてるのよ。スープを温め直せばすぐ食べられるわ」
「じゃ、僕たちでしよう。お母さんはもうちょっと座って休んだ方がいいですよ。そうだ、ライラは?」
「お友達を連れてくるっていうから、サンルームに入れておいたのよ。出してあげて大丈夫かしら?」
マリーが竜に訊く。
「はい!犬は大好きですから」
「でもライラはかなり大きいよ」
マリーがサンルームに向かった後、カールが心配そうに言った。
「大丈夫ですよ、お父さん。僕がちゃんと見てますから。さて、竜、手を洗って食事にしよう」
「はい」
竜が勝手口のすぐ脇にある洗面台のような小さな流しで手を洗っていると、タッタッタッタッという速い足音が聞こえてきた。
タオルで手を拭きながら急いで振り返ると、キッチンの入り口から大きな犬が入ってきたところだった。
毛は長めで、白にライトグレイの斑がある。竜が大好きなバーニーズマウンテンドッグをもう少し大きくして、毛の色を白とグレイにしたような犬だ。真っ黒な目と真っ黒な鼻が濡れたように光っている。
ライラはキッチンに入ったところで立ち止まると、誰かいつもと違う人の匂いがする、とばかりにキッチンを見廻し、竜を見つけた。
ふたりの目が合った。
その瞬間から、竜はもうライラが大好きになった。
竜が床に片膝をつくと、ライラは嬉しそうな顔で一目散にやって来て、竜の匂いを嗅いで、顔を舐め回し、喜んで竜に撫で回され、床にひっくり返ってもっと撫でてと催促した。
「要らぬ心配だったね」
戯れ合っているふたりを眺めながらカールが楽しそうに笑った。
そのままキッチンのテーブルで遅い夕食となった(竜はもう一度手を洗い、マリーに言われてライラに舐めまわされた顔も洗った)。すでに夕食を済ませていたマリーとカールは、お茶を飲みながら会話に加わった。ライラは竜の脚に寄りかかって満足そうに横たわっていた。
竜は足元にライラの温かい体を感じながら、幸せのあまり顔がひとりでにほころんでしまうのをどうすることもできなかった。ご飯を食べている足元に犬がいるなんて!
「ねえ、竜」
一通り竜がこの世界にきた顛末とその後の話が語られてしまうと、マリーがテーブルに身を乗り出した。
「真は、今も青いリボンをしているかしら」
エミルとカールが笑いながら頷き、竜も頷きながら、
「はい。でも、あのリボンって何か特別なんですか?」
「あのリボンはね、真が初めて物を作り出す魔法に成功した時のものなんだ」
エミルが言った。
「物を作り出す魔法?」
「そう。竜が今日やった、蝋燭に火を灯す魔法の上級編というところかな。結構難しいんだ」
「あの時は大変だったねえ」
カールが懐かしそうに目を細める。
「あんまり根を詰めすぎて、体を壊してしまうんじゃないかと心配したよ。まだちょっと難しすぎると言ったんだけど、真は絶対に諦めようとしなかった」
カールは笑顔でちらりとエミルを見て、
「…エミルにはもうできるんだから、自分にもできるはずだ、って言ってね。同い年なんだから、って。寝る間も食べる間も惜しんで練習した。ああいうのを、石にかじりついても、というんだ」
「ついに成功してあの青いリボンを作り出した時、真が言ったの。これから、生きている間は毎日このリボンをするんだって。その通りにしていたわ。眠る時もしていたわね」
マリーが懐かしそうに微笑んで言った。
じゃあ、やっぱり真はこっちの世界のことを覚えているんだ、と竜は改めて確信した。
真は学校とスイミングの時以外はいつもあのリボンをしている。卒業式の時だって、ピアノの発表会の時だって、着ている服と色が合わないとかなんとか母さんに小言を言われながらも、あのリボンをつけて出た。
ただあのリボンが気に入っているというだけでそこまでするとは思えない。
「もしかしてあのリボンが真を守ってくれたのかもしれないわね」
マリーが言うと、カールとエミルが同時に呆れた顔をした。
「お母さん…」
「そういうことは起こらない」
同じような表情をして同時に言った二人を見て、竜はくすっと笑った。エミルとカールはよく似ている。
そこへチリンチリン、と優しい音でベルが鳴った。勝手口近くの壁にかかっている電話のベルだ。竜の足元で、ライラの大きな耳がぴくりと動いたのがわかった。電話に一番近いところに座っていたカールが立っていって電話に出る。
「ブリュートナーです。ああ、スティーブン!久しぶりだね」
エミルが軽く額を叩いた。
「しまった。着いたらすぐ電話しようと思ってたのに」
「スティーブンは元気?」
みんなのカップにお茶を注ぎながらマリーが訊く。
「うん。サラがまたクリオリに調査に行ってるんで、子供たちと楽しくやってるみたいだよ」
「…うん。いや、ははは、大丈夫。仰天したけどね。心臓が止まるかと思ったよ。…え?大袈裟じゃないよ。一目見てはっとしたもの。でもまさか真の弟が来るなんてねえ。こんな偶然が起こったことは未だかつて…、真だよ、覚えてるだろう?24年前にうちに来た女の子…えっ?…聞いてないのかい?」
カールがエミルの方を振り返って眉を上げた。
「ああ、しまった!」
エミルが慌てて立ち上がり、電話のところへとんでいった。
「スティーブン?ごめん、話すのを忘れてたんだけど、…そうなんだ。うん、そう、あの女の子。あの事故の時の。竜はあの真の弟なんだよ。ごめんごめん。駅から電話した時に言おうと思ってて、忘れちゃったんだ。まだちょっと夢を見てるみたいで混乱してて…。僕もまだ信じられないくらいだよ。…そりゃそうだよ。…うん。無理ないよ、だってスティーブンは真には二、三回会っただけだったもの。…え?…そうなんだよ、真は無事だったんだ!」
エミルがそう言って嬉しそうに笑った時、マリーとカールも溢れんばかりの笑顔で顔を見合わせ、テーブルの上で手を取り合った。
「なんだか、まだ信じられないわ」
マリーの目が涙で潤んでいる。竜を見てにっこり笑った。
「うちは女の子がいないでしょう。真を娘みたいに思ってたの」
「やっと女の子の服が買えるって喜んでいたっけね」
カールが笑って言った。
「変なことを喜ぶんだなあと思ったから、よく覚えているよ」
「ちっとも変なことじゃないわ。男の人にはわからないのかしらねえ、こういう気持ち」
「わからないねえ。真にピンクは着ないって言われて、しきりに残念がっていただろう。ピンクの服を買ってみたかったのに、って。あれも、なんて変なことを言うんだと思ったからよく覚えている」
「変じゃないわ。男の子四人の青だの緑だの黒だのって素っ気ない色ばかりの後で…」
「竜、」
エミルが電話のところで手招きした。
「スティーブンが話したいって」
「はい」
竜はライラを起こさないようにそっと立ち上がったけれど、もちろんライラは気がついて、どこ行くの、と黒いつぶらな瞳で竜を見上げた。可愛い。顔がふにゃふにゃになってしまう。
「ちょっと待ってて」
幸せな気持ちでライラの大きな顔をそっと撫でて電話のところに行くと、エミルがくすくす笑っていた。
「とろけた顔してるぞ」
照れ笑いをして、竜は受話器を受け取った。
「替わりました。竜です」
「ああ、竜君!なんと言っていいか、びっくりしましたよ!竜君が、あの24年前の真さんの弟さんだなんて!それに真さんが無事に向こうに帰っていたなんて!僕は残念なことに真さんとは三回ほどしかお会いしなかったんですが、僕の伯父が真さんはまれに見る魔法の才能の持ち主だと言っていたのを、よく覚えていますよ!」
スティーブンは興奮気味に話した。
「竜君の才能も素晴らしいものです。カールの例の魔法がまた使えるようになるといいのですが!そうすれば真さんのように、たくさん魔法を学ぶことができる。まだカールとはそのことについて話していないのですって?」
「まだなんです。お願いはしてみたんですけど」
「そうですか。大丈夫、きっと真さんのように行き来ができるようになりますよ。それで、話したかったことなんですが、健太君が竜君に手紙を書くそうなんです。こちらの郵便制度を面白がってね、電話よりもまず手紙を出したいっていうことで…。で、返事を書く時に、カールの魔法のことや、真さんがこちらに来たことがあるということは書かないように、くれぐれも気をつけてほしいんです」
竜はしっかり頷いた。
「はい、わかっています」
「少しでも変だな、と思われるようなことがないように気をつけてください」
「はい、大丈夫です。気をつけます」
「ありがとう。お願いします。きっと明日には健太君から手紙が届くでしょうけど、今、何か言伝はありますか?」
「はい!」
竜はこちらを見ているライラと目を合わせて、満面の笑みで言った。
「僕も犬と暮らすことになったって伝えてください!」
食後のお茶を飲み終わると、もう22時半を過ぎていた。
「竜はもう寝たほうがいいのじゃないかしら…」
と言いかけたマリーを遮って、カールが竜に言った。
「その前にちょっとだけ話そう。書斎で」
そして立ち上がりながら、
「エミル、お前も」
と言った。エミルはちょっと戸惑ったように、でも嬉しそうに頷いた。
「書斎で、か…」
カールの後について行きながら、エミルは低い声で竜に言った。
「書斎に入るのはあの事故以来なんだ」
「…そうなんですか」
竜はなんだか胸がいっぱいになった。
22年間の悲しみの後の喜び。それは11年間しか生きていない竜には、想像もつかないことだった。でも、ただの手放しの喜びだけではない、もっと深く強い様々な思いがたくさんあたりに漂っていることは感じられた。
カールの書斎は、壁中が本棚や戸棚で埋め尽くされている天井の高い大きな部屋だった。一つだけある大きな窓の周りも本棚になっている。
部屋に足を踏み入れた途端、あれっとエミルが声を上げた。
「黒板はどうしたんですか」
「片付けてしまったよ。用がなくなったからね」
エミルはちょっと辛そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔を作って、
「昔はね、この部屋は黒板だらけだったんだ。三脚に乗ってる黒板が所狭しと置いてあって、あの夜に忍び込んだときは苦労したよ。暗い中、三脚を足に引っ掛けないようにね。ライラなんかが入ってこようものなら大惨事になってただろうな」
と冗談めかして竜に言った。
竜について入ってきたライラが、嬉しそうに大きな尻尾をぶんぶんと振ったのを見て、竜は思わず吹き出した。ライラの立派な尻尾が、ガチャン、バタン、と三脚に乗った黒板をなぎ倒すのが目に見えるようだった。
「さて、」
三人で部屋の中央にある低いテーブルを囲んだソファに座ると、前屈みになってカールが話し出した。
「竜、エミルから聞いているかもしれないけれど、真が最後に向こうに戻った時に、あの道具はばらばらに壊れてしまった。破片を集めてみてわかったんだが、道具を構成していた重要な部分が消失していた」
竜は緊張して頷いた。
「道具の外側は、新たにもう一度作ったものがある。微調整のために数日必要だがね。しかし、道具の中にはめ込む、その消失した重要な部分、これはそう簡単に作り直せるものではない。全く同じものをもう一度作ることはほぼ不可能に近い。たとえ成功したとしても、少なくとも数年はかかるだろう」
数年。竜は目の前が真っ暗になったような気がした。
「それは…?」
真剣な顔でエミルが問う。
「ジリスとフュリスの混合だ」
「混合…」
エミルが驚愕の表情で呻いた。
「…よく作れましたね」
カールがちらりと微笑んだ。
「あれに一番時間がかかった」
真顔になって竜を見る。
「不可能に近い、ということは不可能だということではない。非常に難しいことではあるけれど、時間さえかければもう一度できるはずだと私は思っているよ。しかし…その消失した部分の行方なんだが…、真が無事に戻ったということを聞いてからずっと考えていたんだ」
エミルを見る。エミルも頷く。
「ジリスとフュリスの混合なら」
「ジリスとフュリスというのは、この世界に存在する金属の中でも非常に特殊な金属なんだが、まあうんと簡単に言ってしまえば、ものすごく丈夫なものなんだ。破壊するのは、それこそほぼ不可能に近い」
「ましてその二つを合わせたものだからね。この二つを混合するのはすごく難しい。でも混合できたら、それを破壊するのは不可能と言い切れるんだ」
エミルが口を出す。カールがにやりとする。
「ジリスとフュリスを混合したのには理由がある。わかっているんだろうな、エミル?」
エミルが笑ってわざとらしくうんざりした顔をしてみせた。
「久しぶりですね、この会話のパターンは。もう子供じゃありませんよ」
そして竜を見て、
「子供の頃、よくこうやって問題を出されたんだ。わかっているんだろうな、と言われて、わかっていると答えると、では説明してみろ、とくる。そこで不完全な説明をしようものなら、嫌味たっぷりに、『わかっていると言ったと思ったがねえ。私の耳がどうかしていたらしい』とくるんだよ」
「悪かったよ。よくない父親だった」
カールはちょっと笑ってから続けた。
「竜、うんと簡単に言うと、このジリスとフュリスの混合物というのは、なんと言えばいいかな、周りの空間にシールドを発生させることができる。いかなる物質も通さない、目に見えない壁を作ることができるんだ。その壁をあの道具を使う人間の周囲に作るということが、このジリスとフュリスの混合物を道具に組み込む目的の一つだったわけだが、真があの状況で向こうの世界に無事に帰れたということは、シールドの存在が実証されたということだ。理論上だけでなくね。そして、真が無事に向こうに帰りついたということは、このジリスとフュリスの混合物は、途中で紛失されたのではなく、真と一緒に向こうの世界へ行った可能性が高い。もちろん、壊れずにね」
「そして、もし真がそれを今も持っていたら、」
エミルが抑え切れないというように続けた。竜は息を呑んだ。
「…そうしたら、僕が道具を向こうに持って帰って、そのジリスとフュリスの混合物を道具に組み込んで、それを使ってこっちに戻ってこられるっていうことですか?」
カールが頷く。
「組み込むのは簡単だ。竜でも真でもできる」
竜は嬉しさのあまり飛び上がりかけたが、
「…でも、でも真がそれを持っていなかったら…。カナダに置いてきてしまったとか…」
「その時は、僕が迎えに行く」
「なんだって」
カールが驚いた顔をしてエミルを見た。エミルがにこりとした。
「やっと話せますね」
「聞かせてくれ」
最初は竜も一所懸命二人の話に耳を澄ませていたのだが、専門用語が多くてすぐについていけなくなったので、足元に横たわっているライラを撫でながら、熱心に話しこんでいる二人の顔を眺めていた。
エミルは少年のように頬を紅潮させて、身振り手振りを交え、低いテーブルの上に置いた紙に図やグラフや数式などを書きながら、夢中になって話していた。目がきらきらしている。
昨日歩けるようになった健太がはしゃいでいた時のように、あたりに幸せな気持ちと興奮がいっぱい漂っているのを感じてひとり微笑んだ竜は、上気したエミルの顔を見てあれっと思った。
前にどこかで、これに似た顔を見たことがあるような気がする。どこでだっただろう。
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